TOP > 二、室町幕府雑学記 > 3 続々・室町幕府の前半戦


 小見出し
「室町をたどる」
「あの時、京都を選んだのは…」
「隠された英雄」
「室町時代、公武の真実」
「室町の京都が生んだもの」
「そして、京都が語るもの」


3 続々・室町幕府の前半戦


 さあ、花も盛りの3代目足利義満(よしみつ)の時代を経て、
幕府はどう変化していくのでしょうか。
ところで、義満の御所(将軍の邸宅)には、本当に花が咲き乱れていたのですよ。
だから、『花の御所』と呼ばれていました。
 といっても本来は、
この御所は北小路室町に位置していたので『室町殿』(むろまちどの)といい、
そこから、将軍自身(正確には、足利家の家督)の呼称としても、
『室町殿』が用いられるようになりました。
 (※当時、貴人(身分の高い人)に対しては、本名で呼ぶことを憚(はばか)り、
  "住んでいる場所の名前" で呼ぶことが多かったのです。
  つまり、『室町殿』と言った時は、"将軍" を示す場合と、"建物" を示す場合とがあり、
  後者の場合は『室町第』(むろまちてい)とも言います。)

現在、この幕府と時代とを "室町幕府・室町時代"と呼ぶのは、ここから来ているという訳です。
 (あくまで歴史学上の呼び名であって、その当時、室町幕府・室町時代と呼ばれていたのではありません。)
また、当時の "将軍" の呼称としては、
将軍の他、公方様(くぼうさま)、室町殿と呼ばれることが多く、
他には大樹など、結構色んな呼ばれ方をしていました。
 (※公方(くぼう)は元々「公・公儀」が原義ですが、
  鎌倉時代後半以降、幕府という "権力体" を指す呼称として広く用いられるようになり、
  室町時代、義満の頃から "武家の将軍" の呼称として定着することになります。
  という訳で、このサイトでは(義満以降は)公方将軍は特に区別せず、気分で使い分けることにします。)



「室町をたどる」

 さて、ここで少し京都の町並みを眺めてみたいと思います。
各自、普段使っている地図サイトを開いてください、準備はいいですか?
 では、JR京都駅からスタートです。
といっても、京都の繁華街は京都駅周辺ではなく、もう少し北に行った所です。
京都駅を南北(縦↑)に貫く烏丸通(からすまどおり)を北上していくと、
東西(横→)に走る2つの大通り(七条通、五条通)を経て、四条通(横)と交わります。
ここで右折して人混み掻き分け暫く進むと、最も中心部である河原町通(縦)との交差点、
さらに東に進んで鴨川を渡れば、
京の花街「祇園」を経て、祇園祭でお馴染みの「八坂神社」に突き当ります。
 (ちなみに八坂神社は、当時は「祇園社」と呼ばれていました。)
この辺り、すなわち東山地区は京都観光のハイライトですね。
古都の町並みをに進めば「八坂の塔(法観寺)」、さらに二年坂、産寧坂と続いて「清水寺」に至ります。
今も京都といえばまず思い浮かべる「清水寺」ですが、この時代も色々絡んで来るので要チェックです。

 さて、再び四条通(横)と烏丸通(縦)の交差点に戻って、
これからいよいよ『室町殿』を目指します。
…ところで、京都中心街のの地図を眺めていると、やたらと道がタテヨコなことに気付くと思いますが、
これは偶然ではなく、千二百年以上前の平安京の名残なんです。
そして、あらゆる通りに名前が付いていて、
横(東西)の通り縦(南北)の通りの "交差点" によって、"特定の所在地" を示すことが出来るので、便利です。
 まあつまり、京都ってのは土地そのものに刻まれた歴史の深さが半端無い訳でして、
それが、遺跡として残っているのではなく、現役の街として今も生き続いているってのがまた凄いのです。
 (一部、名称が変わった通りもありますが。)
もう単なる道すら歴史なので、妄想力厨二(ちゅうに)の高い人は、道歩いてるだけで時間旅行が出来ますね。
千年の昔に繋がっている道ですからね。


 さて、話を戻して、『室町殿』を目指します。
場所は北小路室町、すなわち北小路(現在の今出川通)(横)と室町通(縦)の交差する辺りです。
今いる四条烏丸の交差点から更に、広大な京都御苑に囲まれた「京都御所」を越えた辺りです。
 (ちなみに、「京都御所」(建物)と、それを囲む「京都御苑」(公園)とは、区別しておきましょう。)

 まあ、このまま烏丸の大通りを北上してもいいのですが、折角だから室町通(縦)を進みましょうか。
では、烏丸通の一本の通りに移動して下さい…
って、あれ。なんか急に慎ましい通りになってしまいましたけど。
え、ええ、ここが室町通なんです。 なんか想像してたのと違う…とか言わないで下さい、公方様が傷つきます。
まあ、謙虚な感じが室町幕府っぽくていいですね。

 さて、この通りを慎ましく北上していくと最初に交差する大通りが御池通(旧称:三条坊門小路)
さらに進むと丸太町通、ここを渡って少しばかりいくと左右に平安女学院が在りますが、
現在、ここは「武衛陣町」といいます。
名前の由来は、かつてここに足利一門「斯波家」の館があったから。
詳細は、後々どこかのページでw 場所だけ気にしておいて下さい。

 さて、さらにぐんぐん進んで右手に広がる京都御苑(公園)が終わる頃、
今出川通(旧称:北小路)と交差しますが、
ここがゴールの北小路室町『室町殿』の所在地です。
正確には、東西を烏丸通室町通、南北を今出川通(北小路)上立売通に囲まれた地区になります。
 (但し、南は今出川通(北小路)に直面していなかったようです。)
…え、こんなもん?と思われるかもしれませんが、こんなもんです。
ただ、"将軍の住居" であり "政務の場" でもあるこの『室町殿』と、さらに足利家の菩提寺とを合わせた空間全体を、
"柳営"(りゅうえい)と捉えたほうが正確かも知れません。
 (※柳営…幕府のこと。 "幕府" というのはあくまで現代の学術上の言葉で、当時の一般的な呼称ではありません。
  もともと大陸の言葉なので、たまに禅僧の日記などで見かける程度です。)
では、その足利将軍家の菩提寺とは?
それはですね、烏丸通を挟んですぐ右手に広がる広大な『相国寺』(しょうこくじ)です!
…って御所よりでかいけど。
ともかく、この『室町殿』『相国寺』が、3代目足利義満の時代に造営された訳です。

 (※2015.1.9追記
  「2-4 続々々・室町幕府の前半戦「始まった場所」」の最後に、
  「室町御所map」を追加しましたので、合わせて御覧下さい。)



 さらに義満は、早々と将軍職を、4代目となる嫡男足利義持(よしもち)に譲った後、
『北山殿』を造営し、そこで政務を執り続けます。
この『北山殿』、聞き慣れないかもしれませんが、みんな知っています。
そう、あれです。 『鹿苑寺』(ろくおんじ)すなわち、通称で言うところの金閣寺です!!
これら大規模な建造物を見るだけでも、
3代目義満の代はいかにも幕府らしい権威隆盛な時期だったのが分かる訳ですが、
逆に言うと、秩序が整い社会が安定していた時期とも言えるのです。



「あの時、京都を選んだのは…」

 南北朝期の内乱は多くの犠牲を強いたけれど、その混沌の中から生まれた秩序は、それゆえ、
わりと当時の人々の望みに適った社会を形作っていったのではないかと思います。
 というのも、室町幕府のやり方って基本的に、
"需要が先立つ" といいますか、"時勢に順応する" といいますか、
自分たちだけに都合の良い社会を、一方的に構築していた訳ではないのです。
 そもそも、もし武家のことだけ考えて勝手意のままに振舞いたかったら
鎌倉に幕府を開いていたでしょう。
その方が、朝廷・公家寺社などの既存の権力(=権門)と直接衝突せずに自由に出来ますからね。
 (それに、幕府開始時点ではやはりまだ、 "武家の聖地" といえば鎌倉です。)
しかし彼らは、京都を選んだ。
それは、社会の要請に因るところが大きかったのではないかと考えられるのです。
 もちろん、"奈良吉野の南朝" と "京都の北朝" の分裂による、
「一天両帝」という差し迫った状況が、彼らを京都に留まらせた、という部分もありますが、
しかし…
荒れ果てた京都の治安を回復し、社会に道義礼節を取り戻すこと、
間違った政道を正し、善政とされた時代(※)に倣って、徳のある政治を目指すこと、
停滞した経済を活性化させること、
彼らには、都で為すべき多くの使命が課せられていたし、彼らもそれに応えようとしたのです。
 (※…延喜・天暦 (= 醍醐・村上天皇の時代)や、鎌倉の北条義時・泰時の執権時代。)
この辺の決意は『建武式目』によく示されています。
 (『建武式目』について詳細は…【『日本思想大系21 中世政治社会思想 上』(岩波書店)】)

 つまり彼らは、あくまで「武家の為の政権」を鎌倉で始める道を選ばず、
「天下の為の政権」となるべく京都に留まったのです。

 (※よく「戦国以前は天下国家という概念は薄かった!」と一部で信じられていますが、
  そんな事はありません。 当時の史料をいくつか実際に読んでみればすぐ分かります。
  ただし、「天下を独占する」という概念は非常に薄く、この国では元来「天下は万民のもの」でした。
  つまり、「一覇者による私物化という意味での "天下統一" という概念は無かったけど、
  万民の為の徳治を遍(あまね)く天下に実現させるという意味での "天下統一" なる概念はあった」
  というのが正解です。)


 それからもう一つ、これは室町時代を通して言える事ですが、
基本的に室町幕府の政策というのは、朝廷・公家寺社などの旧勢力に対して非常に気を遣っています。
 (武士よりも優遇して、反感を買うくらいw)
そしてそれらの政務は、"将軍の独断" ではなく、
諸大名僧侶公家など "各分野の人々" が参加して遂行されていたのであり、
衰退してしまった朝廷の儀式再興のために武家と懇意になった、二条良基のような公家もいる訳で、
「敵対」ではなく、「融和」「相補関係」と捉えて初めて、この時代の真の姿が見えてきます。

 (そもそも、幕府というのは "天皇を推戴して" 成り立つ存在であり、
  武家自体が「天皇を戴く日本国の一部」です。
  確かに、鎌倉幕府江戸幕府においては、朝廷幕府は表面的には疎遠な所もありましたが、
  室町幕府に関しては――― 意外かもしれませんが、
  天皇と将軍公家と武家の関係は、日常的にかなり親密です。
  それは室町だけ、幕府が朝廷と同じ "京都" にあったという地理的な要因にもよりますが、
  "将軍の足利家が清和源氏だった" と言う事も、天皇と将軍の信頼関係に大きく影響していたと思われます。
   (※鎌倉幕府は源氏の将軍3代で途絶えてしまい、その後「承久の乱」が起こる。)
  そしてこれらの事は、室町時代を文化的にも精神的にも、
  ひと際特別な時代にしている "最大の要因" なのです。)


 朝廷の京都における権限にしたって、無理矢理または戦略的に幕府が奪っていったのではなくて、
  「朝廷の力が衰える中、幕府が肩代わりせざるを得なかった」というのが実情だった
という事実が、近年の研究成果の示すところです。
…それなのになぜ、室町幕府は天皇を蔑ろにしたとか、とにかく丸ごと朝敵!だとか、
どう見ても非実証的な論調で、一方的に悪逆不敬の賊臣扱いを受けがちなのか?
 それはですね、それはですね…
かつて、「イデオロギーによって、歴史解釈が意図的に歪められていた」という、悲しい過去に起因するのです。



「隠された英雄」

 足利尊氏の、凄まじいまでのスケープゴートっぷりには、ただひたすら涙が出るばかりですが、
 (…すみません、この辺詳しくは各自検索してください。戦前の話です。
  もしくは先に紹介した 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】…の冒頭を参照)
しかし近年は、
イデオロギーを廃し事実を正しく客観的に分析した「実証的歴史研究」が進んでいて、
尊氏さんも絶賛汚名返上中です。
嬉しい限りですね。
痛ましい過去ではありますが、しかし、だからと言ってその過ちをただ責めても意味はなく、
大切なのは、「間違いを正しく検証し、同じ事を繰り返さない」ということです。
その為には、誤った過去に目を瞑(つぶ)るのではなく、正面から向き合い全てを明らかにすること、
歴史においては、イデオロギーより真実が勝るということ、
それを決して忘れてはなりません。
歪めた歴史で故人を貶めたり、逆に過度に美化して虚像を追いかけたりせずとも、
歴史とはただそれだけで、ただ真実であるだけで、最大の価値を持つのです。

 戦前は政治的制約、戦後は思想的理由で、真っ直ぐに進歩することが出来ずにいた歴史学は、
今ようやく、真実を追求する自由を手に入れた、いわば輝かしい黎明期にあります。
今度こそ、正々堂々素直に誇れる歴史を、
ドMな…じゃなかった、土下座な思想で汚(けが)されることのない歴史を、
掴む時です。
 "歴史を知る" と言う事は、単に知的好奇心を満たすに留まる行為ではありません。
"歴史を知らない" と言う事は国の放棄を意味し、
"歴史を曲げる" と言う事は国の破壊を意味します。
そしてこの国の現在を正しい未来に導くには、「過去正しく評価すること」がどうしても必要なのです。
――― なぜなら、来(きた)るべき未来とは、「過去の真相」の中に隠されているのですから。


 (※「歴史に善悪はない。歴史学とは、坦々と客観的事実羅列すべきものであって、
  正邪の価値観を差し挟むべきではない」…という意見もあるかも知れませんが、
  私はそうは思いません。
  歴史というものは、人が積み上げていくものです。
  そして、人の行動はランダムなものではなく、「善悪の価値観」すなわち「道理・道徳」を規範とします。
  つまり、歴史が道理・道徳と言うアルゴリズムに基づいて積み上げられたものなら、
  積み上がった歴史を読み解く時もまた、道理・道徳と言うアルゴリズムが必要となる訳で、
  史的事実を "的確な" アルゴリズムで解読することが歴史学であり、そうして初めて、歴史は真実となるのです。
  教科書的な事実の羅列では、歴史としては本来不完全なのであって、
  だから小中高生につまんない…とか言って嫌われるとw
   (暗号文のままでは意味不明、それを "正しい手順" で解読して、元の平文に戻してあげる必要があるのです。
    「価値観なんて人それぞれ。普遍的な道徳を想定するのはのおかしい!」との意見もあるかも知れませんが、
    そんなことはありません。
    自然界が普遍的な物理法則に基づいているのなら、その世界の一部である人間の思考もまた、
    表面的には個性を保ちつつも、究極的にはその法則の支配下にあります。 という訳で…)
  歴史を意味あるもの楽しく興味深いものにする為にも、
  善悪の価値観を持つ人間が織り成した歴史には、当然、善悪の価値観をもって挑むべきです。
  …ただし、"間違った" アルゴリズムで読み解かれた偽の歴史というものは…非常に困った存在なのですがw)


そんな訳で、
   自国の歴史は正しく理解! (ついでに、歪曲・捏造・恣意的解釈には勇気をもってNOを。)
歴史ある国に生まれた私たちは、歴史の大切さを誰よりも良く知っているはず。
ならば出来ます。 必要なのは、知恵と誠意と信念です。



 (…確かに、時代背景を考えれば、足利尊氏逆臣として祭り上げる事で、
  国民が一つになれたと言う部分もあったのかも知れませんが、しかし、
  そんな虚構の上で一つになった国家に、意味があるとは思えないし、
  歴史への偽りがばれた時、その国家がどうなるかを想定出来ないと言うのは、愚かな事です。
  本当にこの国の為を思うなら、それこそ「どんな時も歴史真実であらねばならない」と分かるはずです。
   (曲げた歴史を讃える国家は、必ず間違った未来に進みます。)
  私が、行き過ぎた皇国史観を危惧するのは、
  結局はそれが逆に、皇統も、その存続を危険にさらす事になる、という矛盾を孕んでいるからで、
  真に自国弥栄(いやさか)を願うのであればこそ、
  真実に生きるべきだと、歴史の評価は「道理」に基づくべきだという事に、気付く必要があります。
  もちろん、歪曲された歴史を教えられ、天皇を敬愛するが故に、
  室町幕府を憎む事が尊皇だと信じて疑わなかった方々には、罪は無いと思います。
  しかし、曲げた歴史を政治利用した者の罪の大きさは測りかねます。
  足利軍が抵抗したのは本来自衛の為だった事も、戦いの先に徳ある政道を目指した事も、
  それまでの建武の新政がどんな政治だったかも、持明院統の天皇が抱く国家観も、尊氏・直義の人柄も、
  この二人の将軍を、当時の人々がどれだけ歓迎したか、
  そして彼らが、どれほど深く天下の泰平を祈り続けていたか―――
  そのすべてが曲げられ、この国の人間は、自らの英雄を憎むよう指導されて来たのです。
  あまりにも間違ったやり方です。
  そろそろこの過去を直視し、すべてを正す必要があります。
  もちろん、既にその困難に挑んだ歴史学者は数多くいて、素晴らしい功績を残されているのですが…
  それでも、今もって人口に膾炙しないのです。
  一度曲げられた歴史を元に戻す事が、どれほど困難な事か。
  私達がいまいち自分の国自信が持てないのは、(剰え、自虐的な思考に陥ってしまうのは)
  過去の「本当の歴史」を知らないせいだと、私は思っています。
   (※もちろんこれは、室町時代に限った事ではありませんが。)

  まあ、それにしても、室町時代(特に戦国期)ってのは、
  まともな人物が悪評コテンパン状態なだけでなく、
  その逆の人間が素晴らしい英雄だと信じられているのが、また謎な訳ですがw
  ってか、憂さ晴らしで虐殺繰り返し、無抵抗の民衆平和だった国も焼き尽くし、
  当時の史料に、その素顔が赤裸々に綴られている人物を、
  「良い人!英傑!」などと言って賛美するのは、普通に考えて無理があります。
  もちろん、ありのままを「野望のヒーロー」として慕うのなら分かりますが、
  しかし、多くの人々に悲劇をもたらしたヒーローに "正義" を見出そうとするのは、どうにも自虐的な気が―――

  …つまりどういう事かと言うと、
  戦前の「室町幕府に逆らうものは全て善!」という歴史観に加え、
  戦後のドM史観旋風もまた、とんでもなく極端なものだった訳です。
  国家的なもの、日本的なもの、それらを否定蔑むことが正義とされ、
  室町のみならず、近代史から『古事記』『日本書紀』の古代史に至るまで、
  この国の歴史は、一気にドM色に塗り変えられていったのです。 …なんてこったw
   (間違っていたのは、明治〜戦前の "歴史観" だけなのに、
    太古〜江戸の "歴史" まで、巻き添え食らって侵されたってゆう。…orz
    曲げた歴史の反動って恐ろしい… )
  朝廷幕府と言った "国家権力的なもの" は格好の標的にされましたから、
  (戦前の痛い教訓で)室町幕府の汚名返上…なんて甘い話はある訳ねぇ!
  「幕府は民衆を苦しめる絶対悪! それを倒す者はもれなく民衆の味方!」とか、或いは…
  「国家や公の利益なんてダサい! これからは、個人の夢や野望が一番大事!イエイ!」
  …ってな思想が流行って歴史学の世界をも侵食して行きましたから、
  幕府秩序を破壊し、下克上を成し遂げた新興勢力は国家に立ち向かった正義、
  先進的でカッコイイとされました。 しかし ―――

  最も多くの人間を殺し、最も多くの国を奪った覇者を "美化して" 尊敬するというのは、健全ではありません。
  「野望のヒーロー」は「野望のヒーロー」として、等身大の姿を評価すれば何の問題も無いのに、
  "天才的国民の英雄"として描いてしまうと、
  「だったらどうして皆、一代限りの覇権で終わってしまったのか?」という矛盾に、答えを用意出来ません。
  なぜ、戦国の "覇者政権" 短命に終わったのか?
  それは―――
  武士の道義よりも覇者個人の欲望を優先したそのやり方が、
  この国の民意、すなわち天下の総意と、余りに懸け離れていたからです。
   (ま、その反動で、その後に平和な江戸時代260年続いた、とも言えますが、
    だとしたらやはり、讃えるべきは、それらに抵抗して散って行った気概ある大名や、
    最終的にその専横に終止符を打った徳川幕府でしょう。
    …ちなみに、徳川幕府不当な評価をされている部分が多いですね。
    幕末から明治維新にかけての時代は、このサイトの管轄外なので深い言及は避けますが、
    各自大いに調べて、真相にたどり着いて下さい。 健闘を祈ります。)

   (※それと、近代以前でさえ、社会は権力者の意向だけで決定していたのではなく、
    いつの時代も、潜在的な民意が大きな影響を与えています。 歴史を見るとき、この視点は重要です。)

  まあ悲しい事に、いつの時代も、
  本当に正しい者というのは、評価されるまでに時間が掛かるものではありますが…
  …なぜって? 時の権力者ってのは、前政権を不当に貶める事で自分達の正当性をアピールしようとする、
  卑怯なワルが多いからw
   (「金に汚い将軍!」ってレッテルを世間に宣伝して、将軍を追い出した方が実は、
    よっぽどに執着してて、庶民から名品をありったけ召し上げ、公家の屋敷を焼き払い、
    贅の限りを尽くした城を建てた…とか、
    ○○と言いつつ実際の行動は△△…とか(ごめん、チキンだからタブーに触れないw)、
    そりゃ無いだろww って話は多いよね。)
  まあ、「そんなのは常識だ!歴代政権みんなやってる!」…という意見もあるかも知れませんが、
  でも室町幕府って、
  実は、前政権の鎌倉幕府(の得宗)を不当に貶めるネガティブ宣伝、してないんですよ。
  それどころか、「悪い所は改め、良い所は大いに見習う」という、
  実に真っ当で清々しい精神を持っていたんです。(※参照『建武式目』)
  新政権に対してだって、非難するどころか、一生懸命和睦の道を模索していた訳で、
  ホント、稀に見るバカ正直な幕府です。
  そんなお人好しだから、後世になってメチャメチャな事言われちゃうんだよ!もう!ばかばかばかぁーーっっ
  …と言ってやりたいとこですが、そんな所も含めて大好きですw
  尊氏直義、そして室町幕府の汚名は、必ずや晴れる日が来ると思います。)



 まあ、そんな過去によって目が曇りがちな室町時代の公武関係(=朝廷・公家武家の関係)ですが、
室町幕府=悪という先入観から脱却し、冷静な心を取り戻せば、
両者が、模索しながらもより良い関係を築こうと努力し、気遣い合っていた一面が見えて来るでしょう。
なぜなら…、当時の公家たちが書き残した日記(※)には、
"対立" だとか "軽視" という見方では説明が付かない記述が、あふれているからです。
 (※…日記は、歴史研究の根本史料です。 これについては、追って詳述します。)



「室町時代、公武の真実」

 どうも、武家政権時代(=中世(鎌倉・室町時代)+ 近世(江戸時代))の歴史を考える際は、
武家の動向ばかりが注目されがちですが、それはあくまでこの国の一面に過ぎません。
朝廷・公家との関係に言及せずして、
日本という国 "全体" の、本当の姿を把握することは不可能なのです。
 そういう意味で、京都関東で在所を隔てていた "鎌倉時代・江戸時代" に比べて、
両者が京都という地共有していた "室町時代" は、非常に価値ある研究対象と言えますし、
何より、共存することで生まれた公武関係・文化・人々の意識は、
他の時代に類を見ない独創性に富んでいます。
それなのに、「室町幕府は天皇を蔑ろにしました、マル!」とかいって終わりにしてしまったんじゃ、
もったいないというものです。

 (ってゆうかホント、そんな事ないからね。
  事実はむしろ「逆、逆ー!」で、実は一番朝廷を保護した幕府だった、ってゆう。
  まあ、かつて、室町幕府を丸ごと逆賊としてしまった手前、
  「朝廷と幕府の協力関係」や「天皇と将軍の親密さ」なんて、
  全力でスルーして封印するしかなかったのでしょうがw、しかし、
  現在の一般的な認識として、
  「歴史の中での天皇の存在が、なんかやたら軽視されている」という残念な現状は、
  「室町を正しく理解して来なかった」せいだと、私は思います。
  室町幕府は、思われているよりずっと礼節を弁えた幕府です。
  「室町を知る事」は間違いなく、「本当の日本を知る事」につながるはずです。(…と個人的には思ってるw)
  一般的には「影が薄い、公家っぽい、なんか悪者」といったイメージで定着してしまっている室町幕府ですが、
  その真の素顔は、180度逆と言ってもいい程、
  「最も魅力に溢れた武士たちの時代」です。
  室町時代生まれの "わび・さび" と表現される文化が、
  現在でも一、二を争う "最も洗練された伝統の日本文化" として非常に高く評価されているのに、
  それを生んだ時代の幕府武士 "ろくでなし" だったなんて、よく考えたらおかしいと思いませんか?
  室町時代の、武家と天皇の君臣関係、幕府の目指した道理ある政道、求め続けた誠の天下
  真実に目を向けさえすれば、実に純粋な理念が見えて来るのです。
  ただ…、良くも悪くも自然体な時代だったので、
  理想で終わってしまった部分が少なくないのが玉にキズですが。 む、無念…。
  しかしだとすれば、今こそその夢の続きを追うべき時なのではないか、と私は密かに思っています。)


 まあ、より踏み入った考察はまた後のページに譲るとして、
当時の史料より見えてくる公武関係を大まかに述べてみるなら、
政治的な権力者は武家ですが、この国の最上位に君臨するのはやはり主上(=天皇)であり、
武家はあくまで "朝家を守る臣下" という立場である、ということです。
主上(しゅじょう)の地位や尊厳は、
武家にとって、間違っても「取って代われるような(or 取って代わろうと思うような)存在」ではないし、
まして「対立する一勢力」だとか、そんな軽々しいものではありません。
…にも関わらず、この辺の考察においては、
朝廷権威軽視して、武家の優位性を実態以上に強調したり、
逆に、朝廷を絶対と見て、武家を「朝廷から権力を奪う」と見做す、といった論調が目立ちますが、
そういう二元論的な考え方は、明快ではありますがはっきり言って未熟な思考ですし、真相の解明を阻害します。

 (※室町時代は「公武統一政権」とも言われるほど、
  朝廷との関係は密接融和が進み、公武一体となって国を形作っていた時代でした。
  つまり、お互い敵視どころか、無くてはならない存在だった訳です。(政治的にも、経済的にも。)
  しかも、当時の日記のエピソードからは、主上将軍の間には身分としての君臣以上の、
  人間的な交流やが信頼関係があった事が窺えるのです。
  実態を実態として捉え、柔軟に分析する事が肝要かと思います。)


 特に、3代目足利義満に関しては、誤ったイメージが今も信じられていますが、
義満が、朝廷に近づきその儀礼の習得に努めたのは、
朝廷内での "廷臣としての武家" の確立のためであり、
別に、皇位簒奪(さんだつ)なんて考えていた訳ではないのです。

 (この "皇位簒奪説" は、既に多くの有効な批判がなされ、学術界ではとうに過去の説となっているとの事です。
  情強な君なら、分かってくれるよねw
  それにしても、なぜ実証的には疑問符の付く説が、これまで最有力視されて来たのか?…と思うと謎ですが、
  まあ、元となる史的事実が確かなものでも、"間違った" アルゴリズムで読み解くと、
  違う答えが導き出される事ある、という例です。
   (※同じ暗号文(史的事実、史料)を元にしても、人によって様々な平文(解釈、考察)となってしまうのは、
    そういう訳なのです。
    つまり、歴史学者に求められるのは、「いかに的確なアルゴリズムを見極めるか」という鋭いセンスであり、
    そのセンスが0だととんちんかんな考察となってしまう…いや失礼w
    でも、センスある歴史学者の考察は、本当に洗練されていて素晴らしいですよ、うん。) )


 それからもう一つ、義満というと「日本国王」という称号が一人歩きしていますが、
これは、明との貿易において外交的に用いられていたに過ぎません。
義満が国内的に、自身の地位を「日本国王」と称して君臨していた形跡は無い、
というのが現在の学説です。

 以上、詳しくは…
 【早島大祐『室町幕府論』(講談社選書メチエ)2010】…の p.115-118
それから、皇位簒奪説の誤解を生んだ「義嗣の元服」(※義嗣は、義満の次男)について、
最近の実証的な研究成果は…
 【石原比伊呂『足利義嗣の元服』(『東京大学史料編纂所研究紀要』第22号 2012年3月)】
 【森幸夫『足利義嗣の元服に関する一史料』(『古文書研究』第77号 2014年6月)】
などをどうぞ。


 (…確かに「日本国王」という言葉には(現代的な感覚では)インパクトがありますが、
  だからと言って、より詳細な研究によって真意が明らかにされたにも関わらず、
  有効な学説よりも、言葉の衝撃的なイメージを優先し、
  いつまでも架空の将軍像を描き続けるというのは、非常に由々しき問題、
  自国の歴史に対するプライドの欠如と言わねばなりません。
  まあ個人的には、天皇>王なんだから、そんなにインパクトを感じない言葉ですがw
  しかも、明から「日本国王」と呼ばれていたのは、既に義満以前に「日本国王良懐」がいる訳ですし、
  そもそも、将軍が明に "臣下の礼" をとる事には批判的な者が多かったのだから、
  国内に向けて「日本国王として君臨!」なんて事したら、むしろ評判が落ちるだけです。
  わざわざそんなアホなこと、老獪(ろうかい)な義満がやるわけ無いのは当然と思うw
  そんな不評にも関わらず、義満が対明貿易を望んだのは、
  国の経済的利益の為だったそうですが(『善隣国宝記』)、
  内心では恐らく、
  「フフフッ、俺が「国王」として臣下の礼をとったとしても、この国にはラスボスがおはしましますんだから、
   "日本国" としてに隷属する事にはならんのだ! フハハハハッ!! やべぇ俺老獪www」
  とか思っていたに違いない。たぶん。
  ま、明の方でも、義満を「国王」と認めはしたもののの、
  その上になんかもっとど偉いの(※)が控えてるとは、薄々(ってか、もろ)気付いていたんだけどねっ!
    (※…日出づる処の天子)
  …そんな訳だ、情強の君はもう、「日本国王」の称号に惑わされるなよ!)


 (ついでに言うと、確かに義満は、
  公家をして「その作法、めっちゃ優美。マジ天賦の才!」(『愚管記』康暦3年正月7日)と言わしめる程に、
  相当な努力で朝廷内の作法を身に付け、"公家武家の双方を統べる地位" を築き上げましたが、
  これまで「天皇」への対抗心と誤解されてきたそれは、
  敢えて言うなら、「公家」への密かな対抗心だと考えられます。
  なぜなら、足利家すなわち『源氏』は、そもそも「天皇」を祖とする氏族ですから、
  先祖である「天皇」に対して敵対心を抱くというのは、はっきり言って不自然です。
   (※古来、日本人は、祖先崇拝の伝統を強く持つ民族です。古代史から探るとよく分かります。)
  抱くとしたら「敬意」や「憧憬」、または他の血族に対する「優越感」でしょう。
  つまり、「天皇」に仕える臣下として、『源氏』が、公家≒『藤原氏』を凌ごうとした、
  と考えたほうがずっと自然であり、
  『源氏』が「天皇」を凌ごうとした、という発想には…
    「おいおいおい『源氏』の気持ち分かってやれよー」
    「んな訳あるかよー。 そんな源氏『源氏』じゃねぇよーー」
  と、彼らに代わって反論したいと思いますw
   (※この辺の事は、追々、史料や文献を提示しつつ詳述します。)
  まあそんな訳で、義満が密かに、
   「「天皇」の最も傍近くに仕えるべき廷臣は、「天皇」の末裔たる『源氏』なのだぁぁーーっっ!!」
  …という自負を抱いていたんじゃないかなーと個人的には思っていますが、
  ただ、やっぱり義満は、元来の派手好きな性格もあってか、ちょっとやり過ぎた感はありますね。
  他の歴代足利将軍と比べても、3代目義満(特に『北山殿』に移ってから)は異端です。
  まあ、それゆえ研究のし甲斐もありますが、
  この頃の義満が "足利将軍の典型" だと思ってしまうと誤解があります。
  天皇・公家・武家の関係では、4代目義持以降義満なら、『北山殿』以前)を、
  室町時代の典型と考えるとよいです。
  ただし、義満は決して傲慢無礼な将軍だった訳ではなく、
  実は、公家にも、そして部下である大名にも対応がとても丁寧で、
  礼儀作法にとことん拘(こだわ)る性格からも分かるように、
  『礼節』を重視し、宴席においては常に武家より公家を優先するその振る舞いは、
  公家からも賞賛を受けているのです。(『建内記』正長元年6月20日)
  意外にも義満は、やりたい放題好き放題の驕り高ぶった覇者…みたいなイメージではなく、
  実際は、かなり上品礼儀を知った将軍だったようです。
   (…まあ、それなのに圧倒的だから、余計恐ろしいのだろうがw)
  そんな感じで、3代目義満が成し遂げた「公武の統一」は、
  秩序を重視した "融和路線" によるものだったので、
  公家側からも「武家からの政権奪還」などという敵対的な動きが生じた形跡はなく、
  4代目義持の頃には、「室町殿(将軍)」の存在は、
  後小松上皇から、「天皇・上皇・室町殿」と並べて認識される尊貴性を得るまでになります。
  元来、公家にとって、武士に対する偏見は根強いものがあったようですが、
  足利家はその血筋が非常に高かったこと、
  それから、室町殿は、天皇や上皇から「うむ、よく働いてるね。感心感心」と褒められたりもしてるので、
  それなりに頑張っていた成果でしょう。)


 (※ちなみに、足利家=『源氏』が天皇を祖とするって言ったって、
  そんな何百年も前のこと気にしてるわけねーよ! …とかいう意見もあるかもしれませんが、
  はっきり言って…、めっちゃ気にしていますw
  まあ、清和源氏という血筋が相当に特別だったというのももちろんですが、
  当時の人々の時間の捉え方がそもそも、非常に雄大なのです。
  例えば、朝廷では「先例」というものが何よりも重視されていて、
  過去の記録や書物、そしてそれらに精通した人物が重宝されました。
  何百年も前の事例を当たり前のように引っ張り出してきては参考にしてるのです。
  教養のある者は、鎌倉・平安の時代のみならず、『日本書紀』の神代まで、
  本当によく歴史を知っていました。
  それは、今を生きる為に、当然身に付けるべき素養の一つだったのです。
  そしてまた、未来に関してもそれは同じで、
  和歌には、千年万年先の世を想う心が詠われ、『勅撰和歌集』の序文には、
  遥か後世の人々(つまり私たち)の為にこの歌集が編まれたことが、明確に記されているのです。
   (※勅撰和歌集…天皇・上皇の命(めい)により、国家事業として編纂された歌集)
  ずっとずっと先の世にも、変わらず花に満ちた春が訪れ、皇統は途切れることなく、民の喜びと共に、
  ひとすじに繋がり続けるこの国の未来を、信じて疑わなかったのです。
  当時の人々の「時」の概念過去・現在・未来の捉え方は、本当に雄大です。
  「今さえ良ければいい!自分さえ良ければいい!」なんて刹那的な考え方は恥ずかしくなってきますw
  未来の為に、過去を大切にしてきた先人たちの思い、是非とも受け継いで行きたいものです。はい。)



 そんな訳で、歴史上、特に武家政権時代は、「天皇の存在」はイマイチその実態が見えづらいのですが、
決して、当時の社会・人々にとって影の薄い存在であった訳ではありませんし、
種々の記録(日記など)からは、主上へのごく自然で当たり前な敬意が読み取れます。
どうも、支配者とか権力者とかいったものとは次元が違う、何かもっと「根本的な存在」という印象です。
 (もちろん、「神」という訳ではありません。 そもそも主上は、民のため「神に祈る存在」です。)
当時すでに政務の大半を武家に委ね、持てる権威も無闇やたらに振るっていた訳ではないがしかし、
人々に必要とされ君主であり続けた(そして今もあり続ける)、主上という存在、
近年、とみに研究が進んでいる室町時代の公武関係について、
"当時の人々の視点" で考察してみることで、
また新たに見えてくる歴史があると思います。
 (※ちなみにこのサイトでは、
  天皇、天子、帝、主上などの呼称は、特に区別せず気分で使ってます。
  個人的には、当時の記録(日記)に頻出する「主上」という敬称が好きですw)


 さて、この辺の事については、
義満・義持あたり、朝廷武家の関係を問い直すのは、
 【『歴史学研究』NO.852 2009年4月】…の、初めの方の論文いろいろ。
 【早島大祐『室町幕府論』(講談社選書メチエ)2010】
制度面から公武関係を探るのは、
 【久水俊和『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院)2011】
   (※専門書ですが、序章だけでもどうぞ。 近年の動向がよく分かります。)
鎌倉末期から「建武の新政」にかけて、朝廷武家政権の関係については、
 【古澤直人『北条氏の専制と建武新政』(石上英一ほか編『講座・前近代の天皇 第1巻』(青木書店)1992 )】
…など。

 そして、このサイトで取り上げる時代の、『応仁の乱』と並ぶ大事件、『明応の政変』とその後の話については、
この公武関係をスルーしては解けない謎があったりするんです。 詳細は…徐々に明らかにしていきますw



「室町の京都が生んだもの」

 さてさて、この室町時代における京都という地の重要性を説明するのに長々と費やしてしまいましたが、
この時代の社会構造を理解する上で、「公家と武家が地理的に同所にあった」ということはとても重要なので、
しっかり頭の中に、視覚的にイメージしてみて下さい。

 そもそも貴族(公家)というのは、前時代の支配階級ですからね、
同じ所にいたなら、とっくに壊滅状態に陥ってしまいそうな訳ですがしかし、
彼らは共存の道を歩みました。
もちろん、公家は往時の強大な勢力を保ち得た訳ではなく、緩やかな斜陽のただ中にあったのではありますが、
それでも、滅びることが無かったのは、彼ら公家には "尊ぶべき役割" があり、
武家がそれを尊重していたからです。
 その結果、「いにしえの慣習・文化を伝える公家」と、「新しい社会を築いていく武家」が協調することで、
蓄積された伝統を受け継ぎつつ、そこへ進化を "和" していくという形の発展が進んだのです。
 元来、公家というのは頑なに「先例」にこだわり、変化を嫌うので、
そのままでは、伝統が固持されるのは良いのですが、進化は望めません。
文化的・社会的発展のためには、何かきっかけ原動力が必要になる訳ですが、
それが武家だったと捉えることが出来るでしょう。
 そんな歴史的転換が、公家武家が共存を始めた室町時代、京都という当時の一大都市で始まり、
やがて大きな潮流となって、地方に伝播していったのです。
 (この室町時代は、"京文化の地方への波及" "地方の「都市」としての発展"、という面でも重要な時代です。)

 ただし、歴史的転換と言っても、ここで起こった変化は、
革新とか革命とかいった「過去を否定・破壊して一から新たに作り直す」という類のものではありません。
 日本という国は、これまで延々と長い歴史を途切れさせる事なく、その上で未来を切り拓いて来ました。
新しい時代に進むに当たって、「過去を捨てる」と言うやり方は、この国のやり方ではないのです。

 なぜか現代では、「過去を破壊して未来を創る!」という発想が "先進的" "良いこと" として、
持てはやされる傾向がありますが、
普通に考えて…全部壊したら振り出しに戻っちゃうじゃん。
それ、単に同じ所をぐるぐる回るだけで、その先の未来に進むとか有り得ないじゃん。
…と、まともな人間なら気付くはずw
つまり、「過去を破壊する」というのは、同時に「未来の破壊」を意味する、非常に危険安易な発想、
先進どころか後退です。
 "新時代" とは、過去の成功に学び、過去の失敗を教訓とし、過去という土台の上に築いて行くものであって、
そうすることで初めて、確かな進歩となり未来となるのです。
 現に、いにしえを軽視して、過去を破壊するだけの大名たちは、
一見先進的で他を凌いだように見えても、「一瞬の栄華」の後、悉く没落していきました。
 逆に、古い秩序や文化への敬意を忘れずに未来を築いていった大名たちが、
領国に「永い繁栄」をもたらした事実を鑑みると、
いにしえという根源があるからこそ、先進的な未来が生まれるのだと言えるでしょう。


…ってかだんだん、何その禅問答、みたいな話になってきましたが、
最古(の国)から生まれる最先端(技術)と捉えると、ちょっと今の日本に通じるところがありませんか?
科学の分野で遥か先を進んでいた西洋に、遥か後ろからスタートした日本が短期間で追いつくことが出来たのは、
勤勉性もさることながら、「根源・根本を重視する気質」を持っていたからではないかと思うのです。
上辺をなぞるだけでは、真似は出来ても発展は望めません。
科学分野での成功は、長い歴史で培われたそういう精神的土壌があったからこそ可能になったという気がします。


 そして、そんな気質を裏付けるのが、鎌倉・室町時代、
特に室町時代に幕府の庇護のもと武士の間で『禅宗』が大いに広まり発展したという事実です。
 禅宗はもともと、インドから大陸を経て日本に伝わった仏教(大乗仏教)一宗派ですが、
今の感覚で言うと、宗教というより哲学、自己の精神修養・陶冶といったものに近いですかね。
第一、あれを信じろとか、これさえ唱えりゃいいとかいうものがありません。
というかそもそも、教義を文字で記した経典というものがありません。
 (「教外別伝」(きょうげべつでん)「不立文字」(ふりゅうもんじ)と言って、
  悟りは文字ではなくで伝えるものだから。)
ただひたすらに自己の中の仏性を見出すのが目的です。
 (それが悟りとなるのです。
  「直指人心」(じきしにんしん)「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ)と言います。)
私なりに解釈するなら、
「自己の中の宇宙をまさぐって根源・真理を探る」といった感じでしょうか。
 (なんか適当なこと言ってたらすみません。)
そういう訳で、悟り・真理は、上や外から "授かる" ものではなく、"自分の中にある" ものなので、
「有難い教えをそのまま素直に信じてナムナム」で済む訳はなく、
をフルに働かせなければならないので、かなり自身に厳しいものであると言えるでしょう。
 そして、そんな禅宗が武士たちに大いに受け入られ隆盛したということを考えれば、
自ずから、この時代の「武士の気質」の一端が見えてきます。
彼らは、自身を厳しく律し、より高次の精神を求めて修養を怠らず、悟り・真理を掴むべく精進し続けたのです。

…って、うん、まあちょっと言い過ぎたかな。
中には、「おめー本当どうしようもないな!」みたいなのもいるしね。うん。
 でも総じて、「当時の武士の教養は高かった」、
もしくは「高い教養を身に着けるべきという風潮があった」のは事実です。
力だけあっても武士とは言えません。
常に己の精神の向上を追い求めてこそ、本当の武士と言えるのです。
 どんな史料からそれが読み取れるのか、そして彼らの価値観・道徳観はどのようなものだったか、などなど、
そういう、室町時代の武士の "精神的・文化的側面" についても、
このサイトで積極的に言及していきたいと思います。


 ところで、この禅の精神、文化に与えた影響も計り知れないのはご存知でしょうか。
「言葉で理解しようとするな!感じるんだ!!」とかいって、その教えを文字にしなかった代わりに、
その心を伝える手段として、庭園に、建造物に、水墨画に、茶の湯に、立花(たてばな)に、
『禅の極意』が反映されたのです。
 京都のどこかのお寺の枯山水(かれさんすい。の流れ、少しの植物で山水を表現した庭)を見て、
「ぬおーーっ宇宙が見える!」とか思ったことはありませんか?
「やばい、厨二病こじらせたかも。終わた…」と悲嘆に暮れることはありません。
そもそもが、禅の極意を伝えるために作られたものですから、
そこに宇宙を見出すのは、むしろ正しい鑑賞法なのです。
目に見える石、砂、苔が全てではなく、そこに秘められた「悟り」こそが真意
それが禅院(禅寺)の庭園なのです。
 茶の湯・立花は、現在の茶道・華道へと進化していく訳ですが、
これも単に「お茶がおいしい、花が美しい」で完結するのではなく
それが「悟り」の為の存在である、という真意に大きな意義があります。
主役はあくまで、味覚や視覚といった五感で得られるものではなく、目に見えない「禅の心」なのです。
 (※参照…『夢中問答集』
  これは、禅僧の夢窓疎石(後述↓)と、足利直義の問答集。
  非常に重要な書物なので、この先ちょくちょく言及します。)

 (※ちなみに、茶の湯(茶道)って、戦国末期の千利休とか戦国武将が発祥というイメージがありますが、
  実はその興隆は室町中期に遡り、その発展の謎には歴代足利将軍が大いに関わっているのです。室町パネェw
    参照…【永島福太郎『茶道文化論集 上巻』(淡交社)1982】
  茶の湯については、また追々言及していきますので、公方=お茶好きくらいに思っといて下さい。)


 さて、これらの禅の影響を受けて室町時代に発展した文化、どれも日本文化の原点を成していると思いませんか?
平安京の華やかな貴族文化や、江戸時代のにぎやかな町人文化も素敵ですが、
やっぱり、侘(わび)寂(さび)の閑寂な世界と、どこまでも奥深い真意を秘めた幽玄な静けさの中に、
「ああ、やっぱこれだな。なんだかんだいってこれだ。んだんだ」みたいな、
日本的美意識の原点に帰ってきたような、懐かしさ安心感があるように思います。

 だがしかし!それが、室町時代の京都生まれだってこと、いったい誰が気にしてくれているでしょうか?
まあ、私も今の今までスルーしてたスルー筆頭人なんで、偉そうな事は言えませんが、
こんな素晴らしい文化が生まれたのも、その起因するところは、
  歴代足利将軍が『禅宗』に厚く帰依したこと、
  当時の武士たちの高い精神性、
  鎌倉以来の質素堅実な武家の気質と、文化を楽しむ公家の気質とが融合したこと、
などなど
つまるところ、室町時代だからこそ、生まれ得た文化だと言えるのです。

 だから「公家+武家 in 京都ネタ」でどこまで引っ張る気だよ、とか思われそうですが、
でもさ、京都を訪れる人々のいったい何割が、京都に武家っぽさを感じてるのかっていう話なわけですよ。
 「京都の(みやび)な古都の雰囲気が大好きです!」とか、
 「ほっこりしたくて京都に来ました!」
とかいった意見が大半ですよ、私の脳内アンケートでは。
禅院で枯山水を眺めて「ステキ!」とか感じても、
その繊細な文化の原動力が武家だったなんて、思い及ぶ人は少ないですよね。
「え、京都に武士幕府?  やだ野蛮。そんなの京都じゃない」とか言わないで下さい。 繊細な武士が泣きます。
 確かに京都は、1200年前の平安京に始まる古都であるし、
江戸時代に栄えた花街・祇園の今に伝わる華やかさもずっと大切にしていきたいものです。
 しかし、その間に公家と武家が織り成した "不思議な時代" があったこと、
そして、その時代の影響が、
意外にも今の京都に多く残っている(いやもしかしたら、一番強い影響を与えているかも知れない)ということ、
あまり意識されていないですよね。


 例えば、禅の精神世界を表した庭園の素晴らしさで有名な『西芳寺』(通称:苔寺)。
ここは、室町時代最初期足利尊氏・直義の時代に、
夢窓疎石(むそうそせき)という禅僧によって再興・造園されました。
この夢窓疎石さん、ずば抜けた高僧でして、足利兄弟はもとより、
後醍醐天皇、光厳上皇、光明天皇をはじめ、その後も歴代天皇から崇敬を受けており、
時の権力者に仰がれて、指導的立場で政治にも参加していました。
 (本来、 "夢窓国師" という尊称で呼ぶべき人ですね。
   (※国師(こくし)…朝廷から高僧に贈られる称号。)
  この人はマジで凄いですよ。 敵味方入り乱れた時代に、両陣営の天皇・武家から崇敬され、
  それでいて欲は無く、心は正しく、ひたすら誠意を尽くして民衆の教化に努めた、知れば知るほど凄い人。
  特に、室町という新しい時代は、
  鎌倉幕府滅亡以来の、本当に痛ましいほどの犠牲者の上に成り立っている訳ですが、
  動乱の世に散っていったすべての者達の為に、
  夢窓国師足利尊氏・直義兄弟が行った一連の「国家的慰霊事業」の数々、
  その歴史的意義は、計り知れないものがあります。 (でも、ほとんど知られていない…)
  その上、いわゆる「日本の禅」の原点は、この夢窓国師にあると言われているのです。(これも…)
  ちなみに、夢窓国師は、足利尊氏・直義兄弟を非常に高く評価しています。嬉しいですね。)


 当時の夢窓国師のような高僧というのは、宗教家と言うより学者にも近く、
漢籍(大陸の古典)などから相当な知識を身に付け、
また仏教の経典をもとに人の本質を探り続ける姿は、哲学者ともいえます。
つまり、高い教養と民への慈悲、道理、理想の国家像という、優れた政治家の条件を兼ね備えていたんです。
 (※禅宗自体は経典を持ちませんが、禅僧は仏教の様々な経典から広く学んでいます。)
 そんな高僧、夢窓国師が作庭した『西芳寺』ですから、素晴らしくない訳がない!
禅の世界を余すことなく表現したその庭園に身を委ねれば、あなたは宇宙となり、宇宙はあなたとなる!
…って、知ったようなこと言ってすみません、残念ながら私行ったことないです。
しかも、参拝は事前予約が必要だったりしてハードル高いです。
 しかし!心配は要らない!!
この西芳寺の庭園は、以後の禅宗的な庭園に多大な影響を与え、その原点・最良の模範となったので、
他寺院の庭に、その面影を見出すことが出来るのです。
 上述の北山殿(金閣寺)造営の際も、義満は西芳寺を模範にしていて、
また、京都の金閣寺と言えば、並び称されるのは銀閣寺ですが、
これは、正式名称を『慈照寺』(じしょうじ)といい、
8代目将軍足利義政(よしまさ)が、3代目義満の北山殿に倣って、東山の地に造営した山荘で、
やはり、西芳寺が模範とされました。
 (ただし、庭園は江戸時代の改修がやや入っているとか。)

京都 『慈照寺』(銀閣寺)
  (※東山殿改め、現在の『慈照寺』(=銀閣寺)(左)と、
   放心状態の主(あるじ)、義政(右)。
   隣で心配しているのは、東山時代の義政の側近中の側近で、テラ忠臣の伊勢貞宗(いせ さだむね)。)



 ところで、相国寺のHPを見ると、金閣寺銀閣寺が併載されていて、
三者の関係を知らないと、ちょっと「ん?」となりますが、これで謎が解けたと思います。
義満の『鹿苑寺』(金閣寺)も、義政の『慈照寺』(銀閣寺)も、
足利家の菩提寺として建てられた『相国寺』の、塔頭寺院の一つだったという訳です。
 (※塔頭(たっちゅう)…大寺院に属する子院のこと。)
 (ちなみに、足利家の菩提寺としては、もう一つ "重要な寺院" がありますが、これは後述!)

 さらに、再び室町時代の初めに戻りまして…嵯峨嵐山にある『天龍寺』
これは、奈良の吉野で崩御された後醍醐天皇の菩提を弔うために、
夢窓疎石を開山(=寺院の創始者、開祖)として、初代将軍足利尊氏・直義が建立した禅院で、
その庭園は夢窓疎石によるものです。
 (『天龍寺』は、庭園も素晴らしいですが、その存在自体が、歴史的に非常に重要な意義を持つ寺院です。)
その他、著名なところでは、
『大徳寺』の塔頭寺院『大仙院』『龍源院』の庭園や建築も、
禅の精神が尊ばれた室町の時代背景を、よく今に伝えてくれます。
 (『大徳寺』自体は、鎌倉時代末期・室町時代直前の設立の禅院です。
  「大徳寺+室町時代」と言えば …一休さんですね! まあ、『応仁の乱』の頃はおっさんですが。
  ちなみに、一休宗純和尚ゆかりの塔頭『真珠庵』は、朝倉家とも関係が深いんです。 ま、詳細はいつかまた。)

 とまあ、ざっと挙げただけでも、室町時代の痕跡って意外なほど多いんです。
しかも、西芳寺、天龍寺、鹿苑寺、慈照寺は、揃いも揃って世界遺産ですからね。
自信持てよ室町!! と言いたくなります。

 このところ、世界からも注目を集めているとかいないとか云々な「禅」ですが、
数百年前の庭園に託された、言葉では伝えられないその心は、そのまま、
常に精神の高みを目指し続けた武士たちの心に通じています。
 もし彼等に、根源・真理人間性への「飽くなき探究心」がなかったとしたら、
自己に厳しい修養を要求する禅宗は、他の仏教の諸宗派に埋もれて、
文化に影響を与えることもなく衰退していたでしょう。
逆に言うと、数ある仏教の諸宗派の中で、禅宗が最も武士の心に適合したものだったと言えるのです。
 (…と言っても、彼らは、基本的に他宗にも寛容で、排他的だった訳ではありません。
  特に、室町幕府顕密寺院(主に、真言宗や天台宗の寺院)とは、禅院と並んで密接な関係にありました。
  仏教と共に、日本人ですから当然、神々も敬います。
  良いものは分け隔てなく受け入れ尊ぶ。 古来、「和」を得意とする、この国の好い所だと思います。)

 私は、この「禅」に少しでも興味を持ってくれる人がいる今、
「禅ってなんだろう?」と問い直してみるとき、
それが尊ばれ繁栄した時代、それを担った孤高な武士たち、そういった歴史背景を含めて考えることで、
大陸から伝わりこの国で育まれた "日本的な禅" の本質が見えてくるんじゃないかと思うのです。

 先に、科学における探究心に准(なぞら)えてみましたが、
科学の、複雑な自然現象を客観的に観察・分析して絡み合った謎を解き、単純な物理法則を導き出そうとする行為は、
禅での、複雑な精神活動を行う自己の心の奥底にある、シンプルな本質を見極めんとする行為と似ていますよね。
 どちらも、"複雑な宇宙" は "一つの真理" から生じたのであり、
一見異なるように見えるものもその根源は同じ、という捉え方です。
『般若心経』(禅宗で重視される大乗仏教の経典の一つ)でいうところの、
 「色即是空 空即是色」、
『維摩経』(同上)でいうところの、
 「不二(ふに)の法門」 「煩悩を絶たずして涅槃(ねはん)に達するのが真の悟りなんだよ!」
っていうあれ。
物理学でいうところの、
 「4つの力はもとは一つの力から生じたんだよ! それが証明できれば宇宙創世の謎が解けるんだよ!
   なんかもう色々分かるんだよ!」
っていうあれです。
 対象としているものが、禅は内なる宇宙、科学は外の宇宙ってだけの違いです。
…って、なんか訳分かんなくなって来ましたが、
まあ、でもあれ、みんな宇宙好きでしょ? きっと当時の武士たちも宇宙好きだったに違・い・な・い!



「そして、京都が語るもの」

 そんな訳で、少しは禅の世界に触れて頂くことが出来たでしょうか?
と、ここで、ちょっと考えてみてください。
目には見えない物事の本質こそを重視し、自己を厳しく修練するのがであるならば、
それに傾倒した武士たちによる政権であった室町幕府は、どのようなものであったかということを。
 ひたすら武威をかざして、権力に酔いしれていただけの支配者だったのか?
 民を顧みることをせず、どこまでも欲深く、「道義」も「礼節」も「天皇への畏敬の念」もなかったのか?
…うーん、そんな底の浅い人たちだったとは考えづらいですよね。
 例えば、「文化 "だけ" は良かった、あとはダメダメだった」と言われまくる8代目将軍足利義政ですが、
実は、晩年まで細々と政務を執り続けていたんですよ。
最後に政務から完全に退いた理由は、とうとう「目が見えなくなってしまったから」。
 そしてまた、義政期に大成した『東山文化』は、
表面の派手さだけで中身のない、悪趣味で奢侈(しゃし)な文化…ではなく、
奥深く真意を秘めた、ではなくで見る文化だった訳ですが、
それは義政の感性も然ることながら、将軍一人で作り上げたものではなく、
公方のもとに、禅僧公家武士たちが集まり行き交うことで醸成されていったものです。
 結果的に『応仁の乱』を招いてしまい、人生後半はほぼ傷心状態だった義政ですが(※参照:上の画像)、
最後まで "公方" であり続けた一面もまた真実。
いつか「文化 "も" 良かったよね」と言われるようイメージUPを図っていきたいと思います。
 (え、うん、たぶん出来る…と思う。たぶん。)

 (ちなみに、室町時代の文化については、
  3代目義満『北山文化』(ちょい派手)と、8代目義政『東山文化』(わびさび)、
  という括りで語られることが多いですが、
  どうやら『東山文化』は、先々代の6代目義教時代に基礎が築かれたらしいことが明らかになりつつあり、
  また、初代の足利尊氏・直義からして、文化的教養が相当に高かったことから、
  室町特有の文化の興隆は、初代の頃からの途切れることない "流れ" であると考えられので、
  すべてひっくるめて『室町文化』と捉えるべき、との提案がなされています。
  大いに賛同します。
  ただ、『室町文化』の一部として、室町中後期の文化を『東山文化』と呼称することは続けたいと思います。
  ま、分かりやすいしねw しかも、みんな大好きな「んだんだ日本文化」だしね。)



 という訳で、ちょっと抽象的な話が続いてしまいすみませんでした。
何が言いたかったかと言うと、つまりは、

    「室町幕府ってぇのはよぉぉーーっっ、京都にあったんだよっ!!」

ってことです。
え、んなこと知ってるよタコ! とか返されそうですが、
重要なのは、それに起因するこの時代の珍妙な点です。
そして、今なお残るその面影を、私たちは現在の京都で感じ取ることが出来るということです。

 謂れ無き汚名影の薄さを乗り越えて、
みなさんの心に、出来るだけあざやかに室町幕府のイメージが再現されるよう、邁進していく所存であります。

 さて、次の「4 続々々・室町幕府の前半戦」は、4代目将軍足利義持あたりの室町です。

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