TOP > 二、室町幕府雑学記 > 4 続々々・室町幕府の前半戦
小見出し
「室町時間旅行」
「室町幕府の仕組み」
「室町のイデア」
「武士の道」
「日本の本当の政治」
「道理に生きる」
「これからの武家政治」
「夜明けを描いて」
「連なれ、武士の歌」
「始まった場所」
「転々と、室町幕府」
「それでもやっぱり、室町幕府」
さて、ようやく4代目将軍足利義持あたりまでやって来ました。
この14世紀終わりから15世紀初頭にかけて、
つまり、3代目義満から4代目義持の治世は、
室町幕府が最も安定していて、それなりに上手いこと行っていた時期です。
始まる前から終わってたとか誤解されていますが、
「フフッ、どうよ?」みたいなドヤ顔時代もあったんですよ。
(まあ、この時代も結構大変な事あったんだけどね。うん。…まあいっか。)
一応、この時代の幕府が典型例とされているので、
(※ただし、義満後期『北山殿』時代はちょっと除く)、
ここらで、室町時代と室町幕府の全体像を、簡単に掴んでおきたいと思います。
ということで、時代の流れを大まかに図示してみました。名付けて『室町時間軸』です。
(2015.4.25リメイク)
…OK、言いたい事は分かる。まあ落ち着いてくれ。
全体像と言いながら義材(よしき)の後をグダグダで済ますやる気の無さはどうなってんだよって?
…すまない、「観応・応仁・明応」のメイン期間以外は基本、管轄外なんだ。
ってか、なんで義材は旅に出てんだよ! 追い出されたんじゃねーのかよ!
…うん、分かる、気持ちは分かるよ。でもここが重要なとこなんだ。耐えてくれ。
ちなみに、「1508年 永正の凱旋」は今作った。 良い子のみんなは覚えるなよ!学校の試験には出ないぞ。
まあ、それ以外は本当です。いや、全部本当のつもりなんですけどね、でも、
この時代の謎と誤解を華麗に解き明かすまでは… まだ "仮説" としておきましょう。
さて、「室町時代」の始まりと終わりは諸説ありますが、ここでは一応、
初代足利尊氏・直義兄弟が『建武式目』を掲げた建武3年(1336)から、
15代足利義昭が征夷大将軍を辞し落髪(出家)する、
天正15年末〜天文16年正月13日(西暦では1587年)までの、約250年間を室町時代とします。
(※まあ、今のところはこれが最も妥当かと。(ただし、最後の十数年は "過渡期" ではありますが。)
…と言うのも、実は室町幕府というのは、鎌倉幕府や江戸幕府と違い、
「終わりが明確でない」
という非常に困った特徴を持つ、研究者泣かせの幕府なので、
これ以上は、頑張っても水掛け論にしかならなそうなのです。 まあ、あとは天のみぞ知るとw
ちなみに細かい事ですが、足利尊氏が征夷大将軍に正式に任命されたのは、
(南軍との戦いが一区切り付いた)建武5年(1338)なのですが、
現代の "学術用語" としての「幕府」を型通りに定義して、
建武5年(1338)を幕府開始(=室町時代開始)…としてしまうと、
名目的過ぎてあまりに実態にそぐわないので、
持明院統の豊仁親王(=光明天皇)が践祚し、大覚寺統の後醍醐天皇との和睦が(一旦)成立し、
実質的な "柳営" が始動した建武3年(1336)を、「時代の始まり」と考えるのが適切です。
(たぶん、何事も無ければ、征夷大将軍任命も程無く行われていたと思われます。) )
ところで、「室町時代」について他の見解としては、例えば…
戦国期を「室町時代」とは "全く別の時代区分" として捉え、「戦国時代」とする、
…という考えもありますが、それは室町幕府の実態が解明途上にあった頃の誤解であり、
今となっては、現実と乖離した無理のある区分です。
やはり、戦国期は「室町時代」の一部と捉えるべきでしょう。
また、これまでは、15代目義昭が京都を追放された元亀4年(1573)を "室町幕府の終焉" とする、
…という見方が一般的でしたが、
しかし、室町幕府の将軍と言うのは、実は、「京都を追い出されて流浪」なんてのは割と日常茶飯事で、
地方でフラフラしながら権威を保ち続けてしまうという摩訶不思議なアビリティを持っているので、
「京都追放=幕府滅亡」とは、安易に断定出来ないのです。
(※この辺の誤解は、歴史を読み解く際に "当時の人々の認識" に留意せず、
"現代の感覚" を用い過ぎてしまった事に起因するのでしょう。
実は、『明応の政変』や、それ以降の時代を調べていると気付くのですが、
京都から将軍が追い出された時、人々が抱く感情は「幕府が終わった」という認識ではなく、
「いつか将軍は帰って来る」という期待なのです。
だから、"室町時代の本当の終わり" というのは、その期待を持つ事が出来なくなった時、
すなわち「もう将軍が帰って来る事はない」と言う事が明確となり、
人々が心にそれを受け入れた時、と言えるでしょう。
そんな振り返りたくなる様な寂しさを伴う最後が、室町という「一つの時代の終わり」だったのです。)
まあつまり、京都を追い出されたくらいで即座に終わる様なやわな幕府ではない…のですが、
日本列島をプカプカ漂流しながらでも存続可能、というやばい幕府ではあります。
諸国で愛される放浪公方…と言うのも、まことにミステリーな話ではありますが、
そういう訳で、倒そうと思ってもそう簡単には倒れない、厄介で強靭で珍妙な幕府なのです。
という訳で、以上の定義に従えば、1460年をほぼ中間として、前半戦・後半戦に分けることが出来、
実際、この辺りを境に幕府の形は大きく変化して行きます。
ただ、注意して欲しいのは、必ずしも "衰退の一途をたどった" 訳ではないと言うことです。
『応仁の乱』後京都は荒廃したままだった、将軍は傀儡だった、幕府は有力大名の意のままだった、
…これ全て誤解です。
また、『応仁の乱』(1467−1477)もしくは『明応の政変』(1493)以降を、
「戦国期」とする見方が一般的になっていますが、
それも、幕府の実態を見る目を曇らせる原因になっている気がします。
まあ、"戦国" の意味の捉え方が人によって違うので断定は出来ませんが、
だいたい16世紀半ば以降ってことでいいんじゃないですかね。
(おそらく、実証的な幕府の実態解明が進めば、戦国期開始年を明確にする必要性は薄れてくるんじゃないかと。)
そしてこの、"応仁以降、戦国以前" という、日本史上 "最日陰" 時代が、
このサイトで扱うメイン期間となります。
英雄不在だった? 変化のない退屈な時代だった? 後世に何も残さない無意味な時代だった?
…いえいえ、これもすべて誤解ですよ。
さあ、早いとこ前半戦の概説を終わらせてしまいましょう。
さて以下は、足利将軍家歴代の生没年・享年の一覧です。 なお、詳細は『三、室町人物記』で。
(※ 享年は数え年です。満年齢に直すにはマイナス 1〜2歳。
ちなみにこのサイトでは、当時の慣習に倣い、基本的に年齢はすべて数え年表記にしています。)
初代 足利尊氏 (1305ー1358) 54歳 …(尊氏弟)足利直義 (1307−1352) 46歳
2代 足利義詮 (1330−1367) 38歳
3代 足利義満 (1358−1408) 51歳
4代 足利義持 (1386−1428) 43歳
5代 足利義量 (1407−1425) 19歳
6代 足利義教 (1394−1441) 48歳
7代 足利義勝 (1434−1443) 10歳
8代 足利義政 (1436−1490) 56歳 …(義政弟)足利義視 (1439−1491) 53歳
9代 足利義尚 (1465−1489) 25歳
11代 足利義材 (1466−1523) 58歳
12代 足利義澄 (1480−1511) 32歳
13代 足利義晴 (1511−1550) 40歳
14代 足利義輝 (1536−1565) 30歳
足利義栄 (1540?−1568) 29歳?
15代 足利義昭 (1537−1597) 61歳
二人の弟、足利直義(ただよし)と足利義視(よしみ)は重要なので併記してみました。
…って、あれ。なんかこれも突っ込みどころが。
え、ええ、その通りです。
まず、10代が抜けています。そして足利義栄(よしひで)が数えられていません。
一般的な数え方、すなわち、学問上の解釈・研究成果とはちょっと異なりますが、
実はこれ、足利家の菩提寺に数百年来伝えられてきた、伝統的な(というか、かなり意味深な)数え方なんです。
(もちろん、義栄は正式に将軍宣下(征夷大将軍任命)を受けています。それなのになぜ…)
…と、いきなりこんな最大級の謎を突きつけられたら、
私のような小心者はどうしていいか途方に暮れてしまいますので、
詳細と謎解きは『四、黎戦記―本編』に譲り、ここはひとまずスルーします。
いや、それにしても足利さんミステリー過ぎるw
さてさて、前半戦のおさらいです。
初代足利尊氏がノリで、いや、流れで武家政権を立ち上げたのが建武3年(1336)、
『観応の擾乱』と弟直義の犠牲を乗り越えて、2代目義詮の終盤には京都は落ち着きを取り戻していました。
そして、3代目義満の代にかけて、幕府の機構・諸大名の役割といった制度面の確立が進んでいきます。
さて、この幕府の特徴ですが、
「強大な足利将軍家と、それに隷属する諸大名家」という "俺様タイプ" ではなく、
各大名はそこそこの発言権を持っていました。
つまり、「公方様を中心に俺ら大名が支える」"俺らでタイプ" ですね。
まあ、この時代のゆるゆるな始まり方を考えれば納得ですかね。
動乱のどさくさで気づけば将軍になっていた尊氏さん、「よーし、みんなで武家政権再開させちゃうぞ☆」
そんな足利家と共に戦い、以後幕府の主要構成員となったのは、
斯波、吉良、渋川、石橋、畠山、今川、一色、桃井、仁木、細川、
山名、武田、小笠原、
上杉、土岐、佐々木、富樫、赤松、大内、伊勢 … など
この中では、斯波(しば)が断トツで家格が高いです。
当初は足利とほぼ同格でしたからね。(ってか、足利を名乗ってた。)
この斯波から細川までが、「足利一門」(足利家の庶流一族)(ほぼ家格の高い順)で、
さらに、山名、武田、小笠原を加えたとこまでが、「清和源氏」(※)です。
上杉は、足利家と姻戚関係があってちょっと特別ですね。(尊氏と直義の母が、上杉清子)
佐々木は、六角・京極のことです。
時代によって変動があるし、全部ではないですが、
(…例えば、足利一門で幕府創生期に活躍した石塔や岩松、九州勢では少弐、大友、島津など、
もちろん、東国勢も。)
まあ、主なところはだいたいこんな感じでしょうか。
ちなみに、当時から朝倉も足利軍の一員です。え、何、誰も聞いてないだと?
(※…正確には、清和源氏のうちの河内源氏です。
ちなみに、一言に「源氏」と言っても、武家となった一族も公家となった一族もいます。(これは平氏も同様)
まあ、"源氏の嫡流" については、色々と議論もあるようですが、
源氏と言えばなんと言ってもやはり、武家源氏として栄えた清和源氏(…の河内源氏)、
そして当時は「足利家が清和源氏の嫡流と目されていた」と思って差し支えは無いと思います。)
では次に、室町幕府の統治体制ですが、
北は東北・南は九州まで一律に直轄していた訳ではなく、京都の将軍が直接掌握するのは、
「京都」を中心として、東は中部(越後・信濃・駿河)、西は中国・四国地方まで。
従って、それ以外の…
「関東」の統治は、鎌倉殿(=鎌倉公方)(足利一族)とそれを補佐する関東管領(上杉)に、
「東北」は、奥州探題を置いて斯波一族に、
「九州」は、鎮西探題を置いて渋川一族に、
…といった感じで、「基本手の届くところまで、遠い所は任せたぜ!」 みたいなスタンスです。
もちろん、あくまで京都の幕府を頂点とした構造ですよ。
支配権はあるけど、なるべく余計な口は出さないのが吉、というゆる町幕府だったのです。
(※ただし、「関東」の鎌倉公方+関東管領(いわゆる "鎌倉府" )に関しては、
京都の "いち出先機関"…に留まるものではなく、
足利幕府による全国統治の実現において、京都と鎌倉は当初から「補完」の関係にあり、
その地位・重要度はちょっと特別なのですが、
まあ、この辺の話は、初代の尊氏と直義が関わって来る込み入ったものなので…また今度w )
さて、この時代の行政区画が、今の都道府県とは異なり『国(分国)』であったことは既に述べました。
例えば、山城国、河内国、紀伊国、越前国、周防国…といったやつですね。
(ちなみに山城国(やましろのくに)は現在の京都府南部。つまりここが、当時の天下の中心だったのです。
そして、都の周辺の山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国を、特に「畿内」(きない)と呼びました。)
この分国のそれぞれに、上記の大名たちが『守護』として配置され、その統治を任されていたのですが、
(だから彼らを守護大名ともいいます)
しかし、前半戦〜『応仁の乱』以前までの "本来の幕府" の時代においては、
大名は京都に館を構え、幕政に参加していたので、
分国には、彼らの被官を『守護代』(守護の代官)として派遣していました。
つまり、守護が在京(京都に在住)する傍ら、
守護代が在国(分国に在住)して、在地の民(国人(=土着の武士)や百姓)と直接関わりを持ち、
年貢を京都の御屋形様(おやかたさま。主君である守護大名のこと)のもとに納める、
というシステムです。
(ただし、幕府で要職につく大名の場合、守護代である被官も、在京して政務を補佐していたので、
さらにその下の小守護代(守護代の代官)を在国させて任に当たらせていました。
まあ、守護代や小守護代は京都と分国を行ったり来たりで大変だったでしょうw
戦で軍勢催促があれば、大軍率いて上洛しなきゃならなかったりもするしね。)
(※ところで、室町時代の大名というと、
戦国期の「群雄割拠的イメージ」が圧倒的に強いので意外かも知れませんが、
もともと、室町幕府の主要メンバーは在京が基本だったので、
"京都オールスター状態" が本来の室町の姿なのです。
彼らは、仕事でもプライベートでも親密な付き合いがあり、
また、当時の京都では年中、幕府主催・大名主催で、
儀式的なものから娯楽系まで、様々なイベントが開催されていました。
毎日が有力大名勢ぞろいですよ。 なんか楽しそうでしょ?)
さて、守護は本来、将軍の任命で中央から派遣される役人ですから、
その地方(国)には、もともと基盤を有していません。
一方、在地の武士である国人(国衆)や百姓は、代々その土地に住んでいる土着の民です。
そんな訳で、その土地からしたら新参者である大名が、守護として円滑な分国統治を行うには、
いかに、土着の民と上手くやっていくかが重要になる訳ですが、
それを可能にする第一の要素が、将軍との良好な関係でした。
だって、在地の彼らからしたら、「公方に不忠な大名などお断りだぁぁーー!」ってなりますからね。
「そんな大名が俺たちの国ででかい顔したら反乱起こす。ってか、もういい!俺らが直接幕府と関係持つ!」
とかなって、にわかに統治失敗です。
室町幕府発足当初は、わりと頻繁に守護の配置換えがありましたが、
幕府の機構が整った3代目義満の頃には、各国の守護はほぼ固定・世襲となり、
さらに『応仁の乱』以降は、守護大名自身が在国するようになります。
(この段階が、一般的に "戦国大名" と言われる大名のイメージに近いと思います。
ま、厳密には違いますが。)
ここに至り、守護大名と在地の民との関係は "直接的" で "緊密" なものになる訳ですが、
それでもやはり、大名にとって、京都の将軍との良好な関係が重要であることに変わりはありませんでした。
しかもそれは、単に分国統治のために将軍権威を利用してただけ、というドライなものとも少し違ったようです。
まあ、社会の安定した秩序形成のためには、「忠」や「孝」は基本中の基本ではありますが、
何かそこには、そういう利害や道徳観を超えた、公方様の存在感というか、
足利さんマジカルパネェ、みたいな、そこはかとない不思議さがあるのです。
(この辺が、"グダグダ公方で250年" の謎を解く鍵になるかと思われます。)
ともあれ、自国に繁栄と太平をもたらし得る守護大名の条件が、
"上に忠実、民に誠実" な名君である事は、歴史が証明しています。
さて、では次に、幕府自体の構造を見てみましょう。
室町幕府は、俺らでタイプの "俺らで幕府" でしたので、
例えば、"まとまった出費" を要する御所の造営や朝儀の費用徴収、
また "大規模な軍勢" が必要な戦(いくさ)などは、諸大名の協力によってなされるものでしたが、
足利将軍家自体にも一応、各地に点在する御料所(直轄領)からの年貢や、
京市中の土倉(中世の金融業者)と酒屋からの税金(=土倉酒屋役)などの "おサイフ" があり、さらに
将軍の直臣団である『奉公衆』(ほうこうしゅう。五ヶ番に分かれた総勢350人程の武士団)と、
それを中核とした2千人前後の規模の幕府直属軍が存在しました。
また、幕府はそもそも政権ですから、その主な職務は「立法・司法・行政」な訳ですが、
これらも、公方と諸大名の連携のもと、
幕府直属の官僚集団である『奉行衆』(ぶぎょうしゅう)が実務を司っていました。
つまり、なんでもかんでも将軍の意向・命令(これを「上意」といいます)が罷り通っていた訳ではなく、
特に重要案件については、諸大名との合議によって政策決定がなされていたのです。
そして、この幕政においては、将軍を補佐し政務を総括する職である『管領』(かんれい)が、
大きな権限を有していました。
管領には、「三職」(三管領)と呼ばれた斯波・畠山・細川の3家が交代で任に就き、
政治の場だけではなく、殿中の儀式的な面でも重要な役を担っていました。
(ただし、この幕府ナンバー2ともいえる管領も、『応仁の乱』を境にその権限は形骸化・儀礼化していきます。)
さらに、京都の治安維持を図る、洛中警察『侍所』(さむらいどころ)という機関があり、
その長官(組織のトップ)である 「侍所所司」(または 「侍所頭人」)には、
「四職」(四殿)である山名・一色・京極・赤松の4家のいずれかが任じられました。
(この侍所を大名が指揮したのも、15世紀までで、以降は奉行衆の管理するところとなります。)
さて、幕府の機関としてもう一つ『政所』(まんどころ)というものがあります。
これは、幕府の財政管理、および金銭に関する訴訟など扱う機関ですが、
公的な任務だけでなく、足利将軍家の家宰としての役割も有していました。
まあ、言ってみれば将軍のおサイフ管理ですからね、もとより足利家を私的な面で支える職ではある訳ですが、
この背景には、3代目義満の代以降、代々「政所頭人」(政所の長官のこと。「政所執事」ともいう)を担ったのが、
伊勢家であったこととも、関係が深いと思われます。
実は、伊勢家は、幕府の構成員であり守護大名でもある他の諸大名と違って、
特定の分国の守護ではありませんでした。(代わりに、各地に所領は持っていましたが。)
さらに、初代足利尊氏の代以来、「将軍ー大名」の関係を超えた "私的な繋がり" を持つ、
ちょっと謎めいた武家なのです。
幕府の役職の一つに、『申次』(もうしつぎ)という「将軍に近侍して諸事の取次ぎを行う職」があるのですが、
この職に伊勢家出身の者が多いのも、その証左と言えるでしょう。
伊勢家が足利将軍家の家宰として台頭し始めるのは、3代目義満の頃からですが、
8代目義政の時代、すなわち幕府の前後半戦の中間地点に差し掛かる辺りから、幕府での存在感が急上昇し、
そして、在京が原則だった諸大名が在国統治に向かう『応仁の乱』以降は、
京都に残った数少ない家臣として、
幕政における伊勢家の役割は、飛躍的に多様化していくことになります。
財政管理はもとより、奉行衆・奉公衆の指揮管理、各訴訟、殿中の諸事全般、儀礼作法、朝廷との関係、
そして形骸化した管領の後任までも… ってか全部じゃん! みたいなことになっていますが、
実はこの伊勢家に関する研究、あまり突っ込んだものが少ないようでして、
今のところ、その重要性を見逃されているのが現状で、
定まった評価もなされていない感じです。
あえて言うと、室町幕府の後半戦では、どうやら多くの権限を有していたようだというイメージからか、
「幕政を壟断(ろうだん)していた」という評価を受けていることが多いです。 (※壟断…利益を独占する事)
しかし、私なりに様々な史料に当たってみた結果、どうもそうではないのです。
伊勢家はその職務上、多くの古記録・手記の類を書き残しています。
そこから読み取れるヒントを手がかりに、
彼らが幕府をどう支えていたか、その行動原理は? そして、彼らにとって公方様とはどういう存在だったのか?
といった、足利将軍家と表裏の関係にあった…のかも知れない伊勢家の闇に光を当てていきたいと思います。
(そしてこれこそ、 "グダグダ公方で二世紀半" を可能にしたカラクリ…かも知れなくもないかも知れない。)
(※ちなみに、このページの背景の家紋は、伊勢家の「向かい蝶」(2匹の揚羽蝶が向き合ってる)です。)
それと最後に、幕府の構造を考える上でのポイントですが、
『奉公衆』『奉行衆』『申次』は、(大名には属さない)将軍直属の幕臣だということです。
つまり、将軍との個人的な繋がりが強いのです。
(ちなみに、簡単に言うと『奉公衆』は武官、『奉行衆』は文官です。)
一方、大名(あるいは守護大名)というのは
独自の財力や軍事力、そしてそれぞれに家臣を持っていますから、
ある程度、将軍家に対して自立しています。(それに加えて、家格も高い)
そして、伊勢家がかなり独自の立場にいる、といった感じです。
(この "大名の自立性" が、良くも悪くもこの時代の社会の変化の原動力になっていきます。)
(※ちなみに、「守護大名」とは、守護職を担う大名と言う意味ですが、
本来の "役人" としての守護に比べて、ある程度、分国において独自の統治権を確立した段階を言います。
ただし、室町幕府の大名たちの本質は、"俺らで幕府" の一員としての「大名家」ですので、
「守護職」は役職であって本質ではなく、
守護大名という名称は、あくまで便宜的なもの(学術用語)という点には注意です。
このサイトでは主として、分国の守護としての性格を強調する場合に、大名を守護大名とも表記していますが、
まあ、やや誤解を生む名称のような気もします。
(この辺、突っ込み過ぎると「じゃあ、戦国大名とかいう用語もどうなんだよ?」って話になってくるw)
「だったら使うなよ!」とか言われそうですが、まあなんだ、
室町ってのはとにかく曖昧で明瞭な定義が出来ない、研究者泣かせの時代なんだよ!奴ら本当に適当すぎるよ!
「彼らは、"一国の領主" なのか? それとも、"俺らで幕府"(の構成員)なのか?」
という問題な訳ですが、
まああれだ、みんなの好きそうな言い方をすれば、
「彼らはstand alone(個)なのか? それとも、complex(複合体)なのか?
いや、stand alone complex(スタンドアロ−ンコンプレックス)なのだ!!」
って感じですか。
すまん、余計ややこしくなった。
まあそうだな、取り敢えず、
「彼らは室町であり、室町は彼らであり、天下を統一していたのは彼らが室町である」
とでも言っておきます。 ごめん、適当でw)
さて、この他将軍の近臣としては、公家衆や僧侶なども、幕府運営において重要な役を担っていましたが、
それにしたって、財政面でも軍事面でも(すなわち「ハード面」全般)、
この幕府の長・足利将軍家は慎まし過ぎると思います。 圧倒的なところがありません。
そんなんでどうやって、自立傾向のある大名たちを従えてたんだって話ですが、
考えられる要因として、その「ソフト面」(内面、精神面)に注目してみますと…
まず、大名たちの、 "幕府を支える家" としての自覚です。
室町幕府というのは、足利将軍家という "家" と、大名家という "家" との関係で成り立っていたとも言えますが、
将軍側に、隷従を強制できる武力・財力がない以上、
大名側に、幕府に従いそれを支える、ある程度強い自主性があったと考えるのが自然です。
そしてまた、将軍と諸侯の "公(おおやけ)" に対する志向です。
彼らがみんな、自己の利益や幸福…すなわち "私" にしか興味がない野心の輩だったら、
利害が激しく衝突していたはずです。
この幕府の目指すところが、公利であり、天下の泰平であったから、
その点で彼らの利害が一致した、と考えると筋が通ります。
そしてもう一つ、秩序を維持する手段として、『礼節』を重んじていたということです。
武力による締め付けや、一方的なルールの強制では、人々の心は荒廃し、社会はいずれ崩壊します。
「各人が自ずから『礼節』を身に付け尊重することで、秩序ある社会の自発的な形成を促す」
という理性的な手段は、
ある意味、一番安上がりで効果的な、そして最も健全な統治方法と言えるでしょう。
(この礼節に関しては、まず最初に『建武式目』にその記述があります。
そして、3代目義満の頃には、それを形式化した儀礼作法が確立され、
『応仁の乱』で一旦衰退するも、伊勢家の努力によって、以後受け継がれていくことになります。)
…まあ、もう一つの理由として、足利家の "清和源氏という血" の問題もありますが、
ってかこれが最大の要因のような気もしますが、
なかなか理論的な証明が困難なところなので、とりあえず今は保留して置きます。
まあ、そんなに気にしなくても自然と理解してもらえるとこかと思われます。
(ちなみに、「幕府の成立要因」を上記のように考えると、その逆は、「幕府の崩壊原因」ともなります。
すなわち一つ目は、大名たちの "幕府を支える家" としての立場が揺らいで行くこと。
大名家が "家督争い" や "家臣の下克上" で衰退したり、
幕府からの独立性を強めた大名が台頭してくれば、
"将軍家" と "大名家" の理想的な関係は、もはや維持出来なくなるでしょう。
二つ目に、幕府と諸大名の目指すものが、公利・天下の泰平という点で一致しなくなること。
幕府から独立性を強めた大名たちの多くは、自己の利益を最大限にするべく行動し始めるでしょう。
公利より私利を優先する者が、公的な存在である幕府から離反していくのは、当然の成り行きです。
三つ目には、『礼節』が軽んじられていくこと。
『礼節』とは、秩序ある社会を形成する "仕組み" であると同時に、伝統文化を内包します。
つまり、人心の堕落から『礼節』の廃退が起これば、
これまで築かれた正しき社会や伝統の崩壊が進み、荒廃した世界からはやがて、
『道理・道徳』といった人の踏み行うべき道や、歴史と伝統の重みを意に介さない新興勢力が現れ、
その覇権主義的本能で、あらゆるものを奪い破壊していくでしょう。
……
まあ、以上はあくまでシミュレーションのつもりだったのですが、
なんか、まんま史実の戦国期に当てはまるような気がしないでもないw
もちろん、戦国期だって、
"正しい政道" を心がけ、自国を独自に統治しつつ、幕府とも良好な関係を保っていた大名も多かったのですが、
良貨は悪貨に駆逐されましたね、実際。
日本という国の統治形態の最大の特徴は、
古来「和を以て貴しと為す」(by聖徳太子)ことだった訳ですが、
それは神代の太古から続く、土地的・民族的根本精神であり、
「一支配者による独占・私物化」を忌避し、「個人の繁栄」ではなく「公の繁栄」を第一に考える、
という統治の在り方は、武家政権の基本姿勢そのものとも言えます。
(※もちろん、国家が成長途上にあった古代や、中世以降も時期によっては独占志向の強い時代があったし、
貪欲な権力者もたまにはいましたが、どれも長続きしていない(or 恒久化しなかった)のは、
天下の私物化に対して、人々が潜在的に強い拒否感を持っていたことの証左と言えるでしょう。)
室町幕府なんて「和」の代表みたいな幕府だし、
『応仁の乱』以降、大名たちが在国する形態となってからも、
やはり根底には "和の精神" が生きていた世の中でしたが、
天下の独占という野心を持つ者の出現により、調和によって絶妙なバランスを保っていた世界が崩れ始め、
一時的にしろ、「和」の対極としての個人主義が隆盛し、
私的な独占欲が極端に解放されたのが戦国期、
と言った感じでしょうか。
…なぜこの時期、そこまで(一部の)者達が個人主義に走ったのかは分かりませんが、
まあ、室町の社会というのは、
その安定が、「各人の道徳意識」という "不文律" に委ねられ過ぎていたとは思います。
武威による恫喝で天下を隷属させたり、洗脳的な宗教で健全な思考を奪う支配方法より、
ずっと知的で素晴らしいとは思いますが、
夢は儚く潰(つい)えました。
「禅宗」という "哲学" で、人々の「精神性の向上」と「知性の深化」を願い、
それによって自ずと理想の世が実現することを夢見た室町幕府は、ちょっとロマンチスト過ぎたのです。)
さて、幕府の構造についての文献は、挙げれば切りがありませんが、
そもそも室町幕府って何だよ!ってか、何だったんだよ!…っていう大局的な問いに挑んだのは、
【山田康弘『戦国時代の足利将軍』(吉川弘文館)2011】
幕府と守護大名の関係については、
【田沼睦『室町幕府・守護・国人』(朝尾直弘ほか編『岩波講座日本歴史7 中世』(岩波書店)1976)】
【佐藤進一『幕府論』『室町幕府論』1963(『日本中世史論集』(岩波書店)1990)】
ただし、書かれてから少し時間が経った論文は、近年の研究成果と合わせて読む事をお勧めします。
【川岡勉『室町幕府と守護権力』(吉川弘文館)2002】…の「序章」も一緒にどうぞ。
まあ、あと他にもきっと色々あると思います。
それから、室町幕府初期の足利一門については、
【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
特に、斯波・畠山・細川の三管領の経歴について知りたい方はどうぞ。
さてここでちょっと、日本の歴史における「武士」(または侍)について、
盲点(のような気がするとこ)に言及しておきたいと思います。
日本史と言えばまず「武士!」ってくらいみんな大好きだと思いますし(…え、好きだよね?ね?)、
「武士道の精神」に至っては、歴史という枠を超えた普遍的な価値観として見直されつつありますが、
一般的に人々が武士に対して抱くイメージってのは、
「刀、鎧兜」「武芸を身につけた者」「武をもって主君に仕える者」「なんかかっこいい」
…といった感じで、
「武士=軍事に携わる者」との認識かと思われます。
「独自の理念や美学を持った戦士」という意味で、よく西洋の『騎士』『騎士道』とも比較されますね。
まあ、「侍(さむらい)」の語源は、「侍ふ(さぶらう)」(=貴人の傍に仕える)ですから、
基本はその通りなのですが、
ただ、日本の武士というのは、"単なる軍人" に留まる存在ではないのです。
まあ、ここまで延々と「幕府=武家政権」について語ってきたので、薄々気付かれているとは思いますが、
日本の武士とはすなわち、『戦士』であると同時に『政治家』でもあるのです。
しかも、武家の精神を根底とした「独特の政治理念」を持つ、極めて希有な政治家です。
そして、
「この国では過去700年近く、武家政権が(繰り返されながら)続いていた」
と言う事実を考えれば、
その理念は、「最も日本の国民性を反映し、最も日本の条理に適った」政治の在り方だったのではないか、
と言う推測が成り立ちます。
(※ちなみに、「武士の心構え、生き方」を示す言葉として、
「武士道」(ぶしどう)という語が使われ始めるのは、室町も末期のことであり、
それ以前は、「弓矢の道」(ゆみやのみち)「武士の道」(もののふのみち)などと表現されていました。
従って、室町中期がメインのこのサイトでは、
「弓矢の道」「武士の道」という呼び方をメインにしたいと思います。)
(※弓矢(ゆみや)…弓と矢、転じて武器。 また、"弓矢を取る身" という意味から、武士、武家の事。
さらに、戦や武芸、軍事に関すること全般をも意味する。
単に「弓矢」だけで「弓矢の道」のことも指す。 まあつまり、"武士の本質" を象徴する言葉です。)
「弓矢の道」の内容については、
時代によっても、また人によっても差異があるので、完璧な「定義」は難しいところで、
特に、室町以前の「弓矢の道」と、
江戸以降…中でも「朱子学」が絶対視されてからの「武士道」とでは、
かなり性質が異なりますので、
ここでは、室町時代前中期の「弓矢の道」に関して述べますと―――
「正直である事、廉直である事、礼儀と道義を重んじ、理非善悪を正しく分ける事、
私を顧みず公に尽くし、利を捨てても名を取り、人からは信頼を、人には思いやりを、
上の者へは忠をもって仕え、下の者へは慈悲をもって接し、
常日頃から、部下を大事に我が子の如く気を配り、戦となれば心を一つに戦う事」
それが出来る者を武士と言い、
逆に忌み嫌われていたのは、
「嘘を吐く事、卑怯である事、恥を知らない事、勇気の無い事、
受けた恩を忘れ、傲慢にして慎みを知らず、うわべを虚飾し見栄を張り、
酒色遊興に明け暮れて文道武道を疎かにする事、
過ぎた贅沢、度を越す蓄財、私欲の追求、無益な殺生」
それから、
「身分の差に驕り高ぶり、下の者を見下して優越に浸り、
自分は安全な所にいて共に戦いもしないのに、戦場の部下を駒と見做して罪すら覚えず、
散って行った者達を弔いもしない、讃えもしない、悼む心を抱きもしない」
なんてのも、問題外です。
そして、政治においては、
「治国安民の善政を第一とし、
公平公正、私心を交えず、権力者におもねらず、身分の上下に依らず、
たとえ強大な権力を持った寺社権門と言えども、理不尽な要求には怯まず恐れず立ち向かい、
ただ純粋に、強い信念を持って "道理に基づく政道" を貫徹する事」
自分達が "権力者側" でありながら、
「力ある者の特権や権益を助長せず、
貧者に配慮し、撫民の精神を尊び、彼らの愁嘆を減ずる事を最優先し、
徳・正義・公益に重点を置いた "天下万民の為の政道" を目指す事」
を標榜し、そしてまた、
「不正不義には断固とした態度で挑み、
贔屓(ひいき)の無い正しく厳密な賞罰を行う事で、善人善行を促し、悪人悪行を退ける」
という、"正しい世を育む" という目的意識をも、彼らは持っていたのです。
…ってまあ、語り出すと切がないのでw、
続きはこの先少しずつ、具体的エピソードに絡めて紹介していく予定ですが、
ま、とにかく、第一に嘘を嫌い、私欲を戒め、常に心清くある事、
何よりも "道理" を重視する事
一言で言えば「天に恥じぬよう正しく生きる」、これが室町時代の「弓矢の道」です。
(…以上は、『建武式目』や大名家の『家訓』(朝倉関連史料の比重やや高め。ごめんww)、
それから史実の逸話などから適当にまとめたものですが、
一般的に言われている室町時代の武士の精神とは、随分隔たりがあるように思われるかも知れません。
どうも、この時代に対しては誤解や偏見が多過ぎるようで、
なんか「裏切りはOK」とか「主君とは単なる利害関係、忠義なんてない」とか言う話が信じられていますが、
「いやいやいや、卑怯な裏切りはめっちゃ非難されてるよ?
公方に対する忠義も涙出そうな話あるよ? ってか、どこ時代の話してんのよ??」
と言うのが、率直な感想です。
(※ただし、(道理を考慮しない)「絶対的な忠誠」を美徳とする概念はありませんでした。
つまり、道理に背くようなら、上の者でも従う義理は無い、とw
もうちょっとマイルドに言えば、「上の者が間違ったら、諫言をする」のが弓矢の道です。)
まあ、確かに室町末期は、
上記のような武士の精神は部分的に後退してしまったようですが、
しかしそれはあくまで、戦国期の "一時期の現象" に過ぎません。(…うん、たぶんw)
ま、それ以前の室町前中期にしても、
飛び抜けて立派な者と、ホントどうしょもない奴が混在していた時代ではありましたし、
これらの理想のすべてが現実を描いていたとは言いませんが、
それでも、"そういう価値観が尊ばれていた" のは、史料から読み取れる事実なのです。)
さて、以上が室町時代の「弓矢の道」の概略な訳ですが、
日本古来の "武士という政治家" は、
実に高潔な政道を志していたのだと言う事が、再確認出来たと思います。
そしてこれは、十分に現代の政治に生かせる…いや、生かすべき理念だと、思う訳であります。
武士の政治というものは、この国で生まれ育ち、長い間、この国に最も調和する政治の形であり続けました。
明治維新によって、「形としての武家政権」は終わりを迎えることとなりましたが、
人はそれぞれ心の内に、その精神を受け継いでいたでしょう。
しかし―――
やがて富と利権の誘惑に飲まれ、特権階級意識の強い支配者層が大勢を占める様になると、
私(し)を忘れて純粋に公に尽くさんとする伝統的武家精神を持った者は少数派となり、
やがて、
「精神としての武家政権」もまた、ここに終焉を迎えてしまうのです。
…って、書いててなんか悲しくなって来ましたがw、
しかし日本の近現代史における上層部の腐り易さ、責任逃れ体質のひどさってのは、
誰しも認めるところだと思います。
日本という国は、一般国民の道徳性が極めて高い一方で、なぜか上に行けば行くほど、
利権を貪り保身に明け暮れ、下を見下す事を当然の権利だと思っているような人間ばかりになる、
という謎過ぎる国になってしまった…
こればっかりは、外国のノブレス・オブリージュを見習うべきだと思います。
(※ノブレス・オブリージュ…「高貴さは社会的義務を伴う」
「位の高い者ほど高い徳と社会への貢献が求められる」という西洋の貴族の道徳観。
つまり、まんま武家精神ですね。日本にもかつては存在したのに…(泣))
もちろん、一般国民だけでなく、
高い意識を持った指導者も多くいたはずだと思います。
そうでなければ、明治維新以降の、国家を挙げての急速な発展は実現しなかったでしょうし、
(…まあこれは、急速で激し過ぎたが故に、そのしわ寄せも多大なものだったのですが)
それから、政治の失敗によって退路を失った果ての開戦、しかも凄惨な敗戦に終わったあの先の大戦が、
結果的にとは言え(一部では)アジア解放の端緒を開く、という転機に繋がることは無かったでしょう。
(…まあこれは、前線で戦った名も無き英雄たちの戦い方が素晴らしかった為ですが。)
しかしまた一方で、
政変によって国の形が劇的に刷新されたが為に、
それまでの長い歴史、歴代の政権、伝統や慣習に対する "否定" や "誤解" が横行し、
本来のこの国のあり方 ――すなわち日本の条理なるものが見失われてしまった事、
それから、公の概念に欠け貴族の道徳を持ち合わせない者達による政治の腐敗や、
「お上の言う事は絶対!」と言って間違いを認めず、人間じゃ不可能な事を精神論で押し通そうとするという、
日本の硬直した上層部特有の弊害もまた、深刻なものだったのです。
(※明治から戦前の日本には、数々の輝かしい成功がある一方で、
残念ながら、見直すべき影の部分も多いのです。
あの熱狂から時が経った今こそ、冷静に過去を検証して、その功罪の両面を未来に生かすことが大切であり、
それでこそ、塗炭の苦しみに耐えてこの国を発展させた全ての先人に報いる事になると思います。)
ところで、歴史を俯瞰していて気付いたのですが、
この国の政治にはどうやら2系統あるようでして、
一つは、武士の "道義" に基づく「武家政治」、もう一つは、貴族の "階級" に基づく「公家的政治」です。
「武家政治」は、これまで述べてきたように、
"道理" に最高の価値を見出し、
身分の上下や、支配者の私心によらない "公平公正" な政治を理想とし、
天下万民の繁栄を目指します。
一方、「公家的政治」は、社会階級を拠り所とする政治です。
貴族と庶民を峻別し、
上層に位置する貴族が、貴族の価値観で、権力や富、国民、国家を自由に出来る権利を持ち、
自己の繁栄を目指して、その為の社会制度を構築するので、
一握りの上流階級の幸福は約束されますが、その他の国民は統制下となります。
(※「武家政治」の社会においても、もちろん身分階級は存在しますが、
"1%の富裕支配者層と残りの被支配者層" というような極端な二極化とは違うのと、
法や道理のもとでは、貴賎に関係なくみなが公平、というのが原則です。)
まあ、ノブレス・オブリージュの精神があれば「公家的政治」でも上手く行くとは思いますが、
日本人ってのは本質的に、人の上に立つ事に慣れていないのか、
特権を手にするとすぐ、自分は庶民とは隔絶した人種だと思い込み、
富に目が眩んでしまう卑しい者が、少なくないのが玉にキズw
(※あえて "公家的" 政治と言ったのは、
その担い手が伝統的貴族に限らないのと、
公家の中にも、武家と同様、高尚な道徳観を持つ立派な人物が、沢山実在するからです。
ってかむしろ、新興の成り上がり組のが深刻に強欲だよね、こうゆう事はw
(※例えば…
新興武士が担い手の覇者政権は「公家的政治+武力」と言えますし、
武家政権時代でも、時期によっては公家的政治色の強い場合があります。
…それじゃ、近現代の政府はどうかって? それは―――
みなさんの脳内に任せますw)
ちなみに、現在では伝統の家柄である藤原氏も、当然新興勢力だった時代はある訳で、
その頃の威勢といったら…そうれはもうw
(※当初、藤原氏は中臣(なかとみ)と名乗っていたのですが 、
かつては同等だったはずなのに、すっかり中臣氏に地位を奪われた斎部氏が、
その理不尽な独占と専横を、涙目で朝廷に訴えてたりするw …7〜8世紀頃のほろ苦い思ひ出。)
まあつまり、藤原氏でさえ "新しい" となってしまうほど、
太古から続く由緒正しい血統の「古代豪族」が多数存在する、
そんな脅威の歴史を持つ国なのです、日本ってのは。
よく、日本の四大氏族として「源平藤橘」(げんぺいとうきつ。源氏・平氏・藤原氏・橘氏)と言いますが、
実は、それより遥かに歴史の古い古代豪族を知らずして、日本の氏族は語れないのです。
しかも彼らは、日本の神様の謎にも関わるw …ま、この続きはまた別の機会に。)
さて、歴史的に見た「公家的政治」の(負の)特徴としては、
身内に甘い(仲間の罪は不問)、道理ではなく権力者の都合が優先なので、訴訟の裁許が一定しない、
そして武士を駒として扱い蔑視する、
と言ったとこですが、
この武士に対する偏見というのは、どうにも悲しいものでしてw、
汚れ仕事を武士が担ってくれているから、公家は手を汚さずにいられると言うのに、
「所詮、武士は殺生する野蛮な犬畜生だ」みたいな感じなんですよ。 おいおい、武士が泣いちゃうよホントww
平安時代の伝説的源氏の英雄、源義家(みなもとの よしいえ)も、
その活躍の裏で結構な言われ方をしていてホント涙目なんですが、
それに対して武家は、鎌倉時代以降、実力で公家を越えた後でさえ、
あくまで公家には礼儀正しく接するという健気(けなげ)な生き物だったりするから、また泣かせる訳ですよw
(※源義家(通称、八幡太郎)は、源頼朝や足利尊氏の偉大な祖先。覚えておこう!)
まあ、武士にとっては、部下は仲間であり家族のようなものだけど、
公家からしたら、「侍は貴族の傭兵」でしかないのかも知れませんが…
しかし、そんな「公家からしたら、武士は駒」って認識も、
武家政権以前の平安時代までの事だろうと思いきや、潜在的な蔑視観は延々と残り続けた上に、
近代に入って、一部でそれが復活しちゃったのは近代史の悲劇の一つですね。
(もし、当時の軍上層部に、
「部下をとことん大事にしろ!」との『教訓』を残した中世武士のような心があったなら、
あんな作戦やこんな作戦にはならなかったろうに…と思うと、もう悔しくて仕方ありませんが、
それでも目の前の現実に向き合い、最後まで勇敢に戦った彼らには、感謝の言葉もありません。はい。)
…って、話が逸れてきた。
この辺も各自大いに調べて、戦前戦後で失った大事なものを取り戻して下さい。
心から健闘を祈ります。
(※戦前の日本というのは、正直、かなり多くの問題を抱えていたと思いますが、
それでも、少なくとも一般国民が備えていた素直さは本物だったと思います。
(それ故、政治が間違うと "大変なこと" になるのですがorz しかし…)
純粋に国を思い家族を思いそれを守ろうとする強い心と、
真面目で勤勉で正直で、それでいていつでも明るく前向きで挫ける事を知らない国民性には、
老若男女全員武士かよ!とか突っ込まずにはいられません。
明治維新で「身分としての武士」は消滅してしまったけれど、
「魂としての武士」は、多くの国民の中に生き続けていたのでしょう。
つまりこれは、
江戸時代以前から "脈々と受け継がれてきた" 日本人らしさと言える訳ですが、
そう考えると、長い歴史の中で最近の日本人だけがいかに例外的かって事が分かる…我ながらなんてこったw
愛すべきものを忘れた人間は、どこか卑屈で、自信が無く、明るく生きる事が出来ない。
―――そろそろ、長い悪夢から目覚めて、"江戸以前の真実" を知ってもいい頃だと思います。)
さて、時代を戻して、
律令法に精通していた京都の公家は、法知識では武家を遥かに優越していたのですが、
しかし、道理よりも貴族の意向が重視される都(みやこ)の公家的政治というのは、
武士にとってはやはり肌に合わないものだったようで、
鎌倉幕府の執権北条泰時(ほうじょう やすとき)は、武家の理念を政道に生かすべく、
鎌倉幕府の基本法『御成敗式目』の制定を主導し、
その心の内をこう述べます。
「京都の者達は、物も知らない東国の田舎武士がと笑うだろう。
それでも、身分の上下に依らない道理に基づく政治を目指したいんだ!!」 (『北条泰時消息』意訳)
笑ってくれて構わない、それでも俺は道理に生きる!! …って、なんと言う大和魂の鑑(かがみ)ww
泣かせますね。
(※『御成敗式目』は、その後の武家政権においても規範とされ続け、武家法の原点となりました。
時が経てば法は古くなってしまうだろうに、時代を超えて身分を越えて、
いつしか庶民にまで知れ渡るようになるのです。
『御成敗式目』が半ば伝説と化して崇敬され続けた明確な理由は明らかではありませんが、
"正しさ" への強い信念がそうさせたのだと、私は思います。)
まあでも、室町時代は、根強い偏見を残しつつも公家と武家は仲良くやっていたと思います。
特に、皇胤(こういん。天皇の子孫)である足利家は、
血筋の尊さで言えば藤原氏にも引けを取らないと思いますし。
ただ、やはり公家にとっては、貴族である自分達が裁かれるってのは信じ難いものだったようで、
「道理を前にして身分の上下は関係ない。罪ある者はもれなく裁く! 貴族も侍も百姓もあるかぁぁーー!!」
という方針を取ったとある将軍は、悲しい事に理不尽な非難をごうごうに浴びました。
そう、あの人です次のページのあの人! しかも今でもめっちゃ誤解されてるし。
ああ、武士はいっつも叩かれ役…(泣)
…という訳で、「公家的政治」との対比から「武家政治」の特徴を探ってみましたが、
あれ、じゃあ公家でも武家でもない「天皇の国家観(というか政道観)」ってどうだったの?
と、皆さん気になっていることでしょう。 (…え、気になるよね?ね?)
まあ、歴代天皇や上皇におきましては、時に個性の強い帝もいらっしゃったので、
一概に語るというのは少々強引ですし、
そもそも、史料をもとにしているとは言え、勝手に叡慮(えいりょ。天子のお考え)を推し量るようで何ですが、
あえてプチ不敬罪を犯すとそれは ―――「武家政治」に極めて近いと言えます。
これは、『古事記』『日本書紀』の処々にも記される往古からの基本精神であり、
君とは "民の為" に君たる存在であって、"民の幸せ" を以って"我が幸せ" とする、
それこそが "天子たるもののあるべき姿" だとされて来たのです。
…って、なんちゅう有難い国なんすかね。
一国の頂点に君臨する皇帝や国王が、「自分のことより民のこと!」なんて国、そうそう無いと思います。
だからこそ、自ずから民に敬愛されるのでしょう。
それからまた、撫民の精神、仁政徳治主義と言う点において、
「天皇と武家は、本来とても親和性が高い」
と言う事も、強調しておきます。
実際の歴史を見ても、君と臣が志を共有する事は、天下安泰の必須条件と言えますね。
ま、ここでは概略に留めて史料の提示は省略しますが、
歴史的に見た本来の日本の国体ってのは、どうやら、単純な "君の絶対性" を基礎としているのではなく、
もっと "崇高で珍妙な条理" によって成り立っているらしい、と言う事だけ指摘しておきます。
…ちなみに、それを最も的確に見通されていただろうお方は、
私が全力で尊敬する南北朝期の "持明院統" の花園天皇な訳ですがw
まさに「日本の天子観(または道徳観、ってかもう宇宙観)ここに極まれり!!」みたいな感じで、
力強く貫かれた信念と、抱く理念の高潔さは、もう武士も宇宙も遥かに超えています。
そんな聖徳の君主がおはしましたってのにさぁー
近頃は、武家の道徳を持たないけしからん奴が幅利かせ過ぎですね。
この国では古来「徳なき者は、上に立ってはならんのだ!」が脳内スローガンだったのに!
…ってまあ、愚痴っていてもしょうがないので、建設的な提案をするならば、
これからの日本の政道に「精神としての武家政権」の復活を、期待したいと思います。
もちろん、過去の武家政権においても悪い所は多々あった訳ですが、その反省も踏まえて、
今ここから、もう一度、かつての自分達が夢見た理想の政道の続きを追いかけられたら…とふと思う訳であります。
(※もちろん、あくまで「精神としての武家政権」ですよ。
「形としての武家政権」復活!なんて言ったら、なんかやばい思想の持ち主かと誤解されてしまいますw
(※「革命」だとか「政府転覆」「国家破壊」だとかいう甘言には、絶対に耳を貸してはダメですよ。
それは最も多くの人々を一瞬にして不幸に落とす、最も簡単な手段でしかありません。)
ただ、現代の感覚で、
当時の武家政権を「軍事政権」と言ってしまうのは、かなり語弊があると思います。
短絡的に「武士=武力集団」と見做せばそうなるのでしょうが、
しかし、武士というのは単なる戦闘集団ではありません。
武道、文道、学問、礼節、神道、仏道、政道、仁道 …あらゆる「道」に通じると共に、
代々家業として政治の実務を担当していたプロフェッショナルな武家もいるのです。
軍部の暴走を防ぎ、政治を軍事に優先させる為に、
現代の民主主義国家は、「文民」によって軍隊をコントロールするという方法を取っていますが、
武家政権時代の日本政府(=幕府)は、「道義」によって武力をコントロールしていました。
「文民統制」ならぬ、「道義統制」と言ったところでしょうか。
(…まあ、100%上手く機能していたとは言わないがw
でも、それを言ったらシビリアンコントロールだって…おっと自重。)
日本のやり方ってのは、現代の政治学では分類しきれない珍妙なところがありますので、要注意なのです。)
…という訳で、これから武士について考える時は、
戦での活躍だけでなく、政治家としての側面にも大いに注目してみて下さい。
そして、歴史の中で終わりを遂げたのは「武士という階級」であって、
「武士という理念」は、今も変わらずこの国に必要不可欠な条理である事、
しかし現在それが大いに欠けていて、もう一度過去の中から呼び戻すべき時である事を、
何となくでいいので考えてみて下さい。
ただ単に過去の出来事を知って楽しむだけではなく、
その中に、未来へのヒントを探しながら読む歴史とはつまり、時空を超えた宝探しなのです。
(※ちなみに、さっきから何なんだよ "日本の条理" って!と思われているでしょうが、
まあ、日本の取説(=取扱説明書)ってとこですかね。
…と言ってもそれは、禅で言うところの「不立文字」って感じで、
誰でも簡単に手に取って読めるようにはなってなくて、
「直指人心」ならぬ「直指"史"心」とばかりに、歴史から直に読み取るしかない…ってゆう。
そして、取説通りに国家を運営すれば、とことん繁栄して何でも極めちゃうけど、
取説に沿わない方法を取ったら最後、
良かれと思ってやった事でも、必ず失敗してとんでもない結末を迎える…ってゆう。
(これは善悪の問題とは少し違います。
どんなに正しいと信じた理想の国家体制でも、条理に適ってなければ望まぬ方向に進んでしまうし、
今でも、他国の "優れた" 政策や経済システムを真似しても、大抵上手く行かずに裏目に出てるでしょ?)
ホント、厄介な国ですよ、日本ってのは。 でもそれゆえ、愛すべき国ですよw
ちょっと廚ニっぽい話ですが、頭の片隅にでも置いておくと、歴史の勉強が楽しくなるのでお勧めです。)
と、少々話が逸れまくりましたが、以上が幕府の全体像です。
ってか、スーパー概略。
なんたって、ころころ姿を変えますからね、追い掛けても追い掛けても、掴めないよ!
うん、だから、適当でいいですよ。
相手は、軟体ゆる町幕府ですから、頑張っても弄ばれるだけです。
この変幻性、それぞれの公方の方針(個性)の違いにも起因しますが、
やはり、大名たちの「将軍家に対する相対的な自立性・存在感の強さ」によるところが大きいと言えます。
ただし、ここで注目すべき、且つ不思議な点は、
ともすればヒャッハーになりかねない大名たちが、
なんだかんだ言って、公方のもとに集結していた、という事実です。(戦国期はまた少し別ですが。)
(※ヒャッハー … 近未来の世紀末に出現しがちなカオスな人達。
通常、モヒカン。トゲトゲ肩パット愛用。
「ヒャッハー」とは、調子に乗った彼らの雄叫び。)
だいたい、南北朝の動乱期の婆娑羅(ばさら)大名なんて、もろヒャッハーですよ。
それを、足利尊氏・直義兄弟はよくもまあ、まとめ上げたものです。
(※婆娑羅(ばさら)…南北朝動乱期の流行語。 見た目や思考がとにかく派手で無法な状態をいう。
「ぶっ飛んだ俺、カッコイイ(キラッ☆」みたいな、ある種の小者臭が漂うことは否めない。
ちなみに『建武式目』に、
「おいおめーら、その馬鹿みたいな派手な格好やめろ、マジでやめろ」
という条文があります。)
『観応の擾乱』(1350前後)は、表面上、尊氏・直義兄弟の対立に見えてしまいますが、
あれは実際、
一部の家臣の度を越えた梟悪淫乱への糾弾を発端に、諸大名が大きく二派に分かれ、
道義に基づく政道を目指す "文治派" (直義派)と、
常識を打壊して欲望のままに好き放題やりたい "武断派" (ヒャッ派ー)との対立が激化してしまった、
というのが実情です。
(※『観応の擾乱』は、基本的には幕府の内部抗争ですが、
さらに南朝勢力や、終いには北朝の天皇、そして全国をも交えてもうめちゃくちゃ、
正に、天下どうすんのこれマジで状態。)
時代は、確実に婆娑羅っていた訳ですが、
必ずや、秩序がカオスを凌駕する日が来る、そう信じて、その胸の内に "夜明け" を描き続けた直義は、
どうしても政治に妥協することが出来なかったのです。
(…というのが、現在の一般的な『観応の擾乱』の解釈ですが、
よくよく史料を詳察して考察を重ねたところ、この事件には意外すぎる真相が隠されていました。
近く解説する予定ですが、まあ、今のところはこんな感じで。 ―――2015.2.20追記 )
確かに直義は、この乱れた婆娑羅な時代には場違いなほど、真面目すぎて真っ直ぐすぎて夢見すぎて、
そして敗北する事になってしまったけれど、それでももし、もし…
足利直義という、武家政権の鏡のような高潔な政治家がいなかったら、
この時代の日本は、もっと地の底まで堕ちていたと思います。
たった十数年かも知れないけれど、
直義が立て直した秩序は、その後に訪れた泰平の固い礎(いしずえ)となりました。
例え、その滅びが定められた運命だったとしても、
奈落に堕ちる寸前の世界をギリギリの所で食い止めて、理想の明日にすべてを捧げた直義が、
この時代に生まれた意味は、果てしなく大きいのです。
…ああ、それでもやっぱり、直義の犠牲ってシナリオは、どう考えても悲し過ぎますが。
(といっても、それで全てが終わった訳ではなく、足利直冬(ただふゆ)という、
尊氏の実子で直義の養子となった、さらに悲劇の運命をたどった武将がいてだな…云々。)
って。あ、あれ? 全然まとめ上げられてないじゃないですか。
なんか収拾つかなくなっちゃってるじゃないですか!
…い、いえ、そんなことないんですよ。ちゃんと収束に向かってはいるんですよ。
でも確かに、このままじゃみんなの心はばらばら、幕府終わっちゃいそう。
ど、どうする? こんな時、人心を一つに出来るのは…
そうだ! 歌があるじゃないか!!
文和5年(1356)、最初の准勅撰連歌集『菟玖波集』(つくばしゅう)が誕生したのは、
まさにそんな時代だったのです。
(※准勅撰(じゅんちょくせん)…勅撰に准(じゅん)ずること)
え、何? いきなり和歌? 連歌(れんが)??
と思われるかもしれませんが、この『歌』というものが歴史の流れに深く関わってくるのが、
この時代の大きな特徴なのです。
日本古来の『歌』というと、一般的には、
平安の貴族文化、公家や文化人の上品な嗜み、といったイメージが強いし、
実際、文化って、歴史学ではなく芸術方面で語られることのが多いですよね。
でも、この時代はちょっと訳が違います! 『歌』なくして歴史は語れません。
なぜって、武士たちが『歌』を非常に好んだから。
しかもそれは、常に彼らの "隣" にあった、『歌』と共に生きていたと言ってもいいくらいです。
しょっちゅう歌会を開いていたことからも、それが窺えますが、
ただし、平時の遊興だとか、教養を高めるために留まるものではなく、
苦しい時の支えにし、悲しい時の慰めにし、そして天下の泰平を思う時に祈りを込めて、彼らは歌を詠みました。
その歌には、当然、その時のありのままの彼らの心が詠まれています。
なので、歴史上の出来事と重ね合わせてみると、
彼らの行動原理が、事件の真相が、手に取るように見えてくるのです。
(…例えば後半戦のあの時に、朝倉軍が上洛したのも、大内さんが在京覚悟を決めたのも、
そして、京に再び平和が戻ったのも…歌があったからです。)
「え、でも歌とかよく分からないし…」と言わずに、
私も歌心はまるで無いので、芸術的な評価は出来ませんが、歴史的な目で見ると途端に世界が広がりますよ。
武士の詠む歌は、一味違いますw
ところで、『連歌』とは "連ね歌" とも言い、『和歌』と並ぶ、日本の伝統的な歌のことです。
『和歌』とは、短歌(五七五七七)や長歌(五七の反復)の総称で、
それぞれの歌は個人の作品となりますが、
『連歌』は、数人が集まって一つの作品を作り上げます。
――すなわち、最初の人が五七五の「発句」(ほっく。連歌の第一句)を詠み、
次の人が意味の繋がりを考えながら七七の「脇句」(わきく。第二句)を、
さらに次の人が五七五、また次の人が七七…と、
持ち回りで「付句」(つけく)を連ねていき(※この際、色々細かなルールがある)、
百韻(=百句連ねる)で一巻とするのが基本です。
一例を示すと…
1 発句 ことの葉の 種や玉咲く 深見草 (最初の人) (※深見草(ふかみぐさ)
2 脇句 露さえ清し 茂る木のもと (次の人) …牡丹(ぼたん)のこと)
3 第三句 水青き 庭の月影 明け染めて (また次の人)
…(4〜99)…
100 挙句 風おさまりぬ 住吉の松 (最後の人) (…で、完成!!)
つまり、『連歌』は "みんなで"、しかも "その場で" 作る作品であるという事、それから、
前句(前の人の句)に、次の人が付句を付ける事を「付合」(つけあい)と言いますが、
この「付合」の妙(=前句と付句の絶妙感)と、
完成した百韻が、全体として織り成す起伏ある流れ(これを「行様」(ゆきよう)という)に、
美学を秘めた文学なのです。
(さらに、その "場" を共有し(これを「会席」という)、その場の雰囲気を楽しむことにも意味があり、
連歌とは、文学と言う枠を超えた、人々の精神の交流でもあるのです。
ちなみに、上記の連歌会のメンバーは全部で14名。
有力大名や超有名連歌師、公家、大名の部下の武士、僧侶、連歌師など、
このバラエティーに富んだ顔ぶれこそが、まさに "室町らしさ" と言えるでしょう。)
(※ちなみに、「挙句の果て」とは、連歌の第百句「挙句」(あげく)から来た言葉です。)
和歌にも増して連歌は衰退してしまったので、今ではあまり聞き慣れないかも知れませんが、
鎌倉から室町時代にかけては、この連歌が大いに発展し親しまれた時代でした。
もちろん、和歌も同様に親しまれていましたが、
連歌の特徴を考えると、この時代の人々が『歌』に何を求めていたのかが分かります。
それは、「人の心から生まれ、人の心を繋ぐ」という文化本来の、そして最も大切な役割です。
『菟玖波集』序文には、
「いま、花闕風おさまり、柳営露あまねくして、……(中略)
文をたすけ、武をやわらげ、民を教るなかだちとして、賢き 愚かなる を捨てず、高き 卑しき を分かず、
思をのぶる事になりければ、風の情及ばざる山陰もなく、露の言葉かからざる木隠れも無かりけらし……」
(※花闕…朝廷、柳営…幕府)
とあります。
すなわち、乱世の終結を宣言し、朝廷と幕府の安穏に慶び、
身分の上下も貧富も越えて、天下の万民に連歌の風がゆき届き、どうか泰平の世が続くように…と願いを込めて、
この撰集が編まれました。
主導したのは武家ですが、朝廷・公家との共同作業です。
連歌集に思いを託し、初代将軍足利尊氏がこの世を去るのは、この2年後。
人々が待ち望んだ泰平の世の入り口で、明け行く空と描いた朝が重なる、その一歩手前でした。
でも大丈夫。その願いは、しっかり届いたようです。
これから先、2代目義詮、3代目義満、4代目義持に続く時代は、
種が芽吹き、若葉を広げ、花が咲き誇る世界へと向かいます。
さて、『菟玖波集』については、
【金子金治郎『菟玖波集の研究』(風間書店)1965】
が詳しいですが、
この約140年後に誕生することとなる、第二の准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』との対比が重要な意味を持つので、
いずれまた、どこかで触れます。
(※ちなみに、『連歌集』というのは、過去に詠まれた数々の『連歌』から、
主となる付句を前句と共に抜粋し(つまり、五七五+七七 or 七七+五七五)、
それをかき集めて編纂したもので、通常の百韻形式とは異なります。
それと、『連歌集』で勅撰のものは無く、准勅撰は上記の2つのみなので、
「公的な『連歌集』が編纂されたのは室町時代だけ」と言う事になります。)
(ところで、『和歌』や『連歌』といった日本古来の『歌』は、
今では "文学" としてのみ認識されていますが、
元来『歌』というのは、願いや祈りを込めて神仏に奉納されることもあり、
非常に「神聖な側面」を持っていました。
平安時代から室町時代にかけて編まれた数々の勅撰和歌集(天皇・上皇の命で国家事業として編まれた歌集)や、
勅撰集に准(なぞら)えられたこの2つの連歌集、
これらの「序文」からは、
かつて、『歌』や『言の葉』(ことのは)というものに、
何か不思議な、そして強く尊い力が信じられていたことが見て取れます。
(※歌集の「序文」には、『歌』の本質に迫る非常に意味深な記述や重要な鍵が含まれています。
じっくり読むと実に面白い。 日本語の真価に触れる事が出来ます。)
まあ、この国には「言霊」(ことだま)という言葉があるくらいですからね、
日本語と言うものは、単に意志を伝える道具ではなく、神にも通じる "術"(すべ)として、
古来、この国の人々は『言葉』をとても大切に扱って来たのです。
(※言霊…言葉に宿る不思議な霊威。)
現在では忘れられてしまった、この "文学以前" の『歌』の意義を再認識することで、
当時の彼らの心や、「勅撰和歌集」の存在意義への理解が一層深まると思うので、
このサイトでも、折に触れて言及していくつもりです。)
(※ついでにもう一言。
日本の歌や詩というと、普通は先ず五七五の『俳句』を思い浮かべると思います。
『和歌』や『連歌』を圧倒して、現代においてはぶっち切りシェアNo.1ですが、
実は、『俳句』が流行し始めたのは明治時代に入ってからであり、
その起源が『古事記』『日本書紀』の「日本神話」で語られる『和歌』や『連歌』とは、
歴史の長さが圧倒的に違うのです。
『俳句』とは、もともと『連歌』から派生した文学で、
江戸時代の松尾芭蕉による、
「連歌の「発句」(第一句)だけを単独で鑑賞する」
という試みに始まりますが、
この頃はまだ、「連歌の一部」という認識でした。
(※ちなみに、江戸時代の連歌は、
鎌倉・室町時代の「正統で格調の高い連歌」とは趣が異なり、
正確には『俳諧(はいかい)の連歌』と言って、卑俗的で滑稽なのを特徴とします。)
しかし、明治の近代化の流れの中で、文学の世界でも西洋の価値観が尊ばるようになると、
西洋近代文学の個人至上主義的思想を信奉する新進の文化人によって、
個人の感情の表出に徹した『俳句』こそが「真の文学」とされ、絶対的な地位を得ます。
日本の「和」を真髄として、複数人の交流の中で生まれる『連歌』は、「文学ではない」と蔑視され、
表舞台から消えていったのです。
これが『連歌』が途絶えた決定的な理由。
…無念。 無念過ぎるw
(実は…この時代には、思想的流行で文化が急激な興廃を受けただけでなく、
これまで永く受け継がれてきた伝統や慣習儀礼(そして歴史認識)が、
政治的理由で強制的に書き換えられています。
現在私達が「 "自然に" 発展・進化してきた伝統文化」だと思っているものの中には、
明治以降に "人為的" に改められ、形を変えてしまったものある、という事です。
…って、
軽くショッキングな事実ww 大事な二千年の財産が…orz
つまり、"本当の" 日本の伝統・文化・慣習を知ろうと思ったら、
明治維新以降の150年だけ見ていても、本質を見つける事は不可能で、
それ以前の江戸→室町→鎌倉→平安→奈良→古代→…という悠久の流れ、
その "全体" を見直す必要があるのです。
もちろん、時代の現状を考えれば「そうせざるを得なかった」部分も大いにあるでしょう。
しかしだとすればいつか必ず、真実を取り戻すべき時も来るはずです。
こういう事は往々にして、反動で逆の方向に振り切れてしまいがちなのが危険なのですが、
時代の熱狂が冷めた今ならば、冷静に正しい判断が出来ると思います。
(過去の間違いを過度に攻撃したり、全てを白紙に戻したりする必要はないと思います。
まあ、それはそれで一つの歴史ですから。) )
まあ当時は、新しい西洋こそが正しくて、古い日本は劣った恥ずかしいものと認識された時代であり、
近代化の流れは、冷静に考える時間を与えないほど激しいものだったのでしょうが、
しかしやはり、
長い時を重ねた自国の伝統が、こんなにも一瞬にして放棄され、あまつさえ侮蔑を受けたという現実は…
悲しい歌にしか聞こえません。
『俳句』は、その簡潔さに意味があり、その本質は自己表現、つまり作者個人に重心が置かれます。
一方、同じ個人の作品である『和歌』(短歌)は、どちらかと言うと受け手が主役です。
相手の心を動かす力、世を正し、祈りを届ける力があり、作品と言うより "術"(すべ)なのです。
そして『連歌』は、
絶妙な場の空気の中で、複雑な言葉のやり取りから紡(つむ)ぎ出される言霊の連なりであり、
多くの「個」を共鳴させる力を持っています。
三者は全くの別もの、優劣を付けるべきものではないのです。
人々の記憶にも残らない程に廃れてしまった連歌ですが、
しかし、かつて確かにこの国で、連歌が人々の心を繋げ連ねていた事の証として、
室町時代、2つの准勅撰連歌集―――『菟玖波集』と『新撰菟玖波集』誕生しました。
近代化という時代の激変の中で、その歌は切り刻まれてしまったけれど、
願わくば今もう一度、引き離された一つ一つの音を繋ぎ合わせて、ありし日の旋律を蘇らせてみたい、
歌をこよなく愛した彼らの事を調べていると、そんな思いが沸き起こるのです。)
…という訳で、室町時代の武士とは切っても切り離せない関係の『連歌』に、
みなさんも注目してみて下さい。
ところで、
3代目義満が北小路室町の地に『御所』、その隣に菩提寺『相国寺』建て、
以後、足利将軍家家督のことを『室町殿』と呼ぶようになった、ということは既に述べましたが、
では、それ以前の幕府はどこにあったのかってことになりますよね。
実は、「室町幕府始まりの地」は、ここではないのです。
はい、では早速、地図のご用意を。
『室町殿』(御所)と『相国寺』の間の、烏丸通(縦)を、真っ直ぐ南下して下さい。
「京都御苑」(=「京都御所」を取り囲む公園)を通り越してまだまだ進みます。
御池通(横)との交差点まで来たら、そこを東に曲がって少し行きます。 はい、この辺です!
正確には、西を高倉通(縦)、東を柳馬場通(旧称:万里小路)(縦)に囲まれた、
御池通(旧称:三条坊門小路)(横)の南北に渡る場所です。
御池通の下(南側)、姉小路通(横)までの一角(=三条坊門高倉)に『足利直義邸』、
御池通の上(北側)、押小路通(横)辺りまでが、足利家の最初の菩提寺『等持寺』、
さらにその上(北側)、二条通(横)までの一角(=二条高倉)に『足利尊氏邸』がありました。
(つまり、北から順に『尊氏邸』『等持寺』『直義邸』と並んでいた。
少し下に「地図」(←別ウインドウで開きます)を追加しておきましたので、合わせて御覧下さい。)
これらの建物は、当時の記録に、
「武家三条坊門第等持院」(『師守記』)
「本所三条坊門高倉等持院」(『大外記師夏記』)
と記されている事もあるように、
"一体" として「武家の本所」=「柳営」(=幕府)と捉えてもいいのですが、
ただ、『建武式目』を掲げた建武3年(1336)からの十数年間、
つまり、幕府発足から『観応の擾乱』(1350前後)までの幕府安定期では、
天下の政務の大部分は、直義が担っていたので、
狭義には、「幕府の中央本部」は、三条坊門高倉の『直義邸』であり、
それ故、現代の感覚では、
『直義邸』は、私的な「邸宅」というより公的な「政庁」として捉えた方が、実態に近いでしょう。
(武家から公家、僧、訴えのある者達…と各界隈の様々な人々が、日々大勢出入りしていた訳です。)
また、『等持寺』は、
尊氏が、「王道(=仁徳をもってする正しい政治)を扶持し、仏乗に帰依する為に開建した」(『仏観禅師行状』)
という禅院で、様々な仏事が行われた場所ですが、
創建当初は、寺というより足利家の持仏堂という性格が強く、『尊氏邸』との境界も曖昧で、
(室町中期頃の記録に)「この寺は、古くは在家だった」(『蔭凉軒日録』文明19年正月24日)
とあるように、
初め「邸宅」を兼ねて建てられたものが、少し後に、本格的に「寺院」に改められたようです。
(ちなみに、尊氏は数年後には、この「二条高倉」の邸宅から、
1km程北の「鷹司東洞院」新『尊氏邸』に移り住む事になり、
『等持寺』は、二条高倉の旧『尊氏邸』を吸収した広さの寺院になります。 詳しくは後述↓)
という訳で、つまり―――
始まりは『室町殿』よりずっと下、今の京都の繁華街に近い所だったんです。
なんか意外ですよね。 あれっ、この辺なの? みたいな。
ってか、なんも残ってないじゃん! 痕跡皆無じゃん!
…と思ったあなた! フフフッ、あるんですよ、これが。
地図を、めっさ拡大してみて下さい。
『直義邸』の北西の角、つまり御池通(横)と高倉通(縦)の交差点の右下に、『御所八幡宮』が!!
……。
…ちっさ!とか言わない。 ちっさくても、伝える由緒はでかいんです。
もともとは、鎌倉時代に、公家の中院家の館の鎮守として、
八幡神(はちまんじん)を勧請したことに始まるそうですが、
この地に『直義邸』が建てられ、この八幡社は、御所を守る『鎮守八幡宮』とされました。
直義が最期を迎えた後は、邸宅跡とこの社には鎮魂の意味が込められ、
以後、足利将軍家により、御所の鎮守『三条八幡宮』として守り伝えられていきます。
時代の流れと共に、その規模を縮小して行き、
『御所八幡宮』と呼ばれるようになった現在では、
『直義邸』跡のほんの一角を占めるだけになってしまったけれど、
それでも、決して途絶えることなく、同じ場所で時を刻み続けています。
そして、生まれたばかりの幕府は、
直義によって、"三条坊門高倉の地" で形作られていったので、
まさにここが、「この幕府の誕生の地」―――すべてが「始まった場所」と言えるのです。
これを知っちゃったら、みなさん、
行かずにはおられまい!! …って、そんなのは直義好きな私くらいかもしれませんが、
でも、なんだか不思議な感じがしますよね。
室町幕府は確かに終わったけれど、でも、この神社は今も、"御所" を守り続けている。
もしかしたら、今もまだ、どこかで…続いて―――
…おっと、危ない、並行世界の扉が開いてしまう、この辺でやめておこうw
(2015.4.26リメイク)
(※八幡神…応神天皇を主座とする武運の神様。
古くから、鎮護国家の神として朝廷をはじめ日本各地で幅広く信仰されると共に、
源氏の氏神(正確には、武家源氏の氏神)とされたことから、全国の武士たちから特に篤く崇敬されました。
武士を語る上で、八幡神様は 超 重 要 です。 テストに出まくるから要チェックだぞ!)
あ、ちなみに、『直義邸』の左下(南西)に、「曇華院前町」という一角がありますよね。
「京都文化博物館」や「中京郵便局」があるところです。
ここも、後々重要になってきますので、頭の片隅に置いといて下さい。
さて、それともう一つ重要なのが、足利家の京都における最初の菩提寺『等持寺』(とうじじ)です。
これが、のちの『相国寺』と並ぶ、足利家の二大菩提寺、
「御所+菩提寺」の組み合わせで、「柳営」の一部として機能していました。
…あれ? 京都の "足利家ゆかりの寺院" で『等持…』っていったら、
衣笠(きぬがさ)にある『等持院』(とうじいん)じゃないの?
と気付いたあなた!
相当な室町マニア(略してムロマー)ですね。 草葉の陰で公方様もニヤついています、ムフ。
この『等持寺』(洛中)と『等持院』(衣笠)の関係ですが、
『等持寺』(洛中)の創建が、暦応元年(1338)以前、
『等持院』(衣笠)が、暦応4年(1341)に夢窓疎石を開山として建立されたそうですが、
やや異説もあって、
もともと仁和寺の子院だった真言密教系の寺院を前身として誕生したのが『等持院』(衣笠)で、
洛中の『等持寺』より "前" から存在した、とも。
(ちなみに、足利家は禅宗だけでなく、真言宗ともわりと縁が深く、
初期幕府による、天下泰平への一連の "祈り" にも、それが反映されています。)
ただ、『等持寺』(洛中)は当初、"等持院" と呼ばれていて、
後に改称されて "等持寺" となったので、
(※この辺ややこしいので、当時の記録を読む時は要注意w)
『等持院』(衣笠)が禅院として生まれ変わったのは、その頃だったんじゃないかなぁ…
と個人的には思いますが、はて?
まあ、いずれにしても、この2つの寺院はどちらも室町最初期に開かれ、
幕府と共に歩みを始めた重要な寺院だったのは間違いありませんが、
一つ大きく異なるのは…
洛中の『等持寺』はもう当時の姿を残さないけれど、
衣笠の『等持院』は健在している! と言う事です。
開山である夢窓疎石作と伝えられる庭園、歴代足利将軍の木像・遺髪塔、尊氏さんのお墓、小さな茶室 …
などなど、本堂や木像は焼失・再建を経ているそうですが、
それでも、室町のすべてをそのままに伝える、素晴らしい禅院です。
…の割りに、こぢんまりとしていて慎ましいですが。この辺も室町仕様になっているんでしょうか。
でも、私の中では、
世界遺産である『鹿苑寺』(金閣寺)や『慈照寺』(銀閣寺)に勝るとも劣らない、
一番の、室町を象徴する寺院です。
何しろ、ここに安置されている歴代将軍の木像には、とんでもない秘密が隠されて…
おっと、今はこの辺にしておこう。
(上述の、将軍の代数に関する謎です。まあ、相国寺のHPにもヒントはあるんだけどね、うん。)
ちなみに場所は、
『鹿苑寺』(金閣寺)の近く、嵐電「等持院駅」の少し北です。
室町好きなら一度、いや何度でも訪れたくなる、時を超えた禅院です。
公方様が草葉の陰で待っていますよ。 「お茶どうぞー」
さて、室町幕府の位置については、
【川上貢『日本中世住宅の研究』(墨水書房)1967】 …の第五編「足利将軍御所の研究」
【細川武稔『京都の寺社と室町幕府』(吉川弘文館)2010】 …の第一部第一章「足利氏の邸宅と菩提寺」
をどうぞ。
それから、『等持寺』と『等持院』について考察したい方は、上記に加えて、
【今枝愛真『中世禅宗史の研究』(東京大学出版会)1970】 …の第三章第一節「足利直義の等持寺創設」
を一読を。
(※ところで、上記の上2つの文献は、
室町幕府開始〜数年間の『尊氏邸』の場所についての見解が異なり、
前者が「二条高倉」の御所(上記で説明した場所です)、
後者が『常在光院』付随の邸宅、としています。
(※常在光院…現在、東山の「知恩院」の敷地となっている場所にかつて存在した、
尊氏ゆかりの禅宗の寺院。)
これはなぜかというと…
二条高倉の『尊氏邸』は、「建武の新政」時代に建てられたものですが、
建武3年(1336)正月の洛中合戦で焼失し、
同年6月の再入洛当初〜しばらくの間は、尊氏は『東寺』を御所としていました。
(※直義は、この時から既に三条坊門高倉へ。)
これは、『東寺』が光明天皇と光厳上皇が御座する行宮(あんぐう。仮の皇居)とされたので、
その警固の為であり(『梅松論』)、
約半年後の同年12月10日に主上・上皇が洛内中心部に遷御した後、尊氏も移動したと思われるのですが、
その後、康永3年(1344)5月16日以前には、
鷹司東洞院の『新邸』に移り住んでいた事が確かめられるものの、
その間数年の居所が、史料的にはっきり確定出来ない為です。
(※鷹司東洞院の新『尊氏邸』の場所は、
現在の(「京都御苑」内部の)「京都御所」の南西の角付近(少しはみ出る)で、
当時の、光明天皇の「土御門東洞院内裏」の南に位置し、
また、少し東には尊氏と親密な関係にあった醍醐寺の僧、三宝院賢俊の僧坊や、
執事の館なども近くにありました。)
尊氏が、『常在光院』を時折宿所として利用したり、度々歌会を開いていた事は、
史料的に確かめられる事実ですが、
ただ、完全な隠居の身では無かったので、定住とまでは行かなかったのではないか、という事と、
当時の日記等に住居が明記されていないのは、
「当然の場所」(=『直義邸』や『等持寺』一帯)に、御所を構えていたからだと思われます。
(この周辺には、家臣達の館も集まっていて、
「軽々しく振舞って諸侍と親しみたい」(『梅松論』)と望んでいた尊氏が、
長く離れられるとは思えないのです。)
ところで、尊氏と直義の母で、
康永元年(1342)12月23日に亡くなった上杉清子(法号…「果證院殿」)は、
当初は法号を「等持院殿」としていました。
「等持院殿」といえば、言わずと知れた足利尊氏の法号ですが、
のちに尊氏が「等持院殿」とされたことで、母の上杉清子は「果證院殿」に改められたようです。
―――以下は憶測ですが、
おそらく、洛中の『等持寺』(もと等寺院)は、禅宗に帰依していた上杉清子の居所を兼ねて建てられ、
それ故、『尊氏邸』との境界も曖昧で(というか、ほぼ一体で)、
そして上杉清子の逝去を期に、本格的に禅寺となると共に、
『尊氏邸』だった部分を含めて寺領とし、
尊氏は(たぶん一周忌が過ぎた頃)鷹司東洞院の新『尊氏邸』に、移り住んだのではないかと思われます。
(※ちなみに、『等持寺』は、
「尊氏か直義か、どちらによって建てられたのか?(どちらに結び付きが強いか?)」
という問題も議論されていますが、
史料の逸話と二人の関係を総合すれば、
「尊氏の提案により、直義の主導で造営された家刹(家の寺)」
であり、特別尊氏と直義を区別して考える必要は無いように思います。)
この新『尊氏邸』の新造がだいたい完了した康永3年(1344)頃は、
幕政も軌道に乗り、世の中は泰平の兆しに弾み、
二条高倉の旧『尊氏邸』時代にも増して、輝かしい時代であったようで、
この頃、新邸の完成を記念して作成された『屏風画』には、
夢窓国師を始めとした当時を代表する12人の禅僧による『屏風賛』(漢詩)が添えられ、
世に讃えられた、尊氏と直義という "二人の将軍" の治世への慶びを、
ありのままに今に伝えています。
(※残っているのは残念ながら『屏風賛』のみですが、またいつか紹介します。)
一方で、
"ある理由" により、「遁世しなければならない」と思い詰めていた尊氏は、
幕府開始の比較的早い時期から、『常在光院』の傍らに隠居を視野に入れた邸宅を整えていたのではないか、
と思います。
定住には至らなかったものの、尊氏を隠居に駆り立てていたものは何だったのか?
…という、「足利尊氏最大級の謎」についての話は、
後日、改めて解説したいと思います。 ―――2015.1.7追記 )
(2015.1.9追記)
「室町御所map」を作成しました。
『室町殿』については、「2-3 続々・室町幕府の前半戦「室町をたどる」」を参照して下さい。
また、『三条坊門殿』、及び「上御所」「下御所」、「上京」「下京」については、
すぐ下の「転々と、室町幕府」をご一読下さい。
注意事項としては…
左図は、時間軸を無視していますので、全ての建物が同時に存在した訳ではありません。
特に、勘解由小路に『斯波邸』(=武衛邸)が構えられるのは、幕府開始後しばらく時代を経てからですが、
『応仁の乱』で、西軍公方足利義視の「御所」となる重要な場所なので、記入しておきました。
ここが西軍総指令部となる以前に(※乱勃発当初の西軍本陣は「山名宗全邸」)、
応仁元年(1467)夏〜秋頃に『斯波邸』で繰り広げられた激戦については、
斯波義廉被官たちによる奮闘は…「2-9 室町幕府の『応仁の乱』加速しはじめました「戦に懸けた魂」」の後半を、
不落の『斯波邸』の摩訶不思議については…「2-8「応仁の乱、収束に向けて…のはずが、あ、あれ??」」
をどうぞ。
右図は、「下御所」部分の拡大図で、
『尊氏邸』+『等持寺』+『直義邸』が、誕生したばかりの頃の「柳営」です。
(建武3年(1336)〜暦応元年(1338)以前には既に完成。)
この後、康永3年(1344)、尊氏は左図中央の新『尊氏邸』(鷹司東洞院)に移り、
二条大路までが『等持寺』の寺領となります。
(※旧『尊氏邸』と『等持寺』の間には、押小路よりもう少し北にも境界があったようで、曖昧です。)
『御所八幡宮』は、現在は非常にこぢんまりしていますが、
当時は、『直義邸』跡をほぼそのまま社領とした立派な社でした。
そして、『三条坊門殿』(または『三条坊門御所』)は、
2代目義詮以降、3代目義満、4代目義持、6代目義教、そして11代目義材も一時期「御所」とした場所ですが、
義詮自身は、(打ち続く擾乱が終わってようやく)ここに安住出来たのは、最後の3年弱です。
完成したのは貞治4年(1365)。
初代尊氏・直義の時代が終わり数年の月日が流れ、既に当初の「柳営」は、
『三条八幡宮』と拡張した『等持寺』に、その姿を変えていました。
… ちなみに、
「『観応の擾乱』で二人は対立した」というイメージから逆算してしまうと、
尊氏の鷹司東洞院『新邸』への引越しは、「二人の仲が冷め始めた証拠か?!」とか思われそうですが、
決してそんな事はありませんw
康永3年(1344)秋〜冬頃には、上記の『屏風画』の他にも、
内裏の南の『新邸』を祝い、尊氏・直義と当時のトップ歌人たちの詠歌を列して屏風に仕立てた『屏風和歌』や、
世の泰平への祈りを込めて、尊氏と直義、そして夢窓国師の合作として生まれた『宝積経要品』(※国宝です)、
余り知られていませんが、祇園社に納められた「尊氏願文」―――
…などなど、
この転居が非常に喜ばしい事であったこと、
(まあ、「朝家を守護し奉らん」(『梅松論』)と表明していたくらいですからね)
そして、
二人は相変わらず何かと(ってか、何でもw)一緒だったことを示す証拠が、いくつも残されています。
(※ただし、これらの "証拠" (『屏風賛』や願文ほか色々)の内容を改めて検証したところ、
この康永3年(1344)というのは、実はかなり意味深な年で、
尊氏の『新邸』への転居も、秘められた深い理由があったことに、最近気付きました。
詳細はまたいずれ。 上記の「足利尊氏最大級の謎」を裏付けるものですが…ちょっと切ない話です。
―――2015.2.20追記 )
ついでに、左図の "map圏外編" として…
(※地図上の距離は、二条高倉の旧『尊氏邸』〜新『尊氏邸』の間が、約1kmです。)
上御所『室町殿』から、
西(左)に3km程行けば『等持院』(衣笠)が、
東(右)に3.5km程行けば、8代目義政の『慈照寺』(銀閣寺)があり、
下御所周辺から少し南(下)の錦小路あたりから、東に2km弱程の場所に、
尊氏ゆかりの禅院『常在光院』がありました。(※現在の「知恩院」の境内です。)
また、『室町殿』は『応仁の乱』で東軍本陣となった場所ですが、
西軍本陣「山名宗全邸」は、その『室町殿』から西にほんのw600m程の場所で、
そこから南に同じく600m程行くと、朝倉孝景が飛び下馬した「一条戻り橋」があり、
この辺り一帯が、応仁元年(1467)5月の本戦開始時の激戦区となります。
(※参照は…「2-8「応仁の乱 ― 本 戦 開 始 ― 」〜「蒼のシナリオ、種明かし」」を。)
以上、ちょっとごちゃごちゃしていますが、
どうぞ、室町妄想散策ツアーにお役立て下さい。
さて、ではまた、洛中の「柳営」に話を戻しましょう。
誕生した時の幕府の中心(政庁)は「三条坊門高倉」の『足利直義邸』であり、
初代尊氏の後を継いだ2代目義詮は、そこから少し東に場所をずらして、
「三条坊門万里小路」に『三条坊門殿』を新造し、
そして、3代目義満の代に「北小路室町」の地に新たな御所が造営され、
幕府の中心は『室町殿』へと移ります。
では、それによって三条坊門の「柳営」は、その役目を終えたのでしょうか?
…いえ、実はこの幕府、これ以降も、その本拠地をあっちにしたりこっちにしたりしてるんです。
な、なんて移り気な幕府なんだ。
『室町殿』とか呼ばれるようになったなら、大人しく室町に居ろよ、とか言いたくなりますが、
まあ、それぞれの将軍ごとに思うところもあったのですよ。うん。
(※ちなみに、当時の京都の市街地は、だいたい二条大路(現:二条通)(横)を境にして、
南を『下京』(商人が多く居住)、北を『上京』(公家の館が集まっていました)といいます。
つまり、「三条坊門高倉」は下京、「北小路室町」は上京となります。)
さて、足利直義以降の前半戦の幕府の変遷は…
2代目義詮→(最終的に)『三条坊門殿』(のちに下御所と呼ばれました)
3代目義満→下御所から『室町殿』(上御所と呼ばれました)へ (さらにその後『北山殿』へ)
4代目義持→上御所から下御所へ
6代目義教→下御所から上御所へ
8代目義政→(しばらくしてから)上御所へ それから…あと色々
う、移動し過ぎだろ…って? でも、そんな事言ってたら、後半戦なんてスケールが違いますよ、
何しろ全国を巻き込んで転々… おっと、洒落にならん。
『室町殿』に住んだことないのに『室町殿』って呼ばれてたり… おっと、もっと洒落にならん。
初め、尊氏・直義が二条高倉〜三条坊門高倉に邸宅を構えたのは、
「建武の新政」時代、後醍醐天皇の二条富小路内裏(だいり)周辺に、近臣たちが居住していた事に由来するそうです。
(※内裏…天皇の御所。禁裏(きんり)ともいう。)
では、3代目義満はなぜ、北小路室町に移ったのでしょうか?
それはですね、一説には、
「禁裏」より "北" に「柳営」を置く、という事に意味があった、
とも言われています。…が、
(つまり、「天子、南面す」と言うように、その都の北端にいることが、最高権力者の証になるという考え)
しかし、平安京ならともかく、この時代は特に
「禁裏を北端とすることを前提とした都市構造ではない」
のです。
だから、義満が "禁裏の北" を選んだのは「天皇を威圧する為だった」、とは考えづらいし、
公家その他の人々も、それに強い懸念を持ったとも思えません。
(だいたい、上京の公家の館は "禁裏の北" に集中しているのだから、
この説に従うと、公家もみんな不敬!となってしまうし、
そもそも、後円融天皇と義満の関係が最も蜜月だったのは、
『室町殿』に移徙(いし。転居)した "後" の1〜2年なのです。
…ただし、やっぱり失礼である事は確かですw 親しい間柄ゆえの遠慮の無さ、というか、
「これくらいじゃ仲悪くならないよね!」という確信はあったと思われる。)
それでは、北小路室町への移住の、本当の理由とは?
それは…
「下京から公家の集まる上京へ移ることで、廷臣(朝廷の臣)としての武家をアピールする」
ことだったと思われます。
確かに、義満が公武の新たな関係を築こうとしていたのは事実ですが、
既に述べたように、それはあくまで、"朝廷の内部にどう武家を位置付けるか" という範疇のものであり、
北小路室町という地は、「禁裏」ではなく、「公家の館」を意識した場所選びだったと言えるでしょう。
(それに、後円融天皇との関係が、初めは非常に良好だったのに、後に気まずくなっていったのは、
二人が実の従兄弟(母同士が姉妹)、かつ同い年であったことが、思いの外強く影響していると思います。)
それにしたって、菩提寺でか過ぎね?
…という意見もあるかも知れませんが、
発案の段階では一応もっと小規模で、義満が禅の修行を行うことが創建の目的でした。
そしてまた、『相国寺』という名前に秘密があります。
これは当時、義満が「大臣」(律令制の官職。律令制は天皇を頂点とする統治制度)だったので、
「大臣」の唐名(からな。官職の中国風の呼び名)である「相国」(しょうこく)から名付けられたものですが、
正式には『承天相国寺』といいました。
"承天"、すなわち "天子の意を承った" 大臣の寺、これが寺号の意味するところです。
…天皇を威圧する意図があったとは、到底思えません。
とはいえ、やはり義満は最も威勢のある将軍であったと言えるでしょう。
まず、明徳3年(1392)、とうとう南朝と北朝の合体を成し遂げました。
また、諸大名に対する優位性や、明との貿易、全国の度重なる遊覧などからも、それが窺えます。
という訳で、そんな派手好きで老獪な父の振る舞いに、次代の4代目義持は思いました。
「ちょっと、やり過ぎじゃね?」
朝廷との関係が、前代よりしおらしくなり(といっても、密接な関係が続いていたことに変わりはないが)、
「柳営」は、初代尊氏・2代目義詮に倣って、下御所にその本拠地を戻しました。
諸大名との関係も、本来の "俺らで幕府" 的性格が強まります。
それから、義持の後を継いだ6代目義教は、暫く下御所に住んだ後、『室町殿』を再建し上御所に移ります。
これは本人の意思ではなく、大名からの勧めであり、
その在所は、下御所周辺を含めた複数の候補地から選ばれたものでした。
(あ、あれ? 義教って、その…"あれ" な将軍じゃなかったっけ?
3代目義満の権勢を追って、さぞ強引に『室町殿』を再建させたんじゃ…ないんだな、これが。いずれ分かるさ!)
そして、8代目義政は、幼年期は別のところに居ましたが、
室町幕府の前半戦と後半戦のちょうど境目に当たる頃、『室町殿』(上御所)を再建して移徙します。
さあ、新築『御所』で心機一転! 後半戦スタートだね!
…でも実は、この時 "新装開店" したのは『御所』だけではなく、
近臣とか、女房集団(御所に使える女性たち)とか、その… 人的にも "新装開店" しちゃった訳で…
…って、いあぁーーーーっっ!! なんか陰謀めいて来たw もう、こわいこわい!
しかも折角、『室町殿』(=将軍) が、『室町殿』(=御所) に戻ったっていうのに、
義政のやる気は、むしろ木枯らしに吹かれてゆく…
だって…、だんだんみんな、言うこと聞かなくなって来たんだもん…。
まあ、そんな訳で、准勅撰連歌集『菟玖波集』成立から、
世の中はそこそこ穏やかで、そこそこ将軍も将軍らしく、そこそこ大名たちも従順に幕政を支えていました。
2代目義詮の代、貞治元年(1362)に斯波義将が管領(かんれい)の座についてから、
その父斯波高経の後見により、幕府の機構や将軍権威の確立が着実に進みます。
貞治6年(1367)12月、義詮の急逝により、まだ10歳の義満が後を継ぎますが、
管領・細川頼之の補佐により、幕府は動揺することなく、京都の安寧は続いていきます。
康暦元年(1379)、再び斯波義将が管領となり、義満が十分な年齢になったのもあって、
幕府は隆盛の道をぐんぐん進んでいきした。
このように、室町幕府は、数々の賢臣に支えられて成長して行ったのです。
うん、いいですね健全な感じで、平和でほのぼのと……して、あれ? なんかいやな予感。
フッフッフ、その通り! 完全ルンルンお花畑時代なんて許されない ―――
水面下は世紀末。それが室町!!
上記の管領の交代なんて、諸大名同士が起こしたクーデターですよ。
なんで君たち、そんなに潜在的ヒャッハーなの? って問い詰めたくなりますよ。
その点、成人後の3代目義満は本当に上手くやっていたと思います。
ただちょっと(いやかなりw)、大名側に同情したくなるところもありますが。
(「明徳の乱」「今川了俊のこと」「応永の乱」など。)
4代目義持なんて、最後はやや諦めモード入ってたしねw
安定していたと言われる義満・義持時代でさえこれですよ。
そんなんで、どうしてその後150年も続いたのさ! まったく訳が分かりません。
ただ、危なっかしい事態には数々遭遇すれども、
その都度、なんだかんだ言って持ち直しているのもまた事実。
その危機に際し、それでも幕府を終わらせまいとする力 … 実はそれもまた、大名たちの力でした。
もちろん、大名たちだけではゴタゴタに喧嘩して収拾がつかなくなるでしょう。
それを一つにまとめる求心力はやっぱり…
清和源氏の貴種、『武家の棟梁』たる足利家の将軍だけが持っていたのです。
だから、傀儡だったんでしょ? 将軍権威を利用されてただけだって!
…とはよく言われますが、それは大いに誤解です。
と言うか、仮にそうだと仮定しても、いずれにせよ、
「(利用に値する)将軍権威が存在していた」と言う事になりますが、
ならば、その "将軍権威に対する敬意" という社会的合意こそが、当時の大多数の人々の素直な感覚であって、
それを否定し将軍追放や幕府乗っ取りを企てる方が、世を無視した異端、
衆意に背く「品格なき覇者政権」という事になります。
実際、室町時代の末期まで、上意(将軍の意向・命令)は一定の効力を発揮していたし、
将軍との関係において、利害だけでは説明のつかない行動をとる大名たちも大勢いたんです。
彼らは、もっと純粋な忠誠心、非道を許さぬ心、「公」の概念を持っていました。
(具体例は、この先少しずつ挙げていきたいと思います。)
だいたい、この幕府の後半戦なんて、明らかに頼りない公方ばっかですよ。(おっと、失礼!)
もう、公方様のポッケはすっからかんよ! みたいな状況にもかかわらず…なんかみんな献身的w
君たち、ほんと公方様好きだね。と、問い詰めたくなります。
(※近現代においては、不当に理不尽な評価をされる事になってしまった彼らですが、
実は当時においては、人々から不思議なほど愛される公方だった、…というミステリーな事実。 )
別に、絶対王政だった訳ではないのにね。
しかも終盤は、封建制どころか、連邦制になりかけていたという、笑えない状況w
でも… こうしてみると、夢見がちな室町幕府が、思いのほか永らえる事になったのも分かる気がします。
つまり、当時の大多数の人々は…
「幕府が終わることを、望んでいなかった」
意外に、そんな簡単な事なのかも知れない。
そんなこんなで、泰平とヒャッハーの狭間(はざま)で揺らぎながら、
「室町幕府は終わりそうで終わらぬ! 何度でも蘇るさ、フハハハハッ!!」
を、地で行った250年。最初から最後までこの調子。
どんな苦境に立とうとも、歌があるから大丈夫!
頼りないけど捨て置けない、そんな公方様と共に――― 俺たちの室町幕府は終わらない!!
ああ、でも流石に『嘉吉の変』と『応仁の乱』のときは、もうだめかと思ったわ。マジで。
そんな、ドキドキのきわどい時代は、この後すぐ!
「5 終章・室町幕府の前半戦」で!