TOP > 二、室町幕府雑学記 > 9 室町幕府の『応仁の乱』加速しはじめました
小見出し
「すべては、泰平のために」
「待たせて登場!西国の王子」
「義視、加速する」
「歴史を見る目」
「負けられねんだよ、どうしても」
「天子の決意」
「紅蓮の相国寺、奪還」
「戦に懸けた魂」
「武士には性(さが)ってもんがある!」
「愛読書は、『六韜』『三略』」
「天を読む者」
ところでみなさん、
そろそろあの人のことが気になってきませんか?
超一級の主役でありながら、全然名前の挙がって来ない、
最新鋭ステルス管領(かんれい)のあの人、そう、
畠 山 政 長 です!!
あまりに居るんだか居ないんだか分からないので、
逆に気になってしょうがなくなって来る訳ですが、
もうすぐ一回だけ活躍するから、みんな応援準備、よろしくね!
あ、でも "現時点" での管領は斯波義廉(よしかど)ですよ。
応仁元年(1467)の正月以来そのままです。
ってか、「山名宗全退治」を表明しながら、何でそこはスルーしてんだよ!
と突っ込んでやりたいとこですが、
恐らく義政は、騒乱は一時的なもので、
またすぐ「今まで通りの日常」が戻ってくると、信じていたのだと思われます。
"御旗" を細川勝元に授けたのも(それが正しかったかどうかは別として)、
戦乱の拡大ではなく、早期の終結を願ってのことであり、
6月半ばには、諸寺院に天下静謐(てんかせいひつ)の祈祷を命じていることからも、
戦闘による誅伐の遂行ではなく、和睦による解決を期待していたのだと思います。
(原因作ったのはおまえだろ!という突っ込みはキリが無いので、ここでは割愛します。)
そしてその願いは、
6代目義教の時代から、天下を見守り続けてきた後花園上皇にとっても、同じでありました。
(※応仁元年7月現在、主上は後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)。 後花園上皇は父上です。)
7月初め、後花園上皇は義政に勅使(ちょくし)を遣わして、世上の無為を図るよう伝え、
また、東西両軍にも、三宝院義賢と三条実雅を遣わせて調停を試みます。
(※"勅"(ちょく)とは、みことのり(=天子の言葉、命令)のことで、
勅命(天子の命令)、勅書(勅命を記した文書)
勅旨(天子の意志)、勅使(勅旨を伝える使者)
…など、"勅" がつくものはみんなみことのり関連です。 「勅撰和歌集」とかも。
ちなみに "叡"(えい)は天子に関する尊敬語をつくります。
叡慮(えいりょ。天子の御心、お考え)
叡覧(えいらん。天子がご覧になること)。
"天" も天子の事柄に関する言葉につくので、
天気(てんき)は、「天子の機嫌、気色」という意味にもなります。
また、"宸"(しん)は、もとは天子の居所を表す語ですが、(※紫宸殿(ししんでん)…皇居の正殿)
宸筆(しんぴつ。天子の直筆)
宸翰(しんかん。天子の直筆の書き物。書状、日記など)
となります。
それから、聖人や優れた人物の象徴である "竜"(りゅう)や "鳳"(ほう)も同様で、
(※鳳凰(ほうおう)は、聖徳の天子の兆しとして出現するという伝説上の鳥)
竜輿(りょうよ。天子の乗り物)、竜顔(天子の顔)、竜姿(天子の姿)、竜徳(優れた徳、天子の徳)
鳳輦(ほうれん。天子の乗り物)、鳳詔(ほうしょう。みことのり)
…など。 なんか、かっこいいっすね。
以上、また豆が増えたね! しかも天子様豆知識、ありがてぇw)
この時の和平の試みは、残念ながら進展がありませんでしたが、
後花園帝と後土御門帝、すなわち、嘉吉〜応仁、明応の時代を駆け抜けたこの両帝は、
天下に対する姿勢が正しくかつ大局的で、
時に、強い意志で「徳」を貫く "天子の覚悟" を見せてくれる帝(みかど)であります。
自国の歴代君主にこんな賢主が存在していたなんて、素晴らしい歴史だと思うのですが、
なんか、わりと誤解されていて、
たまにてきとーな考察で貶められている事すらあるのには… ちょっとがっかり&意味不明です。
もちろん、主上だからって盲目的に賞賛するのは、むしろ天意に反するとは思いますけどね。
"真実" に基づく諫言が「最大の忠節」であるのと同様、"虚構" に基づく賛美は「最大の不敬」でしかありません。
歴史というものは、"個人" の思想や宗教で考察するものではなく、
遥か高くに基準を置いた "普遍的" な道理・道徳で考察すべきもの、というのが持論です。
ま、なんにせよ、
自国の良いものは、もっと知ってもっと誇っていかないとね。
特に明応期の秘密は…フフッ
日本というのは、頂点に立つ者が最も徳を尊重しているという、稀有な国だと思います。
さて、飛竜雲に乗るが如く、西国からやって来るあの人も、我が国の誇るべき名君です。
(※飛竜乗雲(ひりゅうじょううん)…英雄が時に乗じて、勢いを得ること。)
断トツの軍事力と経済力、主上や公方への忠誠心もばっちり、民に愛されるのは…すっごく性格が良いからww
(※参照…『拾塵和歌集』『あしたの雲』『益田家文書』などなど。)
――― そんな奇蹟の名将の正体はっ!?
…って、もうばれてますよね、うん、まあ、大内さんなんですけどね。
西からやって来るスケールのでかいやつなんて、大内さんしかいませんしね。
先の伊予国の件で細川勝元とはファイティング済みで、かつ、先代の大内教弘は山名宗全の婿(むこ)ですから、
当然、西軍(一応、賊軍)として参戦して来た訳ですが、
別に世を荒らすつもりも、公方に反抗する気も、さらさら無くて、
義侠心溢れる大内さんは、「困ってるやつ、みんな助けちゃうぜ?」くらいの調子で乗って来たと思われます。
(※義侠(ぎきょう)…強きをくじき、弱きを助けること。男気(おとこぎ)。)
というのも、実際に周防国の山口を立ったのは応仁元年(1467)5月10日なのですが、
この時期は、まだ山名方が上意(義政)を味方につけていた「本戦開始前」なのです。
しかしその一方で、「山名宗全と細川勝元が一触即発状態」
という世上の噂が飛び交ってもいましたから、
京都の泰平を守る平和維持活動、つまりPKOとして出発したのでしょう。
(※PKO=Peace Keeping 大内)
(しかも、実はかなりフライング気味で、2月半ばには既に上洛の噂があって、
細川勝元のブーメランめり込んだ古傷がうずいています。(『大日本史料』応仁元年2月16日))
しかし上洛の途中で、
5月26日の戦闘開始、6月初めの西軍賊軍決定と、情勢は急変、それでも…
「え、なに? 公方様が細川に囚われの身になっただと!? そいつぁいち大事だ!!
(…あれ、でもなんで俺ら悪役、みたいなことになってんの?? うん、まあいっか)」
と、相変わらず正義の味方のつもりだったかと。
(西軍からしたら、"公方の御敵" 認定は謂われなき汚名でしかありませんからね。
この上洛の真意は、本人が後に書状で語っているように、
(※文明3年3月12日付け「麻生文書」(『大日本史料』文明2年6月18日))
「公方様の御役に立つ為」だったのです。)
しかも、ちょっと来てすぐ帰るつもりだったっぽいんですよね。
結局最後まで居座ることになるのですが、
「あー、俺なんで11年もここにいるんだろ。 やべぇ、夢見てたくさいww」
とかいう和歌を残しています。(『拾塵和歌集』)
だいたい、大内さんは、参戦しなければならないような個人的な死活問題は抱えてはいませんからね。
(※伊予国での細川とのバトルは「俺の西国で勝手な事したら、容赦しねぇぜ?」ってだけの話です。)
恐らく、部下思いの大内さんは、
「ああ、こいつらに一回、都(みやこ)ってもんを見せてやりてぇなぁ…(ってゆうか、俺が一番見たい)」
くらいの、思い出作りツアー気分でいたんじゃないかと、個人的には疑っています。
なぜって、大内軍は、意味わかんないくらいの大軍でやって来るのです。
本当に意味不明です。
「公方様への奉公 & 西軍の汚名返上」という目的にしては猛勢が過ぎます。
はやる気持ちを抑えつつ、兵庫の港に到着したのは、7月20日のことだったのですが、
ノリノリとかいうレベルじゃないです、もうジェットストリームノリノリ。
なんたって、周防、長門、筑前、筑後、安芸、豊前、石見、伊予、の8か国の軍勢!
その数数万、数知れず!!
陸衆、海上衆、さらには海賊衆の野上、倉橋、呉、警固屋まで引き連れて、
船にして、大舟500〜600艘。(『経覚私要鈔』) 一説に2000艘ww (『大乗院寺社雑事記』)
(おそらく、大小合わせると1000は余裕で超えてたのかと。)
…って、おーい、そんな大軍で来たら大阪湾埋まっちゃうよ! グーグルアースで見たら地形変わってるよ!!
しかも、九州衆(九州の在地武士)に至っては、「悉(ことごと)く上洛」(『経覚私要鈔』)
…って、もう九州すっかすかだよ! グーグルアースで見たら閑散としてるよ!!
もちろんこれ、やたら盛ってる軍記物の記述じゃありませんからね。 日記の記録ですからね。
(詳しくは『大日本史料』応仁元年7月20日など。)
そして…そして、
この、都の人々の度肝(どぎも)を抜き、京都へこんじゃうくらいの大軍勢を率いる一人の総帥、
海風を切ってやって来たのは、周防国大内家の若き英主 ―――
大 内 政 弘 22歳!! (※満20歳。) (『大乗院日記目録』)
うわぁぁぁーーーーww ようやく出番来た!!
もう待たせ過ぎだよ! 大内さん来ないと祭り始まらな…じゃなくて、話始まらないよ!!
大内政弘(まさひろ)は、もう存在が伝説レベルですよ。
すっげぇ良いやつエピソード満載で、知らなきゃそんそん!の国民的名武将です。
このど派手な登場、僅か20歳で見せつける桁外れの統率力、鼻血出る歴史的事件ですよ。
ああもう、みんなも真の歴史に触れて、
この「ちょっ何ww ふざけてんの??」ってくらい、いつでも本気の武士の魂ってのを知って下さい。
ちなみに、山口出発から兵庫到着まで2か月以上もかかってますが、
これは、準備を整えながらの移動だったのと、
京都と情報をやり取りしながら、然るべき態勢を見極めていた為だと思われます。
当時の情報通信事情というのは、現在とはまるで異次元のものです。
インターネットも携帯電話も無いし、映像や画像での伝達も不可、
使者が運ぶ書状と伝聞のみですから、「タイムラグ」や「情報の正確性」という問題を考慮する必要があります。
特に、京都で予期せぬ大事件が起きた時なんかは、
遠く離れた地にいる大名が正確な情報を入手するのは、至難の業(わざ)だったことでしょう。
この点は、"彼らの気持ちになって" 歴史の謎を解くのに重要なポイントなので、常に心に留めておこう!
(※特に、『明応の政変』では、重要になってくるよ。)
そんな訳なので、当時の日記も、
書き手の立場や交友関係、居住地、有する情報網・諜報員によって、かなり違いが出てくるので注意が必要です。
例えば、同じ奈良の興福寺の僧侶でも、
『大乗院寺社雑事記』の尋尊は客観的であり、天下という視点で世の中を捉えていて、
義就方・政長方の双方の衆徒国民(大和国人)に中立的ですが、
『経覚私要鈔』の経覚は、どう見ても義就方で、しかも、なんか変な話をたくさん書き残しています。
朝倉孝景ネタが多いのも、知人の武勇伝にわっくわくしていた様子が窺えますが、
6月20日にはとうとう、
「ちょっと『応仁の乱』見に、京都行って来るっ! キャピ☆」
とか言って上洛を企て出したもんだから、焦った尋尊(38歳)は、
「ちょ、まずいですよ! 義廉と知音なんだし、使いの楠葉は孝景と親しいし、デンジャラス過ぎますって!
成身院光宣が、ダメダメ絶対だめぇぇーーー!!って言ってましたから!」
(※知音(ちいん)…よく知り合った友人。親友。)
と、いい歳してはっちゃける師匠(73歳)に、ひと苦労。
(ちなみに、前線で戦う成身院光宣は78歳w そして、経覚は成身院光宣とあまり仲が宜しくないw)
仕方なしに断念したものの、経覚は、
「ええー、別に弓矢取って参戦する訳じゃないんだしさー、ちょっと応援したくらいで何の問題があるのさ!」
と、不満げでしたが、
でも、義就・孝景なんて応援したら、細川ならミサイルくらい飛ばして来ると思うぞ。
ちなみに、経覚は長禄4年(1460)、義就討伐のため大和国に入国する畠山政長の軍勢を、
わざわざ輿(こし)に乗って見物に行っています。
(※輿は、当時の貴人の基本的な乗り物。 江戸時代の時代劇でよく見る駕籠(かご)とは違うものです。)
実は、当時の武士ってのは、心だけでなく、身なりの美しさにも気合を入れていて、
右大将拝賀などの儀式の時はもちろん、出陣の時も、その行粧は人目を驚かせました。
(※行粧(ぎょうそう)…外出する時の装い、出で立ち。)
現在でも、博物館に行って見れば分かるように、
武具というのは、単に身を守る事だけを目的としたものではなく、繊細な装飾が施されているものです。
だいたい、当時の最も格式の高い甲冑(かっちゅう)である『大鎧』(おおよろい)なんてのは、
背中に「総角」(あげまき)という、でかいリボンがついた『大萌え鎧』ですからね。
古来日本人は、実用だけでなくデザインにもとことん拘(こだわ)る国民性だったのです。
では参考に、彼らの出陣の様子を詠った歌を。
匂いけり 箙(えびら)に梅を さし添えて 華やかなれる 武者の出で立ち
(出典:明応期のとある和歌集)
(※箙(えびら)…矢を入れて背中に背負う道具。)
…なんか、のん気っていうか、陽気っていうか。 これから戦だってのにw
まあ、そんなんなので、武士が道行くときは、ひと目見ようと人々がわんさか集まってくるのが常でした。
ちなみに、
上記の畠山政長の出陣に先立って、河内国に落ちいて行った畠山義就一行の行粧については、
「衆人令称美云々」 (みんな、褒め称えてたよ!) (『経覚私要鈔』長禄4年9月26日)
…ってか、義就はこれから没落しに行くとこだよね? ね?
という訳で、室町武士の美意識の高さが分かる豆知識でした!
この時期の文化、すなわち『東山文化』は義政の審美眼ばかり注目されますが、
将軍だけでなく、大名もその家臣も、みな美学を持っていたからこそ、洗練された文化が発展したのです。
武士というと、(どちらかと言えば)粗野でむさ苦しいイメージがありますが、
実際は、非常に美しい外見を善しとしていた、という訳です。
これでまた、室町侍の正体に一歩近づけたね! …いや、ますます謎めいて来た模様。
さて、だいぶ話が逸れましたが、
兵庫に上陸した大内軍は、さっそく山城国の京都を目指して前進を始めます。
…ってことはつまり、細川勝元の分国、摂津国を思いっ切り横断することになる訳ですが、
もちろん、勝元は配下に「大内上洛、断固阻止!」の命令を出して、なんとかお帰り頂こうと頑張ります。
しかし、動き出した大内軍を止められはしないことなど、小学生でも分かる訳で、
ちゅどーんっ!ちゅどーんっ!と京都への歩道を整備しながら進む大内軍は、
(※摂津での戦闘…『大日本史料』応仁元年8月3日、10日)
とうとう、8月23日、
「よう、待たせたなっ!」
ご到着ーーー!! 西軍大歓喜www
(※この日を待ち侘びていた西軍の気持ち→『経覚私要鈔』応仁元年6月4日、8月4日
…期待されるとつい張り切ってしまう、室町の義軍 PKO-uchi。 ←ここ、40年後もポイントだから!)
「大内猛勢上洛」(『後法興院記』)と伝えられた彼らは、まず東寺に布陣、
9月に入ってからは船岡山に移動します。
さあ、いよいよ京都もぎゅうぎゅうになって参りました!
ってか、細川勝元どーすんの!? これホントどーすんのよ!??
2年前、うっかり伊予国にちょっかい出しちゃったもんだから、河野通春もめっちゃ大内軍で張り切ってるよ。
大内軍ってか、自国の軍だけじゃないからね、周辺諸国から参加者集まっちゃってるから、
これもう、大内連合軍だよね。
西国の万乗を率いる、満20歳の大内家当主!とかもう、何それかっこいいww
これぞまさに―――「 西国 万乗の君 」!!
(※万乗の君(ばんじょうのきみ)… 一万の兵車を出せる大国の諸侯。 後には天子のことも言う。
"乗"(じょう)とは、兵車と兵数を表す語。 「万乗」は、戦車1万台と兵士100万人。)
……。
そんな訳で、細川勝元は思案した。 この難局を、どう華麗に乗り越えたらいいか?
そして閃いた、
「…勝てぬのなら――― 負けなければいいのだ!!」(ピコーーーン)
大内軍が入洛した同日の8月23日、
天下大乱により、主上と上皇が、三種の神器とともに『室町殿』に臨幸(りんこう)します。
(※臨幸…天子が外出して、その場に臨むこと。)
これは、安全の確保という理由と共に、
主上・上皇を西軍側に取り込まれないようにする為でもありました。
これで東軍は、主上・上皇・室町殿、すなわち「日本国の全正当性」を味方につけたことになります。
……。
さて、西軍いきなりピンチの予感。 …って、逆転早ぇよwww
軍事力で圧倒されながら、絶対に負けない東軍…。
な、なんてややこしいことになってしまったんだ。
これはつまり、いよいよ両軍引くに引けなくなってしまった事を意味する訳で、
世界はもう、誰が望むでもなく、未来へ向かって加速するしかなくなってしまったのです。
さてみなさん、そろそろあの人が覚醒してもいい頃だと思いませんか?
派手にコケるには、助走が必要ですもんね。
という訳で、未来へ加速、第一弾はこの人!
足 利 義 視 です!! ( …畠山政長だと思った人! ごめん、もうちょっと待ってw)
これまた同日の8月23日の夜、義視は密かに京都から姿を消しました。
…って、うえぇぇーーー!??
「宗全退治」の総大将じゃなかったっけ??
ええ、そうなんですけど、真面目な義視には、
本音と建前の交錯する『室町殿』の内情が、理解不能だっただろう事は想像に難くありませんが、
それだけではなく、その身に危険が及び始めていたのです。
実は、8月23日は、御所(=『室町殿』)でこれまた物騒な事件があって、
山名方に引汲する義政の近習が、細川方の近習を追い出して合戦を開始、
義政を支持する山名方の者も乱入して、あわや細川勝元万事休す!
…の、加速ってかいきなり暴速な事態が発生したのです。
細川軍が御所を取り囲んで、結局大事には至らなかったものの、
山名方めっちゃ支持の経覚にさえ、日記で「勝元…不便(ふびん)」とか書かれちゃう世知辛さ。
しかし翌24日、今度は、山名方内通の近習が、細川方によって御所を追われ、
その途次、糺河原で3、4人が闘って討死にし、20数人が落ち延びていきました。
これは、細川勝元の訴えにより、義政が命令を下したものだったとの事です。
…な、なんという厄介な御所事情。
すみません、なんか説明されても訳分かりにく過ぎますよね。
つまり、『室町殿』内部では、山名方に心を寄せる者が多く、細川勝元の振舞いに不満を募らせていたのです。
上記は日記の記録ですが、『応仁記』(一巻&三巻)の記述が詳しくて参考になると思います。
…それによると、
「幕府内部の山名方内通者が、細川方に謀反を企てている」という情報があり、
細川勝元が大軍で御所を取り囲んで、出入りの者のセキュリティチェックを行い出したので、
あまりの物騒さに、義政が「謀反人の名を調べて通達すれば、上意によって追放する」と約し、
それを受けて、8月23日に12人の近習を通告、…しかし、追放を迫られてた12人は納得がいきません。
それもそもはず、彼らの言い分は、
「西軍贔屓してんの俺らだけじゃないじゃん!
公方様が山名方に心を寄せてるから、俺らも上意を尊重して西軍応援してる訳で、
陰でみんな、西軍が勝てばニヤっとメシウマしてるし、東軍が勝てば「けっメシマズ!」ってしてんじゃん!」
……。
つまり、義政のせいかぁぁーーーーー!!
ああもう、何それ!
しかも、義政が、細川勝元に対して「謀反人の追放」を約束したのも、
勝元の怒りを鎮める為のその場しのぎの対処であって、機を見て、そのうち召し返すつもりだったらしいのです。
義政が山名方に引汲していたのは、日記の記録で明らかですから、
この『応仁記』の記述の信憑性は、高いと思います。
この12人は、
「日頃山名贔屓の上意も、思えば風の前の浮雲の如く、今となってはどこに流れていくか分わからんし…
ぬおぉーーっっこうなったらもう耐え忍んでもしょうがねぇ!
御所に火かけて細川と刺し違えてやるっ!!」 (『一巻本応仁記』)
と、討死にも辞さない覚悟だったそうですが、
ああ、うん、気持ち分かるよ。
山名にも細川にも近習にもひたすら八方美人の公方に、全関係者が被害を被ってるという笑えないお話。
事態の収束を願ってはいるのだろうが、招く結果はまるで逆。
ああ、分別無き慈悲の罪深さよ。
…という訳で、義視が8月23日の夜に京都から姿を消したのは、この騒動と関連があったのです。
これより2か月と少し前の6月11日、『室町殿』内部の山名方内通者(女中や近習)が追放されたことは、
既に述べましたが、
その翌月の7月13日、義視は一旦『室町殿』を離れ、今出川の御所(=三条実雅邸 かつ 義視んち)に帰っていました。
(これは、優しい義視が、気詰まりする義政の心中を案じてとった行動なのですが…
どうやら、女中たち(恐らく御台含む)に不都合な問題があったそうな。)
しかし、いよいよ世上の物騒さが特盛りになって来た8月20日、
義視は、再び『室町殿』の義政の所へ赴こうとしたのですが、
細川勝元に(おそらく「御所は山名方引汲者が多くて危険だから」と言って)差し止められ、
(※義視と細川勝元は、共に東軍なので味方です)
そして上記の、セキュリティチェック → 12人の山名方近習の通告 → 8月23日、細川勝元反撃を食らいかける
と事態は急変していく訳ですが、
東軍の大名頭である細川勝元のピンチは、東軍の総大将である義視の危機にも等しい…
義視はここでなんと、自害の覚悟までするのですが、
「公方様(=義政)の為にも、それだけはお願いやめてぇぇーーっっ!!」と周りに止められて、
「うん、それもそうだな」と思い直した義視は、
義政に書状で「御所に祗候出来なくてごめんね、ちょっと出かけるけど心配しないでね!」的なことを伝え、
その夜、密かに京都を後にしたのでした。
(※以上の18行は、『都落記』の記述を元にした解説ですが(&少しだけ『応仁別記』)、
これは、義視自身の手記で、自筆といわれる原本が現存しています。
詳しくはいずれまた紹介しますが、
『都落記』によると、義視は終始、兄義政に忠誠心を抱いていて、
義政は義政で、京都を去った弟義視を心配し続けていたそうなw
『応仁の乱』では一般的に、義政と義視は敵対し互いを憎んでいた、と思われがちですが、
実際の当人達の本心は、正反対だったのです。 (←意外な事実ですが、ここは重要ポイントです。)
…ただし、義視は曲がった事が大嫌いな直球公方ですから、
義政を慕いはしても、義政周辺の腐敗した側近達を見過ごせるはずはなく―――
ま、続きはこの後でw
さて、『都落記』については…
【和田英道『足利義視『都落記』について 付・尊経閣文庫蔵『都落記』翻刻』
(『跡見学園女子大学紀要』第13号 1980年3月)】
をどうぞ。 ―――2015.3.22追記 )
ああしかし、八方美人義政の茶番劇のせいで、義視の身が危険に晒されるとは… どうにも納得いかないw
この時義視が避難した先は、伊勢国の北畠教具の館だったのですが、御供の者も少なく、
心許ない旅路だったそうです。
…以上、『応仁の乱』が加速をはじめた "なんてこった記念日" の8月23日でした。
義視はこのまま1年以上、伊勢国で充電期間を送りますので、帰京の日を楽しみにしていて下さい。
それから、この可哀相な12人の中の一人に、伊勢貞親の弟の伊勢貞藤(さだふじ)がいます。
彼はこれまでも、義政の近習として重職を務めてきましたが、
復活義視と共に覚醒しますので、そちらもお楽しみに!
思えば去年の今頃は、伊勢貞親を相手に『文正の政変』で盛り上がっていた訳だけど、
あの「世紀末体験」が、まさかの「所詮、前夜祭」だったとは…
翌年こんな大物が待ってるなんて聞いてないよ!
ああ、今年もまた、俺たちの夏祭りって一体…
さて、そうと決まったら加速するしかねぇ!!
…と思っていた訳ではないでしょうが、
でも、東軍も負ける訳にはいかないし、
かといって西軍も、公方は内心では自分たちに味方してるのに、東軍に対して降参する、なんて有り得ないし、
この時点で、両軍に和解の道は有り得たでしょうか?
そんな妙案があったら私が知りたいとこですが、
しかし、そういう「もしも…」を考えなら史料を読み解く事はとても大切です。
なぜなら、「なぜ他の方法を選ばなかったのか?」「もしくは選べなかったのか?」
「こんな時、普通ならこう考えるんじゃ無いだろうか?」「彼らが望んでいたのは、本当は別の方向なのでは?」
…という多角的な「もしも…」を考えながら "いくつもの仮説" を立てることで、
彼らがたどることとなった "ひとつの現実"、その真相が見えてくるからです。
言い換えれば、一次史料の個々の事実を元に、
(考えられ得る)ありとあらゆる仮説を立てて、他の全てを否定して残った一説が「真の歴史の正解」となる訳で、
一次史料から集めたピース(個々の史的事実)を、正しい完成図(学説)に仕上げる為には、
「どれだけ多くのパターン(仮説=ピースの組み合わせ方)を想定出来るか」という能力にかかっている、
とも言えます。
これはなぜかと言うと… 意外かも知れませんが、
一次史料である個々のピースには、実は、様々な組み合わせの可能性(&解釈の仕方)が存在し、
ただ順番に並べただけではほとんど意味を成さない(=史実といえる完成図にはならない)のです。
しかも、それらのピースの組み合わせ方は非常に複雑で、かつ、
少しでも間違うと(or 1個ピースが欠けただけでも)、
全く違った完成図(学説)が導かれてしまう、という非常に厄介で難易度の高いパズルなのです。
(何たって、ピース(一次史料の個別事実)の解釈によって、
その組み合わせ方が変わる or 組み合わせ方が解釈に影響を及ぼす上に、
あるピースの解釈&組み合わせが、全く別の複数のピースの動向を条件付けたりもするので、
例えるなら、
「3次元空間で刻一刻と変形する無数のパーツを同時に正しく連結させて3Dロボを完成させる」
みたいな、無理ゲーに近い作業を脳内で繰り広げなければならないのです。
しかも、一箇所間違えば、その影響が他の全てに及ぶからそこで強制終了w
さらに、脳内作業ゆえ妄想の誘惑が付きまとうが、徹底して論理的思考を貫かなければならない、
という。)
(…もっと言うと、「複数の仮説を立てる」過程で、可能性に見落としがあってはならないし、
「そこから選んだ最も正しい説」=「完成図」には、当然、考察に穴があってはならないので、
これを例えるなら、
「ただでさえ無理ゲーな3Dロボを複数体、脳内で同時に組み立てるという過程において、
矛盾が生じたものを次々に淘汰し、その都度、新たな改良版ロボを試作しながら、
性能テストを幾度と無く繰り返し、あらゆる可能性を尽くした末に残った最後の一体が、
最も理論的に正しいガンダム…じゃなかった、真の完成図である」
という事になります。
このように、現在の実証的手法による歴史学は、ほぼ科学的思考を要します。)
これが、歴史学において多くの学説が並立する理由で、
研究途上の段階では、様々な仮説が生み出され、その中で議論を尽くしていく訳ですが、
しかしやはり学問ですから、どの説を信じるかは人ぞれぞれ!…でいいはずはなく、
最終的には、論理的に最も正しいと思われる "一つの学説" に収束しなければなりません。
ただ…室町時代は、幕府創生期も『観応の擾乱』も『応仁の乱』も『明応の政変』も、
特に戦国期において顕著ですが、
(多分に非論理的な)「虚構完成図」が優勢を占めてしまっているように思います。
(やはり、知らず知らずのうちに主観が入ってしまうのが原因かと。)
もちろん、虚構だと割り切って "エンターテイメント" として楽しむのは大いに結構なことですが、
それを "学問" において史実(通説、定説)としてしまうのは、
いやいやいやちょっと待ってよ?そりゃ無いだろYOU?…と思わずにいられません。
もちろん、残された史料には限度があるし、
"完璧に正しい過去" を再現するのはまず不可能だけど、
それでも、力の限り手を伸ばして、
ほんの指先だけでも真実に触れることが出来たら…それが歴史のロマンというものです。
まあ、逆に言うと、この時代は一次史料の中に「まだ解明されていない真相」が眠っている可能性がある訳で、
みなさんも、こんな愚説はほどほどにして、各自で一次史料に没頭してみて下さいw
ついでに… 考察の際の注意点として、自戒も込めてもう一つ挙げておきますと、
「脳というものは、"知らない部分" を勝手に妄想で穴埋めし、知った気になってしまう
(そして、それが客観的にも正しい事実だと認識してしまう)」
という事実があります。
だから、まだ知識が浅い段階で思い付いた仮説は大抵、後で恥ずかしい間違いが見つかりますw
(私は、しょっちゅうそれで「あああああーーーー」となっています。)
閃きに頼らず、自説に誤りがある可能性を常に意識し続けることが重要です。
史料を読み解く際のコツとしては、「疑問を持つこと」これに尽きます。
「なぜそうなったのか?」と考えながら読むことで、
表からは見えない因果関係や、隠された真意が浮かび上がって来るからです。
しかし―――
脳というのはこれまた厄介なもので、(真意はどうあれ)これが事実だ!と目の前に示されると、
それを、常識として無批判に受け入れてしまうと同時に、
不都合な部分(=常識的に考えて矛盾する部分)は、無意識の内に切り捨ててしまう、つまり、
「勝手に辻褄を合わせてしまう」のです。
な、なんたるご都合主義ww
だから、普通に考えたらおかしいという部分でも、そのままでは疑問を感じてくれないし、
それどころか、ほっとくと勝手に事実を取捨選択して、都合良く話を構築してしまうので、
研究に際しては、能動的な思考を保つことが強く求められます。
(特に『観応の擾乱』では、
辻褄が合わなくて放置されてしまっている部分(もちろん一次史料の記述)が多く、
初代将軍足利尊氏の真意が、実は未だに闇に包まれた状態なのです。)
…という訳で、歴史の謎解きに挑むのに必要な装備とは、
実際の史料から集めた出来るだけ多くの知識はもちろん、
あらゆる可能性に気付ける洞察力、正解を嗅ぎ分けるセンスと、自説に驕らない慎重さ、
考察を何重にも重ねて精度を上げていく根気、脳のご都合プログラムを凌駕する思考力……
…って、この無理ゲーはどんだけ高スペック要求すりゃ気が済むんだよああもう「ああああーーー」
となって来ますが、しかし心配は要りません、
これらを一挙に解決する秘策があります、それは―――
登場人物、すなわち室町キャラを好きになること
センス際立つ着眼点、理論構成が素晴らしい珠玉の論文・文献の筆者は例外なく、
室町への愛に溢れていますw
さて、話を室町に戻して…
『応仁の乱』について、一般的な解釈では、
「西軍が幕府に対して反乱を起こしている」
と見られることが多いようですが、それは大いに誤解です。
彼らは、細川勝元のやる事に反抗しているのであって、公方に敵対する意志は無いのです。
基本的に、室町幕府の大名たちは、足利家の将軍を大いに敬愛し慕っています。
単に、利害だけで幕府に従っているのではないのです。
彼らは、勝手な事はやらかすし、言うことは聞かないし、本当に困ったやつらだけど、
自分の先祖が、初代将軍足利尊氏に忠節を尽くしたことを、
いつまでもいつまでも誇りに思っているような、愚直な者たちなのです。
(※こういった感覚は、当時の手記、和歌、軍記、家伝記の端々から読み取れます。)
武士たちの、この理屈じゃない素直な感覚は、是非心に留めておいて下さい。
ここを押さえておくと、一見不思議な彼らの行動も、面白いように理解出来ますし、歴史を正しく解釈出来ます。
(※歴史研究において、そういう不確定要素を加味するのを好まない傾向もあるかも知れませんが、
しかし、人間が刻んだ歴史を研究するのに、人間的要素を排除してしまったのでは、
それこそ真実を遠ざけ、虚構に遊ぶことになってしまいます。
一見不確定であっても、そこにすら理(ことわり)を見つけるのが学問というものです。)
戦国期には、そうではない大名が登場し覇権を握ることもありましたが、
すべての武士が主君の恩を忘れてしまった訳ではなく、
公方を中心とした秩序、武士の道義、損得を交えぬプライドは存在し続けていました。
確かに、残酷なことも背徳的なことも罷り通ってしまう時代ではあったけれど、
ビジネスライクに鎬(しのぎ)を削って、権力や領土へ貪欲な野心のみを行動原理とするならば、
それは、本来武士として当然に備うべき「理念」と「礼節」を欠いている事を意味するし、
室町幕府体制の破壊や、際限の無い領土拡大を "先進的" だと評価する見方も、
あくまで現代的価値観の一つに過ぎません。
古来、"守る" ことで未来を築いてきたのがこの国のやり方のはず。 それは、今なお途切れぬ伝統が証明しています。
頑(かたく)ななまでにいにしえを誇る心が "愚か" だなんて、
そんなつまらない話は無いと思う。
戦国末期でさえ、初代将軍の恩義に夢を追い、室町幕府の存続を望んでいた大名もいて、
彼らは、昔の契りに縛られて滅んでいったと笑われるけれど、
他人から見たらガラクタかもしれない、そういう馬鹿な約束を大事にしてしまうのが、武士の本質だと思います。
世界が軋み始めた室町時代後半の入り口で、それでもまだ霞んでいなかった武士の心が、
『応仁の乱』という歴史の中に刻み込まれて、今もその輝きを留めています。
歴史を紐解くということは、当時の彼らに出会うこと。
だとしたら、出来る限り本当の姿に近づきたい、その願い一つあれば、
不可解で無意味と評される戦いの中に、確かな約束が見えて来ます。
という訳で、以上の点を踏まえれば、
公方無き西軍が、戦闘力で優りながら現状が打開できない理由も、
公方無きまま降参する訳には行かない理由も、理解されると思います。
だいたい、自分たちに心を寄せる公方を細川方に奪われたこの状況に、納得なんていくはずありません。
西軍からしたら、御旗を掲げ『室町殿』を本陣とすべきは、本来自分達であるはずなのです。
それなのに、公方どころか、主上と上皇まで先手を打たれ、
もうとにかく、不利だし不名誉だし、「ああもう絶対間違ってる!」
負けないのに勝てない西軍と、勝てないのに負けない東軍、"ねじれた戦い" には終わりが見えません。
9月1日、三宝院およびその周辺が焼失します。
三宝院といえば、6代目義教に仕えた賢臣、三宝院満済が思い出されますが、
醍醐寺の子院である三宝院は、
実は、内裏(場所:現在の「京都御所」の中央やや左下)の、一町ばかり挟んですぐ東にあり、
(↑三宝院の場所、後々ポイントだから!)
さらに、周辺には公家の館が立ち並んでいたので、
既に主上と上皇は『室町殿』に御座していたとはいえ、この日の焼失には、
「時刻到来、言語道断の次第なり」 (※時刻到来…ここでは悪い意味) (『後法興院記』)
と、世は嘆かずにはいられませんでした。
ところで、この三宝院焼失の件、『応仁記』(一巻&三巻)には、
「武田元綱(信賢の弟)が2千の兵で守る三宝院に、
西軍が5万の連合軍で押寄せて戦闘になり、そして焼亡した」
とあって、なんか西軍が悪いことになっていますが、
実際は、等持寺(下京にある足利家の菩提寺)に陣取る畠山義就のところへ、
先に武田(たぶん元綱)が矢を射込んで来た為に、
義就「んだてめぇ、やんのかゴルァァァァアーーーー!!!」
と、義就をぶち切れさせてしまい、
武田勢は三宝院に逃げ込んだものの、路次で9人も討ち取られた上、
義就「うるぁーーーっっ!! 孝景、行くぞゴルァァアーーーー!!!」
と、朝倉孝景まで出てきてしまい、
猛り狂った義就・孝景勢に、三宝院もろともぶちのめされた(※東西軍のどっちが焼いたかは不明『宗賢卿記』)、
というのが真相です。(『経覚私要鈔』応仁元年9月10日)
…ってゆうか、義就に喧嘩売るとか、おめーは死にてぇのかよw
まあ、兄の信賢と歳が離れた弟、武田元綱の若気の至りなんでしょうが…、義就はやべぇよ、義就は。
このように、東軍を正当と見ているであろう『一巻本応仁記』(と、それを元にした三巻本)には、
やや東軍の失態をスルーする傾向が見られますが、
加えて、兵数に関しても盛り過ぎな疑いがあり、この大乱で上洛した兵力を、
東軍総勢…16万1千5百余騎 西軍総勢…11万6千余騎
としていますが、うーん、それはどうだろうww (特に、宗全と勝元の軍勢に漂う盛り感…)
2〜3万の大内軍が「猛勢」とちょくちょく日記に記されているから、
京都周辺地域の大名は、分国にも少なくない軍勢を残していたんじゃないかと思われます。
…しかし、2千の武田に対して、西軍5万はさすがに特盛りだろw
さて、いよいよやばさが込み上げて来た今日この頃、
義政は9月8日付けで畠山義就に御内書を下して、騒乱の "加速阻止" を図ります。
その丁寧な文面には、公方が大名に命じるって言うより、
平身低頭の悲壮感が満ち溢れていますが、概要を紹介すると、
「世上の事、あーもうやばさ極まって来たコレ!
かくなる上は、一刻も早く(河内国への)在国の事を、宗全と相談してくれたまえ。
あ、それから、国の事は政長と話し合って、仲良く分割してね!
まあその、納得いかないのは分かるよ、うん、
でもここは、ピースフルな天下の為に、どーかひとつ!
ほら、八幡大菩薩もご覧になってるよ、ね?
ひとえに、お願いします! ってゆーかお願いします! どーかお願いします!!」(『畠山家文書』)
多少意訳してありますが、現存文書なので確実な一次史料です。
なんか分国の守護職について、大名の意向を尊重してるのか、丸投げしてるのか、よく分からん訳ですが、
5月26日付けの御内書にもあるように、
とりあえず、義就にお家にお帰り頂くことが先決だと、考えていたようですね。
さて、御内書を受け取った義就、どう思ったかって?
「公方様の仰せの通り、しずしずとGO河内…」
とは、なりません。 この御内書から義就が受け取った "義政の思い" はただ一つ、
「公方は、天下の無為を望んでいる!!」
実は、西軍諸侯は、今度の事は「悉く細川勝元の専断によるもの」だと考えていて(まあ、実際そうだがw)、
勝元の支配下から上意を取り戻す(救い出す)ことが、天下の無為に繋がると信じて戦っていたのです。
(※参照…『経覚私要鈔』応仁元年10月29日
西軍が、6月の "宗全退治" の上意の表明にあまり怯まなかったのも、
それが義政の意思ではないと受け取ったからでしょう。 まあ、朝倉孝景だけは怯まな過ぎだったがw)
だから、義政としては "話し合い" での解決を望んでいたのだけど、義就および西軍諸侯は、
「公方の願い、しかと受け止めた!」
と、"果し合い" での解決にターボをかけてしまうのです。
もちろん、勝元は勝元で、傍若無人な宗全率いる西軍を降伏させれば、
天下は静謐を取り戻すと考えていただろうし、
三者は、その現状認識があまりに異次元すぎて、
どう足掻いても交われない「ねじれの世界」を形成してしまっていたけれど、
公方も、西軍も東軍も、「天下の無為」を目指していたという点では、その心は一つだったのです。
って、何それっ!!
もうホントに厄介さん達だな、君らは! 室町ってか、無理町だよ! ムリマチ幕府!!
ってか義政も、今さら義就が、
「よう、政長! 国、分けようぜ」
とかいって、ラブでピースな兄弟愛(義理ですが)に目覚める訳無いじゃないか、よく考えろよ。
さあ、そんな訳で、さっそく張り切っちゃうぜ!ってことで、
9月13日、西軍は『室町殿』と細川勝元邸を包囲し、総攻撃を仕掛けます。
「官軍、難儀におよぶ」(『後法興院記』)という東軍ガクブル状態ではあったものの、
しかし、標的は細川であって公方ではないので、『室町殿』を落城させてどうにかなるものでもなく、
決着の付かぬまま、被害は御所のご近所に広がっていくばかり…。
この時、内裏と仙洞(せんとう。上皇の御所)だけは、義就が陣取っていたので無事だったものの、
周りは相当焼けたらしい。 なむ。
(※ちなみに、内裏と仙洞の建物自体は、西軍方の公家衆が「御留守番&管理」していたのであって、
義就は別に、悪い事していませんw (『大乗院寺社雑事記』文明元年10月8日) )
さらに9月20日前後、南禅寺にも戦火が及びます。(いわゆる、『東岩倉の合戦』)
これは、南禅寺周辺の山に赤松政則勢が立て篭もった為に、西軍が出陣、
戦況は『応仁別記』や、特に『応仁記』(一巻&三巻)に赤松勢の快勝の様子が描かれていますが、
…うーん、軽くファンタジー入ってる模様w
(※『応仁別記』は赤松家伝記とも言える軍記。)
まあ、西軍側が、
山名宗全の垣屋、義就の甲斐庄、義廉の朝倉、一色勢、土岐勢まで動員した割に(『経覚私要鈔』)、
「寄せ手(山名勢)以てのほか損ずる」(『後法興院記』)
と、珍しくやられたのは確かですが、
でも、南禅寺の戦火は赤松勢のものらしいぞ。(『二条寺主家記抜粋』)
(※『応仁記』では、洛中の盗賊が火をかけたってことになってるw)
ちなみに、赤松勢は当初、南禅寺周辺の別の場所に布陣しようとして、
そこの地下人(じげにん。その土地の住民)にお断りされ、転々としていますw
また、南禅寺に兵粮(ひょうろう。戦時の兵士の食糧)を課そうとした為、
困った南禅寺が、こっそり西軍に相談して、
赤松勢を境内に(わざと)押し入らせたのち、門を閉じ、
「西軍の土岐勢が、赤松の武装兵300を一網打尽」
という不憫トラップにかかったり。(『経覚私要鈔』)
まあつまり、西軍の戦いは悪で、東軍の戦いは正義、という訳では決してなく、
かなりどっちもどっちだったのです。
そんな中、この乱れに乱れた世に嘆き、
9月20日、世上の業(ごう)のすべてを一身に受けて、後花園上皇が出家の御覚悟を決められました。
!!?
しかも、自ら髻(もとどり)を切って。(『大乗院寺社雑事記』)
??!
「甚驚入存者也」(ただひたすら驚くばかり)(『後法興院記』)
「上下仰天也」(上下万民、みな仰天)(『大乗院寺社雑事記』)
というように、この突然の出家は、非常に人々を驚かせました。
というのも、主上や上皇の一挙一動とは、天下の安危に結びつく至尊なものであって(※)、
単なる個人的な問題ではなかったからです。
(※…実は、この8月23日だけでなく、正月の『上御霊社の戦い』の際にも一度、
主上と上皇は『室町殿』に難を逃れているのですが、
同年の間に、二度までも臨時の臨幸(りんこう)をしたという事実は、
当時の人々にとって、
「言語道断、無是非次第也、悲歎之外無他」(もう言葉にならないほど嘆かわしい)(『後法興院記』)
という事態だったのです。)
さらに、天子は徳によって天下を治めるもの、つまり、徳ある天子こそが民を安んずることが出来き、
逆に天下が乱れるのは、自身の修養が足りない為だと言う認識があったので、
この出家が意味するものとは、すなわち ―――
乱れた世を恥じ、その責任を一身に負って俗世を捨て、
再び天下が静謐を、そして民が幸せを取り戻すことを祈り続ける覚悟に他なりませんでした。
(※後花園上皇の心中については、宸翰が現存しています→『大日本史料』応仁元年9月20日)
つまり、平穏な時代の譲位や出家ではなく、
このような非常事態における引退の場合、その背景に非常に重い意味を持っていて、
「もう嫌だから辞めたい」だとか、そんな浅はかな問題ではないので、考察する時は注意が必要です。
…ただ、この時後花園上皇は、生まれ故郷の伏見への隠居を望まれたのですが、
残念ながらそれは叶いませんでした。
事前に幕府に知れたら、必ずや引き留められるから…と言って、
隠密のうちに出家を遂げようとしたほどの覚悟だったのですが…、うーん。
天子だからこそ "世" を思うのに、 "世の為の存在" であるがゆえに、その御身は自由でないのです。
…以上、天子の覚悟、その天下への至誠については、
持明院統の花園天皇の書き残されたものが、現時点での頂点だと思いますが、
まあ、詳細はまた別の機会に。
ところで、「上皇」とは「太上天皇」(だじょうてんのう)の略称で、天皇が譲位後に受ける尊号であり、
「院」または、「仙洞」などとも呼ばれます。
(※ちなみに、"花園" や "後花園" や "後土御門" というのは、
諡号(しごう)または追号(ついごう)という、没後に贈られる称号であって、
生前に用いる称号ではありません。)
そして、上皇が出家するとどうなるかというと…「法皇」(ほうおう)となります。
あ、あれ、なんかかっこいい…とか一瞬思ってしまいますがw まあ、それは置いといて、
こんなにも世を思う上皇改め法皇を悩ませて、ホント君たちどうなってんのさ!
…と言いたいとこですが、
まあ、大名たちもそれぞれに天下の無為を思っていたといえば思っていた訳で、
この大乱に至る過程を考えると、果たして彼らが悪いと言えるだろうか? というのが率直な意見です。
天狗「だから言っただろ? 俺のせいだってwww」
…いや、笑うとこじゃないですけど、でも、世界の歪(ひずみ)を戻す為、
なんか変な力が、彼らの未来図にいたずら書きしていたとしか…思えない。
10月2日から4日、それは足利家の菩提寺相国寺が、紅蓮の炎をまとった三日間。
『室町殿』の東、東軍が立て篭もる最重要拠点「相国寺」、
ここを落として主上・法皇・室町殿を西軍に取り奉り、細川勝元の専恣に終止符を打つこと、
西軍は遂に、総仕上げともいえる作戦を開始します。
東軍にかける王手、その先陣はもちろん、修羅界を統べる西軍の猛将 ――― 畠山義就!!
10月2日、まず義就は、相国寺勝定院を陣取る武田信賢を攻め落とします。
さらに一色義直勢、朝倉孝景勢以下の西軍も押寄せ、
周辺の館のみならず、『室町殿』にまで戦火が及ぶほどの大合戦となりました。(『経覚私要鈔』)
10月3日の朝から夕方までに、相国寺の大半を焼け落としたその炎は、
西軍のものとも、西軍に通じた僧侶によるものとも伝えられ(『二条寺主家記抜粋』)、
義就をはじめ、大内、土岐、一色、六角まで集結した西軍の本気の前に、
東軍は、武田、細川、赤松の大名軍さらに幕府の直臣団の奮闘も空しく、
「目に余る敵の勢に勝ち得ず、終(つい)に構(かまえ)を落とされける」(『応仁私記』)
と、その不敗神話ごと、最後の砦を焼き払われたのでした。
(※『応仁私記』は、幕府軍(東軍)として『応仁の乱』に参戦した武士たちの、
実際の "証言" を記した聞書(ききがき)。 軍記とは少し違う。)
細川勝元がどんなに謀略を尽くそうと、所詮は武士の戦い、
弓矢に込められた魂に勝てるのは、やはり、干戈(かんか)に誓った闘志でしかないのです。
(※干戈…たてとほこ、武器。 転じて、いくさ。
「干戈を交える」=戦う、交戦する。)
今はもう、この圧倒的な西軍に立ち向かえる大将など、東軍には残されていな…あ、あれ?
なんか忘れてるような…
???
あ、ああーーーっっ!! いたーーーーー!!!
すっかり忘れてたけど、やつがいたぁぁーーーー!!
という訳で、お待たせしました! 待たされ過ぎて忘れてました、畠山政長です!!
「相国寺、紅蓮の3days」、最終日の10月4日は畠山政長の独擅場!!
政長ファンは期待していいぞ!!
事の次第について詳述しているのは、軍記の『応仁記』(一巻&三巻)ですが、
実際の戦況が、聞書の『応仁私記』にも詳しく記されているので、大筋は実話として良いと思われます。
では、滅多に見られない政長の本気を、『一巻本応仁記』ときどき『応仁私記』の提供で行ってみます!
――――――――――――――
相国寺の陥落にすっかりオワタムードに包まれる細川勝元と細川成之(しげゆき)。
「ああ、このまま焼け跡に西軍がたむろ完了してしまったら、いよいよ終わりだ…
えっと今、北口だけだっけ残ってんの。 ああもう誰かいないの! きっと何とかしてくれる誰かは!」
(勝元にさえ完全に忘れられている…)
そこへ、被官の一人が進み出て突っ込みを入れる。
被官「尾張守殿(=畠山政長)がいるじゃないですか! 今、千騎万騎を切り崩せるのはあの方以外いませよ!」
勝元「おお!そういやそうだった!」
さっそく、政長を呼んで頼み込む勝元、
「という訳で、大将として西軍追っ払ってくれたら、
その名は間違いなく東軍ナンバーワン! その忠節は公私ひっくるめてテラ感謝!なんだが…」
(それはつまり、猛獣の檻に食われに行って下さいってことか? さすがの政長だって…)
「ええ、いっすよ」
即答ww しかし、
「ただ、正月の合戦でもう手勢が2000もいません。向こうは義就をはじめ大内、一色、土岐、六角と、
2〜3万はいそうですから加勢を頂けないでしょうか」
そこで、政長の即答に感激した細川成之が快諾して、家臣の東条の軍勢を差し出すことになりました。
『応仁私記』によると、政長・東条軍は合わせて4000余り。
『室町殿』の四足門から出陣した10月4日の朝、
相国寺の北へ向かう政長軍のあまりのこぢんまり感に、
相国寺紅蓮マッチの見物人たちが、
「ってか、西軍超猛勢じゃん。南の内裏までぎゅうぎゅうじゃん。あの小勢でどうやって勝つつもりなん?」
とヒソヒソしていると、
馬上から政長が叫ぶ。
「たとえ敵が百万騎いようとも、どうして切り崩せぬことがあろうか!
当陣の者たちは、心安く構えていてくれ!
きっと勝ってみせよう!
今度の戦いは、某(それがし)一人の勝利となること、みなはその証人となるだろう!!」
www かっけぇーーwww
ってか、かっこつけ過ぎだろww 馬上から勝利宣言ってw
こんなきっぱり宣言しちゃって、ボロ負けしたらどうすんだよ!…と心配したいとこですが、
まあ、もちろん政長は勝ちます。
後になって、紅蓮ウォッチャー(=見物人)たちはこの時の事を振り返り、
「今にして思えば、初めから勝つことを知っていたとしか思えない」
と、その「武勇の才」に、恐れをなさない者はいなかったとか。
ちなみに、聞書の『応仁私記』によると、
出陣した政長は、相国寺をかろうじて守る幕府軍の武士たち(つまり、『応仁私記』の証言者たち)の所へ、
部下を遣わせてこう伝えたそうです。
「御所へ退いて、数日のお疲れを休ませるといいですよ」
何それ、超優しいww
ってか、めちゃ小勢のちんまり軍のくせに、この余裕の思いやり! ただ者じゃ無い。
しかし、彼らの返答は、
「敵にこのように敗北したまま、御所に引き帰ることなど出来ましょうか。
どうか今は御一所に向かい、武士の名を賭けた覚悟をご覧に入れて頂きたい」
うーん、みんなも期待通りの侍発言してくれるね!
んで、それを聞いた政長は、
「では、是非とも御一緒に、快く戦いをいたしましょう。よろしくね」
って、なにその清い感じ!
清(きよ)すぎるww まさにきよ侍(きよざむらい)www
(※聞書の記録です。つまり史実のきよ侍です。)
おい義就! ちっとは見習えよ!
一方、その義就は、
「(相国寺の)惣門の詰め(=たもと)にたむろをなしたる…」(『応仁私記』)
…なにこのガラ悪さww
さて、相国寺の北口に到着した政長、
馬から下りて長刀を杖に突き、南を鋭く見渡します。(…いちいちキメてくるな)
北から順に、
仏殿の焼け跡に布陣する六角高頼勢、
山門(三門)の跡には一色義直勢、
そして、蓮池に架かる石橋から南の惣門にかけては畠山義就の軍勢、
都合7000〜8000といったところ。
それを見た政長の重臣、神保長誠(じんぼう ながのぶ)が曰く、
「この小勢で大軍に向かうのは容易なことではありません。
ここは兵を分散せず、一所にかたまって小勢だと見せかければ、敵はきっと油断するでしょうから、
その時、一点突破で攻め入りましょう。
我ら千人が一つ枕に討死にする覚悟で挑めば、必ずや利を得られます」
家臣もかっこええーーww
ってか、いきなり白兵戦宣言!!
『応仁私記』では、
「手詰めの戦を心にかけ、一人も弓矢を持たず、みな打ち物(刀、槍など)を取って、
今日の戦は勝たねば引きて帰らじと互いに誓い…」
(※手詰め…相手に猶予を与えず厳しく詰め寄ること)
…そして、敵の一点目がけて攻め込んだ、と。
気合いの入り方が半端ないっすww
さて、『一巻本応仁記』に戻って、
政長軍は、盾を真向かいに指しかざして進撃、
敵陣突入の直前にニ、三百帖の盾を投げ捨てて、すかさず槍による攻撃を仕掛け、
事前に示し合わせていた東条軍も、東側面から槍で攻め入ります。
死をも恐れぬ武者たちの、飛び道具なし、正真正銘これぞ真の戦!! …って、熱過ぎるw
そんな部下たちに対し、大将の政長はというと…
「政長は神保長誠と一所に討死にすべく、諸軍をかき分けて敵の虎口目がけて進んでゆく…」
(※虎口(ここう)…戦地における非常に危険な所)
って、おーい、大将が一番やばいところにとっ込むなよ!
ふつう大名クラスは指揮に徹するだろ! 仮にも管領家だぞ。
まあでも、そんな余裕で無茶する大将を「敵に討たせまい」と、
部下たちも一層気合い上がって「我も我もと進みければ」、
仏殿跡の六角勢は早くも総崩れ、
次に控える山門跡の一色勢は、六角の敗軍の混乱に槍のさばきが乱れ、
敵かと思えば味方の弱兵、味方かと思えば敵の強兵、
と、思うように身動きが取れず、
「蓮池の端に追い詰められたところを、間髪入れず突き抜けば、敵再び潰(つい)え…」(『応仁私記』)
大軍勢であるがゆえの弱点を突かれてしまい、
蓮池に足を取られて一色軍も敗退、首600余りを討ち取られます。
その時、政長が自軍に向かって叫ぶには、
「先日、御所の惣門にて、西軍に討ち取られた車8両の首の返報に、
六角方の首を加えて800をこちらに給わった!
不足ではあろうが、堪忍いたせ!!」
約束通り勝利宣言www
しかもこのセリフww かっこ良過ぎるww なにその、颯爽とした余裕の見せ方!!
ああもう、なんで普段から本気出してくれないのさ!
こんな、誰もがお断りしたくなる対猛獣戦で、普段うさぎより大人しいやつが小勢で圧勝とか、
もう、何だよそのいい話!!
しかも、言動がいちいちかっこいいって、なんなんだww
まあ、軍記の話だけどさ。 でも聞書の『応仁私記』と照らし合わせると、かなりホントですよ、これ。
首800がちょい盛りなだけでw
ああ、政長に、義就の半分でも修羅属性があったら、どんだけ英雄伝を残してくれたんだろう…
と思うと悔やまれますがw
まあ仕方ない、かわいそす属性あってこそ、対義就戦も面白くなると言うもの。
さてその義就、しばらく惣門前に控えていましたが、家臣の甲斐庄を呼んで…
「なあ、仏殿の北に攻め込んでる1〜2千の軍って、あれ政長んとこの兵だよな?
おもしれぇぇーーwww 一戦交えてやろうぜ!
仏殿とこの軍はあれもうダメだな、槍さばき乱れ過ぎだろ。 よし、こっから二番槍出せ!!」
しかし、そう言い終らないうちに、先陣は総崩れ、
その敗軍とごちゃまぜになって、義就軍の二番隊もにっちもさっちもいかなくなったとさ!
お終い!
…って、"義就 対 政長" の直接対決無しかよ!!
おい、何やってんだよ修羅界の鬼神兵! しかも今回、おめーがかわいそすかよ! 立ち位置逆だろww
ってか、これ完全に政長に負かされてるよねw
『上御霊社の戦い』も、義就のが有利だった割りに落し切れなかった訳だし、
基本的に、河内国や大和国での義就軍 vs 政長軍の戦いでは、義就軍の方が圧倒的に強いんだけど、
龍田の夜襲の時とか、政長が前線に出てきた時だけは、政長方が余裕で圧勝って感じww
「窮地に陥った時の潔さ」が、政長の強さの秘訣なのでしょう。
兵書に曰く、
「恐懼する無かれ、猶予する無かれ。
兵を用うるの害は、猶予、最も大なり。 三軍の災は、狐疑より過ぎたるは莫し」 (※恐懼…きょうく)
(恐れるな、躊躇(ためら)うな。
兵を動かす時の最大の害は、決断に惑うことであり、軍における最大の災いは、疑い迷うことである。)
(『六韜』第三巻 竜韜)
恐れることも、躊躇うことも知らず、
とんでもない強さを秘めながら、最低限の戦しかしない。
もう、賞賛してもし切れないほどの、典型的な武士の鑑(かがみ)だと思います。
いつでも好戦的で、たまに変態的な戦いを見せてくれる畠山義就も、
実話武勇伝をたくさん残してくれて、その強さで運命を変えていく朝倉孝景も大好きですが、
畠山政長のこの清々しさには、長い武士の歴史でも他に類を見ない、特別なものを感じます。
(しかも、性格も本当に良いからねw すごいよね。 まあ、詳細はのちのち。)
という訳で、これがいわゆる『蓮池合戦』と言われる、『相国寺の合戦』の結末です。
あまりに作り話っぽい痛快な快勝ストーリーですが、
聞書の『応仁私記』に
「この時、政長大勝ちして、相国寺の辺り敵ども残りなく追い落とし、もとの構を取り返しければ…」
とあるように、本当だったようです。
このあと、『一巻本応仁記』『応仁私記』によると、
相国寺の間に要害を構えて堀を作り、
戦に疲れた東西両軍は、それぞれの陣の守備に撤することになったそうです。
ああ、やっとちょっと落ち着く気になってくれたか、君たちも。
義就に始まり政長に終わった「相国寺の三日間」、いかがだったでしょうか?
…ってか、西軍の総力を結した10月2日と3日のニ日間って一体…
ボロ負けしてほぼ全ての構(かまえ)を一旦落とされた東軍も一体…
なんか政長が "全部持ってっちゃった感" 半端無いですが、
でも、それぞれに秘めた思いは、みな同じに熱かったはずです。
ところで、こういう戦場の様子は、誰が伝えるのか?と言う疑問ですが、
『応仁私記』のように、戦闘に実際に参加した武士たちによるものも当然ありますし、
また『応仁記』にあるように、外野の観戦者も少なくないでしょうが、
戦場には、主に時衆(時宗の僧)が従軍僧として出入りしていて、
彼らは戦死者を供養したり、死に瀕した兵を看取ったり、負傷者の治療に当たる者もいれば、
時に、メッセンジャーとして働くこともありました。
(※『経覚私要鈔』にも、時衆のもたらす情報が時々見られます。)
このような者達からの情報を、大名や寺社などの組織に属する諜報員が収集して、
方々にいち早く伝達していたのです。
(※より離れた場所、遠隔地へのメッセンジャーとしては、「修験者」(しゅげんじゃ)も活躍していました。
修験者とは、修験道の修行者のことで、「山伏」(やまぶし)とも言います。
その任務は、"忍者の原型" と言えば分かりやすいでしょうか。 いやむしろ忍者そのものかもw)
興福寺の諜報員は、その日の京都の戦況を、同日中に奈良に届けていることもあり、
『応仁の乱』中は、京都との往復で大忙しだったことでしょうw
ちなみに10月4日、この日の京都での戦火が著しいことを同日中に聞いた経覚(奈良在住)は、
さっそく、僧友(僧侶の友達)と一緒に北口に出てみました。
なぜって…、煙が見えると思ったからwww
って、おい、奈良から京都の煙が見えるかよ!
「うーん、北山に隠れちゃってよく見えん! でも、焼けたのはガチだよ、どこだか知らんけど!」
もう、どんなテンションだよww (『経覚私要鈔』応仁元年10月4日)
どんなテンションと言えば、私のテンションもちょっとふざけ過ぎかとも思われますが(ホントすみませんw)、
これは別に、不謹慎なことをなんとも思ってない訳では決してなく、
本気で考えればあまりにつらい歴史を、『二条河原の落書』の精神で乗り越えようと思っているだけです。
この時代は、人の命が軽んじられていたとか、
人を殺すことを何とも思ってなかったとかよく言われますが、
決してそんなことはありません。 大いに誤解です。
「怨親平等」の精神が息づいていた当時は、戦場に散って行った者たちは敵味方なく供養され、
たとえ、敵を倒して勝者になったとしても、果てた敗者の死を悼み、安らかな成仏を願って、
供養塔や寺院が建てられ、法要が営まれたのです。
(※参照…この時代なら『真盛上人往生伝記』など。 また、特筆すべきは「幕府創生期」の一大事業、
足利直義による全国六十六州の「安国寺・利生塔」の設置ほか、色々。)
(※怨親平等(おんしんびょうどう)…
怨敵(敵)と親しい者(味方)とを区別せず、全てに平等の慈悲の心で接するという仏教の精神。)
そして、勝軍の大将とは、
戦で果てた兵たちの無念、敗者の痛み、乱世に苦しんだ人々の悲しみ、
それらすべてを、"自身の罪業" として背負わなければならない存在でもあったのです。(※『夢中問答集』)
だからこそ、無駄な殺戮は…少なくとも正しい武士の心を持った者は、無益な殺戮は望みませんでした。
義を伴う戦いが終われば、矛を納めるのが武士と言うもの。
そして、死が隣り合わせだったこの時代は、
むしろ平和な時代より、生に対して真剣で、
命を重く捉えていたのであり(※中世武士の多くは、真剣に仏道に求めていた)、
それ故、その命を懸けた戦いに全身全霊で挑むと共に(※例えば『応仁私記』)、
果てた者への追悼に心血を注いだのです。
つまり、"実際の史料" から当時の価値観を探れば
「戦国期の価値観では、殺戮は罪ではなかった」とか、
「自己利益のために他を駆逐するのが、正当化されていた」といった現代の理解は、やはり虚像なのです。
確かに、そういう者が台頭し覇権を握ってしまった時代はあったとは言え、
だからと言って、それを正義と見てしまうのは大きな落とし穴です。
ルールを破り道義を捨てれば、勝ちを得るのが容易(たやす)いのは当然のこと。
それで野望を遂げたとしても、英雄とは呼べないし、
後世の人間が正しく評価しなかったら、理不尽な死を遂げていった者達の魂は弔われません。
何より、この時代の精神を理解せず、勝ち負けでしかものが見られないと、
上記(「歴史を見る目」)で解説したような精緻な考察が出来ず、正解にたどり着けないのです。
(一番大事なとこを見落とす事になるのでw)
勝者=正義だなんて、そんな単調な価値観で歴史を評価せず、
もっと洗練された道徳意識と、鋭い洞察力で挑めば、歴史はより一層その価値を増すことになるでしょう。
(※『応仁の乱』については、どちらが正義・悪というものではありませんが、
以上の事は、戦国期のみならず『明応の政変』においても重要な視点になりますので、
覚えておいてくれると有難いです。)
『応仁の乱』において、多く者達が、主君への忠義と武士の誇りのもとに果てていった事実、そして、
この『相国寺』をはじめ、数々の寺社、家々、記録等が失われた無念さもまた、筆舌に尽くし難いものです。
ただ、悲嘆に暮れて目を背けてしまったのでは、何も報われません。
真剣に考えると余りにつらく苦しい現実は、ユーモアに還元して対峙しよう!…というのが、
昔から受け継がれてきた伝統気質、すなわち『二条河原の落書』の精神。
怒りさえ滑稽に描くことで、"明日の希望" へと昇華してしまう、機知に溢れた前向きな強さです。
この戦に立ち会った武士たちの証言を集めた聞書『応仁私記』、その写本の奥書(おくがき)に、
こんな感想が記されています。
(※奥書…書物、特に写本の最後に書き入れた文章で、その伝来や書写した年月日などを記したもの。)
江戸時代末期、長らく泰平の世が続いた時代に生きた筆者(書写した人)は、
武士たちが実際に干戈を交えていた時代の、そのありのままの姿を記した書に出会って、
「この文(ふみ)は、直ちにその時に遭える人々の、物語りを記したる由なれば、
今その戦いを見るが如し…」
そして、
「かかる乱れ世の中にも、武士(もののふ)の真心に義を立てて、死をも顧みず挑み戦うは、
自ずから生まれ得たる大和魂の尊きところなるべし」
(このような乱世にあってさえ、心に誠の義を抱き、死をも恐れず武士は戦う、
これこそ、我々が生まれながらにして持つ大和魂の素晴らしさだ。)
実は『応仁私記』には、「5月の開戦」や『蓮池合戦』の他、
「斯波義廉邸襲撃」についても詳述されていて、
日記に見える朝倉孝景の活躍以外にも、
義廉の家臣達の "すべてを賭けた奮闘" があったことを、知ることが出来るのです。
渋川経長(義廉の出身渋川家のおそらく庶流)や甲斐成実(斯波被官甲斐家の庶流)の勇戦は息を呑むほどで、
特に甲斐成実(しげざね)の最期は凄まじく、
鎧の袖筋は半ば切れ、兜も脱げてなお、僅かにもその勢いを緩めず、敵勢を破り、騎馬を崩し、
落馬した武者に襲い掛かって討ち取れば、息つくと同時に馳せ来た敵に太刀を打ち折り、
最後は、組み討ち(素手での格闘)となってその命運が尽きるまで、
ほんの一瞬も怯むことなく、ただ敵だけを目がけて突き進んだのでした。
二筋の矢に射抜かれ、十一箇所の傷を負ってなお戦い続けた甲斐成実の最期の姿を、
『応仁私記』は、「常人では、ここまで堪(こら)えられはしないだろう」と記しています。
どうしてそこまで、脇目も振らず、恐れもせず、命が尽きる瞬間に挑めるのか。
何かもう、一人の人間というより、「一つの魂」が戦っているとしか思えないのですが、
実は、この甲斐成実は、『文正記』に見える甲斐左京亮と同一人物で、
新たな主君に仕える自由を尊重する義廉の母の申し出に対し、斯波被官の代表として前に進み出て、
主君義廉に忠誠を尽くすことを誓った、その人なのです。
一度誓った主君への忠誠が、一人の武者をここまで強くしたのだというその歴史に、
一体、これ以上に大切にすべき宝があるのかと、思わずにはいられません。
それともう一つ、『応仁私記』からは、
敵であるはずの西軍の武将に対して、怨みだとか侮蔑の念が感じられないのです。
それどころか、本当に強い敵に対しては称えてさえいて、
武士というのは、本気で戦う者に対して、常に最大限の敬意を持っているのだと、
その清々しいまでに微塵も卑怯さを持たない心は、
いにしえの武士のありのままを、現代に生きる私たちに教えてくれます。
「勝つも負けるももののふの、道失わぬぞ本望なり」
(勝っても負けても、武士の道を穢さぬことが本望だ。) (『応仁私記』)
物語ではない、本当の『応仁の乱』には、もっと "素直な意地" があった、
だとしたら、彼らの死を否定的に捉えるのではなく、私もこの戦いの中に何かを見出して、その誠意に応えたい。
という訳で、『応仁私記』を目にする機会がありましたら、みなさんもどうか、
この国の本物の武士の姿を、心に思い描いてみてください。
聞書なので読みにくい部分も多々ありますが、聞書ゆえにその臨場感が訴えて来るものは絶大です。
…まあ、義廉の家臣には恐れを知らない究竟(くっきょう)な者が多くて、
朝倉孝景の武勇が霞んでしまうのが難点ですがw
「ええー、でも古文とか無理ー」とかいう面倒くさがり屋は、
もう直接『相国寺』へ行っちゃえよ! そして、当時の真相を感じてみよう。
あれだけ根性入ったやつらが対決した場所だ、きっと、なんかしら見つかるから! たぶんw
ちなみに、義廉の家臣達が守り抜いた斯波邸は、現在の平安女学院があるところだ!
室町通沿いに、「斯波氏武衛陣」の石碑が立っているから、
「うおぉーーー、ここがあの激戦地かぁーー!!」と興奮すればいいさ!
(※武衛(ぶえい)…斯波宗家の官途「左兵衛督」の唐名。 斯波=武衛と覚えておこう。)
でも、女子校前だから、くれぐれも職質だけは受けないように注意しろよ!
(※2015.1.9追記
「2-4 続々々・室町幕府の前半戦「始まった場所」」の最後に、
「室町御所map」を追加しました。
『斯波義廉邸』の場所をご確認いただけます。)
さて、大内政弘が上洛した応仁元年(1467)8月23日から『相国寺の合戦』にかけては、
東軍の難局クライマックス…一歩間違えれば確実に終わってた訳ですが、
細川勝元もそんな分かりきった状況に、荷物まとめて没落準備…をしていた訳ではありません。
なんとしても抗います。
剣で勝てなきゃ、権威にすがれ!ってことで、朝廷に再び、山名宗全の「治罰の院宣」を要請していたのです
武家の抗争に関する「治罰の院宣(または綸旨)」は、
幕府から朝廷に要請があって、朝廷側がそれに同意すると言う形で下されるものであり、
基本的に、主上や上皇の意向が反映されたものではないのですが、
本戦開始直後の6月初めに、細川勝元が幕府の "御旗" とともに要請した時は、どうやら下されなかったようです。
まあ、それもそのはずで、実は正月の『上御霊社の戦い』の際にも幕府からの要請があり、
畠山政長の「追罰の院宣」が下されていて(『公卿補任』)、
それで畠山義就が大義を得て上御霊社に発向した訳ですが、
前回、山名方(+それに引汲する近臣)からの要請に応えたのに、
今度は山名宗全退治の院宣を頼む!とか言われたって、「ええ!? なにそれ意味分からない」ってなりますよね。
まあ、これは義政の "筋の通らない上意" の責任が非常に大きいと思いますが、
朝廷も、何が正しくて何が悪いのか判断に困ったことでしょう。
…ただ、幕府から強く働きかけられれば、断り切れるものではないのですが。
さて、そんな訳で、9月上旬には既にそんな動きがあったようで、
「治罰のこと、未だ勅許あらず」 (『後法興院記』応仁元年9月13日)
しかし、『室町殿』や相国寺に戦火が迫った10月3日には遂に下され、
興福寺の衆徒に宛てられた「院宣」、それを受けた義政の「御内書」の文面が『経覚私要鈔』に記されています。
要約すると、
院宣「今度の兵革(=戦乱)について、忠節を尽くすように。 追伸…天下静謐の祈祷もよろしく」
御内書「山名宗全治罰の院宣が下されたからには、早急に上洛し忠節を尽くすように!」
しかし、興福寺の衆徒はすぐには動かなかったようで、2日後の10月5日付けで幕府の奉行人から重ねて催促があり、
奉行人奉書「院宣ならびに御内書が下されたと言うのに、上洛無きは何ゆえか。
もう合戦は始まっているんだ、猛勢を率いて即刻上洛し、忠節を尽くさんかこら!」
…ちょっと温度差があるような気がするのは、私だけではないはずw
(ってか、『嘉吉の変』の時の、後花園天皇宸筆加筆の "熱い" 綸旨に比べると、こ、これは…
興福寺に「祈祷」を命じてるだけなのでは??)
幕府側は、"院宣の正当性" を前面に押し出して、軍勢催促をしていますが、
院宣の微妙に遠回しな文面(※綸旨・院宣の文言は基本公家が作成する)からは、
召集による紛争の拡大を望んでいないことが読み取れます。
この事は、10月下旬、近衛政家が耳にした風聞にも現れていて、
「(西軍の)畠山義就、斯波義廉らの陣営に勅使が遣わされたらしい。
近々落居するって噂があるけど…うーん、疑わしい」 (『後法興院記』応仁元年10月23日)
大局的な見地から和平を望む朝廷、とにかく西軍に賊軍の烙印を押したい東軍、
それでは、西軍の認識は?というと…
実は、西軍は10月初めに、既に東大寺と興福寺を味方に誘っていて(『経覚私要鈔』応仁元年10月5日)、
10月25日には再び、西軍諸侯の「連署の書状」で彼らの心中を訴えています。(同、10月29日)
それによると、
「前略、世上の事。
近日の公方様の御成敗は、あれ、全部勝元の勝手だから!
こっち(西軍)には、勅書も御内書も下されてるんだからね!
でもって、近習もほとんどこっちの味方だよ!
忝(かたじけな)くも上意は俺らに心寄せているのさ!
ってことは、公武ともに天下の無為を望んでるってこと、これで決まりだね☆
俺らの仲間になれば、あとでお礼に所領をプレゼントしちゃうから! そんじゃ、よろしく!」
土岐成頼、山名政清、山名教之、畠山義統、一色義直、山名宗全、畠山義就、斯波義廉 より
(※花押は無いが、これに大内政弘の名も。)
つまり、どういう事かと言うと、
西軍からしたら、世を乱しているのは東軍に他ならず、細川勝元がこの騒乱のすべての元凶、
主上も法皇も公方も "天下の無為" を望んでいるとあっては、俺らが頑張って東軍を倒さないと!
天下の泰平は俺らにかかっている!…くらいの勢いだと言うことです。
先日の勅旨も、御内書(義就以外にも下されていると思われる)も、
彼らの "打倒東軍" の闘志にターボをかけてしまった訳です。
朝廷や義政からすれば、
「え、いや、矛を納めて欲しいんだけど…あれ? ちょっと、ねぇ聞いてる? もしもし?」
と言う気分でしょうが、
「天下の無為=勝元に天誅!」しかないと思っている西軍は、
和平を望む勅旨や御内書に、「大義、ここにあり!」と勇み立ってしまったのです。
…な、なんてポジティブ思考なやつらなのだ。
まあ、ドライな見方をすれば、
自身の利害の為に勅旨や上意を都合よく解釈しているだけ、忠誠心なんて無い、
と解釈出来なくもありませんが、
しかし、「大名にとって将軍は傀儡でしかなかった」とか、「朝廷はお飾りだった」とかいう考察には、
個人的に非常に違和感を覚えます。
もちろん、中にはそういう、礼節に欠けた精神の者もいたでしょうし、時代によっても差がありますが、
大名の大部分が、「自身の利害にしか興味がなく、したたかに野心だけ抱いていた」という一律な捉え方には、
おいおいおい、それどこの国の武士だよ? 弓矢の魂ってのはそんな安モンじゃねえから!…と、反論しますw
確かに、彼らは盲目的に従っていた訳ではないし、この時代は、かなり勝手な振る舞いが目立つけれど、
逆に言うと、そんな自由を得ながらも、天意や上意によって素直に力を得てしまうのは、
それが純粋な心からの偽り無い忠誠心だということを、証明していると言えます。
(※もちろん、綸旨や院宣、上意の効力が衰えつつあった現状は、けしからん以外の何ものでもありませんが、
しかし、本当は朝廷への敬意なんて無いのに、その権威を自己の喧伝に利用するため、
尊皇を装って忠臣面する者の方が、よっぽど卑劣だと思います。
古来、主上がこの国の君主であり続けているのは、
単に、その権威に利用価値があるからなのではなく、
利害とは別のところにある、人々の本質的な敬意によるものです。
単なる「権威の利用」だったら、普通に考えてこんなに長くは続かないと思われます。)
『文正の政変』でも、足利義視を推戴した途端、
コテンパンだった大名たちが、伊勢貞親を没落させるほど覚醒したのだし、
また、主上に関してだって…これはまあ、明応期の話なのですが、勅命ターボも相当に強力ですよw
なんで武士ってのはこんなに単純なのだろうかw 愛すべき分からず屋だと思います。
ところで、東西両軍から誘いを受けて、
興福寺の衆徒も「なに、俺らどうしたらいいの??」と困惑してたことでしょうが、
このように両軍は、周辺地域の寺社や地下人(その土地の住民)に対し、勧誘合戦を展開していました。
例えば興福寺や東大寺、大山崎の離宮八幡宮の神人、
それから、西岡や山科の地下人などなど。
(※神人(じにん)…神社に奉仕する者。 "座" を結成して商売したり、僧兵みたいに嗷訴したりもする。)
延暦寺については、一枚岩ではなかったようで、
6月初めの段階で、山門僧徒は山名方だけど、山門使節(僧徒の代表者)は公方に属していたとか。
まあ、延暦寺の僧徒もかなり分からず屋だけど、
彼らは第三者の時は割と、なかなかの信念と気概を見せてくれるのです。
延暦寺と言っても、天台座主をはじめとする高僧や学侶と、武装した僧兵はまた別な訳だし、
一概にならず者扱いされている風潮は、かなりどうかと思います。
事実、彼らの行動は、朝廷や幕府と連動しているし、けしからんけども反社会的集団ではないのです。
そんな訳で、『応仁の乱』本戦開始から5か月の時点で、
西軍の、(勘違いかも知らんけど)割と純粋な奮闘に対して、
東軍、細川勝元の謀略の強引さがやや目立ってきました。
本戦開始までは、道理は細川勝元側にあると個人的には思うし、
畠山政長を見捨てなかったのは、素直に賞賛したい武士の心意気なのですが、
…うーんw 勝元は来年からさらに手段を選ばなくなっていきます。
まあ、それぞれの立場を考慮して、出来るだけえこ贔屓しないように心がけたいところですが、
西軍憎しのあまり、理非を差し置いて戦乱を拡大させていく手法には…
だんだん、西軍を応援したくなってくるw
さて、その西軍ですが、
相国寺の焼け跡(※)には、しばらく朝倉孝景や古市胤栄(…の代理の萩宗正)の軍が布陣していましたが、
10月19日には、大内政弘の大軍と入れ替わり、
移動した朝倉孝景勢は、山名宗全邸の西に布陣していた畠山義就の軍と一所となりました。(『経覚私要鈔』)
(※…『相国寺の合戦』では東軍は自軍の構を取り戻しましたが、
元々全領域が東軍の構だったのではなく、
焼亡前から一部には西軍も布陣していました。(『経覚私要鈔』応仁元年9月16日))
ところで、『応仁の乱』の戦況を記した日記を見ていると、
主要な大名の名に混ざって、朝倉の名が妙に目立ちますが、
本来ここは、「斯波方(もしくは武衛方)」と記されるべきで、
被官クラスの武将が大名クラスと並べて注目されるのは、なんかちょっとおかしな事なのです。
まあ、『経覚私要鈔』と『大乗院寺社雑事記』は、越前の荘園を介した個人的な関係が影響しているとはいえ、
身分秩序が明確だった室町幕府では、
例えば、路次で三職(斯波・畠山・細川)とすれ違ったときは、馬から下りて路肩に下がるのが作法で、
もし、大名がこちらに気付いて輿から降りようものなら、直に参って御礼を申し上げるとか、
三職の屋形の門の前を通るときは馬から下りるとか、そういう細かい作法があって、
大名と被官クラスには越えられない壁がありました。
戦においても、大名クラスは軍を指揮し、戦功をあげた部下を報奨する立場であるのに対し、
被官クラスの朝倉孝景は、自らが前線に出て刀ぶん回してたり、
武田信賢勢に圧勝して、獲物を前に酒盛りしながらめっちゃ上機嫌で "山名宗全への報告待ち" をしたりしてます。
(※『経覚私要鈔』応仁元年6月15日
この時の武田勢の惨敗は、自ら進んで猛獣の縄張りに進入した結果、食われてもうた…という、
武田のうっかり戦略のせいであって、べ、別に、孝景は待ってただけなんだからねっ! 本当なんだからっ!
…ってか、三宝院の時といい、武田は喧嘩売る相手間違え過ぎだろ。)
だから、「あれ?孝景って…大名なの?」とか勘違いしないで、
ここは、「おいおっさん注目されすぎだろ!」と突っ込んでやりましょう。
そんな訳ですので、上記の如く山名宗全邸の西に畠山義就と一所に布陣したってのは、かなり不思議に感じます。
義就はなんだかんだ言って管領家ですからね。
平時なら、こんな近くで共に戦うなんてまず有り得ない訳で、
その辺、『応仁の乱』にしかない、独特の面白さと言えるでしょう。
(義就は、しばしば座上(=会合)に朝倉孝景を招いては、
「孝景すげぇぇーーwww」と、褒めていたらしいw(『月舟和尚語録』))
特に西軍は、大名同士の結束がもともと強いし、
東軍に公方を取られた今の状況は、不利ではあるけど、反面、
「連署の書状」にも現れているように、横の繋がりを一層強固にするので、
「あれ、なんかちょっと楽しそう…」とか思ってしまうw
まあ、実際、利害だけの関係だったら11年も仲良くやってないだろうし、
しかも、西軍の同盟関係は(途中やや入れ替えはありますが)、
大乱終結で別れを告げて、それぞれの分国に帰った後も続きます。 ホント、どんだけ仲良いんだよw
義就と朝倉孝景も、身分は違えど、並外れた武勇という点で気が合ったのではないかな、と思っています。
(しかも、山名宗全邸の西といえば、まさに西軍の本拠地「西陣」です。
京都の "妄想散策ツアー" のコースに是非どうぞ!)
ちなみに、戦闘が激しかった初めの時期は、援軍として地方から上洛して来た者も大勢いるし、
在京の者でも、自邸が戦火で焼けたり、敵の占拠を恐れて自ら火をかける場合もあり、
彼らは頻繁に陣替えをしながら洛中を転々としていた訳ですが、
おまいらは…、ホントどこでも生きていけるんだな、と感心してしまう。
しかも、両軍は "かなり至近距離" に居合わせていたという事実…うーんww
そんな限られた範囲での市街戦ですので、当然戦い方も、
戦国期の様な、広い平野に大規模な軍勢を召集して全面衝突する "組織戦" とは趣が違って、
きっと、珍妙な戦略と戦術を駆使した、くせのある戦闘を展開していたのでしょう。 妄想が捗るね!
こんな主要クラスの諸大名が一堂に会して、しかも10余年の "非日常" を過ごしていたなんて、
『応仁の乱』というのは、ますます不思議でしょうがなくなって来ませんか?
みなさんも、そろそろこの変態的な…じゃなくてマニアックな魅力に目覚めてくれる頃かと思います。
さて、以上でとりあえず『応仁の乱』が始まった応仁元年(1467)という一年間が終わりました。
一年目にしてこの思い切った大航海、あとの10年どうすんだよマジで。
まあでも心配は要りません、
彼らは、祭りを盛り上げることにかけては天賦の才能がありますから。(もちろん無意識の内に)
…いや、ますます心配で眠れない。
しかし、やること為すこと裏目に出過ぎですよね。 義政は言うに及ばず、細川勝元さえも。
(主上と法皇の『室町殿』臨幸で、結果的に、元の内裏と仙洞周辺にまで戦火が迫り、
東軍は、『室町殿』と相国寺の一部を残して、周囲をほぼ西軍でぎゅうぎゅうにされてしまいます。)
ああ結局、蒼い薔薇はシナリオ通りに咲いてくれなかったか…
いやむしろ、それ以上に有り得ない花が咲いてしまった予感。
今にして思えば、それはずっとずっと以前に蒔かれていた「紅蓮」という名の赤い種で、
2年前に夜空を赤く染めたあの流星は、もう戻れない明日を告げに来ていたのだろうかと思い出しながら、
この容赦ない運命のらくがきに「なぜ…」を問う時、行き着くのはどうしても…あの26年前。
手綱を放せば、途端にカオスを目指してしまうのがこの世の条理、
そこに秩序を与え続けることが、どれぼど力の要ることか、
一人抗った勇者(※)の 、その "対カオス性能" の高さが、今になってようやく証明されることとなりました。
(※…「対カオス最終兵器 義教」
世紀末を水面下に封印する能力を持つ、孤高の "源氏嫡流将軍"。
放って置くと、とんでもない方向に加速していく世界に秩序を与えるため、
たった一人で、エントロピー(=武士のヒャッハーさ)増大を食い止め続けた日々は遠い過去。
世に疎まれながらも、厳密裁許の手を緩めなかったのは、
リミッターが解除されたヒャッハー魂の危険性を一番よく知っていたから。
『嘉吉の変』とは、義教の結界を破り、世界に26年後の「絶望」を約束した事件に他ならない。)
気付くのが遅過ぎて、世界はその "やり直し" に大乱という方法を選ぶしかなくなって、
散った花の多さは、数えても数えても夜が足りないけれど、でも、
もし、彼らの死を無駄にしたくないと思うなら、私たちにも出来る事がある。
失った以上に多くのものを、この大乱から学べばいい。
この大乱を叡智に変えて、再び未来を輝かせたなら、必ずやその悲しみは報われます。
という訳で、「正しい世とは? 君主とは?」まずその基礎知識をつけるため、
室町武士の必読兵書、『六韜』(りくとう)『三略』(さんりゃく)を是非読もう!
(※文庫本なら…【林富士馬『六韜』(中公文庫)】
【眞鍋呉夫『三略』(中公文庫)】)
兵書といえば『孫子』が有名ですが、
このニ書は「君徳論」とも言える内容で、
読む者の人格を否応なく高めると共に、これを愛読していた大名たちが目指していた "理想の国主" の姿に迫れます。
近世(=江戸以降)の武士道というと、まず第一に「忠」に重きが置かれますが、
主君の是非を問わず、ただひたすら尽くすことを美徳と説くその道に、やや違和感を覚えることもあるでしょう。
実は、本来の「忠」とは、ただ "主君" でありさえすれば受けられるものではなく、
"君徳を備えた主君" だからこそ受けるに値するものなのです。
だから、中世の名君と言われる大名は、国をより良く治める為に、君徳を身に付けることを怠りませんでした。
それでこそ、家臣たちも心から「忠」を尽くせるというもの。
そしてそうした君臣関係こそ、上辺だけではない、本物の強固な繋がりとなるのです。
もとより人は、"何かの為に尽くしたい" という純粋な「忠」を生来的に持ち合わせているのだから、
だったら、それを強制するのではなく、引き出すことこそ主君の役目。
自身の修養を怠りながら、下には絶対的な「忠」を要求したとしたら、
それは上に立つ者(※)として最も恥ずべき傲慢です。
(※…中世なら、将軍や大名。 現代なら、政治家や組織のトップなど。)
だいたい、そんな盲目的な思想で下を支配しようとする方法では、国は100年と持ちません。
この国には、終わり無きほどの永遠がよく似合うのだから、
そんな姑息で稚拙な支配方法など、思い付くだけでも愚君確定です。
加えて、もしその国の民に遍(あまね)く道徳を行き渡らせたいと思うなら、
まず上に立つ者が君徳を身に付ければいい。 簡単なことです。
国に悠久の弥栄を約束するもの…それが君徳論。
君徳が廃れた愚かな国には、無様な滅びが待っているだけです。
まあ、とにかく『三略』はめっさ薄いから、武士になったつもりで読んじゃいなさいよ! もう!
ちなみに『六韜』には、敵国を陥れる方法として、かなり無慈悲な謀略も説かれていますがw、
…こ、これはあくまで、相手が外道の暴君だった時のことなんだからねっ!
民を平和に治めている国に対して、こんな手を使ったら、おめーが天誅食らっちゃうんだからねっ!
という訳で、良い子は真似しないようにw
まあ、『六韜』を初めから読んでちゃんと理解すれば、
我欲のままに義を捨て利を追うような者は、愚君中の愚君だと言っている事に気付くと思いますが。
「義、欲に勝てば則ち昌え、欲、義に勝てば則ち亡ぶ」
(義が欲に勝つ時国は栄え、欲が義に勝つ時国は亡ぶ) (『六韜』第一巻 文韜)
しかし、そんな事お構いなしに、私欲でガンガン他国を侵していく者もいますから、
そんな謀略に敗北しない為にも、国の外交に携わる人間には読んで欲しい、マジで。
(※もちろん、武士の心を知るには『論語』『孟子』『大学』『中庸』も欠かせませんが、
くれぐれも、「朱子学以前の儒学」を意識してみて下さい。
なぜなら、それが本来の武家精神だからです。
(あくまで、現代的な "儒教" や "朱子(朱熹)の思想" ではなく、
"学問としての儒学"(=孔子の教え)という事です。)
なんだかややこしい事を言うようですが、とりあえず、
【金谷治『大学・中庸』(岩波文庫)】…の「章句」以外を、解説と共に読めばいいと思うよ!)
(※それから、『論語』ももちろん基本中の基本ですが、
もう一つ重要なのが『孟子』です。
これは、絶対王政を志向する国には非常に嫌われるのですが、
それはなぜかと言うと…
「臣下が君主を討つのは、本来ダメダメ絶対ダメだけど、徳を失った暴君には天誅食らわせてOK!
だって、仁と正義を踏みにじった時点で、そいつもう君主じゃねえしwww」
って、きっぱり言っちゃってるからw
でもこれ、中世の日本ではとても重視されていました。
なんたって、この国はトップからして『孟子』を絶賛しちゃう、めっちゃ気合入った国だからw
"徳" ではなく "欲" で国を支配したい覇者には超絶不都合な『孟子』も、
揺るぎない覚悟で徳治を貫こうとする日本の君主にとっては、『孟子』こそが至高の政道を説く書なのです。
ちなみに、「徳による政道」というと優しさ、慈悲、思いやり…と、
なんか優しいだけの政治だと誤解されがちですが、本来それは、「厳しさ」を必要とするものです。
君主が自身に厳しいからこそ、民に優しく出来るのであり、
慈悲を受けた民は、その恩に対し「自己への厳しさと他者への思いやり」で報いようとするから、
素晴らしい国を築けるのです。
優しさの裏には厳しさが不可欠であり、
真に慈悲深い君主の温厚な表情は、内なる厳しさの上に成り立っている、ということです。
一方、民には無慈悲で、自分の欲にはとことん甘いのが "覇者" ですが、
そんな貧弱な精神で、国をまともに治められるはずが無いのは当然です。
自己への厳しさを伴わない優しさは偽物だし、自分に激あまでいながら名君気取りな覇者も問題外です。
そんな訳で…
「徳が無ければ地位を追われるだと…?」と言って『孟子』廃絶に走る未熟な王は、
結局、近い将来に破滅を迎えますが、
「徳を失ったら君主で無いというのなら…… 徹底的に徳を身につければよいのだ!」(ピコーーン)
と考える日本の君主は、結局、『孟子』を尊重したがゆえに永遠を手にしたのです。
って、何そのいい話ww
従って、『孟子』の教えは国体を危ぶませる…とかいう意見は、考えが浅いと言わざるを得ません。
特に、室町時代の入り口、動乱の世に生きた "持明院統" の花園帝は、
言ってること…失礼、思し召されてること宇宙レベルだから!
まあ、詳細はまた今度。 それまでにみんな、『孟子』を読んでおくように!)
では、折角なので『三略』より、少し例を挙げてみます。
「柔は能く剛を制し、弱は能く強を制す」 (『三略』上略) (※能く…よく)
柔道の基本として有名な「柔よく剛を制す」も、元は『三略』の言葉です。(概念自体は『老子』が元ですが。)
徳という「柔」は、服従の強制という「剛」より、遥かに強靭な国を実現させます。
道徳に関してだって、絶対的で硬直的な思想はもろく、柔軟な学問は強固でたくましい。
常に「なぜ?」と問う中世の武士たちが好んだのは、儒学という学問であって、
ただ盲目的に信じるだけの宗教的(朱子学的)思想は、
考えることを止められない彼らの心には、馴染まなかったのです。
上に挙げた漢籍も、ただ読んでそのまま受け入れればいいのではなく、
自分の頭で理解し、評価し、噛み砕いていかなくてはなりません。
日本人の得意な「魔改造」を、各自施して下さいw
「地を広めると務むる者は荒み、徳を広めんと務むる者は強し。
能く其の有を有する者は安く、人の有を貪る者は残(そこな)う」 (『三略』下略)
(領土拡大に狂奔する君主は、結局その国を荒廃させてしまうが、
徳をもって天下を治めようとする君主は、その国を強大にする。
自国が有するものを生かせる者は、その国に泰平と繁栄をもたらし、
他国の有するものを貪り奪う者は、自国を破滅に導く。)
覇権主義の愚かさを説いています。
『孟子』の中心的思想に「王道・覇道」という概念がありますが、
「王道」とは、仁政徳治を目指す "王者" による政治
「覇道」とは、徳を否定し武力のみによって富と権力の独占を目指す "覇者" による政治
つまり、天下は王者の「王道」により治められるのが至高であり、
覇者による「覇道」は、否定されるべき愚道なのです。
特に、土地の限られた島国である日本では、
領土拡大や他国への侵略・略奪で覇権を握ろうとする "覇者" は、国を滅ぼす愚将であり、
少ない領土だからこそ、その土地を最大限に生かし、富を生み続けるような統治を施せる "王者" が、
真の英雄と言えます。
国土の "広さ" ではなく、国土の "豊か" さが重要なのです。
それを知っていた名将は、覇道が横行した戦国期にあってさえ、他国への無益な侵略を行わず、
自国の徳治と質的拡大を目指しました。
「聖王の兵を用うるは、之を楽しむに非ざるなり。将に以って暴を誅し乱を討たんとするなり」(『三略』下略)
(聖王が武力を用いるのは、戦が好きだからではない。暴君に天誅を加え乱賊を討伐する為である。)
武力とは、本来徳とは相容れないものですが、やむを得ない場合に限って認められるということです。
正しい武力は存在し得るし、そしてまた、それだけが許される武力である、という訳ですが、
武力を正しく扱う為には、
聖徳の君主の如く、至高の「徳」と「智慧」(知恵)を身に付ける必要がある、とも言えます。
智慧や知性を欠いた者が力を手にすれば、それは当然、世界に破滅をもたらしますし、
一方で、絶対的な非武装主義は、
同時に、暴君や乱賊の "卑劣な暴力" を認める「暴力容認主義」でもありますから、
それもまた、人々に残酷な運命を約束します。
悲しい事に、この世の中は「恐い人や悪い人なんて一人もいない幸せお花畑」ではありませんから、
平和を望むのであればこそ、「徳と智慧を欠いた暴力の恐ろしさ」から、目を背けてはならないのです。
(※智慧や知性とは、いわゆる「頭が良い、悪い」という意味の知能とは違います。
知能が高ければ智慧があるとは限りません。
知能は、"個性" や "特化する分野" による差異があって然るべきものですが、
智慧や知性は、あらゆる人間が生涯をかけて磨き上げていくべきものなのです。)
戦争のない平和な世界…というものは、誰もが求めて止まないものですが、
人間の本質を踏まえ、現実に向き合うならば、
真の平和の実現には、残念ながら「絶対に戦争をしない」と叫ぶだけでは足りません。
「(相手国に)絶対に戦争をさせない!!」という強さと信念が必要なのです。
本来、平和とはそれ程までに覚悟を要する厳しいものであり、
本当に平和を愛するなら、「戦争をさせない為の力」すなわち「守る力」の重要性も、知る必要があります。
(これは、軍事的な守備力に限った話ではなく、
その国の国民一人一人が、覇道国に付け入る隙を与えぬ「守る意識」を身につける事が、真の平和主義です。)
もちろん、中世と現代では少し話が別ですが、
戦国期なら、(国内における)隣国の紛争調停の為の義軍や、荒れた分国に徳治を施す覚悟があっての進軍なら、
正しい武力だと言えるでしょう。 (例えば…朝倉とか後北条とか!)
(※以上、ほんの一部、しかも気まぐれなチョイスでした。
ところで、ちょっと余談ですが(ってか、読んでくれたことを前提に余計なこと語っちゃいますが)、
『六韜』『三略』ほかの古典には、「天道」とか「天地の道」とか、
人知じゃ計れないものの存在を匂わせる記述がありますが、
これは別に、オカルト的な事を言っているのではなく、単に万物の真理のことを言っているのです。
(※『三略』でも、予言や神託、吉凶の占いによって戦略を立てる事は禁じています。)
科学が発展した現代に生まれた私たちは、つい何でも知っていると錯覚してしまいがちですが、
現在においてさえ、解明された宇宙の真相は、ほんのほんの極一部に過ぎません。
しかし、未だ証明されてはいないものの、この世界を支配する「究極の法則」が存在することは、
昔から薄々気付かれていました。
(その探究に挑んだのが、古くは仏教の修行者や大陸の思想家、現在なら物理学者です。)
『中庸』の一節には、
「天地の道は、壱言にして尽くすべきなり」
この宇宙の原理は、たった一言で言い尽くすことが出来る、そして、
「則ちその物を生ずること測られず」
唯一であるがゆえに、そこから計り知れない多くのものを生成し得る、とあります。
究極的には、森羅万象ありとあらゆるものの動向、人間の言動、思考すらも、
すべては一つのシンプルな物理法則に支配されている…と言ってしまうと味気なくも思えますがw、
しかし、その法則が分かれば、この宇宙のすべてを予測出来る、文字通り「天を読む」ことが可能なのです。
「え、なにそれ宇宙こわい…」とか心配になるでしょうが、まあでも大丈夫、
そもそも、人類がその解明まで到達出来るかどうかすら怪しいしww
ただ、言語や数式で表現できなくとも、なんとなく感じる事なら、凡人でも割と簡単だと思います。
なぜなら、私たちもその法則のもとに成り立っている以上、その法則を内包しているはずだからです。
孟子曰く、「万物、皆我に備わる」(『孟子』尽心章句 上)
ってことですね。
これを禅で言うなら、数式で表現出来ずとも「教外別伝、不立文字」でよいのであり、
人がその法則を内包しているが故に「直指人心、見性成仏」となるのです。
ちなみに、仏教に影響を与えた古代インド哲学ではこれを、
「梵我一如」(ぼんがいちにょ)と言います。
…って、そんな太古の昔から気付かれていたのに、未だに解明に至らない人類って一体ww
とか思わなくもありませんが、
まあでも、何となくでいいから "それ" を掴めば、
情報が溢れる「現代」において、政治、経済、思想、あらゆる面で、
嘘と本当、偽者と本物、虚飾と本質を、直感的に見分けられるようになるし、
本来の正しい世界のあり方、来(きた)るべき人類の未来を見通せるようになると思います。
(…って言っても、なんか誤解して変な宗教に嵌っちゃ絶対にダメだからねw
ってか、うさん臭いものに嵌ってる時点で真実見えて無いから! 人間、客観性失ったら終わりです。
あくまで "物理学の範疇" で考えるように! もしくは、せいぜい厨二妄想のネタとして楽しみたまえよ!)
ともあれ、真実を見極める直感を磨き、いにしえの名著で正しい価値観を養えば、
歴史を読み解く事もまた、さらに楽しくなるでしょう。
何が正義で、何が悪で、本当に賞賛すべき英雄は誰で…そういうことが分かるようになる訳ですから。
単に歴史上の出来事を知るだけで終わりにするのではなく、
歴史から多くの教訓を得る為に、過去の偉人とその生きた時代を深く知ろう、すなわち、
「いにしえの英雄と友達になること」
これが孟子の言うところの「尚友」(しょうゆう)です。(『孟子』万章章句 下)
「立派な人を友に持って自分を高めるのが理想だけど、
現実にろくな奴がいなかったら、過去の偉人と友達になればいいと思うよ!」
という、ある意味、ぼっちな現代人には嬉しい言葉です。
室町時代は、ぶっ飛んだ友達たくさんいて最高だね! …ってか、お腹いっぱい。うぷ。)
では、無駄な余談を終えたところで、
『六韜』(第三巻 竜韜…第二十六 軍勢)からも少し。
「上戦はともに戦う無し。故に勝を白刃の前に争う者は、良将にあらざるなり」
(理想的な戦い方とは、戦わずして勝つことであり、敵と白刃を交えながら勝敗を争う者は良将とは言えない。)
これは『孫子』にも同様なものがありますね。
良将は、その智謀によって勝利を確信してから戦を始めるのであり、
敵と白刃をぶつけている段階では、既に勝敗は決まっているのです。
紅蓮ウォッチャーたちは、畠山政長の "勝つことを知っていた" その「武勇の才」にびびっていたけど、
相国寺奪還戦に挑む政長の "事前勝利宣言" は、ある意味当然だったのです。
「夫れ先ず勝つ者は、先ず弱きを敵にしめして、後に戦う者なり。故に士は半ばにして功は倍す」
(勝利を得る者は、まず自軍が弱兵であるかのように見せかけて、しかる後に戦いを始めるので、
敵の半分の兵で、敵の二倍の戦果をあげることが出来る。)
まさに、政長軍のことw どうりで自信に満ちていた訳だ。
ところで、さらにこんな言葉も、
「聖人は天地の動きに徴す、たれか其の紀を知らん」
(聖人は天地の(見えない)動きを把握しそれに順応する、凡人は誰もその条理を知らない。)
つまり、常人の知恵を遥かに超えた者は、「天を読む」ことで勝利を得る事が可能だという事です。
まあでも、政長はそこまで常軌を逸した超人ってタイプではないのでw("常識的な生き仏" と言ったとこか…)、
やはり武勇に裏付けられた戦術と戦略で勝利したのだと思いますが、
常軌を逸した…と言えば、
足利尊氏なんか、典型的な「無意識のうちに天を読んじゃう人」だったと思う。
(とんでもなく意味不明な武運の強さとか、それから、
"覇権への貪欲さ" も "権力への野心" なんてのも丸で無い(※)のに、
気付いたら将軍になってました、みたいな所とか。 (※…参照、尊氏が詠んだ種々の和歌))
とは言え、政長が大勝利を収めた10月4日の前日と前々日には、こんな事が…
「今月二日、室町殿之寝殿之上へ白旗一流降下云々、言語道断希代吉事云々、細川方諸陣令祝着云々」
(10月2日、『室町殿』の上に白旗が一流降りて来たらしい。
すんごい吉事! 細川方の陣営では、みんなお祝い騒ぎだって。)(『後法興院記』応仁元年10月18日)
「今月三日晩、白旗三流降于府第上宮、皆相賀云々」
(10月3日の晩、白旗が三流『室町殿』に降りて来て、みんな喜び合ってたそうだ。)
(『臥雲日件録』応仁元年10月5日)
ここで豆タイム。
「白旗」は、今でこそ世界共通の "降服の象徴" ですが、
この国では古来、「白旗」と言えば源氏! みんな大好き "源氏の象徴"!! とってもめでたい旗なのです。
ついでに、日輪(にちりん。太陽)を描いた旗自体もかなり古くから存在しますが、
『応仁の乱』でも、
「朝倉弾正左衛門尉孝景、日の旗をさし押寄せて…」
と、日の旗を掲げる朝倉孝景の記録が『応仁別記』にありますw
ちなみに、源氏将軍の足利家の家紋には、
「二つ引両」(ふたつひきりょう。…トップページの上の方の紋)とともに、
「五七桐」(ごしちのきり。…トップページの下の方の紋)がありますが、
この「五七桐」は、現在、「日本国政府の紋章」として用いられています。
って、ええーーっっ!? また誰も知らない「現在に残る室町将軍の痕跡」が!www
この「五七桐」は、足利家だけでなく庶流の足利一門(斯波、渋川、畠山とかみんな)も家紋としていましたが、
それはなぜかと言うと、
彼らの共通の先祖の源頼義・義家父子が、平安時代の『前九年の役』の戦功の褒賞として、
後冷泉天皇に勅命として使用を許されたことに始まるからです。(『見聞諸家紋』)
(さらに元をたどると、原型は奥州安倍家の紋なのですが、現在の「五七桐」とはやや意匠が異なります。)
だからこの桐紋は、"室町幕府の紋" という訳ではなく、
もとは、平安時代から "足利一門の祖先の私的な家紋" だったのですが、
足利尊氏が将軍となって以来、いつしか、"為政者の象徴としての紋章" となって現在に至るのです。
何それw なんかちょっといい話ww 今回いい話多過ぎだね!
(…豆おわんぬ)
…そんなこんなで、
御所にどこからとも無く白旗が舞い降りてきた、なんて奇跡が起きた日にゃ、もうお祭り騒ぎな訳ですが、
しかし、10月3日の晩なんて、実際は「相国寺陥落」で東軍お通夜状態ですよ。
そこから翌日の大逆転なんて、常人じゃ予想どころか期待も出来そうに無いけど、一体誰がこんな事…
あれ。 でも、「源氏の幕府」に「源氏の白旗」を降ろそうなんて考えるのは、
あ、あの方しかいない!!
それは源氏の氏神 ――― 八 幡 大 菩 薩 !!!
そうだ、そうに違いないwww
八幡様の御加護があったから、政長は快勝したのでしょうか、
それとも、政長が出陣することが決まったから、八幡様が、
「あ、こりゃ勝つな」
と確信して、白旗でお知らせしに来たのでしょうか?
まあ、いずれにしても、政長は八幡様に愛されているに違いない!ww
(※どこからともなく空から白旗が降って来た…こ、これは、八幡大菩薩の奇瑞(きずい)に違いない!!
という物語は、『平家物語』や『太平記』にも見られる、当時の人々の共通認識ですが、
今回のは「日記に記された実話」、という摩訶不思議なお話です。)
ちなみに、素朴な疑問なのですが、
義政の御内書からも分かるように、『応仁の乱』の…少なくとも開始時点では、
その主要原因の一つは、義就と政長の家督問題なんですが、
しかし、この二人は5月の本戦開始以降、直接対決をしようとした気配がないのです。
相国寺の『蓮池合戦』では、政長軍 vs 六角・一色・義就軍であって、
しかも目的は「東軍の構を取り戻すこと」だったし、
まあ、政長の陣所はこの頃、細川勝元邸の敷地内にあったようですから、
簡単には攻められなかったのかも知れないけど…(でも、勝元邸と西軍本陣の宗全邸って、実は目と鼻の先w)
…うーん??
ってか君ら、11年も京都に一所に滞在して何してたのよ。
ま、西軍 vs 東軍であって、義就 vs 政長って問題じゃなかったのかも知れないけど、
でも、11年に及ぶ大乱が終結した後も、この問題は単独で尾を引き続けるし…
ああやっぱり、腑に落ちないw 素朴な疑問ってか、素朴な大問題だよ。
ああそうだ、きっと八幡様が「お前らドローな!」とかいって、
早々にジャッジ下してしまったに違いない! そうに違いない!! …いやまあ、知らんけどw
でも、この二人はホント、どっちも悪くないしどっちも名将だから、八幡様でなくても困るよね。
良かったらみなさんも、結局『応仁の乱』では解決に至らなかったこの大問題について、
「はっ倒そうと思わなかったのか、それとも出来なかったのか?」
「武力対決ではない、何か別の方法を考えていたのか?」
「それとも、なんも考えてなかったのか?」
そんな「もしも…」を、もんもんと妄想してみて下さい。
さあ、来年の応仁2年(1468)は、これまた厄介な新展開が待ってるぞ!
ってか、これ以上どんな珍劇が起こり得るっていうんだよ。
いやいや、あの人が伊勢国から助走をつけて、歴史的飛び蹴りをお見舞いしてくれるから、安心したまえ!
そして、OCなあの人にも大変なことが…
次回、「10 室町幕府の『応仁の乱』斜め上行ってもうた」
俺達の2ndフェーズが今始まる!! 乞うご勘弁!