TOP > 二、室町幕府雑学記 > 8 室町幕府の『応仁の乱』はじめました


 小見出し
「崩されたプライド」
「世界の色は、彼だけを染めない」
「応仁記の謎を解く」
「天に告ぐ!上御霊社の戦い」
「だから言ったでしょう、
     続く夢など無いのだと」

「それぞれの水平線」
「応仁の乱 ― 本 戦 開 始 ― 」
「蒼のシナリオ、種明かし」
「応仁の乱、収束に向けて
     …のはずが、あ、あれ??」

「紐解けばそこに、武士の道」
「本気と書いて、武士と読む」


8 室町幕府の『応仁の乱』はじめました


 さあ、いよいよ始まります!
手に汗握る、お騒がせ幕府の大後悔時代!…じゃなかった、
大航海時代の幕開け応仁元年(1467)
新大陸に一番乗りしちゃうのは意外にも、
超影うす管領(かんれい)のあの人、

       畠 山 政 長 です!!

…いっつもピンポイントで、
不憫(ふびん)なとこ突いてくるかわいそす管領政長
みんな応援よろしくね!


 ところで、『応仁の乱』というのは、畠山政長畠山義就による正月「前哨戦」と、
ちょっと間をおいて、天下ひっくるめた5月「本戦開始」
…という流れになっているのですが、
この間の4か月、このあと始まる本戦がどんでもない大乱発展して、しかも11年続くなんて、
そんな冒険物語、誰も想像してなけりゃ期待もしてなかったことでしょう。…ああ、どうしてこうなった。


 さて、本題に入る前に豆知識タイム、室町幕府の日常「お正月編」の解説をしておきます。
室町幕府は、将軍 "固有" 軍事力・経済力が日本史上最もへなちょこだったので、
武力で恫喝するいわゆる「ボス猿統治」が出来なかった訳ですが、
代わりに、『礼節』によって統治を可能にしていたという超クールな政権だったので、
日常的に儀礼的な行事が目白押しでした。
特に正月は毎日のように、御対面やら御成(おなり)やら椀飯(おうばん)やらがあって、
そのスケジュール(何日に誰が何をするか)や作法(装束から一挙手一投足まで)は、
室町中期頃には、『武家故実』として確立していました。
 (御対面御所での将軍との対面。 将軍からの御盃御服の拝領、大名からの太刀の進上などがあり、
      その作法は身分によって細かく決まりがありました。
  御成…将軍が大名の館に訪問すること。 大名は酒宴を設けたり、猿楽を興行してもてなします。
  椀飯…大名が御所で将軍に饗膳を献ずる年始の儀式。 "椀" は、本当は "土へんに完" という字です。)

…豆終わり。


「崩されたプライド」

 という訳で、応仁元年(1467)正月1日、『室町殿』(=御所)では、
恒例の、諸大名や近習などと公方の御対面、それから管領畠山政長による椀飯が滞りなく行われました。
…ここまで問題なし! はいっ、ここまで何の問題もないよ! OK、天下安心!!

 翌日、正月2日、この日は公方が管領邸御成をする日。
しかも新年最初の「御成始」という、重要な公式儀礼です。
管領としてここ数年、毎年この日の公方の訪問を、慇懃丁重にもてなしてきた廉直管領 畠山政長は、
今年も心を込めて準備をしていました。(『斎藤親基日記』) …しかし、当日になって突然、

      御 成 中 止

そして、『室町殿』では畠山義就が、

    公 方 に 御 対 面

……絶句。
いや、政長も絶句したでしょうけど、私が絶句です。
室町の公式儀礼というのは、単なる恒例行事ではなく、武士の心そのものを映し出すもので、
特に、大名 "家" として担う行事は、家門の名誉・面目に関わる重要な意味を持つのです。
つまり、その勤めを果たすことが武士としての誉れ、そしてその逆は、名を重んじる武士にとっての恥辱なのです。
 (※武家の公式儀礼が内包する意義については、
  【仁木謙一『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)1985】)

 だから、当日突然一方的御成中止を告げるなんてのは、
考えうる限りの最低の方法侮辱したことになります。
だいたい、さしたる理由もないのですよ。
『宗賢卿記』には「武命に違うによる云々」とありますが、それが本当なら、まず先に真否を糾明すべきです。
 (まあこれは所詮、建前の為の空言でしょう。実際、政長が武命に違った形跡は無い。)
しかも、1日の『室町殿』での椀飯は普通に勤めさせておいて、2日にいきなりこの仕打ち。
これは、1日の行事は諸家が関わり『室町殿』で行われる儀式なので、滞りなく遂行したかった為でしょう。
中世の人々のは何より「先例」を重んじましたから。
 (※この「先例の重視」とは、悠久の伝統の尊重という意味と、
  上手く行った過去に倣うことで、不測の事態を防ぎ、安定した現在の継続と末永き未来を願う、
  という日本の伝統的な精神文化です。)
恐らく、2日の御成中止は、前年の12月25日に畠山義就が上洛した時点で規定路線だったのでしょうけど、
1日の将軍家諸家の参加する行事は先例どおりに行いたいが故に、
2日の "当日宣告" という方法を取ったのだと思われます。


 あまりに、あまりにやり方が汚い。
はっきり言ってこれだけは、義政をぶん殴りたくなります。
もちろん、後述するように、
この件には日野勝光、日野富子、女中たち(御所に仕える女房集団)が深く関わっていたのですが、
それでも、最終的に公方である義政が「否」と言えばそれまでだったのです。
何でもかんでも寵臣の言うがままに流されるのは慈悲とは言いません。
"分別無き慈悲" が、無慈悲紙一重であることに気付かなかった罪は重いのです。

 (まあ、幼少期から当たり前のように将軍として崇められてきたら、
  常識的な感覚善悪の判断に支障を来たすのも仕方ないとはいえますが…。
  特に、公式儀礼の数々を見ていると、
  ああこりゃ、相当優秀な諫臣が身近にいないと、異世界の価値観を身につけてしまうがな、と思う。
  その点やはり、初代の足利尊氏直義、還俗公方の6代目義教足利義視(義政弟)には違うものを感じます。
  後世やたら叩かれてる義教が、縁故無き者への救済(訴訟での庭中の許可)や、
  経済的困窮者への配慮(御礼出仕での外様衆からの太刀献上の停止)といった、
  "分別ある慈悲" を持っていたこと、一人でも多くの人に知って頂きたい。)


 歴史に現代人の道徳観を持ち出すことに対して、否定的な意見もあるかも知れませんが、
この件に関しては当然、当時の人々も、
  「太不被意得事也」 (全く以って理解不能)   (『後法興院記』応仁元年正月2日 by 近衛政家)
  「為天下不可然事也」 (天下の為に不適切だ)  (『大乗院寺社雑事記』応仁元年正月6日 by 尋尊)
…まあ、まともな神経があればそうなります。
それに、風俗や慣習における "文化的価値観" については、
当然、当時と現代とでは大きな変容がありますが、
実は、人としての根本的な "道徳観" ってのは、時代によらない普遍性があるのです。
だから、これについては自信を持ってガンガン評価していって大丈夫です。
 (※当時の道徳観については、
  前ページの冒頭や、「2-4 続々々・室町幕府の前半戦「武士の道」」の「弓矢の道」を参照。)


 倒れそうで倒れない、崩れそうで崩れないこの幕府がなぜ、長きに渡って存続し得たのか?
それは、室町幕府というものが、"武力による恫喝" や "独裁者の我欲" ではなく、
"武士たちの名に対する誇り" によって保たれてきた存在だからです。
だから、ちょとくらい大名たちが騒がしい戦や騒動を起こしたところで簡単には終わりませんが、
だとか誇りだとか、そういう目に見えない "武士の本質" を成すものを踏みにじれば、一瞬にして崩壊し得るです。

 この正月2日の出来事は、
畠山家の二人による前哨戦、すなわち『上御霊社の戦い』へと繋がっていく訳ですが、
この一件は、単なる戦の発端なんかではなく、
室町幕府の根幹に一刀を突きつけて、無情なまでにその姿を変貌させる悲しき深傷(ふかで)となります。
直接の犠牲となったのは政長だけですが、
(無意識的にとはいえ)将軍自ら室町の名を穢したという現実は、
他の大名たちの意識の深層に、大きな影を育たせていくことになります。
 どんなに真面目に生きていても、ある日突然理由もなく恥辱を受ける、ならば…
自らの名自らの力で守るしかない。
そうなれば名を忘れた室町は、もはや消滅を待つだけの運命―――

…いいえ、将軍だけが室町なのではない、将軍諸大名によって築かれた "俺らの" 幕府である室町は、
彼ら大名たちが誇りを捨てぬ限りは、その姿を変えたとしても必ずや明日を続けていきます。
不器用なやり方で、探るような暗闇で、このあと、名を取り戻す戦いが始まるのです。




…と、
なんかグダグダと長たらしい解説をしてしまいましたが、
室町時代の歴史というのは、表面的な出来事だけ追っていても真の理解は出来ない、
ということを伝えたかったのです。
 『応仁の乱』は、かなり不可解な展開を繰り返していきますが、
彼らが求めていたのは何なのか? 譲れないものは何なのか?…という視点で見ると分かることもあります。
 まあそれにしても、
室町幕府のサイトのくせに、おいちょっと批判し過ぎだろ、とか思われそうですがw、
しかし、幕府だろうが将軍だろうが、間違ってると思うところは容赦なく叩きます。
「将軍のやることなら "すべて" 善!」なんて腑抜けた価値観で眺めていても、歴史は何の役にも立ちません。
歴史とは単なる知識の羅列ではなく、
過去の人々の営みに学びながら、善悪の分別価値観を磨いていく為の、私たちの共有財産です。
ならば、熱すぎるくらい気合入れて探求しないともったい無いというもの。
 私が室町幕府を好きなのは、そこに気高いものを感じるからであって、
だからこそ、それに見合う価値観を以て評価したいし、
好きだからこそ、良い所はみんなに知ってもらいたいし、また、悪い所は隠さず糾弾するのです。
私は「室町幕府がやったことは "すべて" 悪」という考え方が嫌いです。
だから同じ事をしたくないのです。

 (まあでも、義政は乱を境にちょっと変わります。だからあんまり嫌いにならないで下さいw
  時代に恵まれなかったせいもあるだろうし、他の将軍の時代だって信義違反的な事はあった訳だし、
  それに、『東山殿』を造営し、そこで文化を育むのは乱後のことなのです。
  ならば、環境や心境の変化を追うことも、意味のあることだと思います。)


あああ、そろそろうざくなって来たw すみません。
本題に戻りましょう。
えっと、正月2日に問題が起きて、OK、…天下絶句。ってところでしたね。
そうは言っても、畠山義就方つまりは山名宗全与党からしたら、Oh Yeah!天下絶頂!!です。



「世界の色は、彼だけを染めない」

 正月5日、この日は畠山家が自邸に将軍を迎え、饗応する日。
つまり何事も無ければ、1日の御所での椀飯、2日の管領邸への御成、5日の畠山邸への御成
このすべてを畠山政長が勤めていたはずだった訳ですが、もはや世界は色を変えました。

  正月5日 畠山義就が山名宗全邸を借りて、義政の御成を受ける。
  正月6日 畠山政長に、屋形を明け渡すよう命令が下る。
  正月8日 新たな管領に、斯波義廉が任命される。

5日の御成は義政のほか義視も同道、諸大名も参会する盛況なものだったようです。
不参だったのは、畠山政長細川勝元京極持清
6日の屋形明け渡し命令、これには畠山政長は従いませんでした。 細川勝元と申し合わせがあったからです。
しかし弁解の余地もないまま、8日には新管領が就任、
もう世の中は、前にしか進んでくれなかったのです。


 もうお気付きでしょうが、正月2日より此の方、
義就・山名宗全方政長・細川勝元方、それぞれから見た世界 "全く違う色" に映っていたはずです。
方や薔薇色、方や蒼色
 (※(あお)は、青よりももっと青、心まで染めるブルー、そんな意味合いのつもり。)
みなさんは、どちらの視点で見ていますか?
出来れば両方の立場から見ることをお勧めしますが、好きな武将の方の気持ちになってみると共感し易いでしょう。
私は正直、畠山家は二人とも好きなので困るところですがw、それでも、
『応仁の乱』開始以前のこの時期は、政長方に悔しいくらいの共感を覚えます。
 義就・宗全の計画がこんなにも順調に進行したのは、
幕府内…特に日野兄妹と女中たちコネがあったからですが、
それにしても、伊勢貞親の側近政治に対抗するあまり、より腐敗した側近集団を台頭させていたなんて、
なんて笑えない話…。
『文正の政変』までの斯波義廉への理不尽な仕打ちを思えば、一概に山名方を責められないけれど、
だけど……
なんでそれで犠牲になるのが、政長なんだよ! 全く以って腑に落ちんw
例えば政長が、上意偽装(=義就w)とか職権濫用(=勝元w)とか繰り返してたのならまだ分かるけど、
最も清廉なやつをチョイスして来るって、何この生贄ルーレット! インチキだ、インチキに違いない!!
畠山政長細川勝元京極持清が抵抗姿勢を示したのも当然というもの。
京極持清から見て、畠山政長は娘婿、細川勝元は甥に当たるそうですが、
血縁関係だけが彼らを動かした訳ではあるまい。 こんな理不尽な上意、どうやって受け入れたらいい?

 (※京極持清(もちきよ)は、近江国(北近江半国):滋賀県、 飛騨国:岐阜県北部、
  出雲国:島根県東部、 隠岐国:島根県隠岐島、の守護。
  京都では、侍所所司(洛中警察のトップ)としても活躍。)


 正月15日。今日は山名家御所『室町殿』椀飯を勤める日。
しかし夜になって御所近辺が騒がしくなります。
細川勝元京極持清細川成之(細川家の庶流、阿波守護家)、赤松政則が一揆同心して、
畠山義就退治するよう、義政に訴えるべく参上する計画があったのです。
 しかし、その動きを御所の女中からの注進で知った山名宗全方は、いち早く『室町殿』警固して阻止、
さらに畠山政長方は、足利義視を取り奉る(味方に付ける)ことも考えていたのですが、
山名方義視『室町殿』に招き入れて、その道をも断ちます。
細川勝元は、義政から政長に合力しないよう命じられ、
それに対し細川勝元は、ならば山名宗全義就への合力も止めさせるよう、義政に求めるのですが……。

 応仁元年正月半ば、政長方劣勢は、既に引き返せないところまで来てしまっていたのです。
たった半月で色を失い、いまや闇に覆われゆく世界に一人取り残された政長

   「もう、後がない ―――」





 ここで、現時点でのポイント整理です。
山名宗全による強引な畠山義就の家督復帰作戦は、
やはり、細川勝元との決裂を招くこととなりました。
 (ってゆーか、勝元によるこれまでの20年近い健気な宗全支援を思うと、ちょっと悲しくなる展開w)
ただし、宗全としては、公方義政に働きかけて、上意の圧力で勝元畠山政長を義絶させ、
(勝元は取り込んで)政長の失脚だけで幕を下ろす計略だったようです。
とはいえ、宗全が個人的に、政長に対して宿意を持っていたとも思えないので、
 (かつては勝元と共に、政長の兄の政久を支援していた時期すらあるし)
ここまでドライに政長を切って義就を押したのには、謎と共に冷酷ささえ感じてしまいますが、
でも、斯波義廉に対しては情を感じるし、
大名頭となって諸大名を率いるその貫禄は、人望があることを示している訳だし、
冷たいのではなく、唯我独尊といったところでしょうか。
宗全は、横暴だけど決して残忍ではないので、
基本がヒャッハーな室町武士の心を惹きつけるのも、分かる気はします。
 まあ、政長を追い落としたのも、その斯波義廉管領に就ける為だともとれますが、
ただ、この頃はもう、管領自体の "権力の象徴" という意味合いは薄れてて、
管領家(斯波・畠山・細川)であれば既に別格な存在であり、
管領職は持ち回りでそのうち回ってくるもの、みたいな感じになっていたので(もちろん "誉れ" ではありますが)、
やはり、第一の目的は義就の復帰であり、義廉の管領就任は副次的なものだったと思われます。

 また、上記の経過を見ても分かる通り、
大名たちは自身の優勢を確保する為に、公方味方につけようとします。
これは、大乱開始後も終始共通する構図ですので、
『応仁の乱』が公方に対する戦ではなく、"上意の取り合い合戦" であるという点はしっかり押さえておきましょう。
 といっても、義政寵臣の言うことは真偽道義もなく聞き入れてしまうようなので、
寵臣コネクションのある山名宗全が一枚上手だった訳ですが、
まあしかし、あまり感心するやり方ではないですね。
結果的にとはいえ、金とコネの側近腐敗政治の助長に加担してしまった訳だし。
武家政権高潔な理想が泣いています。
あやまれ! 『建武式目』にあやまれ! もう!
 ところで、弟の義視はどんなスタンスかというと、
諸大名との関係では、中立的な立場にいたようです。(言い方を変えれば、双方から推戴され得る立場。)
また、基本的に義政の意向に従っていて、
この時点では、このハチャメチャ理不尽上意にも、義政周辺の腐敗した側近達にも、
疑いを持っていない様子ですが…。
ただし、義視は薄々気付き始めます。 でも、それはもっと後になってから。
そして気付いた時にはもう、遅かった ―――って、先行きが不安になる様なこと言わないでよww すみませんっ!


 それから、細川勝元方赤松政則が加わっていますが、
これは時系列的には、宗全勝元との決裂が明確になってから、
しかも阿波守護家の細川成之赤松家との関係を反映していると思われます。
 (つまり、"細川勝元赤松政則を取り立てたから、山名宗全が敵対してきた" という訳ではない。)


 さて、基本的に大名上意に逆らうことを忌避します。 だから、公方を取り込もうとする訳ですが、
細川勝元も、畠山政長との(よしみ)と上意との間で、相当苦悩したようです。
 細川勝元ってのは、何事も要領よくこなし、時に狡猾幕命を利用したりもするけれど、
やはりあくまで「礼儀を存する輩」、超えてはいけないラインを分かっていて、
上意にはそれなりに敬意を持つと共に、自身の立場・役割を理解している、
それから、結構奢侈で武士って言うより公家要素が強い、戦術より戦略
…という感じでしょうか。
まあ、自身が損をしない範囲で上手くやることに長けている、保身が強いところがあるので、
正直、今回の騒動では、損得だけ考えれば畠山政長を見捨ててしまう選択肢も十分に有り得たと思います。
勝元なら、その後の幕府でも上手く地位を保っていけるでしょう。
 しかし、勝元が選んだ道は(私てきにはw)意外なものでした。
ちょっと武士っぽさに欠ける印象があったこれまでですが、少し見直しました。 割と武士、いやかなり武士



「応仁記の謎を解く」

(2019.10.30 臨時メモ ―――
 以下の『応仁記』(一巻本)についての考察は、初版2014年3月29日のものですが、
 細部のニュアンスをちょっと訂正したいと思ってます。 今度の3連休中にはやる、たぶんやる。)



 では続けて、みんな大好き豆知識の時間です。 ――― 今回は『応仁の乱』の関連軍記について。
まあ、この時期は一次史料として日記が多数残されているので、それだけでも十分なのですが、
応仁関連軍記の中には、まあまあ信憑性が認められる部分も多く、
完全に切り捨ててしまうにはもったい無いエピソードも満載なので、
ここでは、
  『応仁略記』 『一巻本 応仁記』 『応仁別記』 『三巻本 応仁記』
を、これ以降適宜参照していきたいと思います。
 (※ここまでの解説では、原則、日記だけを情報源にしています。)

 上記は成立年代順に並んでいるのですが、
まず『応仁略記』は、他の3つとは別系統で成立も早く、恐らく乱の最中に書かれたものだと思われます。
 (筆者はたぶんどっかの僧侶。 そして、畠山家の家督交替に関する記述の正確性から(※参照『長禄四年記』)、
  筆者は恐らく畠山持国と交流のあった人物であり、リアルタイムに世相を記述した史料価値の高い軍記です。)

 あとの3つは大乱終結後の成立で、しかも相互に関連があり、
まず、まあ中立的だけど比較的東軍寄りな立場から書かれた『一巻本応仁記』が成立し、
次に、赤松家の縁者が書いたであろう、赤松家伝記とも言うべき『応仁別記』が成立し、
この2つを折衷して『三巻本応仁記』が誕生しました。
 (※正確には、『三巻本応仁記』の元となったのは、
  『一巻本応仁記』とは冒頭部分が若干異なる『二巻本応仁記』とされていますが、まあ、ほぼ同類です。)


 さて、「2-6 室町幕府の後半戦へと続く道「期待の新星!足利義視」」の最後で触れたように、
『応仁の乱』の原因として良く知られている、
  「日野富子が実子足利義尚を将軍にするべく、山名宗全に託した…云々」
という話は、
一次史料的には裏付けが取れない(=史実とは思えない)『応仁記』独自の叙述ですが、
この記述は、『一巻本応仁記』『三巻本応仁記』の双方に見られます。
 現在一般的『応仁記』と呼ばれているのは、上記のうちの『三巻本応仁記』で、
『応仁記』の研究と言えば、"三巻本" をベースとしたものがほとんどですが、
ここでは、より成立が早く、三巻本の元ネタである『一巻本応仁記』について、
この部分の考察をしてみたいと思います。
 (ちなみに、これまで文中で単に『応仁記』と表記していたのは、一巻 & 三巻本のつもりでした。)


 まず、『一巻本応仁記』成立年代ですが、内容からの推測で長享2年(1488)以降数年以内
つまり大乱終結の十数年後とされていますが、これは間違いないでしょう。
 (※詳しくは…【和田英道編『古典文庫第381冊 応仁記・応仁別記』(古典文庫)1978】
  の解説を参照。)
また、将軍家への痛烈な批判も辞さない客観的な視点で大乱を叙述していることから、
筆者は(武家の者ではなく)恐らく僧侶で(※)、
個々のエピソードは、同時代の日記で裏付けが取れるものも多く、なかなかまともな軍記です。
 (※…武家側の人間による『応仁別記』には、こんな赤裸々な公方批判はないので、
  筆者の立場の違いが良く分かります。
  その他の軍記でも同様に、武家の者は、あからさまな公方批判をしたがらない傾向が認められます。)
さらに、筆者の姿勢に注目してみますと、
不義欲心を憎む傾向が強く、
政道が乱れた原因として、公方義政の派手な遊興酒宴
そして政道を「理非をも弁えず、公事をも知らぬ御台女中」の勝手に任せたせいだと述べていますが、
東軍西軍で言えばやや東軍に好意的で、こちらに正当性があると見ているようです。
 (東軍の武将の活躍の記述が多く、東軍の失態を隠していることもあるw)


 ではなぜ、そんな真面目な筆者なのに、
乱の原因の部分に「事実と異なる記述がなされているのか」ということですが、
『一巻本応仁記』の大きな特徴として、
冒頭に『野馬台詩』という予言書を載せている、という点があります。
この書は、以前から『聖徳太子未来記』と共に流行っていた終末観満載の予言書で、
 (『野馬台詩』自体は、平安末期頃には存在していたそうです)
この頃の乱世到来の不穏な世相を反映して、
当時の日記『経覚私要鈔』『大乗院寺社雑事記』でも言及されたりしてますが、
この『野馬台詩』に、
 「とが英雄と称し、国中が喧騒にまみれ、最終的に焦土と化す」
といった意味合いの部分があるのです。
この記述を、(大乱を目の当たりにした)当時の人々は、
 「猿」は申年生まれの山名宗全、「犬」は戌年生まれの細川勝元に違いない!!
 『野馬台詩』は今度の大乱(=『応仁の乱』)を予言したものだったんだ!!
と考えたらしいw
 だから、『一巻本応仁記』の筆者もまた、冒頭に『野馬台詩』を記すと共に、
この大乱の原因を「山名宗全細川勝元の対立」に求め、
そこに至った過程を明確にしようと試みたようですが、
これまで解説して来たように、この辺の事情はかなりこんがらかっていますw
 ですから、大乱をこの目で見て来たであろう筆者も、いまいち本当のところが掴めず、
しかし、「二人を決裂させた決定的な何かがあるはずだ!」と信じていた為、
乱の過程や、当時の世上の噂などから、独自に(というか強引にw)原因を推測してたどり着いたのが、
「日野富子が密かに、山名宗全に息子を託していた(のではないか)」という結論だったのだと思うのです。


 実際、『一巻本応仁記』のこの箇所には、時系列的な錯綜や、微妙な事実誤認が認められます。
義視次期将軍として還俗し、日野富子に男子(義尚)が生まれる、…まではいいのですが、
日野富子が山名宗全に「義視を退け我が子を将軍にするよう依頼する」という部分で、
山名宗全が承諾の返事をする理由が、

  「今出川殿(=義視)は細川勝元とつるんでるから将軍になったら自分が不利になる、
   しかも勝元は、舅である自分の敵の赤松政則を取り立ててる、
   ならば対抗してこっちは畠山義就を取り立ててやろう」
   …そして、日野富子を通じて、畠山義就の赦免を勝ち取った。

と記述されているのですが、
まず、宗全畠山義就を扶持し出す "以前" の段階では、宗全勝元は対立していません。
しかも、勝元赤松政則と組んだのは、大乱直前の時期です。
 (『文正の政変』時点で既に、宗全−義就の同盟は出来上がっていましたが、
  この時勝元は宗全側、赤松政則は伊勢貞親側です。)
そして、義視とは、勝元だけでなく宗全もずっと関係は良かったのです。
…にも拘わらず、
この記述は、一見だいたいは合ってるように見えるのも事実。 これはつまり―――
「猿(宗全)vs 犬(勝元)」という結論に合わせて、
"知っている事実" の断片から原因を創作した為だと考えられ、
『一巻本応仁記』の乱の原因が事実と異なるのは、
 「大乱終結後に当時を振り返って頑張って推理したんだけど、ちょっと "勘違い" しちゃったんだよ!
  悪気は無いんだよ! 許せよ!」
ってことだったのです。たぶんw



――― 以上、『一巻本応仁記』に関する考察でした。
山名宗全が幼い義尚を取り立てたという形跡は、一次史料的には皆無だし、
そもそも大乱開始の翌年、山名宗全率いる西軍は、足利義視を自陣に迎え「公方」として推戴することになるので、
「乱の原因、義尚−宗全説」が誤りである事は確かなのですが、
宗全日野富子や女中コネがあったのは事実ですし、
世間では当時から、御台日野富子の評判は宜しくなったようなので、
筆者が、「政道に私曲を交える御台と、西軍の宗全との間に密約があって、東軍は対決せざるを得なかったんだ」
と思ったのも無理はないと思います。
 たぶん、当時そういう "巷の噂" があったのは事実なんじゃないかな、と個人的には思うし、
さらにもう一歩、踏み込んで推測してみるならば、
山名宗全御台のコネクションを考えると、
 「そもそも御台が、山名宗全による畠山義就復帰に協力したのは、
  実子義尚を将軍にする為に、
  後で宗全を、次期将軍義視を失脚させる陰謀に協力させようと考えていたからであり、
  しかし、その企みを宗全に打ち明ける前に『応仁の乱』の本戦が勃発してしまった為、
  作戦変更を余儀なくされた」
という可能性は大いにあると思います。
 (何しろ…これは後に詳しく述べますが、
  乱中の御台その兄は、次期将軍義視への激しい「讒言・誹謗中傷」を展開し、
  結局、次期将軍の座は義尚に移ってしまうのです。)
つまり、宗全と勝元の対立の原因には、義尚は関係ないが、
義尚を次期将軍に据えようという欲望は存在していて、それが行く行くは大乱を悪化させることになるのは事実、
…という訳です。


 まあしかし、この『一巻本応仁記』の記述が『三巻本応仁記』に継承され、
後世歴史学者を悩ませることになろうとはw
 うん、でも許した! もう許した!
だって、普通に考えたら、この大乱はまるで意味不明だもんね! 原因探るのも一苦労だよね!
 (と言うか、『応仁の乱』は「その途中で、主目的が変わる」と言う大迷惑な展開をたどるので、
  11年に及ぶ大乱の全過程 "一つの原因" に帰着させようとしても、そもそも無理なのです。)

 ともあれ、本来協力関係にあった宗全勝元との対立は、
当時の人々にとっても予想外の展開だったと思います。
結果的にそうなったってだけで、決裂しなければいけない理由が見当たらないのですから。

   尋尊「だから天狗。あれは理論的に考えて天狗。」

…いや、それはないだろ尋尊、と言いたいところですが、
この時代は、割とマジで天狗とか怨霊とかが信じられていて、それに対する人々の畏怖が、
時に歴史を動かすことすらあったので侮れません。
応仁関連軍記をはじめ、中世の軍記には「仏教的な世界観」が反映されているものが多いのですが、
人生の筋書きって思っている以上に、人の力ではどうすることも出来ない部分が多いのかも…知れない。

…豆終了。





 さて、そろそろ本題に戻ります。
政長絶体絶命…ってとこでしたね。
なんの因果か、真冬の雪は政長だけに降り積もり、四方の行く手を氷で閉ざす。
それが派閥抗争犠牲者の、たどらねばならない運命なのか?
…だけど、どうしても譲れないものがある。 どうしようもなく信じるものがある。
たとえその先で果てたとしても、抗(あらが)う道しか選べない。
この力は、何の為にある? 汚されちゃならないものを、守る為にある!
縁故賄賂を前にして、道義が負けるなんて…そんなのは室町じゃない! 失った名を取り戻せ!!

 応仁元年正月17日、
真夜中の雨が雪に変わる頃、真っ直ぐにしか進めない男が、守るべき武士の誇りを貫いてくれます。

    気高き武家政権 最後の砦畠山政長

       『応仁の乱』第一球、振りかぶって ――― 始まります!!



 (…ってゆうか、もう少し直球じゃない方法なかったのかよ。)

畠山政長
    (※写真は、雪の上御霊社(かみごりょうしゃ)) (2015.4.24リメイク)



「天に告ぐ!上御霊社の戦い」

 17日の夜半、畠山政長は自邸に火を放ち、手勢を率いて鴨川を北上、
明日さえ閉ざす闇の中、上御霊社の深い森にすべてを賭けて、決戦の時を待つ、18日の夜明け前。

 強い風に雪が舞う、18日の夕刻、始まりをに告ぐ鬨(とき)の声
退路を断った政長と、勇み攻め入る義就の、決せぬ戦は夜を越えて、ただ激しさだけが打ち返す。

 19日の暁、最後の炎が上御霊社の闇を切り、すべてを焼いてが終わる。
譲れぬものをただ一つ、秘めて挑んだ弓矢の道に、思いの影だけ微かに残し、に届かなかった…その雄姿。


…終わり。

って、ええーーっっ!?? お、終わり!?
ええ。 直球管領、初戦敗退です。 本当に有難うございました。
…って、まあ嘘だ。 安心したまえw
でも、相当に不利な戦いであった事は確かです。
たいした要害でもない神社の森で、味方も無いまま、夕刻からまで戦い抜いたことがむしろ奇跡
『応仁の乱』初戦を飾ったのは、あの義就すら怯(ひる)ませる、潔いまでの直球ど真ん中―――
…と思いきや、実は消える魔球だったって話。
つまり政長は、コケたようでコケていないのです! …いや、やっぱりコケていなくもないか。


 さて、地図で見ると分かるように、上御霊社相国寺の北にあって、
当時は、南に相国寺の "藪の大堀"、西に細川邸の "要害" が接する、うっそうとしただったそうです。
 (※要害(ようがい)… とりで、要塞。 または敵の攻撃を防ぐのに適した地勢。)
 (※ちなみに、「自邸に火を放つ」というのは、京都を没落する時、自邸を処分する為にみんなやる事です。
  まあ、中世の武士の恒例行事ですw
  それから「鬨(とき)の声」とは、合戦の時に大勢で一斉に上げる叫び声の事で、
  開戦時や、士気を鼓舞する為、また、勝利を告げる勝鬨(かちどき)などがあります。)

 一か八かでもここにを敷いたのは、もしもの時は細川勝元援護を受けられる可能性があったからですが、
しかし、この事態に困惑した義政は、双方の諸大名に合力しないよう命じます。
結果、『室町殿』上御霊社の周辺には、大名の軍勢が集まって待機していたものの、
政長義就「単独決戦」となったのでした。


 ところで、義就の武勇については当時の日記でも軍記でも、その桁外れな勇猛さが知れますが、
その義就相手に一晩耐えた政長もすごいと思いませんか?
実は、政長は「本気出すとめっちゃ強い」のですw
普段大人しいのでやられっぱなしなイメージがありますが、
恐らく、義就を負かすことの出来る(日本史上?)唯一の人間なんじゃないかと思われます。
 (※例えば『長禄寛正記』に、
  「義就の突然の夜襲にも全く動じることなく、落ち着き払った政長が逆に打ち負かした」、とあるw)

 大将ってのは、戦場において "どれだけ平静を保っていられるか" が最大のポイントで、
ほんの僅かでも不安動揺の色を見せれば、それが士卒の心に伝わり、あっという間に軍は瓦解してしまいます。
つまり、とてつもない強靭な精神が求められる訳ですが、
義就相手にしてビビらないでいられるってww
 (しかも今回、義就の被官の誉田甲斐庄の働きは…「鬼神の如し」(『経覚私要鈔』) ちびるww)
ただ、追い詰められないと本気出さないのが、玉にキズ。 (だからこの先、一生涯戦いが続く…)


 とはいえ、数の知れない負傷者と、双方合わせて40〜50人の戦死者を出して、
政長の命運もここに尽きるか、というところまで迫ります。
それでも、細川勝元が助けを出せなかったのは…、
政長を扶持しないよう、事前に義政から御内書を下されていたからです(※)。
 これまで上意に背く事なく、君臣の道を違(たが)わずにきた細川家として、
助けたくても助けられなかったのですが、
堕ちゆく政長を見捨てた勝元の行為は、「弓矢の道」(=武士の持つべき道義、武士の道)に外れると、
世間で大いに非難されたようです。
 (※…ちょっと余談。
  『応仁略記』の記述から察するに、
  『斎藤親基日記』正月18日に「扶持いたすべし」とあるのは「扶持いたすべからず」の誤記だと思われます。
  この御内書も恐らく、山名宗全方の要請だったのでしょうが、日野勝光が関わっていることから、
  ああ、なんか陰謀が渦巻いていたんだろうなぁ…とか思って鬱になる。)

 しかし! 勝元には考えがあった。
上意に背く事は出来ぬ、ならばそれを取り込んで、上意によって政長を助くべし!と。
…だけど、山名宗全の後塵を拝する圧倒的な劣勢を覆し、180度の形勢逆転など今から本当に可能なのか?
うん! なぜなら宗全は…

    勝元 "権謀術数モード" スイッチ、押しちゃったみたいww

戦略の立て直し、実行には時間が要る。
ここはひとまず、自害を装って上御霊社の陣に火を放ち、朝が来る前に落ち延びるべし。
――― そして勝元は、密かに政長を逃がして自国の摂津国で匿いながら、
世間の恥辱を受けつつも、"時" が来るのを待ち続けたのです。

 (『三巻本応仁記』の記述ですが、敗戦を覚悟した政長が、
  切腹前の最後の宴にと、勝元一樽の酒を求めたところ、勝元から(かぶら)が送られてきて、
  「終わり」ではなく「始まり」であることを理解し、陣に火をかけて落ち延びた…というエピソードが好きです。
  (※鏑矢の先端につけるもので、矢を射ると音が鳴る。合戦の開始を告げる時などに用いられる。))


 という訳で、上御霊社の焼け跡に、一時は誰もが哀れな政長の死を信じて涙し(『一巻本応仁記』)、
また、勝利に沸く義就・山名宗全方が、義政に太刀や馬を献じて騒動の平定を賀していたその裏で、
細川勝元による雪辱戦――― すなわち『本戦開始』の恐ろしいほどに抜かりのない計画が進められていたのです。
 フッフッフッフッフ……



 ところで、西が塞がれた上御霊社は、攻め口がだけだったのですが、
ここには山名宗全の被官の垣屋朝倉孝景の軍勢が、もしもの時は義就に合力すべく待機していたので、
おい、当時の二大最強最猛軍に囲まれてどうやって逃げたんだよ!とか思いますが、
実は政長には、張良の如く知略に長けた、大和国人の成身院光宣という参謀がいたのです。
 成身院光宣(じょうしんいん こうせん)は筒井一族出身の僧侶で、
南都(=興福寺)の官符衆徒(衆徒の代表者)の棟梁なのですが、政長方の主力軍の指揮官でもありました。

…って、おーい、何で僧侶がパーティ組んでんだよ! ドラクエじゃねぇんだよ!…とか言いたいでしょうが、
まあ、朝倉家にも慈視院光玖(じしいん こうきゅう)という、
僧侶の枠をはみ出たドラクエ禅僧がいてだな…云々。
うん、まあいっか。
この成身院光宣は、この時既に70代後半だったのですが、尋尊によると60歳位にしか見えなかったそうです。
   尋尊「希代者也」(ありえねぇ…)
で、もちろんこの後の『応仁の乱』本戦にも参加するのですが、
尋尊によると、「この一天大乱は悉く成身院光宣の廻らせた謀り事のせいだ!ぷんすか!」ってくらいの切れ者で、
全国的にも名が知れ渡っていたそうですが、一方で神事仏事にも熱心に取り組み、
   尋尊「大正直之者也、仍諸事叶神慮之間…」
      (大正直者だった、だから神様のおかげで物事が上手く行ったんだ。)
…だそうです。
つまりあれだ、みんなも正直を心がけよう! 正直者は乱に勝つ! でも乱はドラクエの中だけにしとけよ!

 ちなみに、夢窓国師によると、
八幡大菩薩正直な者の上に宿る」という約束があるそうです。(『夢中問答集』)
政長正直だったから、あの無謀な直球第一戦で生き延びることが出来たのだと、思いたいと思います。
…でも、八幡様義就のことも結構好きそうなんですよね。 そんな証拠がちらほら…
うん、まあいっか。


 という訳で以上、『応仁の乱』前哨戦として名高い『上御霊社の戦い』でした!
政長が生きているという噂は、数日のうちには知れ渡っていましたが、
それでも没落したことに変わりはないので、
義就・山名宗全方は勝利宣言、乱は終わって今日から春!のうきうき気分、
しかし、政長・細川勝元方にとっては全てはこれから、せいぜい短い春を楽しんでろよYOU?…だったのです。
…って、また君たちパラレルワールドの住人になってんの?
仲良く同じ世界に住みなさいよホント。
誰か彼らの為に、夢とおとぎのムロミーワールドを造ってあげてください。 (※ムロミー = 室my(室町の愛称))
そこでは、猛獣たちが仲良く手をつないで暮らしているという有り得ない光景が広がっています。
嘘です。


 それと、上御霊社は現在の正式名を『御霊神社』といい、
上御霊社『応仁の乱勃発地』西の鳥居の脇に、「応仁の乱勃発地」の碑が立っています。

さあ、みんなも早速、
"義就と政長の単独決戦の地"『御霊神社』へお参りに行こう!
そして550年前 "『応仁の乱』第一球 " に思いを馳せつつ、
彼らに代わって、ごめんなさいしておこう!w


 ちなみに政長は、応仁2年(1468)4月5日、
上御霊社河内国の所領を寄進しています。
 (『大日本史料』応仁2年4月5日)

政長、ちゃんと反省してごめんなさいしてるw
やっぱり素直なやつだ。






 さて、正月『上御霊社の戦い』から5月『本戦開始』までの、
一見平和されどまやかしの4か月間の、気になる話題をいくつか紹介しておきます。


「だから言ったでしょう、続く夢など無いのだと」

 2月6日、義政の御台日野富子の兄の日野勝光が、内大臣に任命されます。
これは日野家としては先例のないことで、その無理矢理っぽさから世間では「押大臣」と言われました。
 また、興福寺の学侶が、日野勝光から仏具などの借用を求められ、都合が悪くて断ったら、即激怒
後で慌てて持ってったものの受け取らず、さらにその後は寺の訴状も受け付けず、という「存外の振る舞い」
 (以上『大乗院寺社雑事記』)
それから、日野家 "名家" の家格なのですが、より上位の "羽林家" の公家を家礼(=家来)にするという事態に、
"摂関家" の近衛政家の感想は、
  「未曾有事也、太以不審也」 (前代未聞、まるで理解できない)  (『後法興院記』応仁元年5月19日)
しかも、
  「近来有徳無双仁也、如大福長者」 (まじで超絶大金持ち)  (『大乗院日記目録』)

まあ、口利きの礼銭は現金じゃないと受け付けない、としていたそうですから、そりゃ蓄財も捗るがな。
ってか、金銭欲だけならまだしも、この傲慢さには涙出る。
"摂関家" にさえ、尊大な態度だったそうな。(『後法興院記』応仁元年12月6日) …もう恐いもの無しだな。
この日野勝光が、義政寵臣として幕府内で思うがままに振舞ってたということだ。
あとは、分かるな?
 (…で、済ませたいw 正直、この兄妹にはあまり触れたくありません。
  なぜって、あまりにも欲念が強すぎて怖くなってくるのです。 チキンでごめんww
  でも、ここに触れなきゃ話が進まないので、まあ頑張ります。)

 (※ちなみに、公家の名誉の為に言っておきますと、
  公家がみんな、こんな人格だった訳ではありません。
  6代目義教期に活躍した万里小路時房誠実さは、その日記『建内記』を読めば歴然ですし、
  また、義教の正室三条尹子の兄、三条実雅(さねまさ)(『嘉吉の変』で宝剣を抜いて戦った人)は、
  確かに多くの所領を知行していましたが、それは…
   「如公役者、毎事如三ヶ国守護之振舞剰有超過事也、仍計会之処…」 (『建内記』嘉吉元年9月17日)
    (三ヶ国守護のような公役を負担し、さらに超過(の出費)さえあり、やりくりがつかず困窮している…)
  つまり、私腹を肥やす為ではなく、「公」に尽くしていた訳で、
  義教も、単に妻の兄への贔屓ではなく、信頼できる人間だからこそ所領の管理を任せていたのでしょう。
   (ってか、義教は人を見る目がありますね。)
  しかし、『嘉吉の変』後3か月の上記の時点で、既に半分の所領を押領され、
   「於于今者難堪忍事也」 (今となってはもう限界…)   (『建内記』…上記の続き)
  だったそうです。 泣ける…。
  それなのに、この時起こった大規模な「嘉吉の徳政一揆」で、皆が質物の返還を受けられる事になったとき、
  三条実隆だけはそれを求めなかったのです。 もう…泣け過ぎる。(『建内記』嘉吉元年9月14日)
  ちなみに、義政時代に至り、
  『室町殿』が新造され伊勢貞親日野家が権力を持ち始めた頃、
  三条実隆は多くの所領を没収され、それは日野勝光などの手に渡っています。
  …ってゆうか、同じ公方の正室の兄でありながらこの差は一体w
  いや、笑うとこじゃないけど…、でも笑うしかないww
  それから、これから頻繁に登場するであろう『後法興院記』の筆者、近衛政家さんですが、
  この人は公家のトップ "摂関家" でありながら、傲慢不遜なところがなく、
  正しい価値観を以て大局的に世情の動向を判断出来る人で、
  特に、明応期の泣きたくなるような歴史の中で、
  励みになる(私にとってw)記述を残してくれた人の一人です。(あとは、三条西実隆尋尊!)
  そんな訳だ。 公家というと、利権に聡く保身が強い…とか思われがちだけど、
  室町時代公家さえかっこいいのだ! …まあ、一部かも知らんけどw )

 (ちなみに、三条実雅は、浄土寺に入室するまでの幼少期の足利義視(母は側室の「小宰相」)を、
  養君として自邸で養育しています。
  義視は還俗したとき、再び三条実雅邸に戻ったのですが、
  この三条邸が今出川通に面していたので、
  義視は以後、「今出川殿」(いまでがわどの)と呼ばれるようになったのです。
  父義教が、信頼する三条実雅義視を託したのには、何か因果を感じずにはいられませんw)


 こう言っちゃなんですが、
この時期の幕府の現状を思うと、『応仁の乱』が起きたのも不思議ではなくなってきます。
『一巻本応仁記』では、限度を知らぬ贅沢振りと、腐りきった政道を痛烈に批判していますが、
まあ少しは誇張されているとしても、人々の心が欲という魔物に負けていたのは事実でしょう。
勢を尽くすことへの罪悪感が感じられないし、
賄賂を持って来た者に便宜を図るのはむしろ当然の親切、みたいな風潮。
『建武式目』の精神が、跡形もなく消え失せている。 …ああ、どうしてこうなった。

 『長禄寛正記』には、「寛正の大飢饉」の頃、豪華な『室町殿』の造営を続ける義政に、
後花園天皇が漢詩を贈って諫めたというエピソードがあります。
御製(ぎょせい。主上の作った詩歌)を偽作する事はないだろうから、事実だと思いますが、
…うーん、後花園天皇は、義教の時代と義教亡き後の義政の時代を、どういう思いで御覧になっていたのだろう。
ちょっと切なくなる話。
 (ちなみに、飢饉の最中の御所の造営は、むしろ公共事業という意味があったんだ!という見解もあるようですが、
  当時の京都の惨状の規模からすると、それは無理がある解釈だと思います。
  ってか、まず年貢減らさないとダメだろ。)


 ああ、もう一度取り戻して欲しい、立ち返って欲しい、
私が好きな室町は、直義が描いた『夜半の日頭』であり、義教が願った『彼の岸』なのに…

    天狗 「よし、あとは俺に任せろ!」

って、いやぁぁーーww やめて下さい! 天下が沈下しちゃいますっ!
まだまともな者も少しはいるんです!


 2月も終わる頃、足利義視天下の無為を思い、細川勝元山名宗全のもとを訪れて両者の調停を図ります。
お、おう。 ちょっと希望出てきた。

しかし、3月3日の御所への出仕、山名方の諸大名が奢侈を尽くした出で立ちで洛中を闊歩する世界の裏で、
細川方は着々と、一足先に上陸した新大陸『応仁のアイ乱ド』でトラップを仕掛け続けていたのでした。
 フッフッフッフッフ……   (『一巻本応仁記』)

どこまでも交われない2つの世界、やがて待ち受ける別れの日、それを知りながら進むしかない明日
…でもさらに違う世界に住んでいる公方
4月23日、管領斯波義廉邸に、義政日野富子、そして義視が訪れ、3日間滞在します。
 (…ってか、こないだまで義廉のこと追放対象にしてたよね? ね?)
そして、公家の邸にも御成をすべく、日野勝光を使者として諸家催促を重ねます。
でもみんな経済的に苦しいのです。
公方を持て成すほどの余裕がないこと、なぜ気付いてあげられない? (『大日本史料』応仁元年4月25日、5月3日)


夢が覚めるまで、あと少し ―――

 5月下旬、"山名宗全の播磨国" に赤松政則、"斯波義廉の越前国" に斯波義敏
そして、"一色義直の伊勢国" に世保政康が討ち入ったという知らせに、洛中騒然となります。
"先制" という名の鏑矢(かぶらや)が解き放たれたのは、京都の遥か彼方の空でした。
  (ってか、義敏てめぇーww どさくさに紛れて復活して来よったか! このっ! このっ!)

5月20日、管領斯波義廉邸に、山名宗全畠山義就一色義直らが会合し対策を図ります。
しかし、既に4月下旬から諸国の軍勢に招集をかけていた勝元の計略に対抗するには、あまりにも遅過ぎました。
迫る不穏な気配に義政も気付き、密かに、山名方に内通する女中を遣わせて宗全を宥め諭そうとしますが…。
――― 夢に酔う彼らが気付いた時、
既に世の中は、勝元・政長方のシナリオで塗り替えられていたのです。



「それぞれの水平線」

…さて、大乱前夜までやってきました。 後は開始の合図を待つだけです。
『応仁の乱』が理解され難い最大の原因は、
これは、乱の全期間を通して言える事ですが、特に開始に至る過程において、

   「誰の視点に立つかによって、全く違う世界が描き出されてしまう」

ことだと思います。
 普通、歴史上の出来事というのは "時の権力者の立場" で叙述することが多いと思いますが、
この場合、義政の立場で見ようものなら「何がなんだか、まるで分からない」となってしまいますw
恐らく義政は、乱が起こるとも、起きて欲しいとも思っていないし、
自身の定見の無い不条理な上意が大乱を誘引するなんて、予想もしてなかったと思います。
 (もちろん、それはかなり問題のあることですが。)
 また、山名方の視点なら、『文正の政変』で斯波義廉の危機を脱し、その延長で畠山義就の家督復帰を成し遂げ、
上意による細川勝元畠山政長の義絶も成功し、宗全勝元の対立は避けられた、
という認識になるでしょう。
宿望は達せられ、乱の危険は去り、いま世界は泰平を迎えたところなのです。
 しかし、細川方に立てば、義就家督復帰はあまりに理屈が通らない事件で、
勝元政長の強制的な義絶は、勝元をして "宗全との対立の道" を選ばせる決定打となりました。
つまり、いま天下は歪みきった許されざる状態、
知略の限りを尽くして是正されるべき存在に他ならなかったのです。


 みなさんは、どの立場に共感を覚えますか?
まあ、危機意識の薄過ぎる公方平和ボケっぷりには、「共感」ではなく「教訓」を感じてもらいたいのですがw
この世界を構成するのは、おとぎの国の妖精ではなく、"人間" なのです。
人の本質を忘れた無責任な "慈悲 & ピース" が行き着く先は残酷なカオスの国
世の泰平と人々の幸せを思うなら、
為政者は、義の剣をかざし、誠の弓を携えて、戦い続ける覚悟を持たねばなりません。
そして、平和はタダではなく、幸せは当然ではなく、
「私」を捨て「公」に生きる彼らの、孤高な戦いの上に保たれていることを知りましょう。


 山名宗全方に共感を覚える人も多いかと思います。
まあ、私は西軍大好きなんですがw
しかし、『文正の政変』以降の強引なやり方は好きではありません。
もっとも、同盟関係にある者への尽力は、仁義の心からの素直なものだったとは思いますが、しかし、
最後の一手がやり過ぎた。
それじゃ、君らが追い落とした伊勢貞親と、やってること一緒だよ!と言わざるを得ん。
「ライバルを蹴落として貪欲に頂点を目指す野心の男かっこいい!」なんて憧れは、大人になったら卒業しましょう。
人は我欲に走る時、大抵、足元を見失っています。
その小さな野心に気をとられ、愚かにも天下の秩序を破壊しているのです。
―― 自分の存在が、その天下の一部であることすら忘れて

 つまり、己が為にこそ "天下の為の世" を目指すべきで、それには、
人の欲は、「智慧」(ちえ)と「節度」を身につけて、制御する必要があります。
特に為政者ならなおさら。 道義に背を向け政局に夢中になっているようでは話になりません。
政局より "政道"、小我より "大我"、小者より "大者" を理想としましょう。
人は、一人では出来る事は限られていますが、天下となれば無限の可能性を秘めた存在となるのです。
―― そういつか、宇宙の核心にさえたどり着くほどに。


 さて、このあと大乱の火蓋を切るのは東軍、つまり細川勝元・畠山政長方です。
表面だけだけ見れば、大乱を起こした張本人!となりますが、
これまでの経過を知れば、一番共感を持てる立場ではないでしょうか。(…と、思うのは私だけかなw)
 もちろん、武力で主張を通すという行為は、無条件には肯定出来るものではありませんよ。
『上御霊社の戦い』だって、原則的には畠山政長が罪を問われる側です。
しかし、他に方法があったのかと考えると…。

 畠山政長について史実を調べていて思うのは、本当にこの人は滅多な事では怒りませんw
 (かなり強力な かわいそす属性(たぶん無自覚)があるので、不憫な話題には事欠かないのですが。)
その政長が今回こんな大胆な行動に出たのは(まあ、家臣の意向もあるでしょうが)、
やはり、山名方 "超えてはならない一線" を越えてしまったからだと思うのです。
 細川勝元にしたって、好き勝手振舞う舅の宗全を常に庇い、その肩を持ち続けてきたのに、
この展開はあんまりな気がする…。
『応仁略記』や『応仁別記』(← 「義尚(よしひさ)原因説」を取っていない)においても、
宗全勝元の確執はなんか唐突な印象を受けます。(つまり、当時の人々にとっても意味不明な展開だった)
 (大名同士が扶持関係にある場合、その家臣たちの関係も深まるので、
  主君の対立は、長らく良好な付き合いのあった家臣同士の関係も引き裂くことになります。
  対立に発展すれば彼らが前線で対峙する訳で…。 運命とは斯(か)くも冷たいものなのか。)


 まあつまり、そんなすれ違いが重なって、
滅多に本気出さない勝元政長に本気出させてしまった訳です。
手段が戦闘ということになったのは、
金とコネに左右される上意のもとで道理を通そうとしたら、武士が取れる道は他にありません。
主戦場が京都となったのは、第一の目的が物質的な "領土の侵略" ではなく、名の奪還だったことを示しています。
 (まあ、このあと地方にも飛び火するのですが…。)
全員参加のオールスター戦となったのは、やはり、彼らはみな室町幕府の一部に他ならず、
共に弓矢の同じを歩む武士として、価値と世界を共有していたからです。
思いの外大乱となってしまったのは、
『嘉吉の変』後の四半世紀で、幕府が(ひずみ)を溜め過ぎてしまったせいでしょう。
そして、この大乱が長引いたのは、
それが反体制を目的とした下克上でも、ただの闇雲なぶつかり合いなのでもなく、
命より譲れぬものを持つ武士たちの、"信念" に関わる戦いだったからです。


 まあ、大乱を肯定する訳ではありませんが、
普段温厚な畠山政長や、安全圏内で巧妙に好き勝ってやる事に長けた細川勝元が、
  「そこは… 譲れねぇって言っただろうがぁああーーーー!!!」
とぶち切れて覚醒しちゃう過程は、ちょっと痛快ですw
ぎりぎりまで忍耐強く我慢するけど、超えちゃならん一線を越えたら最後、
  「だから… 容赦しねえっつっただろうがぁぁあーーーー!!!」
と、突然本気出しちゃうのは、日本の伝統気質なのでしょうか。
まあ、山名方からしたら、
 「え、何それ、聞いてないよ?? マジ切れポイントあるなら先に言ってよ!!」
って気分でしょうが。
 長禄4年(1460)河内へ下向する畠山義就や、『文正の政変』の伊勢貞親のように、
脛に傷を持つ者の紳士的な引き際の良さに比べて、
畠山政長のような清廉潔白な奴の、どうしょうもない諦めの悪さもまた好きですw

 もちろん、西軍の諸侯にも言い分はあるし、
その後の彼らは、実に応援したくなる信念を見せてくれますが、
まずは、細川勝元・成身院光宣による、痛快過激カウンターをお楽しみ下さいw
 ああ、この数ヶ月の薔薇色の日々も、
この2強謀略ファイターが描いた蒼いシナリオの上のでしかなかったとは…
やつらだけは、敵に回しちゃいけなかったなぁ…はぁ。





「応仁の乱 ― 本 戦 開 始 ― 」

 応仁元年(1467)5月26日の早朝、『室町殿』に隣接する一色義直邸が急襲され、
直前に脱出した一色義直山名宗全邸に駆け込んだのち、
屋形は炎上、武田信賢率いる細川方の手に落ちます。

『室町殿』の四足門(よつあしもん。正門)は西に面していて、室町通を挟んで一色義直邸が西隣、
その西に実相院正実坊、そして堀川を挟んで更に西に山名宗全邸、つまり、

  (西)  「山名宗全邸」――「実相院・正実坊」――「一色義直邸」――『室町殿』  (東)

という風に、東西に一直線上に位置していました。
細川方はまず、実相院と正実坊を占拠して、山名邸一色邸を分断、
そして一気に一色邸を落として『室町殿』へと続く道を確保したのです。

さて、『室町殿』は公方の直轄軍の奉公衆が警固しているし、
もちろん、細川方も軍事的に制圧するつもりはありません。
目的はあくまで「上意の奪還」上意を味方に付けるのに、武力で恫喝なんて野蛮な手段は使いません。
ではどうやって、山名宗全圧倒的優勢の幕府でそれを可能にするのか?ですが…
…と、その前に、本戦が派手に開幕した『応仁の乱』が、まだ戦闘真っ最中ですので、そちらを先に。


 5月26日早朝に始まった戦いは、翌27日の夕刻まで続きます。
戦況は、「未だ雌雄を知らず」(『後知足院記』…近衛房嗣(政家の父)の日記)とあって、
最終決着こそつかなかったものの、
成身院光宣院細川の計略」(『大乗院日記目録』)による先制パンチは、山名方の顔面にめり込んだようで、
「いささか細川が利を得る、山名要害大略焼け落ちる」(『後法興院記』)という山名方超ブルーな状況でした。

 しかし、山名方もコテンパン一辺倒だった訳ではありません。
山名宗全に垣屋、畠山義就に甲斐庄、斯波義廉に朝倉孝景と、鬼神三兄弟みたいなのがいますから、
彼らが反撃してきたら、細川方も「逃げるか負けるかちびるか」の三択です。
 あっちでは垣屋朝倉が、こっちでは朝倉甲斐庄が合流して、京極持清勢赤松政則勢を撃破、
そのまま細川成之邸になだれ込んで始まった矢戦(やいくさ)は、収拾がつかなくなりました。(『経覚私要鈔』)
特に、一条大宮周辺での戦いはとんでもない激戦となります。

 ここは、「一条戻り橋」の西に細川勝久(備中守護家)、東に細川成之(阿波守護家)の屋形があって、
その少し北に山名宗全邸が位置する重要拠点。
 『応仁別記』『三巻本応仁記』によると、
山名方に責められる細川勝久邸の援護に向かった京極持清勢が、東から「一条戻り橋」の西岸へ渡り、
「うーん、フォーメーションどうする?」とかやってたところに、
いきなりオーバークロック状態の朝倉孝景(※俗に言う、OC孝景)が襲い掛かって来たかと思ったら、
馬から飛び降りざまに敵を五、六人切り伏せる、
とかいう縮み上がる暴挙に出た為(※俗に言う『飛び下馬(とびげば)事件』)、
慌てふためいた京極勢は、橋を渡って東岸に引き返そうとしたのですが、
橋が狭く、川に落下する者多発で阿鼻叫喚…という、とんだ世紀末を体験する羽目に。
 しかし、コテンパン続きで落ち込んでいた山名宗全はこの武勇に大喜び、
具足(ぐそく。甲冑(かっちゅう)、鎧と兜)と太刀を贈って称え、
畠山義就も、
 「馬上から飛びかかって刀ぶん回すとか聞いたことねぇよ! 孝景まじパネぇwww」
と、通常の3倍の周波数を見せつけたOC孝景武勇伝を、後々まで語っていたそうです。


 さて、そんな訳で、2日間にわたる "『応仁の乱』オールスターで開幕戦 " によって、
一色邸から一条戻り橋近辺は、山名邸こそ落とされなかったものの、
焼亡した建物は数知れず、あちこちに世紀末が露出していました。

5月28日、義政は双方に使者を遣わせて、停戦を命じます。
まあ、公方としては当然の対応です。
開戦初日には既に、畠山義就御内書を下して、
 「た、大変なことになった、頼むからひとまず分国下向して、しばらく我慢してて!」 (『畠山家文書』)
と、事態の収束に乗り出していますが、
 (…ってゆーか、義就を復帰させたことが細川方マジ切れさせたの、自覚あったんだ。)
しかし、残念ながら細川方の作戦は始まったばかり、フッフッフッフッフ…
正月以降、山名方に奪われっぱなしだった上意を、『室町殿』ごと蒼く染め直すのはこれからなのです。


 既に5月26日の時点で、義政細川勝元と同心しているという噂が流れていましたが、
6月1日には、御所に祗候する細川勝元は、義政に対し、
義視を大将として山名宗全を退治すべく、"治罰の綸旨" と将軍家の "御旗"(みはた)を下されるよう、要請します。
 (※御旗…これを掲げることが官軍の証となり、相手は賊軍の烙印を押され超不利に。 いわゆる牙旗(がき)。)
これに大反対したのは日野勝光と御台の日野富子
そりゃそうですよね、山名方とあからさまに内通してるんだから。
「これは将軍家に対する反乱ではない、細川と山名の私闘だ!」とかぬかして、なんとか阻止しようとしますが、
んなもん相手にしてられない細川勝元は、
 「ああ? うっせーな、よろしいならば報復だ…焼き払え!!」
と、日野邸に照準を合わせたミサイルを配備し出したので、
びびった日野勝光は、自邸にを構えて引き篭もるしかありませんでした。
 (まあ、すぐに義政によって御所に召し返されるのですが。
  にしても、今まで散々上意を利用して大名間の抗争を煽っておいて、「私闘」とはどの口が言うか!)

 まあ、公方としては、一方に肩入れせずに中立を保ち、
調停者として超越的な立場でいることが理想なのでしょうが、
しかし、そもそもこれは、正義に基づかない贔屓勘当を繰り返してきた結果の、大名同士武力衝突
これまで部下である大名たちに対して、信念誠意もなく接してきたツケが回ってきた訳で、
第三者を装い続ける事は、どのみち不可能だったのです。

6月3日、遂に細川勝元御旗が授けられます。
6月8日には、大将となった義視の鎧始(よろいはじめ)の儀式が執り行われ、
『室町殿』の四足門には御旗が掲げられました。


―― ここに、「官軍 細川勝元」そして「賊軍 山名宗全」が、天が下(あめがした)に明らかとなったのです。



「蒼のシナリオ、種明かし」

…それにしても、
つい先日まで、義政寵臣もろとも山名宗全引汲(いんぎゅう。支援、擁護すること)していたのに、
この華麗なまでの形勢逆転は一体…
話術だけで義政を丸め込んだのか、それとも、なんかイリュージョンでも使ったのでしょうか?
まあ、勝元ならそのくらいの魔力はありそうですが、
どうやらこれは、もう一人の "重要人物" の動きと関連があるようです。

 実は、5月29日、
『文正の政変』で没落した伊勢貞親が、逼塞(ひっそく)していた伊勢国から上洛していたのです。
ただし、義視を憚って『室町殿』には出仕せず、花頂山(京都市東山区)に陣を敷いて留まったのですが。

……。
さらっと流してしまいましたけど、やつが帰って来てしまいました。
って、うええぇぇーーー!!? そ、そんなww
ああもうっ! なんでまた事態がこんがらかりそうなことするんだよ!
まあ、仕方ありません。 今回オールスターですから。


 さて、問題は「誰が呼び戻したのか」ということですが、
『経覚私要鈔』には、「義政が召し返した」とあり、普通に考えればまあそうなのですが、
『応仁略記』にちょっと気になる記述があるのです。
それによると、伊勢貞親の上洛は義政の許可があったのではなく、「細川勝元の計略によるもの」だと。
…うーん、私も初めは「んなことあるかよ!」と思ったのですが、
それが事実だと仮定すると、色々と辻褄が合うのです。
 確かに『文正の政変』では、伊勢貞親と激しく争っていたのは山名宗全斯波義廉であり、
細川勝元は、あくまで宗全の援護という立場だっただけで、
伊勢貞親自身にはそんなに宿意はなかったのかも、とも考えられます。
実際、山名宗全との対立が決定的となってから、
細川勝元は、『文正の政変』での貞親与党である赤松政則斯波義敏を、味方に取り込んでいるのです。
山名宗全・斯波義廉・畠山義就に対抗するのに、これほど適した男もいないでしょう。
 つまり、
貞親の失脚は、もとはと言えば宗全たちの悪巧みのせい! もはや公方への謀反も同然!」的なことを
義政に説いて、
貞親を味方に付けることで、宗全退治御旗を見事に手中に収めたのではないかと。
…ってゆーか、そう考えないと、
あれだけ贔屓していた山名方を、いきなり "公方の御敵" 認定するなんて、
いくら義政が定見の無い公方だとしても、あまりに意味が不明過ぎます。
 (まあ、「事態を収拾するには宗全を退治するしかない!」と勝元強く迫られれば、
  義政なら大した理由もなく手の平を返すだろう、とも考えらますが。)

ここが、"『応仁の乱』最大級の謎 " とも言える部分だと思うのですが、どうでしょうか?

私たちは、「勝元が御旗を手にした」という "結果" から、当たり前のように、
 「細川勝元は幕府軍で正しいほう! 山名宗全は反乱軍で悪いほう!」
という印象を持ってしまいますが、
実は、山名方は公方に反抗した訳でも、敵対する意思があった訳でもなく、
それどころか、『応仁の乱』の本戦開始 "直後" までは、公方をがっちり味方につけていたのです。
にも拘わらず、たった数日で無実の賊軍に仕立て上げてしまうとは…
しかも、5月26日に先制攻撃を仕掛けたのは細川方ですよ。
本来ならその罪を問われる側なのに、官軍として正当性すら手に入れてしまうのです。


 お、恐るべし、謀略ファイター。 敵に回しちゃいけない男。
…と言っても、このシナリオ書いたのは、実は南都のドラクエ僧侶
 (尋尊によると、ほとんど成身院光宣の計略らしいw)
つまり、やつとパーティ組んでパワーアップしたが為に、不可能が可能になってしまったのであって、
もしかしたら全く逆の展開…つまり山名官軍細川賊軍の可能性もあったのかと思うと、
もう訳が分からなくなってくるw
 (公方がまともな時代だったら、洛中戦闘開始したなんて、本当なら切腹ものなのです。
  もちろん、今回は上意に問題があった事は、義政自身も気付いているようですが、
  細川方がこの作戦を実行に移したのは、当然勝算があったから、つまり、
  "罪に問われない自信" があったからですが、そう考えると…ますます恐ろしいw
  初めから山名方の罪にすり替える算段がついていたってことですよ。 どこまで先を読んでいたのだww
  凡人の発想だと、「山名方を挑発して向こうが先制攻撃に出るように仕向け、まんまと行動に出たところで、
  その非を追及して山名退治大義名分を得る」…という戦略しか思い付きませんが、
  この2強ファイターは、自分から攻撃を仕掛けた上に、相手を誅罰対象にしてしまう、という、
  普通に考えて2%の可能性も見出せない作戦を堂々と実行して、可能にしてしまったのです。)


 (…えっと、なんか意味分からないと言う方の為に、もう少し砕いて説明しますと、
  細川・成身院光宣の計略の最大のポイントは「御旗を手に入れる事」。
  それさえあれば山名退治なんてチョロい! 武力より "権威" でスマートに勝敗を決しようと言う計画です。
   (実際、純粋に武力だけで勝負すれば、細川方に勝ち目は無かったと思われます。
    つまり、もともと武力で勝敗を決するつもりは無かったのです。)
  さて御旗を手に入れるにはどうするか。
  「細川対山名の対戦を開始する」と同時に、「細川方が正義であると公方に思わせる」必要があります。
  しかし本来、御旗を掲げた戦ってのは相当な大ごとですから、
  ちょっと小競り合いしただけじゃ、ただの私闘と片付けられてしまいます。
  だから、一発目の花火は世間の度肝を抜くど派手なやつじゃなきゃいけない。
  「ななななんかすっげー大変な事になった!!」と人々に思わせ、
  そして、すかさずしれっと、
     あーこれはやばいわーどうすんのこれホント、とんでもねぇ事になってるで (←逆ギレ)
     山名はマジ悪い奴だわー平和の敵だわーぶっ潰すしかないわーこれ (←理論の飛躍)
     俺ら正義だわー (←マッチポンプ)
  と、一芝居打った訳です。
  こんな開き直り、普通の人じゃまず思い付かない。(ってか恥ずかしくて出来ない。)
  正に、華麗なる蒼の逆ギレマッチポンプファイターズ
  武力で正面衝突すれば確実に負けるだろう細川方が、山名方に戦を仕掛けたのは、
  決して "戦う為" ではなく、
  「御旗を手に入れるまでの数日間だけどうにか持ち堪えれば勝ち」という読みだったからに過ぎません。
  そして、「細川方が正義だったから御旗を授かった」のではなく、
  「正義となる為に、御旗を手に入れる "計略" を立てた」というのが真相なのです。
  …って、なんちゅううず巻きまくりぐるぐる陰謀ファイターズwww
  ま、でも、これが私欲のための企みだったら腹黒すぎるけど、
  「ちょっと調子に乗り過ぎた山名方へのしっぺ返しである」という点は、しっかり考慮したいと思いますw )


とにかく、『応仁の乱』ってのは決して、

      「どっちが正義で、どっちが」という訳ではない

ってことを押さえておくと、この先、迷宮で迷子にならなくて済むと思います。
 (東軍・西軍で割り切れない問題や、東軍 vs 東軍、東軍のようで西軍、とか色々あるよw)
まあそれにしても、このタブー無き謀略のフルコースには感服するばかりですが、
伊勢貞親が戻って来たって事は…… 義視の立場はどうなるんだよ!!



 さあ、そんな訳で、幕府軍となった細川方『室町殿』を本陣としたので東軍
対する山名宗全邸はその西に位置していたことから、西軍と呼ばれることになります。
 (他には、「東方・西方」「東衆・西衆」「東陣・西陣」…などの呼び方が当時の日記に見えますが、
  まあ、「東軍・西軍」に統一します。)

 ちなみに、今も京都の地名に残る「西陣」「西陣織」発祥の地でもありますが、
この名は、西軍の本陣が置かれたことに由来するのです。
 西軍の本陣とはすなわち、大将である山名宗全の屋形ですが、
山名宗全邸跡と、それからその少し南の京都市考古資料館前には『西陣』の大きな石碑が立っていますから、
さらに少し南の一条戻り橋(※西岸が朝倉孝景出没地)と合わせて、
"彼らがやらかした史跡" めぐりを是非お楽しみ下さい。 京都探検が捗るね!

『応仁の乱』西軍史跡めぐり

  (※すみません、『飛び下馬伝説』などと言う伝説は私が勝手に命名したものなので、
   間違って、道行く人に尋ねたりはしないようお願いします。 恥ずかしい思いをしてしまいます。)



 でもまあ、ここまでくれば、細川勝元・成身院光宣のシナリオも8割方遂行されたと言っていいでしょうね。
上意の後ろ盾さえあれば、畠山政長の家督は保証されるでしょうし、
正月の『上御霊社の戦い』での雪辱も晴らし、幕府内では山名宗全を凌ぐ優勢を勝ち取り、
あとは御旗のもとに、西軍諸侯に降参を促すか、
或いは、(御旗パワーで)相対的に優位となった軍事力で制圧するか、
いずれにしても、東軍主導で事を運べる訳ですから、
残されたミッション「西軍の解体、自然消滅」は、さほど困難な仕事でもないでしょう。
…たぶん。
うん、たぶん…。
と言うのも、ちょっと強引なシナリオ書いちゃったせいで、
新たな問題が浮上してきてしまったような…。
斯波義敏とか、どうすんだよマジで。 赤松もめっちゃやる気出してるようだけど、播磨国のこと。
ってか、いままで腐った側近政治に翻弄されてきた武士たちが、
  「そうだ! (いくさ)があるじゃないか!」
とかいって、なんか目覚めちゃった予感。
それより何より、畠山政長が返り咲いたということは、もしかして…
ええ、その通り。
生贄ルーレットやり直しです。 次に不憫を背負わされるのは…ドゥルルルルル ―――

      斯 波 義 廉 です !!

って、がーんww 斯波義廉 & 朝倉孝景好きとしては超ピンチww
政長が救われたのは嬉しいけど、何で次が義廉なんだよ!
不憫耐性ありそうな畠山義就とか、割とどうでもいい斯波義敏とか、他にもいるじゃん!
あー納得いかん! 納得いかん!



「応仁の乱、収束に向けて…のはずが、あ、あれ??」

 6月8日、鎧始を終えた総大将足利義視の指揮のもと、東軍による総攻撃が開始される予定でしたが、
西軍からの申入れがあって、延引されます。
義政が西軍諸侯に下した御内書(おそらく東軍への帰順か、山名宗全退治を命じたもの)によって、
状況は一層、西軍にとって気まずいものになっていたからです。

この間にも、洛中では毎日どっかしらで戦闘が続いていて、
諸国から集まった軍勢は「数知れず」という状態でしたが、
8日以降、西軍の斯波義廉土岐成頼六角高頼は自邸に引き篭もり、
降参か?」「それとも山名宗全への援軍準備か!?」といった噂が飛び交いました。

土岐成頼(とき しげより)は美濃国(岐阜県南部)の守護ですが、
守護代である斎藤家持是院妙椿(じぜいん みょうちん)が、公方の直臣であるため、
上洛した美濃勢は待機したまま動きがとれず、土岐成頼も進退を明確に出来なかったのです。


 ( みょうちんキターーー!! お待たせしました。美濃国のラスボス、持是院妙椿です。
  一般的には「斎藤妙椿」の名で知られていますが、妙椿は出家僧なので、本来は名字は名乗りません。
   (※在家のままで仏道に入る "入道" なら、山名宗全、朝倉英林などのように「名字+法名」でOKです。)
  …って、なんで完全な僧侶なのにやってんだよ! またドラクエ僧侶かよ!
  いえ、妙椿パーティ組むって言うより、ラスボスなので、敢えて言うとパーティ組まれる側ですね。
  しかも、倒される側って言うより、叩き潰す側…じゃなかった、頼られる側です。
  公方の直臣なので、本来は東軍として活動すべきなのですが、どう見ても西軍のラスボスで、
  西軍猛獣たちをして「妙椿の言うことしか聞きませーん!」と言わしめる程の人気者です。
  さらに、文化的教養も高く、公家への経済的援助も惜しみなく、
  を贈られると、落とした城の一つや二つぽんっと返しちゃう、ロックな精神の持ち主でもあります。
  こんなに優しくてお茶目な妙椿なのに、ちょっと上洛の噂が流れただけで、
  京中の人々がこの世の終わりを覚悟するという、意外な一面もあります。
  慎ましく美濃国守護代業務に精勤していて、下克上なんて企んだこと一度も無いのに、
  なぜか主君の土岐成頼の影は薄まり過ぎだし、気付けば近江国とか尾張国とかの軍勢まで率いちゃってるし、
  悩みは尽きません。 『応仁の乱』では、陰ながら京都周辺諸国の面倒を見ていましたが、
  関東の古河公方とか堀越公方にまで頼りにされてて、
  え、何それ、もう日本のラスボスじゃん! とかいう、そんな存在。 それが持是院妙椿。)


 さて、「土岐成頼六角高頼降参を表明した」とか、
「いや、配下に妙椿問題を抱える土岐成頼の降参は計略の内だ」、などと情報が錯綜する中、
問題の斯波義廉に突きつけられた上意は…

 「義廉だけは、降参しても御所には入れない。 許して欲しいなら…朝倉孝景の首持って来い!」
                              (『大乗院寺社雑事記』応仁元年6月13日)
って、さっそく不憫炸裂! しかも、孝景名指しww
んなこと出来るかぼけぇぇーーー!!
…いや別に、朝倉孝景がかわいそ〜!とかそういうんじゃなくて。
この人の首は、人間じゃ取るの不可能ですよ。 万一取れても、首取ったくらいじゃ、くたばりませんよ。
そんなことより、ただでさえ厄介なハイエンド孝景が、
細川方先制攻撃のせいで、OC状態で動作中ですから、もうあちこちで被害者続出です。

 6月  8日、京極持清の被官、襲われる。(『後知足院記』)
 6月11日、細川成之邸に押寄せ、中の人追散らされる、家焼ける。(『大乗院寺社雑事記』『経覚私要鈔』)
 6月13日、また京極方やられる。(『宗賢卿記』)
      在々所々乱入。(『大乗院寺社雑事記』)
 6月14日、武田信賢、うっかり朝倉孝景が待ち受ける二条周辺に進撃して地獄を見る。(『経覚私要鈔』)

べ、別に孝景は悪くないんだからねっ! やられたから、ちょっとやり返してるだけなんだからねっ!
 (でも、蚊に刺された報復にPAC3配備するのは、どうかと思う。)
どうやら、完璧と思われた蒼のシナリオにも、不備があったようです。
誰もが怯むはずの "御旗を掲げた山名宗全退治" の名目の前に、全く動じないやつがいようとは。
みんながびびって引き篭もり出した6月8日さえ、
ただ一人、山名宗全のもとに居残って(『経覚私要鈔』)、天が下に揺るぎない決意を示しています。
突き進む道は、ただ一つ! 二言の口など、武士には要らぬ!
…やばい、起こしちゃいけないに、火つけちゃったかも。

 もちろん、元気なのは朝倉孝景だけじゃありませんよ。
両軍それぞれやっちまってますし、
6月13日には、細川勝元・成之京極持清赤松政則の連合軍が、山名宗全邸に総攻撃をしかけています。
何より6月以降、諸国からの援軍…特に西軍が遅れを取り戻すべく、かき集め始めた軍勢が、
事態の収束どころではない雰囲気を演出してしまっている現状に、
「乗らなきゃそんそん!」みたいなウェーブが、派手にうねり始めていたのです。


―― そしてまた、西の "あいつ" が、この乗るしかないウェーブを、見過ごせるはずなどなかったのです。




 そんな訳で、超有利かと思われた東軍も、微妙に蒼ざめて来ました。
しかしまあ、戦況はやや押され気味とはいえ、何よりこっちは『室町殿』を正当に占拠している!
恐るるに足りぬわ! フハハハハッ…
…と余裕かましたいところですが、
その『室町殿』自体が、魔物に巣くわれていたようなのです。

 6月11日、「御所放火の計略」が露見し、山名方内通していた近習・女中が悉く御所を追放される。
      また、山名方引汲の奉行人、飯尾為数父子、誅される。

…これが、"山名贔屓" から一転、"宗全退治の御旗" を掲げた幕府軍の内部の現状でした。
結局、仮面を付け替えただけで、中身は "山名贔屓" のまま何も変わっていなかったのです。
義政の命(めい)を信じて、総大将として賊軍山名誅伐に向け一途に邁進せんとする義視にとっては、
信じ難い現実だったことでしょう。
 幕府内に渦巻く、の "偽りの顔" を使い分ける人々の心を目の当たりにして、
ここへ来てようやく、「嘘」に気付き始めた義視は、
  「近日、上意厳密、恐るべし」
      (※この「上意」は、義視のもの。) (『大乗院寺社雑事記』応仁元年6月13日)
と言われるほどに、厳しく内通者を取り締まったのですが、
長い間、腐りきった政道を当然としてきた幕府内を浄化するには、
増殖し続けた魑魅魍魎が、あまりにも多過ぎて、
既に、一人で立ち向かって勝てるようなものでは、なくなっていたのです。



 もちろん、この現状は細川勝元にとっても大きな懸念に他なりません。(奉行人の処罰は、細川の沙汰。)
いつまた覆るかも知れぬ "山名贔屓" 上意が、かろうじて味方でる今のうちに、
一刻も早く、片を付けなければ!
この抗争に最短距離で決着をつけるための、一点突破の最重要ミッション、それは―――

      「斯波義廉邸、撃砕(げきさい)」


 細川勝元には、仮面をかぶる上意の他に、もう一つの差し迫った不安材料がありました。
  「やつが、もうすぐやつが来てしまう…」
"あいつ" が来てしまったら最後、東軍なんて全軍事力を結集したところで、
おおいぬ座VY星を前にした地球のような、まな板の鯉(こい)でしかなくなります。ぴちぴち。
しかも、細川勝元が唯一恐れをなす天敵
 (ああ、あのブーメラン、めっさ痛かったなぁ…)
やつが京着したら、今度こそあっさりと捕食されてしまいます。
何としても、何としても、やつが来る前に斯波義廉邸を落とし、早々に店じまいしてしまわねば!
そして、到着しようものなら、
 「残念でした〜! またの御参加を心よりお待ちしておりますーぴろろ〜ん」
とか言って帰ってもらわねば!

既に6月9日には計画され始めていた「斯波義廉邸 襲撃作戦」、本格始動です。
 6月25日、赤松政則が押寄せて火を放つ。しかし勝敗はつかず。(『後法興院記』『後知足院記』)
 6月26日、連日の攻撃。一ヶ所のみ落とされる。(『後法興院記』)
 7月  3日、細川の被官200〜300の武装兵士が、斯波邸の東北の角を攻める。
       なぜか、非武装状態で逃げ帰る。(『経覚私要鈔』)
 7月11日、京極持清、武田信賢、赤松政則の連合軍が総攻撃をかける。
       なぜか、名ある武士6〜7人を討ち取られて退散する。(『経覚私要鈔』)
 7月23日、大合戦あり。さらに3日間、夜襲が続く。(『後法興院記』)
  (…そして)
 8月20日、数多の軍勢で斯波邸を包囲するも、「やつが来た」という知らせに諦めて撤収する。(『宗賢卿記』)
  (…てゆうか、まだ落とせてなかったんだ。)

な、なんという集中攻撃
いくらなんでも、酷いと思いまーす! 義廉ばっかりボコボコにして、可哀相だと思いまーす!!
…いや、どっちがだよ。 総力結して頑張ってんのに、なんで落ちてくれないんだよ、頼むよ、
とかいう声も聞こえて来ますが。 まあ、いっか。
 しかし、山上にそびえ立つ巨大な城塞ってんならともかく、
せいぜい、(やぐら)を構えただけの、京都の街中にある単なるお屋敷ですよ。
なんでこんなにイライラする程てこずるのかって…それはもちろん、あの人がいるから。

 7月11日の総攻撃失敗も、中からOC孝景が出てきちゃったせいだそうです。
7月3日の怪現象は、細川方の兵が、具足を脱いでちょっとコーヒーでも…みたいに油断してたところを、
OC孝景に見つかってしまったのです。
ピコーン!といたずらを思い付いた朝倉孝景、たった50の兵を連れて突っ込みます。
腰を抜かすほど驚いた彼らは、具足を着ける暇もなく逃げ去り、
孝景は、一人の兵も傷つけることなく、大量の武具を手に入れたのでした。(※もちろん実話です。)
 孝景さん超優しいw 超平和主義ww 我らのハートフルえーりん様ww
こんなにも愛に溢れたお持て成しをしてるのに、3日の連続夜襲なんて酷いと思いますっ!
しかも、この7月下旬の東軍の総攻撃は、本当に袋叩きレベルのものだったらしく(『応仁私記』)、
双方に多大な損害を出した上に、落城寸前まで迫ったそうですが、
しかしそれでも斯波邸が死守されたのは、OC孝景が定格の3倍の周波数で動作中だった…だけではなく、
実は義廉の家臣には、孝景に優るとも劣らない勇猛な武将達が揃っていたからなんです。

 義廉は、畠山政長とともに「室町不憫界」の双璧をなすとはいえ、
こんなにも命を惜しまず働く部下に恵まれて、主君としては結構幸せだったような気がします。
もしこれが斯波義敏だったら…
斯波邸も、2秒で無血開城していたに違いないw
  斯波被官「どーぞどーぞ、お入りください。 そしてご自由にお持ち下さい」
    東軍「え…、え?」
  斯波被官「えっ??」


まあそんな訳で、結局、東軍斯波邸撃砕を果たせぬまま、"その日" を迎えることになってしまったのでした。

 次回、『西からやって来た "あいつ"』 続きは次ページで!  勝元「いやああぁぁぁーーーーーー!!!」







 さて、そんな訳で『応仁の乱』が開始した応仁元年(1467)約半年を見てきた訳ですが、
どうでしょうか?
案外、言うほど謎なこともないと思いませんか?
しかも、なんかとんでもなく個性に溢れた人たちが多いことに気付いてもらえたと思います。
 それに、以上の解説は、軍記物を小説風に書き起こした「物語」ではなく、
あくまで一次史料をもとにした「考察」です。
 (※軍記のエピソードについては、その都度、出典を明記しています。)
歴史小説の中に形作られた英雄だけはなく、現実の歴史の中にも魅力に溢れた英雄はたくさんいて、
当時の日記を丹念に読み解けば見えてくる彼らの信念は紛れもなく、実在した本物の武士の心なのです。

 小説から得られる "快楽" もいいものだけど、
過去の真実から得られる "感動" は、私たちの明日の現実を勇気付けてくれます。
 という訳で是非、みなさんも日記『大日本史料』に直接触れてみて下さい。
そうして、歴史現実重なって存在する京都の街中を歩いてみたら、
きっと小説以上に不思議な世界を、探検出来ると思います。



「紐解けばそこに、武士の道」

 では、ここまでのポイントを整理しておきます。
斯波義廉に対する異様に厳しい上意は、まあ、朝倉孝景が暴れ過ぎのせいもあるかも知れませんが、
義廉の屋形への、東軍による徹底的な総力戦を合わせ考えると、
やはり、斯波義廉自身が標的になっているような気がします。
 ただし、義廉邸は、上京下京を結ぶ地(現在の地下鉄丸太町の北西、平安女学院がある辺り)にあり、
『応仁私記』によると、義廉邸攻略は「御所の要地だから」とあって、
地理的な意味で攻め落とす必要があっただけ、とも考えられますが、
…うーん、それにしては攻撃があまりに執拗なので、
私としては、細川勝元から伊勢貞親に何か約束があったのではないかと推測しています。
 (※『応仁私記』は、東軍として『応仁の乱』に参戦した長井家房や安藤彦四郎などからの聞書
  聞書(ききがき)とは、実際にその人から聞いた話を書き留めたもので、軍記物とは少し性質が違います。)

 なんにしても、義廉攻撃され過ぎですよね?w
なんなの? なんでそんなに義廉嫌うの?
鎌倉府の『享徳の乱』だって、斯波義敏勘当されて、ようやく甲斐朝倉が関東に出陣出来たんだよ?
斯波の家督義敏に戻しちゃったら、
斯波勢での関東対策」なんて、ますます不可能になるじゃん!
…うーん、
伊勢貞親が完全にハニトラ(※)に引っかかっただけ…とは思いたくないんですがw
 (※…斯波義敏の嫁と、伊勢貞親の新妻が姉妹。しかも魔女。)
敢えて推測すると、守護(斯波義廉)と部下(朝倉孝景)が上手く行ってると、
こちらの思惑(おもわく)通りにコントロール出来ない、幕府の手駒になる斯波義敏のが都合が良い、
って、ところでしょうか。
 確かに、義廉孝景は、義就方の大和国人の古市胤栄(ふるいち いんえい)とも、
独自にかなり関係を深めていましたから、
この主従に楔(くさび)を打ち込むのは、戦略的にはありでしょうね。 しかし、「首持って来い」はないだろw


 義敏とは全く以って上手く行かなかった斯波の被官たちですが、
義廉との主従関係については、『文正の政変』直後に記された『文正記』にこんなエピソードがあります。
 いよいよ義廉家督剥奪の危機が迫った文正元年(1466)7月末、
義廉の母(山名家出身)は、まず渋川家譜代の家臣板倉たちを呼んで酒を勧めて、
 「上意は義敏を贔屓していて、必ず戦になるだろうから、その時は最前に出て討ち死にするように」
と言い、次に、斯波家被官である甲斐たちを呼んで同様に酒を進め、
 「上意は必ず討手を下すだろうから、日来の志(主従関係)はここまで、
  以後の身の振り方は、それぞれの思うところに従いなさい」
と伝えます。
 ここで凄いのは、義廉の母が、「渋川家譜代の家臣」と「斯波家被官」との違いを、
明確に捉えていたと言うことです。
代々 "家" として私的に繋がる板倉家の武士にとっては、主家の渋川家のために討ち死にすることこそが栄誉
その心を義廉の母は十分に承知していて、
一方で、義廉渋川家から斯波家に養子に入ったことで主従関係となった、甲斐・朝倉以下の被官に対しては、
その進退を束縛せず、新たな主君に仕える自由を尊重したのです。
 普通、我が子が命の危険にさらされるとなったら、母親なら動揺して、
全ての部下に対して、「何が何でも戦い抜け!」とか、なり振り構わず命令してしまいそうですが、
な、なんという武士以上の武士
『文正記』の言葉を借りれば、「女丈夫とは、まさにこのこと」!!

 『文正記』の性格からして、この逸話はほぼ事実だと思って差し支えありませんが、
実は、残る記録が少ないながらも、こういうすごい毅然としててかっこいい武家の女性って実在したのです。
室町時代に関しては、日野家の御台(※)が有名なため、女性のイメージが残念なことになっていますが、
実は、知られざる素敵な女性もいますので、そっちをもっとみんなに知ってもらって、
室町イメージ向上に努めたいと思いますw
 (※…足利家の御台(=妻)では、6代目義教三条尹子は内助の功の良妻だったと思いますが、
  日野家の御台は…うーんw
  私は基本的に、悪評の多い人物も、一旦先入観を捨てて公正に判断するように心掛けているのですが、
   (その悪評がデマであることが、往々にしてあるので)
  しかし日野家出身の御台については…
  浪費とか莫大な蓄財とか悪女とか誹謗中傷攻撃とか、さらには―――
  …とまあ、これまで以上に気の滅入る "事実" を知ってしまいました orz
  まあ、当時の人たちも噂好きなので、多少大袈裟に書かれている部分もあるでしょうが…それでも、うーん。
  でも、心配は要らない!
  室町悪女イメージを打ち消してくれる人物がいますから! )


 それから、上記の逸話から分かるように、
主君の母(大方殿)というのは、その家臣に対して非常に大きな影響力を持ちます。(←ここ、ポイント)
だから、こんな女丈夫なら大歓迎だけど、その逆だと…もごもご……
 あと、(ってか、これが本題ですがw)、
この義廉の母の申し出に対し、斯波家の被官を代表して甲斐左京亮が進み出てこう答えます。
  「いずれも二心あるべからず」   (※いずれも…みな、全員)
つまり、被官一同、義廉への忠誠を誓ったのでした。
なんていい話ww 涙出る君臣関係ww  おい、貞親! いい加減、斯波義敏プッシュすんのやめたまえ!





 さて、そんな訳で、ちょっと色々とややこしいことになって参りました。
恐らく、細川方のシナリオとしては、
"御旗" を手に入れ、相手が怯んだところで一気に急所(西軍の本陣の山名邸や、斯波邸)を突いて、
早々に幕を閉じる算段だったと思われます。
 というのも、西の "あの人" は5月上旬から、
つまり、『応仁の乱』本戦開始の5月26日以前から上洛の計画を整えていて、
細川方の計略は、時間との戦いでもあったのです。
 (それに、洛中での戦闘ですから、(優位な立場になったとは言え)長引かせる予定は無かったと思われます。
  "御旗" を手にするために、一撃目「インパクト」が必要だっただけで、
  被害は、最小限に留めるつもりだったはずです。)

 しかし、山名方戦闘魂は、
予想外にも(いや案の定?)「待ってました!」と言わんばかりのエキサイト振りを見せて来たため、
釣られて、こっちもなんか熱くなってきちゃった、てへ。
…というのは冗談としても、
とにかく、騒乱は収まるどころか、洛中リミッター解除されてしまった訳です。
 ただし、この先の「乱の経過」を見ても分かるように、
完全にルールを無視した(武士の道義を捨て去った)戦いではなかったもの事実です。
確かに、焼亡した範囲はとんでもないものですが、
 (敵による占拠を恐れて自ら自邸を焼いたり、
  敵が布陣する寺で、僧が相手方に内通して寺に火をかけたり、
  とか、もうハチャメチャw)
しかし、この狭い範囲で戦いながら、「主要大名で戦死した者がいない」というのは、かなりな謎の一つ。
 (つまり、皆殺し、焼き殺し、という鬼畜外道な戦いではないのです。)

 そして何より、多くの公家僧侶が地方に疎開する中、
当時の日本の三君主、「主上・上皇・室町殿」が京都を離れることはなかったのです。
 ってことは、洛中での生活を支える物流産業が完全に途絶えた訳でもないし、
京都全域焦土と化した訳でもないのであって、
ますます謎が深まる訳ですが、ポイントは、


  『応仁の乱』というものは、「目的のある戦い」だった


という事でしょうか。
…と言っても、現在この大乱に対して一般的には、

 「『応仁の乱』とは、将軍家及び大名家の家督争いと、山名宗全と細川勝元の権力抗争とが、
  複雑に絡み合った結果勃発した武力衝突で、
  明確な原因に乏しく、当事者達も目的を見出せないまま、
  終わりのない戦いを無意味に続けるしかなかった、史上最も不毛な大乱である」

といった解釈がされているので、大いに意外に思われるでしょうが、
実は、一次史料を丹念に分析すると、
彼らは11年に及ぶ大乱の最後に至るまで、「確かな目的と意志」を持ち続けていた、という事実が判明するのです。
 (ただしそれは、この後の展開により、途中で大きく変化するのですがw
  詳しくは…この後に続く解説で。)

 しかもその目的とは、
単なる権力への私的な欲望や、もちろん将軍家の打倒などでもなく、
「道義」の為だとか、「主君」の為だとか、
およそ、"武士らしい目的" なのです。

 (※ちなみに、これまで述べてきたように、
  「乱開始時点」では、将軍家の家督問題は(少なくとも表面的には)存在しませんし、
  山名宗全細川勝元は、長らく幕府での主導権争いを続けて来た宿怨の関係…などでは決してなく、
  むしろ決裂したのが信じられない、という家臣ぐるみの良好な関係にありました。
  つまり、現在の一般的な通説は、ほとんど…ってか全然事実を反映していない、と言うことに…
  なんてこったww)


 『応仁の乱』が、無意味だとか不可解だとか言われるのは、
その獲物が(現代人にとっては)目に見えないものだから、というだけの事に他なりません。
 (それ故、史料に多くのヒントが示されているにも拘わらず、今日まで見逃され続けてしまったのです。)
『応仁の乱』を理解するには、
"当事者達の目線" で世界を見る必要があります。
彼らには信じる目的があり、その戦いには確かに、武家の心が存在しました。
(このあと結局)諸大名から地方の国人まで、"ほぼ天下まるごと参加" となりながらも、
一方的な相手の殲滅や、国家体制の否定を目的とはせず、
誰も、京都という都(みやこ)を独占しようとは思わなかった事実からも、
彼らは、何かが欲しくて戦っていたのではなく、何かを貫き通したくて戦っていたと言い得ます。

 どうしても "許せないもの" があると、つい本気を出し過ぎてしまう、
ある意味、史上最も「武士らしい大乱」だったのかも知れません。



…とは言えもちろん、けしからんもんはけしからんですよ。
起こってしまった悲しい乱を、せめて正しく理解したいと思っているだけで、
大乱を肯定したい訳ではありません。
 特に、6代目義教期からの歴史をたどると、大乱へと行き着いてしまった世界に嘆かずにはいられませんが、
しかし、それが紛れもなく自分たちの歴史であるならば、
目を背けたり、虚像を描いて誤魔化すのではなく、
徹底的に真実を探求して、そこから出来る限り多くの事を学ぶべきだと思うのです。
それが、この大乱で散っていた者達や、失われた多くの物へと示せる、唯一の誠意だと信じています。



 (※ちなみに、『応仁の乱』は「乱に至る過程」や「開始後の推移」は複雑ですが、
  いま仮に「本戦の勃発」にだけ注目すれば、
  これは一言で言えば、
  「細川勝元&成身院光宣による、世界を一瞬で逆転させるカウンター」です。
  「"勝つ" ことと "戦わない" ことを目的として、真っ向武力勝負を避ける為に勃発させた大乱」という、
  スタート時点で、というかスタートそのものが禅問答状態だから、
  まあ、意味不明と言われても、しょうがないと言えばしょうがない。)



「本気と書いて、武士と読む」

 では最後に、この乱の主要メンバーを、応仁元年(1467)の年齢(数え年)と共に列挙しておきます。


『足利将軍家』
足利義政 33歳   足利義視 29歳


『伊勢家』
伊勢貞親 51歳   伊勢貞宗 24歳(貞親嫡男)  伊勢貞藤 36歳(貞親弟)



『東軍』

細川勝元 38歳(摂津国・丹波国守護)  細川勝之(勝元猶子)
畠山政長 26歳(河内国・紀伊国・越中国守護)
京極持清 61歳(近江国(北近江半国)・飛騨国・出雲国・隠岐国守護)
赤松政則 13歳("元" 播磨国・備前国・美作国守護)
武田信賢 48歳(若狭国守護、安芸国の一部)
 武田国信 30歳(信賢弟)  武田元綱 27歳(信賢弟)
斯波義敏 33歳
富樫政親 13歳?(加賀国守護)

(細川一族)
細川成之(阿波国・讃岐国守護家、三河国の一部)
細川成春(淡路国守護家)  細川勝久(備中国守護家)
細川教春・常有(和泉半国守護家)  細川政国(細川典厩家) …など

(大和勢)
成身院光宣 78歳(大和国人)  その他大和国人…筒井、箸尾、十市



『西軍』

山名宗全 64歳(但馬国・備後国・安芸国・播磨国守護)
 山名教豊 44歳(宗全嫡男)  山名政豊 27歳(教豊弟)
斯波義廉 21〜22歳(越前国・尾張国・遠江国守護)
畠山義就 31歳
畠山義統 30歳くらい(能登国守護)
一色義直 37歳(丹後国守護、ほかに伊勢国・若狭国・三河国の一部)
土岐成頼 26歳(美濃国守護)
六角高頼(近江国(南近江半国)守護)

(山名一族)
山名教之(伯耆国・備前国守護) 山名政清(石見国・美作国守護)
山名豊氏(因幡国守護) 山名勝豊 …など

(被官)
朝倉孝景 40歳   朝倉氏景 19歳(孝景嫡男)
 朝倉経景 30歳(孝景弟)  慈視院光玖 28歳(孝景弟)  朝倉景冬 20代半ばくらい(孝景弟)
持是院妙椿 57歳   斎藤利国 20代前半くらい(妙椿養子)

(大和勢)
越智家栄 36歳?(大和国人)  古市胤栄 29歳(大和国人)


 (※この後、西軍にはさらに、応仁最大級連合軍 "西のあの人" が加わります。)



 なんか、西軍贔屓の傾向が見られますが、まあいいか。
こんな列挙されても訳わかりませんが、まあ今は、「割とみんな若い」って事だけ分かればと思いまして。
 (赤松政則はさすがに幼少なので、この頃はまだ家臣が指揮をとっていたと思われます。)
年齢は数え年なので、現在の満年齢だと、さらにマイナス1〜2歳です。
朝倉孝景もギリで30代。  はいそこ! おっさん元気良すぎだろ、とか言わない。
特に、主役の足利家畠山家は目立ちますね。
この若さで華麗に大軍を統率していた訳です。 …いや、義政は終わってるだろ、とか言わない。

 それから、西軍主要大名が名を連ねていて、
経覚も、本戦開始直前の時期に、
  「細川勝元は、どうやって対抗するつもりなんだ??」(『経覚私要鈔』応仁元年5月14日)
と、訝(いぶか)しがっていますが、
細川家庶流一門が多いのと、知略モード全開で、ここまで互角に戦いを進めた訳です。
 まあでも、西軍強固な同盟に比べて、
東軍は(勝元・政長・京極持清以外は)若干、"寄せ集め感" が漂いますかね。

 東軍として大活躍してる武田信賢も、実は、
応仁元年正月27日(つまり『上御霊社の戦い』の直ぐあとの時期)に、
斯波義廉邸を訪れ、
斯波義廉や、被官の甲斐両人、朝倉氏景(孝景の嫡男)、古市胤栄小笠原政清、そのほか数人と共に、
和やかに会食をしているのです。(『経覚私要鈔』)
 武田家安芸国(一部)の守護で、信賢の父の代から若狭国の守護も務めているのですが、
若狭国は現在の福井県南部、つまり越前国の隣国なので、
本来、越前守護の斯波家とは関係は良かったのです。
 (※若狭の武田越前の朝倉は、戦国期に至っても友好関係を保ち続けます。少なくとも "朝倉から" はw)
しかも、武田家の重臣逸見家養女(もとは武田家の被官温科家(安芸国の国人)の娘)は、
実は、若くして先妻に先立たれた朝倉孝景後妻(正室)となっていて、
あの朝倉宗滴(そうてき)こと教景(のりかげ)のだったりするのです!
…って、そんな朝倉マニアックな知識、誰も聞いていませんね、すみません。

 ちなみに、この会食の参加者の一人小笠原政清は、幕府の奉公衆で、
将軍近習である京都の小笠原家(信濃国守護である小笠原家の庶流)は、
室町中期頃から将軍家の弓馬の師範として活躍していたので、『応仁の乱』では当然東軍です。


 彼らは、乱が始まったから戦うことになったけれど、本来必ずしも敵対しなければならなかった訳ではなく、
それは、山名宗全細川勝元についても言えることで、
そう考えると少し寂しくもなりますが、
まあ、である時も、である時も、いつでも嘘偽りなく全力であることが、
武士の信義と言うものなのでしょう。



 そしてそれは、西国あの人についても例外ではありません。
泰平の時も、擾乱(じょうらん)の時も、いつでも本気じゃなきゃ気が済まないあの人が、
そろそろ到着予定です。
遅れた分は、派手な登場で取り返すよ!
西軍大歓喜!! 東軍大ピンチ!!
気になる続きは、次ページ 「9 室町幕府の『応仁の乱』加速しはじめました」で。


店じまいだと? おいおいちょっと待てよ、俺が来ないと始まらねぇだろが!!

戻る