TOP > 二、室町幕府雑学記 > 7 室町幕府の後半戦はじめました
小見出し
「歴史迷宮攻略法」
「動き出す!眠れる修羅の義就」
「斯波義敏は…お断りしたはずです!」
「伊予の国からブーメラン」
「近臣vs大名の、世紀末劇場へようこそ!」
「空に咲く!文正のフィナーレ」
「舞台裏をのぞけば…」
「舞台を飛び出す赤い星」
「脚本反省会」
「描いたのは、真夜中の日の出」
さあ、日本史上最も意味不明な大乱へ向けて、
秒読み段階に入りました。
もう後戻りは出来ません。 覚悟はいいですね?
しかし、君たち勇者はきっとこの迷宮を攻略して、
550年の謎に終止符を打ってくれると信じています。
とは言え、この時代は日記が多数残されているので、
それらを地道に解読していけば、
一本の真実の軌跡を描くことは、本来は容易いはずなのです。
それなのになぜ遭難者が続出してしまうかというと…
これは『応仁の乱』に限らず、
歴史を考察する上で共通する最大の注意点ですが、
「私たちは、現在から過去を俯瞰している」つまり、
「結果をすべて知った上で考察している」
という事実を、忘れがちだということです。
その為、ついつい結果から "逆算" して考えてしまい、
それ以前の彼らの行動の全てを、何でもかんでも未来の結果に関連付けてしまいがちなのです。
しかし、その時点での彼らは、どれほど未来の結果を予測出来ていたでしょうか?
良い例が、「室町幕府の創生期」です。
私たちは、足利尊氏が将軍となって室町幕府を開くという "結果" を知っていますが、
動乱の世を駆け巡っていた彼らは、明日の生死さえも予測出来ていなかったはずです。
せいぜいラフに殴り書きした未来図を、毎日毎日修正しながら、
迷いつつ、怯えつつ、それでも信じてたどり着いた場所が、"結果" であっただけなのです。
…それなのに、
あの行動も、その行動も、「すべては新政権からの離脱に向けて、巧妙に仕組まれた布石だ」としてしまったら、
出来上がるのは歴史小説です。
彼らが意を決して鎌倉を飛び出した時点では、闇の先に明かりを見始めていただろうけど、
それでも、
生きて京都の地を踏める保証もない段階で、戦の勝敗も、新政権側からの和睦の破局も予測できなかった未来に、
どれほどの確信を持っていたでしょうか?
『建武式目』を掲げた時点で場所さえ決まっていなかった彼らの、
青い写真に写っていたものはただ一つ ―――
「良い政道を目指そう!」
それだけだったと思います。
まあつまり、真実を追うのなら、あまり穿ちすぎないということですね。
出来るだけ心を素直にして、彼らの気持ちになって、同じ目線で時代を感じてみることです。
その時点で「彼らが知っていること」と、歴史を俯瞰している「私たちが知っていること」は違う、
それを、くれぐれも心に留めておきましょう。
それともう一つ、彼らは「ゲーム理論のプレイヤーではない」ということです。
自己利益の最大化のみを目的として生きている訳でもないし、常に合理的な選択をするとも限らないのです。
損得を超えた行動も取れば、時に、自己を犠牲にするような行動を取ることもあり、
その行動原理は、時代背景を考慮しながら慎重に見極める必要があります。
特に室町の武士は、値段の付かない道徳に突き動かされるのが大好きですから、十分に注意しましょうw
(※彼らの思考を探るなら、
当時の武士が教養としていた漢籍を読んでみることが一番です。 主なものは…
『六韜』『三略』『論語』『孟子』『大学』『中庸』
など。 どれも文庫本で簡単に手に入ります。
この時代の道徳は、「儒学」「仏教」そして日本古来の「八百万の神の教え」が混ぜ合わさったもので、
実に日本らしい、和の真髄といった感じです。
(古来、日本人は神も仏も尊ぶ「神仏習合」の精神のもとに生きてきました。)
(※八百万(やおよろず)…数が極めて多いこと。
八百万の神とは、「森羅万象あらゆるものに神が宿る」と考える日本での、数多(あまた)の神様のこと。)
ただし注意して欲しいのは、ここで言う「儒学」とは、
あくまで「"学問" としての儒教」(=孔子の教え)であって、
現代的な「"宗教" としての儒教」ではないという点と、
江戸時代に最重視された「朱子学」とも違うという点です。
細かい事ですが、室町時代を理解するには、ここは最も重要な所なので意識して学んでみて下さい。)
以上の点に注意しながら、一次史料から拾い集めたピース(=個々の史的事実)でパズルを始める訳ですが、
情報源としては、東京大学史料編纂所のサイトの『大日本史料総合データベース』を活用するといいでしょう。
余裕があれば図書館に行って、『大乗院寺社雑事記』『蔭凉軒日録』など日記を直接見てみるのもよいです。
一次史料と併用する参考書としては、
【石田晴男『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』(吉川弘文館)2008】
が、まとまっていてとても便利です。
この本を個々の出来事のインデックス的に使って、上記の「データベース」から該当の史料を探し出し、
考察や推理を自分の頭でやってみる、という方法がお勧めです。
(※ピースの組み合わせ方(=考察の仕方)についての注意点は、
「2-9 室町幕府の『応仁の乱』加速しはじめました「歴史を見る目」」の冒頭でも解説しています。)
まあでも、『応仁の乱』は言うほど迷宮でもないんです、実は。
真の迷宮はそのまた四半世紀後の『明応の政変』で、上記の注意が意味を成してくるのがこっちなんです。
…え、ってかまだ "びみょーな四半世紀" すら終わってないのに、ラスボスの後にラスボス待ってんのかよ!
ええ、そうなんです。 もううんざりして引き返したくもなりますが、
全て駆け抜けた先には、きっと500年振りに晴れ渡った空が出迎えてくれるはずですから、頑張りましょう。
さて、では寛正6年(1465)からスタートです。
この年の水面下で進む乱世の二大準備運動は、
畠山義就(よしなり)の、吉野の山奥でアップ始めました。 ※現畠山家家督:畠山政長(まさなが)
斯波義敏(よしとし)の、九州から帰ってきちゃいました。 ※現斯波家家督:斯波義廉(よしかど)
って、いきなり爆弾きたよ! しかも二発同時かよ!
実は、二人とも2年前の寛正4年(1463)に赦免だけはされていたんです。
これは、8代目将軍足利義政の生母日野重子の死去に伴う恩赦だったのですが、
あくまで、"もう幕府から討伐対象にはされない" ってだけで、家督や幕政への復帰を意味していた訳ではありません。
しかしもちろん、大人しく隠居していてくれるはずはない…。
まずは畠山義就。
寛正6年(1465)の8月と11月、約2年潜んだ大和国吉野の天川にその姿を現します。新生義就です。ゴゴゴ…
…って、おーい誰だこんなどっからどう見てもやばそうな奴に招待状出したのは!
この時、義就には馬と太刀のお祝いが届きました。
…って、おーい誰だこんなやばそうな奴祝ってんのは!
すみませんww 朝倉孝景(たかかげ)です。(『経覚私要鈔』寛正6年11月20日)
この畠山義就の活動再開の背景ですが、
これは配下の大和国人(越知(おち)・古市(ふるいち)など)の支援と、
興福寺を中継とした、古市と斯波義廉・朝倉孝景の連携があり、
さらに、斯波義廉と山名宗全の間には姻戚関係があって関係が強固ですから、
山名宗全の強力なバックアップがつく訳です。 (←この関係、この後ずーーっと続く!)
(※このような援助や協力関係を「扶持(ふち)」と言います。
この辺りからの大名の扶持関係は、『応仁の乱』での東軍と西軍の布石になるので要注目です。)
大和国人の健気さは涙ぐましいもので、義就が家督を改替されて討伐対象となった時、
幕府から上意に従うよう命じられるも、「義就から扶持を被っていて今さら離反できない」と言って、
没落王子に付き従ったのでした。
特に、吉野に引き篭もり中の義就を精一杯扶持し続けた越智の健気さは、室町美談の一つですw
一方、古市はちょっと独自に行動していたようで、義就復活に向け種々計略を巡らせていました。
古市と斯波義廉・朝倉孝景の接触がこの頃から頻繁に見られるようになりますが、
これは興福寺つながりだと思われます。
というもの、実は興福寺は、越前国に河口庄と坪江庄というでかい荘園を持っていて、
越前守護とはかなり関係が深かったのです。
安定した荘園の維持と年貢徴収には、お付き合いが大切なのですw
(おかげで『大乗院寺社雑事記』と『経覚私要鈔』には越前国や朝倉に関する情報が多いのです。ありがてぇ!)
山名宗全による畠山義就への扶持がいつ頃始まるのかは、定かではありませんが、
翌年の文正元年(1466)には明確になります。
…って、山名宗全って、娘婿の細川勝元が畠山政長を強力に支持してんじゃん!
ホントどうなんてるんでしょうね。でも、山名宗全と細川勝元の明確な対立はまだまだ先ですので安心して下さい。
(※ここでちょっと、興福寺についての補足です。
『経覚私要鈔』の筆者の経覚(きょうがく)と、『大乗院寺社雑事記』の筆者の尋尊(じんそん)は、
ともに興福寺大乗院の門主です。
大乗院とは、当時の興福寺の二大門跡(一乗院と大乗院)の一つで、
代々九条家(たまに一条家)の子弟が入室する決まりがありました。経覚は九条家、尋尊は一条家の出身です。
当時の上流階級(皇族や摂関家、足利将軍家)出身の僧というのは、もとが相当な家柄であり、
また、仏事だけでなく荘園の管理にも携わっていたので、その日常は一般的に想像する僧侶とは少し違います。
そしてこの経覚と尋尊、二人はその性格の違いが日記に表われていて面白いのです。
経覚は、尋尊より35歳年上ですが(この時71歳)、かなり好奇心旺盛ではっちゃけていますw
気ままで噂好き、人情はあるが公私の区別をしない日記には「おいおい、僧侶だろ?」とか、たまに思う。
で、この経覚が斯波義廉(この時19〜20歳)と仲が良いのです。 まあ、義廉は渋川家出身ですからね。
ちなみに、朝倉孝景は経覚の使いの者の楠葉元次と親しい。
つまり、身分の違いによって付き合う相手も変わってくるのですが、
それでも『経覚私要鈔』には朝倉孝景に関する記述が多い…ってか、めっちゃ応援してるw
そんな訳で、興福寺の衆徒である古市と、斯波義廉・朝倉孝景がここで繋がる訳です。
経覚は基本、畠山義就方を応援していて、この興福寺ネットワークが彼らの連携のもととなるのですが、
まあ、経覚自身は、何か暗躍している訳ではなく、純粋に祭り好き(見る側)なだけのようです。
一方尋尊は、当代随一の才学を誇る一条兼良を父に持ち、世上に対する物の見方が非常に学者的です。
客観的な分析、大局的な視点、そして公正な判断で天下の情勢を記録し続けてくれたので、
後世の歴史研究が受けた恩恵は計り知れません。
学者肌である尋尊の、情報収集に対する熱意と、興福寺独自の諜報員からなる情報網によって、
『大乗院寺社雑事記』は、室町時代最難関の迷宮…あーもうラスボス何人続くんだよ!という時代の
無双の攻略本となりました。 特に、河内の畠山と越前の朝倉に関する情報は必見です。
室町一の情強(情報強者)、それが興福寺の尋尊です。)
という訳で、畠山義就は大和国人の尽力よって再始動の一歩を踏み出し、
斯波義廉と朝倉孝景、さらに山名宗全との関係を深めていくのですが、
この同盟関係の構築を後押ししたのは恐らく、「斯波義敏の復帰活動への危機感」だったと思われます。
だって、味方は一人でも多いほうがいいもんねっ! ……でも、義就はやばすぎるだろ、常識的に考えて。
さて、その斯波義敏ですが、
大内さんのところで大人しくしててくれりゃいいものを、
よりによって、あの伊勢貞親(さだちか)を味方につけて家督復帰を謀ります。 …て、手ごわい。
しかもこれ、斯波義敏の嫁と伊勢貞親の新造(=新妻)が姉妹だって関係ww …て、手ごわいどころじゃねぇww
この斯波家家督のゴタゴタを叙述した『文正記』は、この騒動の直後に成立したもので、
かなりリアルに関係者の心境が吐露されています。(※筆者は斯波家の被官甲斐に近い人物。)
それによるとこの新造は――― 「魔女ナリ」…ってwww
その妖艶な魅力で、相当巧みに伊勢貞親を惑わせまくったようです。
(ちなみに、伊勢貞親自身もめちゃめちゃ批判されてる。
「賄賂と女色に耽り、幕政牛耳り諸国を乱し…」って、ひどすw)
(※詳しくは…
【瀬戸祐規『「大乗院寺社雑事記」「文正記」に見る長禄・寛正の内訌』
(大乗院寺社雑事記研究会編『大乗院寺社雑事記研究論集 第3巻』(和泉書院)2006)】
あと、『文正記』の原文は、群書類従20に収録されています。 )
まあ、この筆者がぶち切れて大袈裟に非難している可能性もありますが、
ただ伊勢貞親については、批判だけでなく公正な目で見た評価もしているのと、
『文正記』は真名本(まなぼん。漢字のみで書かれた書物)で、
その内容から筆者は、それなりに教養が高い人物と思われ、
極端に卑怯な捏造をするとも思えないのです。
しかし、魔女な艶妻に誘惑されたからって、それだけの理由で天下転覆しそうなことするかなぁ?
…というのが率直な意見です。
(男なんてそんなもん!とか言われそうですがw だがちょっと待ってくれ、
貞親はもう少し慎重に評価すべきだと思うんだ。 うん、たぶん。)
それと、伊勢貞親は、息子に宛てた『教訓』を書き残しているのですが(詳細はまたいつか)、
そこから想像される人物像は、「めっちゃ美学ある武家」と言った感じで、やはり何かかけ離れているのです。
でも、『大乗院寺社雑事記』や『蔭凉軒日録』によれば、
この新造の存在も、伊勢貞親と季瓊真蘂が、斯波義敏復帰を密かに取り計らってたのも事実だし、
他の軍記物でも痛烈な貞親批判はよく見るし…。 うーん、悩ましいところですが…
まあそんな訳で、斯波義廉は窮地に立たされ…ってむしろこれは、甲斐敏光と朝倉孝景が黙っていません!
『長禄合戦』で散々自己中なことした斯波義敏だけは…、やつだけは…
「子々孫々まで認めねぇぇーーっっ!!」
…と、連署の書状で公方に誓っているのです。 ――― しかも、伊勢貞親を通してw
実は、伊勢貞親の正室は、甲斐常治(敏光の父)の娘で、両家は姻戚関係にあったのです。
だから、この年の『親元日記』には、斯波義廉が甲斐を通して伊勢家に色々気を使っている記録が残っています。
(※『親元日記』は蜷川親元(にながわ ちかもと)による日々の記録。
蜷川家は、政所頭人である伊勢家の家宰で、政所代も務めた家です。)
義廉、涙ぐましいのうw
ってか、正妻の実家(甲斐家)ガン無視で、新妻(魔女)のお願い聞いちゃうんかい!
しかも、上記の『教訓』を授けた息子の実の母ですよ、この正妻は。 息子涙目ww
うーん、私としては単なるハニトラではなく、他に理由を見出したいのですが、
敢えて言えば、公方義政に忠実な伊勢貞親は、
「次期将軍候補の弟足利義視(よしみ)に近い大名(※)を牽制していた」
ってところでしょうか。 (ちなみに、義政の嫡男義尚が生まれるのは、これより後です。)
(※…例えば、京都の土一揆鎮圧に応じる大名がいなかった時、
足利義視は、朝倉孝景を呼んで忠節を尽くすよう命じ、
朝倉孝景は、古市に協力を求めています。(『経覚私要鈔』寛正6年11月26日)
孝景、面目の至りですなw)
(※ちなみに、伊勢貞親が斯波義敏復帰を推し進めた理由としてこの他に、
関東の情勢に関わる、とする説もあります。 すなわち、
「古河公方・足利成氏の討伐で、奥州勢を動員するのに、
奥州探題の大崎家と連絡関係を持つ斯波義敏を家督に据え直す必要があった」
…ということですが、
しかし、『余目氏旧記』には渋川家(義廉はもと渋川義廉)の記録があることから、
斯波義廉と大崎氏とに連絡関係が無いとは言えないし、
第一、斯波義敏なんて家督にしたら、
奥州勢どころか、甲斐軍と朝倉軍が全く動かなくなりますw ってか前回、斯波義敏で大失敗してるんです。
それに、幕府が復帰後の斯波義敏に関東問題の解決を期待した形跡が、そもそも無いのです。
(たぶん幕府も、関東で義敏が使いもんにならないの、分かってたと思うw)
この頃、義廉の父の渋川義鏡が、堀越公方・足利政知の側近の地位を失脚したとされていますが、
渋川家の家格を考えれば、それで斯波義廉の地位が揺らぐとは考えづらいし、
やはり、関東関係説は薄いのでは無いかと思います。)
ってゆーか、義政は何やってんだよ!って思いますよね。
伊勢貞親の言うことホイホイ聞いて、斯波義敏の復帰を推し進めちゃうんですよ。
伊勢貞親だけでなく義政だって、斯波家の被官たちが断固反対しているのを知っているはずなのに、
何をすっとぼけてんだかこの公方、彼らを『室町殿』(御所)に呼び出して、
「義敏を斯波宗家の家督に戻そうと思うんだけど、どうかな?」
って、おーい!無いよ無いっ! もちろん、甲斐と朝倉は、
「きっぱりとお断りいたします!」 (『経覚私要鈔』寛正6年11月20日)
にもかかわらず、義敏復帰運動はこの後も続きます。ってか加速します。とほほ。
…でも、あんまり強引なことしてると、そろそろあの人が動き出しちゃいますよ?
斯波義廉を最も強力に援護してて、かつ、今を時めく最もカオスなあの人が…。 いいの? ね、いいの?
ところで、この寛正6年(1465)は、
周防(すおう)の大内さんのとこにもひと騒動ありました。
前年の寛正5年(1464)、
「四国の伊予国(現在の愛媛県)の河野通春を討伐せよ」との幕命が下ります。
幕命…っていっても、これはほぼ細川勝元の独断に近いものですがw
(※ここでちょっと、「分国豆知識タイム」
当時の細川宗家(管領家)の分国は、
摂津国(大阪府北西部+兵庫県南東部) 丹波国(京都府中部+兵庫県中東部)
の2か国ですが、細川家は庶流一門が多くいて、
阿波国(徳島県) 讃岐国(香川県) 淡路国(兵庫県の淡路島) 土佐国(高知県)の一部
和泉国(大阪府南西部) 備中国(岡山県西部) 三河国(愛知県東部)の一部
の守護職も細川一族が掌握していました。
まあつまり、細川家ってのは一族をひっくるめると、かなり所帯がでかいのです。
京都に隣接する摂津・丹波を中核に、畿内の沿岸部から四国の広範囲が、細川一門の勢力圏という訳です。
ちなみに、山名家も同様に一族で複数の分国を持っていて、
但馬国(兵庫県北部) 因幡国(鳥取県東部) 伯耆国(鳥取県西部)
備後国(広島県東部) 安芸国(広島県西部) 石見国(島根県西部)
つまり、本国の但馬国を中心に、山陰から中国地方にかけて一族で勢力を保っていたので、
まあ、赤松家の播磨・備前・美作(兵庫県〜岡山県)を欲しがるのも納得な訳です。
ただ、安芸国と石見国に関しては、西隣りの大内さんもかなり影響力を持っていました。
大内さんの分国は、
周防国(山口県東部) 長門国(山口県西部) 安芸国、石見国の一部
筑前国(福岡県北西部) 豊前国(福岡県北東部+大分県北部)
本拠地は周防国ですが、
博多を拠点とする「九州探題」の渋川家を支えていたのと、
瀬戸内海の島々を拠点に海を統べる海賊衆にも影響力を持っていたりして、
広く西国におけるその存在感は、とんでもないものがあったのです。
(※九州探題(鎮西探題ともいう)は、本来九州全域を統治する職ですが、
この頃の九州探題渋川家は、すっかりこぢんまりしてしまっていました。
大友家や少弐家にやられっぱなしですw (でも大内さんが援護してくれた。)
それと、当時の "海賊衆" に悪い意味はありません。 海に生きる武士、と言ったところです。)
細川家や山名家が、"庶流一族" で複数の分国を掌握しているのに比べて、
大内さんはあくまで "一大名家" ですから、その特異性、広域統治能力の高さが窺えます。
…以上、守護の分国に関しては、一度地図で場所を確認しておくことをお勧めします。 色々と捗るぞ。)
という訳で、四国の大部分に勢力を伸ばす細川家が、伊予国の河野家と対立するのも無理ない訳で、
細川勝元は義政に働きかけて、幕府として「河野通春討伐」を開始、
西国の大内さんにも出陣命令が出されます。
この時の大内家の当主は、大内持世の後を継いだ大内教弘(のりひろ)(持世のいとこ)。
大内教弘は、寛正6年(1465)3月に「はーい、参加しまーす!」と返事を出して、8月に伊予へ出陣、そして、
「よぉー、通春! 加勢するぜっwww」
って、おーい! 違う違う、それ敵! 焦ったのは細川勝元です。
「ちょ、えっ?? おい大内、待て!待てって! ってゆーか待って下さいお願いしますっ」
と、これまた幕府を通して合力を中止させようとしますが、
大内さんは余裕で河野通春援護を続行して細川勢を撃退、
逆ギレした細川勝元は、これまたまた幕府に訴えて大内退治の命令を下させたのでした。
てゆーか、細川勝元は職権濫用し過ぎだろw しかも、なんと言う華麗なブーメランww
大内さんが河野通春を援護したのは、西瀬戸地域に勢力を伸ばそうとする細川家への牽制です。
西国の雄(ゆう)としては、俺の庭であんま勝手なことして欲しくない訳です。
つまり、細川勝元に反抗しただけであって、幕府に背いたつもりはほとんどないのですw
実は、大内さんは幕府から討伐対象にされることが良くあるのですが、大抵意に介しません。
それは、そもそも周辺諸国に大内さんに対抗できる勢力がいないってのと、
所詮政局が絡んだものだってことが分かってて、反幕の意思も、悪い事した覚えもないからだと思われます。
まあ、こんな余裕なことが出来るのも大内さんだからこそですが、
それにしても、義政は細川勝元の言われるがままって、ほんとしっかりしろよ!
…ちなみに、この騒動の最中大内教弘は病に倒れ、出陣先の伊予で9月に息を引き取ります。 ううっ(泣)
この少し前、まだ大内軍が幕命に反する前ですが、大内教弘の病の報を聞いた義政は、
「とても心配しています。医師を遣わせるから、ゆっくり療養してね!」
という御内書を出していて(『親元日記』寛正6年7月28日)、
まあ、慈悲深い公方ではあるんだけど、
家臣の言うことを何でもかんでも疑うことなく聞き入れちゃうのは、優しさとは違うだろ!
と言わざるを得ません。
(※義政の言動については、『応仁記』に「勘当に科なし、赦免に忠なし」と言われているように、
基準や理由を見出すのが極めて困難です。
私も初めは「いや、義政にだって何か考えがあったはずだ」
という路線で探ってみたのですが、うーん、やっぱり慈悲深さを勘違いしていたとしか思えんw
しかし、もちろんそれが正解である保証もないので、みなさんもあらゆるパターンを想定しながら、
『応仁の乱』に至る公方のちぐはぐな言動の真相究明に挑んでみて下さい。)
…それにしても、出陣中に当主の交代があったってのに、
全く動揺を見せない大内軍の統制力の高さ、やつらは化け物かw (←ここ、以後延々とポイント)
(※とりあえず大内さんについて、ざっと知りたい方は
【 川岡勉・古賀信幸編『日本中世の西国社会 1 西国の権力と戦乱』(清文堂)2010】
…の、「第2章 川岡勉『室町幕府―守護体制と西国守護』」
それから、九州探題との関係は、
【黒嶋敏『九州探題考』(『史学雑誌』第116編 第3号 2007年3月)】
渋川ファンにもどうぞ。
あー、やっぱ大内さんは分かってる。治国ってもんを分かってる! 本物の統治を知る男! )
あ、そうそう、
『長禄合戦』(1458−1459)で家督の座を追われた斯波義敏は、
周防国に逃げて以後数年間、大内さんにお世話になっていた訳ですが、
この伊予国の一件で、
「大内が錯乱したから縁切りたーい!」
と、義政と伊勢貞親に泣きついてきた為、
伊勢貞親が計略を巡らし、義政が御内書を下すことで上洛が叶います。(『蔭凉軒日録』寛正6年10月−12月)
ってか、義敏てめぇーーーww 恩を仇で返すような真似しおって!
おめーを匿ったせいで大内教弘は幕府から討伐対象にされてんだぞ! (『経覚私要鈔』寛正2年正月22日)
しかも、博多の名酒(※)なんぞお土産に持って意気揚々と上洛して、この、恩知らずが! もう!
(※…京都で大絶賛!! 古より名酒の誉れ高い『筑前国博多の練貫(ねりぬき)』です。 (『蔭凉軒日録』)
ってか義敏てめーww それは大内さんが献上するものだ! なんでおめーが我が物顔で振舞ってんだよ!
ちなみに、室町幕府では『河内国の天野』も大人気名酒です。)
…という訳で、斯波義敏に招待状を出したのは伊勢貞親でした!
しかも、公方の御内書っていう超VIP待遇ww 最もいらんやつが最もスペシャルなゲストって…
そりゃ祭りも派手になるがな。
さて、年が明けて文正元年(1466)になりました。
この年は水面下が水面下でなくなってしまうのでしたね。 世紀末が水上花火でど派手に上がりますよ。
ってか、去年の時点で既に水面下じゃねーよ!という突っ込みは置いといて。
ところで、昨年末に公方義政に待望の長男(のちの足利義尚、生母は日野富子)が生まれていますが、
それによって急に、次期将軍候補が弟足利義視であることに変更が加えられた様子は見られません。
(義視は順調に昇進しているし、兄義政との仲も基本的には良好です。)
ただし…、義政に忠実で、『御父』として若君の養育を始めていた伊勢貞親がどう思っていたかは…分かりませんが。
さて、上洛して公方との対面も果たした斯波義敏。 密談を交わす伊勢貞親と季瓊真蘂の次なる一手は、
斯波義廉の屋形(京都の邸宅)の明け渡しと、幕府への出仕停止、家督の剥奪です。
ってゆーか、理不尽すぐるw
義廉なんか悪い事したん? 家臣からも慕われてるんよ?
畠山義就と近づき出しことがいけなかったのかも知れないが、
これだって、(貞親たちの)斯波義敏復帰の陰謀とどっちが先だったか分からないし、
やっぱり、弟義視と上手くやり始めた大名たちが、公方義政の統制下から外れることへの懸念、
そして生まれたばかりの若君の存在が、拍車をかけたのもあるかも知れません。
というのも、この年の夏に向けて、伊勢貞親の行動は加速します。
しかもターゲットは弟義視と諸大名、つまり全方位同時攻略です。
…なんという恐れを知らない大胆な策士。
しかし貞親よ、夏の花火は…一瞬の輝きを残して夜空に消えてゆくのだぞ?
文正元年(1466)6月半ば、早くも斯波屋形の明け渡しが議せられ始め、
7月下旬、斯波義廉の出仕停止、斯波義敏の斯波屋形への移徙(=転居)が強行されます。
斯波義廉、甲斐、朝倉 「!!@くぇrうtぇrt?○※☆!★#!!??」
しかし! ここで思い出して欲しい。
あまりにも理不尽な上意には、大名たちは団結して異を唱えるということを!
細川勝元、山名宗全、そして一色義直、土岐成頼も同心して斯波義廉援護を開始します。(『大乗院寺社雑事記』)
おおっ! がんばれ大名連合!!
…しかし、そんなことで怯む伊勢貞親ではない。
細川勝元へのカウンターパンチは―――
討伐命令が出されていた「周防国大内の赦免!」
伊予国での華麗なブーメランのトラウマが蘇った細川勝元は、面目を失い隠居を企てる始末w
そして、山名宗全への制裁は―――
上意の圧力で「宗全の娘と斯波義廉との婚姻断絶!」
斯波義廉は、母も山名家出身(宗全のいとこ)ですが、さらに宗全の娘を娶っていたのです。
義廉と宗全が御所に出仕をしても、公方義政は対面を拒否。
むむ、なんという崖っぷち。
京都には、各大名が諸国から軍勢を召集するという、とんでもない展開となってしまいました。
近衛政家「大乱に及ぶべきか!?」 (※近衛家は摂関家。近衛政家の日記『後法興院記』はこの後頻出!)
尋尊「一天大儀か!?」
って、ああ、もう見てらんない。
さらに、室町殿では、上意による山名宗全退治の計略まで持ち上がります。 しかし―――
経覚「でもさ、「君臣の義」は力の強弱で決まるものではないけどさ、
いま山名宗全に勝てるやついないじゃん。
宗全最強じゃん! どうすんの? ね、どうすんの?
ああもうっ、後は神頼みしかない! 天照大神! 八幡大菩薩!! 春日大明神!!! 」
(『経覚私要鈔』文正元年8月17日)
本当、どうすんでしょうね。
ところで、天照大御神(あまてらすおおみかみ)は言わずと知れた日の本日本の日の女神様ですが、
武運の神様の八幡神さまも、古来、朝廷から庶民まで、人々に広く篤く崇敬されてきた鎮護国家の神様です。
特に武士が台頭した中世では、弓矢の守護神・八幡大菩薩の人気は果てしなく、
"俺らのラスボス" として、何かにつけてみんなに頼りにされていました。
春日大明神は、興福寺と一体の春日社の祭神ですね。
僧侶なのに神様を拝んじゃっているのは、別に不思議なことでもなんでもなく、
本来この『神仏習合』こそが、伝統的な日本人の自然な感覚だったのです。
…って、そんなほのぼの豆知識披露している場合じゃないんですが。
8月25日、伊勢貞親によるトドメの一撃、
斯波義敏を越前・尾張・遠江の三ヶ国守護に任じ、守護職を剥奪された斯波義廉には討手を発向。
それに対し、山名宗全は斯波義廉と共に切腹する覚悟を示し、
細川勝元は、宗全退治を止めるよう義政を諫止し、抗議の隠居(ボイコット)を図ります。
しかし抵抗空しく、一色義直や土岐成頼は已む無く降参を迫られるまでに…
(『経覚私要鈔』文正元年8月26日)
…ああ。不憫(ふびん)なり、義廉。
しかも、京都では、公家や武家が妻子や資財を避難させるほど、世紀末秒読み状態だってのに、
(『経覚私要鈔』文正元年8月11日)
季瓊真蘂の日記『蔭凉軒日録』だけは、この事態を危惧するどころか、
斯波義敏復帰の喜びに満ち溢れているのがまた不気味。 (『蔭凉軒日録』文正元年8月24日)
あまりの認識の違いに戸惑ってしまいますが、
どうやら今度の事は公方の威風によって実現したということで、その威光を称えている模様。
義政側近が、将軍親政と大名勢力の統制を企図しているのは確かなようです。
それにしても、大名連合やられっぱなし過ぎるww
もちろん、武力では側近たちより圧倒的に上なのは確実なのですが、
なぜすぐにも強硬手段に出ないのかというと、彼らは、好き勝手やっているよう見えて、
やっぱり上意に敬意を持っているのです。
つまり、上記の経覚の言葉にあるように「君臣の義は力の強弱によるべからざる」もので、
諫言する事はあれど、上意に真っ向から反する事は、武士として憚られることなのです。 (←ここ、ポイント)
だから、公方を味方に付けたもん勝ちみたいなところがあって、 (←ここも、ポイント)
今のところ伊勢貞親超有利な訳ですが、
それにしたって、強引過ぎる。 近臣 vs 諸大名の激化の危険性が分からんのか?
まあ、伊勢貞親の独断暴走もあるでしょうが、実は幕府側にも、"迫りくる危機" があったのです。
実はこの年、前年に眠りから覚めた 「修羅界の最終兵器 畠山義就」 が、
京都をロックオンしちゃってたんです。
4月28日 大和国の壷坂(吉野の少し北)に入らんとする。 ズン
8月11日 河内国進出の支度を開始か? ズンズン
8月20日 越智が出迎えの為、吉野の天川に馳せ向かう。 ゴゴゴゴ…
8月25日 ついに大和国壷坂寺に現る! その勢、千乗万騎!! (『経覚私要鈔』文正元年)
こえーよww
もちろん、幕府も対抗して8月28日付けで義就退治の幕命を下しますが、
動き出した義就を止められる者などいはしない。
9月 2日 義就、河内国に入る。率いる軍勢3000〜4000。
9月 4日 河内国の烏帽子形城を3日で落とす。 嶽山城衆も悉く降参、猛威を振るう!
9月 5日 土一揆さえ従えてしまう。 (『経覚私要鈔』文正元年)
畠山政長方の勢力は大ピンチ。
相手が人間ならまだしも、義就では万事休すです。 ってか、経覚はなんちゅう日記を残してるんだww
斯波義廉改替劇で、ただでさえ一触即発の京都に、歩く修羅の巷が迫り来る!!
…しかしみなさん、実はこれでもまだ花火は打ち上がってないんですよ。信じられます?
天下をひっくり返す盛大な一発が夜空を彩るのは9月6日、その儚き花の名は――― 『文正の政変』!!
9月5日の夜、足利義視が夜陰にまぎれて、命からがら細川勝元邸に逃げ入る。
斯波義廉、山名宗全、細川勝元、畠山義就、
あらゆる大名を公方義政の威風の下に従えんとする伊勢貞親の仕上げの一手、それは…
「次期将軍候補足利義視の追放」
―――これで、計画は完璧に遂行された。 すべては、美しきの室町王国の理想のため。
我が戦略の前に、潰えぬ者などいないのだ! フハハハハッ
…と、陶酔していたかどうかは知りませんが、しかし、伊勢貞親はたった一つ、大きな読み違いをしていた。
それは…、足利義視も「足利家の公方(見習い)」であったということ!
どうやら、伊勢貞親は義政に対して、
「義視が好からぬ事を企てている」といった内容の不実の申沙汰をしたようなのです。
それで、義政がそれを鵜呑みにして、義視に切腹を迫り、
しかし身に覚えのない義視は潔白を証明する為、細川勝元を通して申し開きを試みるも、義政からは返答なし、
という事態に陥ります。
まあ、義視と諸大名の近さから、手を組んで何か企んでいる事があると踏んだ上での讒言だったのでしょう。
義政を味方に付ける伊勢貞親は、
「多少強引な方法でも、義政の上意とあれば大名たちは逆らえず、
また、義政が自分を疑うことなどまず有り得ないし、真相はうやむやのまま、義視追放は上手く運ぶ…」
そう読んだのではないでしょうか。
…しかし! ここで大誤算、義視の求心力は伊勢貞親の予想を超えていた!
今までコテンパンだった大名たちが、なんか急に力を得て、義視のもとで一丸となっている!!
公方を戴いた大名たちの勢いは、義視の潔白を証明し、さらに側近たちへの反逆を開始します。
すなわち、義視の身の上について、細川勝元を通しての申し開きが通じ義政は…
「貞親が不実の申沙汰をしたのなら、貞親こそ切腹せよ」
そうつまり、義政の上意をも覆してしまうのです。 そして…
9月6日の夜、伊勢貞親、季瓊真蘂、斯波義敏とその子息、赤松政則、上池法印、等が京都から没落
計らずも伊勢貞親は、義視の持つ "足利家の珍妙な力" によって大名たちに本気を出させてしまい、事態は一転、
その与党と共に、京都から逐電(ちくでん)することとなったのです。(※逐電…逃げて行方をくらます事)
な、なんという超展開。
秋の夜空に散ったのは、伊勢貞親の方だったとは。
まあ、おかげで斯波義廉は命拾いした訳ですが、
なんかすっかり話題を持っていかれた感があって、微妙に腑に落ちないw
経覚も、「あれ?義廉のこと主題じゃなくなってね?」とポカーンとしてるし。
(でも直ぐに、朝倉孝景に「めっちゃおめでとう!」と伝言して、孝景も「歓喜無極!」と返報してます。)
(※ここで少し補足です。
『文正の政変』は、上記のように、
「伊勢貞親が、義視の失脚を謀って讒言したが、逆に義視の無実が証明されて自身が失脚した」
というのが一般的な解釈ですが、
ただ、これまでの伊勢貞親の抜かりない策略と比較すると、讒言というのはどうも稚拙過ぎる気がしませんか?
伊勢貞親の "申沙汰" によって義政が義視に切腹を迫ったのは事実ですが、
「伊勢貞親の "申沙汰" が、義視の誅罰を目的とするものだった」というのは、
"結果" からの推測でしかありません。
私は個人的には、義政が義視に切腹を迫ったという "結果" は、
伊勢貞親が目論(もくろ)んだものではなく
「伊勢貞親の予想を超えるものだった」のではないかと思っています。
後述するように、この時伊勢貞親は、畠山義就の復帰の動きを危急の課題としていたと考えられますが、
その動きを阻止するのが目的で、
義視・山名宗全等と畠山義就の関係(あくまで事実)について、義政に "申沙汰" をしたら、
義政が予想外に早とちって、「義視が謀反を企てているだと!ならば切腹!」と、
斜め上行く対応に出てしまった。
驚いた義視は、「ちょ、なんで!? そんな陰謀企ててねーよ! え?貞親がなんか言い含めたの?」
と、誤解が誤解を呼んで、
「義視を亡き者にしようとする讒臣貞親許すまじ!」と大名が本気出してしまい、
結局、それまでの優勢が嘘のように、京都を没落する羽目になった、というのが真相ではないかと。
…というのも、
この時の伊勢貞親は、妙に引き際が良いんですよね。
嘘で義視を嵌めようとしていたなら、さらに讒言を重ねて悪あがきしそうなものですが。
義政の寵臣である伊勢貞親ならそれも可能だろうに、
潔く身を引いたのは、やはり、貞親なりに信念を持っていて、
「不測の事態を招いてしまった事に対する引責の意思表示」
だったのではないかと思うのです。 (←ここ、実はポイント)
(※貞親大批判の『文正記』でも、
あらゆる罪を一身に受けて退いた点で忠臣とも言える、と評価しています。)
…まあつまり、貞親はもう一つの誤算をしていた訳で、
「義政は義視の事となると、えらくムキになる」ということを知らなかったのです。
優柔不断で近臣にはひたすら甘いのに、義視にだけは激しいつんでれ傾向を示す…という、
義政の意味不明な特徴は、この後『応仁の乱』において天下をとんでもない方向に導くことになります。)
…と、以上が『文正の政変』です。
側近 vs 諸大名の泥沼に終止符を打ったのは、足利義視の求心力だった、というお話ですが、
あまりに急転直下で、気付いたら秋。
あーなんかもう、俺たちの夏は一体…みたいなことにw
(ちなみに日付は旧暦なので、この7月末から9月初めの出来事は、新暦では9月から10月初めに相当します。)
ま、でも、花火が綺麗だったからいっか!
めでたし、めでたし!
…って、あれ? 花火って… "終わり" じゃなくて、"始まり" の合図じゃなかったっけ?
なんかよく考えたら、まだ解決していない問題が残されているような。
ってゆーか、水面下じゃなくなった水面下が、まだ水面下に戻ってないよね? いま、世紀末むき出し状態だよね??
うん、そうなんだ。 これで事が収まる訳は、ないんだな。
では、『文正の政変』の後日談から。
伊勢貞親とその与党がさっさと没落したとはいえ、
あそこまで横暴に斯波義廉を追い詰めた悪行、山名宗全と朝倉孝景の怒りがそう簡単には静まる訳はない!
まあ、諸国の軍勢が相次いで上洛した時点で、京都の市中はかなり物騒なことになってはいたのですが、
伊勢家の被官を標的に、土蔵(土倉の倉庫)への乱入が派手に始まります。 祭りの余興だわっしょい!!
…って、いやほんと落ち着いてください。 君たちが暴れると止められる人いませんから。
しかし、こう言っちゃなんですが、土蔵への乱入、つまりは徳政(借金踏み倒し)は、
そう珍しいことではありません。
特に、ちょっとでも世相に不穏な気配が漂うと、すぐにどっかしらで始まります。
この時も大名から馬借(中世の運送業者)まで、京都だけでなく奈良でもひと騒動あったようです。
彼らは基本がヒャッハーなので、天下の泰平を維持するには、
「いかに世紀末を水面下で押さえ込むか」が重要なのであり、そこが上意の見せ所なのです。
だから、放任主義的な上意だと、乱世突入はむしろ必至… おっと、この先は来年のお話だ。
さて、この政変は、基本的には義政の側近と大名の衝突です。
特に伊勢貞親の専横は、相当に諸大名の反感を買ったらしく、彼らは、
「伊勢一族は一人残らず幕府から追放するべき!」と衆議しているほどです。(『経覚私要鈔』文正元年9月11日)
しかしまあ、伊勢家は政所だけでなく、
申次や右筆(ゆうひつ。書状の代筆をする職)などの近習として、
一族の多くが幕府に祗候している現実があり、何より公方の『御父』という重要な存在。
結局、伊勢貞親の嫡男の伊勢貞宗(さだむね)と、貞親の弟の伊勢貞藤(さだふじ)をはじめ、
伊勢一族は存続を許されたのでした。
(※この伊勢貞宗と伊勢貞藤は、この先重要メンバーになりますのでどうぞよろしく。
ちなみに、伊勢貞宗は『教訓』を授けられた例の息子です。
『応仁別記』によると、斯波家の家督に介入する父を諫めて、疎遠にされたとか。
父の事も母(甲斐娘)の事も、色々涙目ですなぁw でもこの後もっと涙目続くよ! がんばれ貞宗!)
しかし、実は今回の騒動、京都を没落したメンバーをよく見ると、単なる側近と大名の対立ではないのです。
まあ、伊勢貞親と季瓊真蘂、斯波義敏父子はいいとして、
気になるのは赤松政則。
これはつまり、伊勢貞親与党の構想には、「山名 vs 赤松 の対立」が潜んでいたということです。
それから、上池法印はお医者さんですが、『大乗院寺社雑事記』によると、畠山政長を擁護していたそうです。
つまり、「畠山義就の再始動の阻止」も、彼らの主要目的の一つだったと考えられます。
(伊勢貞親近辺には、その素直な仕事ぶりから畠山政長を支持する者が多かったと思われます。
というのも、『長禄寛正記』(作者不明とされている)の中で、政長はめっちゃ褒められているのですが、
これどう見ても季瓊真蘂が執筆に関与してるっぽいのですw(証拠多数) まあ、詳細はまたどっかで。)
そして政変後の幕府では、義政は傍観するばかりで、義視が諸事を取り計らい、
細川勝元と山名宗全が「大名頭」(だいみょうがしら)となっていた、とのことですが、
その義視と山名宗全は、畠山義就を支持していて、
一方で、義視は細川勝元とも関係は良いが、細川勝元は畠山政長を扶持している、
…つまり、一見平和そうでいてしかし、
畠山家の二人に関してだけは、ねじれた状況になってしまっていたのです。(『大乗院寺社雑事記』文正元年9月13日)
という訳で、この政変がもたらしたものは、
「足利義視の身の上の安全」「斯波義廉の家督の安泰」「義政周辺の専横な側近の排除」
という利点だけではなく、
畠山義就を扶持する者(特に山名宗全)への抵抗勢力が一掃され、逆に、
畠山政長を支持する者が細川勝元だけになってしまった、という
「政長実は大ピンチ」な局面をも、迎えていたのです。
(※ただし、この後の展開を見れば分かるのですが、
義視自身は、畠山義就の家督復帰に積極的に関与してはいないと思われます。
基本的に陰謀めいたことは出来ない、直球公方なのです。(だからこの後、派手にコケる)
ちなみに、この頃の管領は畠山政長なのですが、…めっちゃ影薄いですよねw
たぶん、言われたことを言われた通りに真面目にこなしているから、目立たないのだと思います。
細川勝元みたいに職権濫用してブーメラン食らって笑わせてくれよ、とか思うけどw
でも、真っ直ぐにしか生きられない不器用さが、政長の良い所だと思います。(だからこの後、派手にコケる))
さて、その畠山義就はどうしているかと言うと、
相変わらず河内国をズンズン北上、やや西へ逸れて二上山、古市方面へ猛進していました。
大和・河内の各所で、義就方・政長方の双方の大和国人と畠山被官たちの戦闘が勃発していましたが、
どうやら、義就方が圧倒的に優勢だったようです。
「河内の国衆は、ほとんど義就についたらしいって!」 (『経覚私要鈔』文正元年9月11日)
いや、さすがにそれは盛りすぎだろ経覚、
動き出してまだ半月だぞ?…と突っ込みたいところですが、
まあでも、義就が河内を制しているのではなく、義就が河内だと考えれば有り得る話ですね。
『応仁の乱』後の状況から察するに、この時既に河内が義就になっていた可能性は高いです。
河内国・紀伊国・越中国の守護である畠山政長には、非常に不利な情勢となってきました。
政長「お、俺の分国が…義就になってしまった(絶望)」
10月16日、河内国の布施城を守る政長方の兵は奇妙な光景を目にします。
どこからともなく、柴一束と盾だけ持った侍じゃないっぽい者達がわらわらと集まってきて、
その柴を城の堀に投げ入れているのです。 しかもその数、数百人。
「え、何あれきもい」とか思ってる間に、あっという間に堀は埋まり、そいつらがなだれ込んで来て布施城は落城。
こんな恥ずかしい落とされ方をした城、聞いたことがありません。(※実話です。『経覚私要鈔』文正元年10月17日)
政長「お、俺の分国の城が、なんか変態的な手法で落とされていく…」
政長、不憫なり。
でも、こんな日本史上最難関な男を敵に回しながら、最後まで挫けなかった畠山政長はやっぱり偉いと思いますw
さて、秋も深まる頃、義就は越智家栄(おち いえひで)の館に一泊します。(『経覚私要鈔』文正元年10月21日)
どんなに落ちぶれようと、甲斐甲斐しく扶持し続けた没落主君の訪問に、
越智家栄は感無量だったことでしょう。 義就もその忠節に応えて、多くの所領を充て行ったそうです。
さあ、今日まで支えてくれた忠臣たちの為にも、復活のステージは豪勢に!
12月25日、遂に義就は上洛を果たします。 6年振りのただいまです。 いい迷惑です。
手引きをしたのは山名宗全。 でも、公方に許可とってないそうですが…大丈夫なんでしょうか?
(『大乗院寺社雑事記』『後法興院記』)
うん、まあいっか。 では義就上洛の模様を、『応仁略記』の提供でお送りいたします。
京都から敷かれた上洛のレッドカーペットは八幡(京都府八幡市)の地まで続き、
山名宗全をはじめ数の知れない路次の迎えと、雲霞の如くに集まった観衆の中を、
数万騎を従えた行進は、悠久の都を目指して進む。
一天を敵にうけて今日まで六年、名望を切りなびかせた男の雄姿に、見る者はみなこう言った、
八 幡 大 菩 薩 の 化 身 な り !!
…いや、ねーよw 八幡様は国家を鎮護(ちんご)するんですっ! 義就じゃ国家ががちんこしちゃいますっ!
でも、どうするんでしょうね、この状況。
別に京都にほっこりしに来た訳でもないでしょうに。
細川勝元「おい、宗全。 どうすんだよこれ。 マジ何考えてんだよ。
俺が政長めっさ扶持しまくってんの知ってるよね? 知っててやってんだよねこれ?
ってか俺、婿(むこ)だよね? え、何、マジでどうなってんのこれ??」
文正元年(1466)9月13日の夜半、ひと筋の流星が空を横切り、人々は戦慄したといいます。
なぜなら―――
前年の同じ日同じ時刻に、天を切り裂き地を唸らせた、あの "赤い大流星" を思い出していたからです。
…って、やっぱり、去年の時点で既に花火上がってたんじゃん!!
『応仁の乱』の生き証人の一人、興福寺の尋尊は晩年こう記しています。
「あれは天狗だった。天狗流星だった。
んでもって、こんな大乱は日本初、天狗流星も日本初。
つまり、全部天狗のせいだったんだよ!!」
さて、"びみょーーな四半世紀" の総仕上げの2年間を見てきた訳ですが、
最後にいくつか問題点を整理しておきたいと思います。
まず、『応仁の乱』では、東軍と西軍に分かれて大名同士が戦闘を繰り広げる訳ですが、
直前のこの2年間においては、ずっと側近 vs 諸大名であって、
意外にも、諸大名間での、大乱に繋がりそうな大きな対立はないのです。
(山名 vs 赤松も、細川と大内さんのも、局所的なものであって京都を巻き込む程じゃない。)
しかし、策士伊勢貞親に対抗する過程で、いつの間にか強靭化していった大名同士の扶持関係が、
何か切っ掛けさえあれば、一瞬で幕府を二分する可能性を秘めるまでに、成長してしまっていたのです。
初めは助け合う為に結ばれた同盟が、知らない間に東西対立の下準備になっていたとは、皮肉なものです。
さて、その "切っ掛け" となるのが、畠山家の二人であり、
そして一気に細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍とが対峙する構図に移行してしまうのですが、
ここで問題なのが、「細川勝元と山名宗全が対立し始めるのはいつか?」ということです。
この点については色々と意見があって、
例えば、大内教弘は実は山名宗全の婿(山名煕貴の娘を、宗全が自分の養女にして嫁がせた)なのですが、
そのことから、伊予国での細川家への反撃が、
「山名と細川の対立開始を反映したものだ」とする説がありますが、
しかし伊予の一件は、あくまで西瀬戸の地域的な要素の強い事案であって、大名間の派閥問題ではないのです。
(小規模な大名なら、中央政界の派閥に影響を受けるでしょうが、
大内さんは、十分に独自の政道理念で行動できる規模の大名です。
実は、貿易で経済的にも相当潤っていたりするw 室町一のうらやま頼もしい大名です。)
また、斯波義廉を擁護する山名宗全が、
細川勝元を追い落とすことで、義廉の幕府内での地位を確立しようと謀り、
細川勝元が扶持する畠山政長にぶつける為に、畠山義就を抱き込んだ…という見方も可能ですが、
しかし、伊勢貞親に対抗している段階では、細川勝元も共に義廉を擁護していたのだし、
だいたい斯波義敏さえいなくなれば、細川勝元がいたって、義廉の地位はその家格からいって磐石です。
まああとは、常時エキサイトしてないと気がすまない山名宗全が、
伊勢貞親没落後の次のターゲットとして細川勝元を選んじゃった、てへ。…ってだけとも思いましたが、
あまりに投げやりな推理なので、ここでは却下します。
(※ちなみに、(山名と利害が真っ向から衝突する)赤松家の再興に、
「(当時管領だった)細川勝元が同意していた」と見做した山名宗全が、勝元に怨みを抱いていたから、
とする説もありますが、
しかし、赤松家再興は長禄2年(1458)の事であり、
少なくとも文正元年(1466)末までは良好な関係だった事を考えると、時間差があり過ぎるし、
何より、細川家の庶流が赤松家と近い(おそらく再興を支援していた)という現状では、
赤松に対抗する為にこそ、
細川宗家の勝元は、敵にするのではなく味方に取り込むのが自然な戦略だと思われます。
―――2015.6.21追記 )
私は、勝元はもとより、そもそも宗全さえも「対立抗争を想定してなかったのではないか」と考えています。
2人には舅と婿の関係であって、これまで見てきたように基本的には同盟関係です。
普通に考えれば、対立はお互いの不利益、ならば、自ら進んで敵対しようとは考えないはずです。
しかしこの後、翌年の正月早々畠山義就の家督復帰は強引に遂行されます。
でもそれは、細川勝元への宣戦布告を意味するものではなく、
あくまで "目的" は「政長を追って義就を家督に据えること」、
つまり、山名宗全は、細川勝元に対抗する為に義就を利用したのではなく、
義就の家督復帰を推し進めた結果、細川勝元と全面対決する事態に陥ってしまっただけなのです。
(つまり、自身の与党で幕府の大勢を占めて天下好き放題!ムハハハハッ…くらいのノリだったのであり、
その為には、細川勝元ともそこそこ上手くやっていた方が都合は良い訳です。)
恐らく、自身の優勢に驕る山名宗全は、細川勝元が歯向かってくるとは考えてなかった、つまり、
「そこまで勝元が怒るとは思ってなかった」
のだと思いますw
(つまり、これまでの良好な関係を考えたら…
宗全は「勝元は自分について来ると過信していた、勝元が自分より畠山政長を選ぶとは思いもよらなかった」
…というのが、意外かも知れませんが最も妥当な解なのではないかと。 ――2022.3.18 今さらですが追記)
まあ、詳しくは次ページで、具体的に過程を追いながら見て行きたいと思います。
残る疑問は、「なぜ山名宗全は畠山義就の家督復帰を推し進めたのか」ですが、
まあ、伊勢貞親がいなくなって驕り極まってしまい、
(赤松家への対抗で有利となる)自身の与党を力ずくで返り咲かせただけとも、
また、『応仁別記』にあるように、嶽山での奮闘を聞いて義就の武勇に惚れ込んだというのも一理ありますが、
一つには、義就の被官や配下の大和国人(越智や古市)の熱心な工作があったのは確かです。
(※参照…『大乗院寺社雑事記』文明元年10月26日)
それから、長禄4年(1460)の畠山家の家督交替は、おそらく、
上意に違(たが)うことの多い義就を疎んで、伊勢貞親が主導したものですから、
義就の家督復帰は、伊勢貞親の方針に対する批判でもあったんじゃないかと思います。
……以上、大乱直前2年間の考察でした。
基本的に情報源は『大乗院寺社雑事記』『経覚私要鈔』『蔭凉軒日録』『後法興院記』などの日記です。
出典は気まぐれにしか記してませんがw
私なりに最も納得できる仮説に基づいて記述してきましたが、しかし、
同じ情報源から集めたピースでも、人によっては全く違った組み合わせ方(=考察)をするかも知れません。
もちろん真実は一つでしょうが、歴史における真実とは、
各人がそれぞれの方法で解いたパズルを、いくつもいくつも重ね合わせることで、
少しずつ明かされていくものです。
私の考察も、多くの先人たちの努力の上に成り立っているものであり、また、これが完成品だとも思いません。
つまり、今もなお、真実はそのすべてが解明されたとは言い切れないのです。
そこにたどり着く為には、一つでも多くのストーリー(=仮説)を束ねる必要があります。
ですからみなさんも、書かれた概説書を読むだけの "受け身の歴史" で満足せずに、
是非、自分の目で一次史料を見て、自分の頭でストーリーを描いてみて下さい。
大きな図書館が近くになくても、『大日本史料総合データベース』は充実していますし、
『応仁の乱』が開始する応仁元年(1467)からは、大日本史料が刊行済みですから、気軽に読めると思います。
"与えられた答えを信じ込むだけ" というのは、本当の歴史との接し方ではありません。
史料の海に推理を張り巡らせて、自由に泳いでみて下さい。
きっと、この国の歴史というものに対する概念が、覆ることでしょう。
いやそれにしても、『文正の政変』で側近政治にも斯波義廉失脚劇にも終止符が打たれて、
天下は静謐を取り戻すかと思いきや、それを遥かに上回る波乱が待ち受けていたなんて、
この幕府は、なんでいっつも斜め上に進みたがるんでしょうね。
というか、この後の過程を知ると、伊勢貞親がいなくなった事は本当に良い事だったのか?
…とか、少し思うw
大名の側から見れば、雅意に振舞う側近のせいで上意が軽んじられていると映る訳ですが(※参照『文正記』)、
側近たちからすれば、大名を統率するために上意の確立を目指した訳で、
(※参照『蔭凉軒日録』…季瓊真蘂は "公方様の威光" というものをかなり崇敬していたようです。)
でも所詮、近臣によって構築された上意は、大名たちにとってはまやかしの上意でしかなく、
両者はそれぞれの立場で、あるべき上意を求めていたはずなのに、
すれ違ったまま深まっていく亀裂は、彼らに後戻りを許さなかった、
それでももし、もし、戻れることが出来たなら、どこからやり直せば…と、つい考えてしまう、
それ程までに、筋書き通りにいかない時代です。
絶妙なバランスの上に成り立っている "俺らで幕府" は、そもそもぐらつき易い宿命ではあるのですが、
やはり致命的だったのは、公方の「天下成敗不足」(『大乗院寺社雑事記』)だったと思います。
6代目義教期と8代目義政期を比較して思うのは、
義政期は、成敗の基準が『道理』ではないということです。
それは金銭だったり、縁故だったり、およそ父義教が忌み嫌っていたもので、
当時の日記に残る、近臣…特に日野兄妹の蓄財・金銭政治には目を覆いたくなりますが、
それを許してしまった上意にも問題はあるでしょう。
賄賂で朝令暮改が繰り返される不安定な世の中で、人々は一体何を信じて生きたらいいのか、となったらもう、
拠るべきものは武力しかありません。
ただそれでも、『応仁の乱』が公方に対する反乱ではなく、また主要な武将で命を落とした者がほぼいないこと、
そして、決着がつかずひたすら長引いたことから想像すると、
彼らが求めていたものはやはり、
『武力』に規定される天下ではなく、『道義』に則る天下だったと思うのです。
金銭や軍事力ではなく、道徳や正義による世界、
それを武力によって勝ち取る…と言うのも変な話かもしれませんが、
まあその辺は、基本がエキサイトしてしまっている武士たちの、不器用なところなのでしょうw
この時代が理解しづらいのは、
「力がすべて」「武力の優劣が基準」という、ある意味分かり易い戦国期と違って、
その基準とするものが見え難いからだと思います。
しかし、一次史料に残された武士たちの言動を丹念に追っていると、
そこには確かに貫かれているもの ―― 道とか徳とか誠だとかいった "時代を超えて共通する" 高い価値観が、
見え隠れするのです。
『応仁の乱』は確かに見た目はハチャメチャだけど、
武士たちの行動を規定する、そういう目に見えない価値基準にも、是非注目してみて下さい。
まあ、こう言っちゃなんですが、
義政は、慈悲はあるけど徳がない、みたいなところがあって、やや常識に欠けますw
『御父』の伊勢貞親が甘やかし過ぎたんでしょうかね。
でもまあ、「優しさだけでは天下は泰平にならない」ってこと、そして、
失ってはいけないもの、身につけるべきものを教えてくれる、非常に教訓深い時代ではあります。
(なんかフォローになってませんが。)
義教亡き後から『応仁の乱』前後までの時代の変化を追っていると、
確かに義教は厳し過ぎる将軍ではあったけど、それによって守られてきたものの多さを実感します。
まあ、当時の人たちがどう感じていたかは、立場によっても異なるのでしょうが、
少なくとも、その後の義教に対する恐怖だとか嫌悪感は見て取れないんです。
普通に、忌日(=命日)には(将軍に対する丁重な)法要が行われていて、
さらに「寛正の大飢饉」の際には、
義政の夢に、亡き義教が現れて「人々を救済するように」と告げたらしいのですがw、
経覚はこの夢について「有難い夢よのぅ、尊ぶべき尊ぶべき」と記しています。
実は経覚は、義教の治世の後半に、上意に背いて隠居を余儀なくされた経験があり、
義教没後、奈良に戻ってくるまでには大変なこともあっただろうに、
怨むどころか、義教の毎月の忌日には法要を続けていたのです。
その理由が…「恩人ゆえなり」。
(『経覚私要鈔』文明元年6月24日)
まあ、経覚が情に厚いってのもあるでしょうが、義教は決して、万人に忌み嫌われ続けてなどいないのです。
「蒙厚恩故也」(厚い恩を受けたから…)(『経覚私要鈔』応仁元年5月24日)
と言って祈り続ける素直な気持ちからは、
誠意を持って天下に挑んでいた将軍の姿が偲(しの)ばれます。
義教の夢を見た翌年、義政は諸寺院から義教の肖像画を集めて一覧したのですが、
その時集まった肖像画は、なんと数十幅。 (『蔭凉軒日録』寛正3年9月18日)
没後21年、人々の心に残っていたのは恐怖ではなく、懐旧の念だったと思います。
『嘉吉の変』後、世界はどうして大乱という『此岸』(しがん)に流れ着いてしまったのだろう、
という疑問に、少しは答えを見出せてもらえたでしょうか?
世が疎んだ厳密公方亡き後に待っていたのは、
しるべとなれない上意と、開放された欲念に打ち消されていく正義。
日夜霞んでいく理想と、あらぬ方向に歪んでいく現実へのもどかしさから、
失った『彼の岸』への追慕の念に駆られて、"もしも" の歴史を想像してみる。
道理や正義に満ちた世界を夢見てしまうけど、
常に行いの正しさを求められる社会というのは、人々を追い詰めてしまうのかな。
高い理想を持っていた足利直義や6代目義教が半途に廃することになったのは、当然の帰結だったのだろうか。
…それでもやっぱり、理想の世界は実現するのだと信じたい。
秩序と正義に満ちてなお、
人々が明日の未来図に、あれもこれもと "たくさんの" 幸せを描き足しつつ生きていける世界を、
それを可能にするために、為政者が描くべき未来図は、
孤独なまでに高く、明日より遥かに遠く、彼方を見据えた "たった一言" 、
「 夜半の日頭 」 (=真夜中の日の出)
幕府が生まれて間もない頃、夢窓国師が直義に授けたこの言葉は、
大乱の後の世界で、京都を離れたいくつかの地に "朝(あした)" をもたらす事になります。
そんな訳で、この大乱前夜最後の2年の主役は、伊勢貞親ってことでいいでしょうか。
斯波義廉 & 朝倉孝景好きとしては、いけ好かないところも(かなりw)ありますが、
室町幕府の後半戦開始を彩るのには、最も相応しい男だと思います。
『文正の政変』―――それは、
その謀略の剣で大名たちの全方位同時攻略を謀った命知らずの男の最後……ではなかった。
彼は再び戻って来る。
世紀の大仕事を成しに。
それがやがて、越前の地に100年の泰平を築く壮大な一歩となることに気付きもせずに、
筋書き通りに咲かない花火は、またも夜空をかき乱すのだった。
さあ、次ページ「8 室町幕府の『応仁の乱』はじめました」では、
正月早々派手にコケるよ! がんばれ政長!!