TOP > 二、室町幕府雑学記 > 11 室町幕府の『応仁の乱』― side by side ― 前編


 小見出し
「九州、ロックオン」
「持是院妙椿の、炸裂ぬくもロック」
「清水寺は、今も昔も」
「一条政房のこと」
「奈良法師の名誉!成身院光宣」
「ただいま京都はオフシーズン」
「西国の動揺」
「知られざる、西幕府誕生秘話!」
「信義は東西を越える 益田貞兼」
「それでも僕らの旗は一つ 陶弘護」
「諱(いみな)のこと」
「武士と神仏」


11 室町幕府の『応仁の乱』
          ― side by side ― 前編


 さあ、幕府も2コになっちゃったところで、張り切って参りましょう!
ところで、この2つの幕府は便宜上、
東幕府・西幕府と称されていますが、
実際はそんな対等なものではなくて、
やはり世間では「正統な幕府は前者」という認識だったので、
正確には、
  "東の室町幕府" と "ムロミー☆ウエスタン"
くらいの違いがあります。
まあ、いずれにしても、
『応仁のアイ乱ド』に上陸したつもりが、
実は『むー大陸』(む…室町の"む")だったよ!
ってくらい面倒くさい展開ではあります。
大後悔ってレベルじゃねぇ!

 (※このサイトでは「東幕府」の名称も用いますが、単に「幕府」と言ったらのことだと思って下さい。
  ちなみに、一言に「幕府」と言っても、この学術用語には、
  将軍を中心とした中央の行政機関という "狭義の意味" と、
  京都中央政府に、地方の分国を管轄する守護探題鎌倉府を含めた "広義の意味" とがあります。
  このサイトで「幕府」と言う時は…、例によって文脈で判断してくれ、すまんw)



 さて、ここでは文明元年(1469)、文明2年(1470)、文明3年(1471)あたりの、
「真っぷたつ全盛期」を見て行きたいと思います。
ちなみに、応仁文明への改元は応仁3年(1469)4月28日ですが、まあ面倒なので文明元年で統一します。

 (※「元号」について
  かつては「元号」は一世一元ではなくて、
  天皇の御代始の他、
  祥瑞記念(めでたい自然現象があった時)、災禍回避(天災や兵革など不吉なことがあった時)や、
  辛酉・甲子の年に、革命が起きて国家ハチャメチャ(※)という事態を未然に防ぐ為、
  などの理由で改元が行われました。
   (※…辛酉革命・甲子革命といって、この年に革命(社会的大変革)が起こると言う思想があった。)
  応仁から文明への改元理由はもちろん、「兵革」の為。
  ちなみに、同じく「兵革」を理由に文正応仁への改元が行われたのは、文正2年(1467)3月5日
  前年の『文正の政変』、正月の『上御霊社の戦い』と "とんでも展開" が続いていたから。
  でも、その後もっとターボかかったっていう…(泣)
  しかし、これは決して無駄な改元ではなった! なぜなら ―――
     どう考えても『応仁』は、"史上最もかっこいい元号" だから!!
  …すみません、どうでもいい考察しますた。
  でも『応仁の乱』を超えるクールな名の乱は未だ存在すまい!
  あ、次点では、『明応』がかっこいいと思います。 ステマです。)



「九州、ロックオン」

 さて、戦闘の方は、引き続き洛中は割りと平穏でしたが、京都周辺への大航海時代が始まりつつありました。
…うん、まあ、
3月に義視山名宗全邸に御成した直後に、東軍による山名邸への夜襲があったりもしたんだけどね。
 (『大日本史料』文明元年3月14日、16日)
ってか、義視狙うとか、ひでぇ奴等だなおい! 召喚士様がいなくなったら西陣の猛獣達が路頭に迷うだろが!
 (ちなみに、4月8日の夜の大風で、東陣の高楼が2つばかり吹き飛んでます。ぴゅぅーー(同4月8日))
まあ、ややうさん臭さが否めない西幕府ですが、
西軍諸侯召喚士様への忠誠に偽りは無く、
対する召喚士様・義視も、4月以前に大内政弘の提案で16通の御内書を下し、
九州・四国の大名に対して大軍を率いて上洛するように要請、
ウエスタン公方として、張り切っております。(『経覚私要鈔』文明元年4月29日)
ってか、あれだけ猛勢率いといて、大内軍はまだ足りんのか!!ww

 さて、この頃周辺地域で盛り上がってしまっていたのは、
摂津国南山城(山城国南部)、それから丹波国も少々。
まあ、どっちも張り切ってたの大内さんなんだけどね、うん。
 摂津国では去年から…ってか一昨年の上洛時の勝元による "妨害作戦" 以来、大内さんは気合十分!
まあ割と派手に負けることもあるけど、トータルでは大内軍優勢で、
6月16日には摂津の国人36人が、守護(すなわち細川勝元)に背いて、大内政弘に応じています。
 (『経覚私要鈔』文明元年6月16日)
ってかホント、細川とは相性が良くないらしいww
まあ、勝元に喧嘩売って(いや売られた喧嘩に3倍返しして)余裕しゃくしゃくの大内さんは、
個人的に大好きなのですがw、
でもあんまり派手にやらかしてっと…
謀略モード全開の勝元に、大内さんの愛してやまない西国をロックオンされちゃうぞ!
…って、時すでにちーん

 実は、既に去年の10月には、細川勝元義政から九州の諸将に対し、
「大内の分国を荒らしまくれ!!」という命令が下されていて、
躊躇する者には、「何やってんだよ! 早く大内の分国落とせって言ってんだろ、上意だよ上意!!」
催促までされていたのでした。(『大日本史料』応仁2年10月28日)
 そして、この5月には大友(おおとも)と少弐(しょうに)が東軍に応じて九州で蜂起し合戦を開始、
7月には、九州の所々を落とした大友に、義政御内書太刀武具を下してその戦功を賞し、
さらに海を渡って大内さんの本拠地「長門国と周防国も早く計略を廻らせて攻撃しろ!」と促していたのです。
 (『大日本史料』文明元年5月是月、7月12日)


…ってゆーか、これはどうなんでしょうね。
冷めた目で見ると、将軍自ら戦乱を煽っているようにすら見える…。
まあ、東軍から見れば、世を荒らしているのは西軍なのでしょうが、
遠国である大内政弘の分国を滅ぼして解決する問題なのか?…と言いたくなる。
 ってか、そもそもお前の裁許がダメダメだから大乱になったんだろ!という突っ込みを我慢したとしても、
基本的に大内家は公方に忠実だし(これは6代目義教の時代も、そしてこの後の時代もずっとです)、
しかも、幕府の手の届かない西国の広範囲立派に統治しているホント有難い大名であるという事実からしても、
この公方の方針は全く以って支持出来ません。
 大内軍細川軍真っ向勝負するのなら分かるけど、
この九州の撹乱作戦は、この後さらに関係ない諸将を大量に巻き込んで、
戦乱の起きていない平穏だった地域を、敢えてめちゃめちゃにしてしまうのです。 上意と言う力で。
 まあ、義政に "道理に適った上意" を期待するのははっきり言って無理だし、
この作戦自体、細川勝元の発案であって、義政はそれを疑う事なく承諾しただけなんだろうけど、
つい、義教の時代と比較してしまって、がっかり感がメーター振り切ってしまいます。

 (9月頃、東軍から九州の島津(日向・大隅・薩摩国守護)に宛てた書状があるのですが、
  畠山政長からの9月14日付け…
   「参洛して戦功をあげるようにとの上意です。詳しくは追って管領(=勝元)が申されるでしょう」
  そして細川勝元の9月20日付け…
   「おい、大友と相談して、はよ大内長門国周防国ぶっ潰せよ! 上意だコラ!!
    あ、大内側についた菊池が邪魔して来たら、先に肥後国に乱入しちまいな。 オラオラ!」
     (『大日本史料』文明元年9月20日) (※菊池重朝は肥後国守護)
  って、何それ!
  上洛なのか、在九州なのか、この上意は島津にどっちを期待してるんだよ!
  政長が上意に反した行動を取るとは思えんし…という事は、
  九州をムチャムチャに荒らしまくりたい勝元に同意を迫られて、コロッと意見を変えてしまった、って事か?
  つまり、義政には一貫した考え主体性も無い、という結論に達せざるを得ん。)


 厳しいけど、道理に基づく裁断を下す義教を疎み怨んだ世は、
厳しさは無いけど、もはや道理も存在しない義政の上意によって滅びゆく…って一体どんな因果なんだよ!
しかも義教が殺されたのは、各地の紛争が立て続けに落居を迎えた最中、まさに "泰平の入り口" ですからね。
赤松が様々な家伝記で、
暗殺の場が「泰平の祝賀の席」ではなく、「池の鴨の子の見学会」だったとか捏造して、
義教の功績をひた隠そうとする気持ちも分かる訳です。(『応仁別記』も "鴨の子説" です。)
 戦乱の解決に腐心した義教がそんなに憎いなら―――
"佞臣と邪臣を寵愛する公方の奏でる戦乱" で滅びてもらいましょうか!フォッフォッフォッ
…ってゆう天狗の悪戯
日常の些細な不義さえ断罪したのは、カオスの芽を未然に摘む為だったのに、
あの時義教の悪口言ってた者達も、今も義教は間違った公方だとか思っちゃってる者達も、
ちゃんと反省することっ! もう!
 まあでも、時既におすしだ。 ここは前向きに考えよう。
つまり、この展開は頑張ったところで避けられなかったんだよ! あとは前に進むしかない! GO!!
ちなみに、九州撹乱作戦は、来年の文明2年(1470)にとんでもない事になります。


 (ま、もちろん、義教も厳し過ぎたのが仇となったのですけどね。
  本人も「やり過ぎちゃった、てへ」と反省しているに違いない。
  でも当時、人を裁くと言う事は、余殃(よおう)が恐ろしくて誰もが忌避し、
  善も悪も裁かず許すのが慈悲とされ、巨悪には「天罰」を待つしかなかった時代にあって、
  正しき世の実現の為にそれをやってのけた義教は、やはり凄いと思う。
  まあ、ちょっと未来に生き過ぎてしまった感はありますが、そろそろ時代が追いついてきたかな、うん。
  ところで、先に紹介した、
  「寛正の大飢饉」の頃に義政の夢枕に立った義教の話ですが、
  実はこれ、もう少し長い話でして、夢に現れた義教曰く…
   「生前に犯した多くの罪の為、今その業の報いを受けている。
    しかし、善事数多く為したので、それによって「再び将軍として生まれ変われる事になった」ww
    ところで今飢餓に苦しんでいる人々、彼らを救済してその悲しみを慰めなさい。
    さすればきっと、この罪科の苦しみも除かれるに違いない、よろしく」(『経覚私要鈔』寛正2年2月7日)
  まあ、夢の話ですけどw
  正室の三条尹子なんて、「人(みんな)不信」という怪しげな巫女口寄せで、
  「義教が地獄でめっちゃ苦しんでる」的な事を聞かされて、そのせいだろう酷い夢を見ていますが、
   (『建内記』嘉吉元年7月26日、8月7日)
  当時の人々にとっては、人を裁く義教はとにかくだったようです。
   (もちろん、一部の "その正しさを知っていた者達" を除いては、ですが。)
  それにしても、義教が誰に生まれ変わったのかが気になりますね。
  寛正2年(1461)正月以降に生まれたのは…とか、妄想が止まらなくなるね! まあ、夢なので程々に。
  たぶん今度はちょっとマイルドな路線で来ると思う。厳しさ的にも、魔力的にも。 まあ、夢なので (ry… )



「持是院妙椿の、炸裂ぬくもロック」

 さて、なんだかすさんだ展開になってきたので、ちょっとぬくもりたい気分ですね。
ではここで、持是院妙椿の「ちょっとロックで、もっとぬくぬくタイム」です。
 (※妙椿については、
  「2-8 室町幕府の『応仁の乱』はじめました「応仁の乱、収束に向けて…のはずが、あ、あれ??」」と、
  「2-10 室町幕府の『応仁の乱』斜め上行ってもうた「ところで、東のあいつらは」」にも少し。)

 当時、京都には赴かず、美濃国で留守番をしていた妙椿ですが、大人しくしている訳はありません。
 「さてこの天下、どう料理してあげましょうか、ふぉっふぉっふぉっ」
と思っていた訳ではないでしょうが、
早速、美濃国郡上郡山田庄という所の城をちょろっと落とし、同地をすっかり押領してしまいます。
 「うん、美味い」
とそこへ、京都の幕府の命令で長らく関東に出張中だった、城主の東常縁(とうの つねより)が帰って来ました。
 「がーーん、俺の先祖代々の土地が!!」
悲しみにくれる東常縁、しかし、彼はずば抜けた歌人でもあった!
なんせ、あの伝説の連歌師宗祇(そうぎ)に、古今和歌集の奥義を伝授するほど。
 (※宗祇は、宗長の師にあたる連歌師。めっちゃ重要人物だから要チェックだ!)
そんな訳で東常縁は、この悲しみを歌にして涙の明日を乗り越えようと、
父の法要に際し、今は亡き故郷への切ない思いを詠い上げたのでした。

 あるがうちに かかる世をしも 見たりけん 人のむかしの 猶も恋しき
  (生きている内に、このような世紀末を見る事になろうとは。 ああ、父と過ごした故郷の昔が懐かしす…)

しかし、その歌のもたらすカタルシスは多くの歌人達の心に響き、
彼らの間で瞬く間に流行、そして遂に妙椿の耳にも届く事に。
もとより歌を嗜み、東常縁とは和歌友達だった妙椿は、すっかりロック侍の魂が踊りだしてしまいました。
 「を贈ってくれたら、そっくりそのまま所領返すよ!」
え、ちょっ、マジ??うぇwwwww と驚きつつも、東常縁は奮発して十首の和歌を贈り、
そしてこの年の5月、妙椿は返歌と共に、ホントに所領を返還したのでした。
おしまい。 (『大日本史料』応仁2年9月6日、文明元年5月12日)


 なんというロックな話!! ってかマジかよ? いくら変態的な話の多い室町とは言え、ちょっと創ってね?
と思われるかも知れませんが、本当です。
 まあ、この話の詳細は『鎌倉大草紙』という歴史編纂物(つまり二次史料)によるので、
史実ではないと思われている節もありますが、
実は、「妙椿十首の和歌を贈って所領の返還を受けた」という事実は、
東常縁の歌集『常縁集』に記載があるのです。

 「歌集」というものは、一般に和歌だけを羅列しているのではなく、
それを詠んだ背景を詞書(ことばがき)として添えている場合があり、
時に、そこに歴史の重要なヒントが隠されている事があって、日記と並ぶ隠れた一級史料なのです。
だから、この話の細部についてはともかく、
  「東常縁十首の和歌を贈り、それで妙椿から故郷の山田庄を返してもらって、
   その後もう一度歌のやり取りがあった」
と言う話は紛れもない事実なのです。
 いやぁ、中世まれに見るぬくもロックですね。
でも、領地返しちゃうなんて、一見ハートフルだがしかし、
反面、人々を一層震え上がらせたに違いない。

   「す、凄ぇ余裕のかまし方…やっぱり妙椿恐ぇぇーーーーー!!」(天下ガクブル)

こんなに優しい妙椿なのに、
懐の深さを見せたつもりが、みんなを凍りつかせた可能性のが高いなんて…オンザロックだね!



「清水寺は、今も昔も」

 さて、ある意味一層すさんでしまったところで本筋に戻りましょう。
ところで、京都は大方ほのぼの(※)とは言いましたが、
 (※…あくまで室町的にはほのぼのという意味です。一般的には、世紀末と呼ばれる状態です。)
近郊では、4月22日に西山の東軍の陣への西軍の攻撃で、西芳寺(嵐山と桂の中間くらいにある)が焼失し、
7月10日には東山の清水寺と、建仁寺六道珍皇寺などが、東軍の放火により焼失してしまいました。

 って、おい! 西芳寺夢窓国師の庭がある「禅の原点」みたいな寺だろが! どうしてくれんじゃい!
まあ、大乱中は寺院の多くが東西両軍の陣所とされていたので、戦火に巻き込まれてしまった訳ですが、
ただ、この清水寺の焼亡はによるものではなくて、放火によるのもだったようです。 って、何それ!
 清水寺は、当時から全国的に人々の崇拝も篤く、そして本寺(本山)が興福寺だったので、
経覚尋尊の悲しみはひとしおでした。
  「仏閣の滅亡、仏法の滅びる時節が到来キタコレだよ…。ってか、東軍の所業って…悲しす」(『経覚私要鈔』)
  「東の幕府軍の放火って…もう何それ、オワタ」(『大乗院寺社雑事記』)
尋尊はすぐさま義政に対し、再興の為に諸国に段銭をかける(=国税として費用を徴収する)ことと、
放火犯の処刑を申立てていますが、
この大乱の最中、幕府がその要求に応じる訳は…ありませんでした。


 清水寺本格的な再興は、残念ながら大乱の終結を待たなければなりませんでしたが、
しかし、この焼亡に心を痛めていた者は多かったようで、
記録に残る最初の復興の試みは―――なんと西軍の大内政弘!!
 日頃から海外との貿易を得意としていた大内さんは、
4年後の文明5年(1473)8月、復興の為の銅銭綿布
そして大蔵経(=一切経。仏教聖典の総称)を外国から取り寄せようと試みますが、
まあこれは失敗に終わりましたw (『大日本史料』文明5年是年)
でもその気持ちと行動が大切だ! やっぱ大内さんは裏切らないね!
 そしてまた、本格的な復興での全国トップレベルの莫大な寄進をしたのは―――なんと越前国の朝倉家!!
これは朝倉孝景名義だけではなく、
その子その孫も、ってか一族総出家臣もこぞって、
マジで「桁が違う」という、ひっくり返りそうな驚愕の寄進をしています。(『大日本史料』文明11年3月是月)
もちろん他にも多くの寄進者がいますが、朝倉家のはなんかもううそ臭いレベルの寄進です。
ホント清水寺好きなのね孝景はw しかもその孫ときたら、清水寺 "歴史" を残しちゃったからね、
…と、また話が逸れてしまいそうなので、この辺で。 続きはまた今度。
 (※清水寺の歴史については →【清水寺史編纂委員会『清水寺史 第一巻 通史(上)』(音羽山清水寺)1995】)

 (ところで、なぜこんなに武士がこぞって清水寺を気にするのかと言うと、
  実はこのお寺は、全国から参拝者が訪れる "霊験あらたかな観音霊場" というだけでなく、
  平安時代初期に活躍した伝説的征夷大将軍、坂上田村麻呂(※)がめっちゃ関係しているからなのです。
   (※…日本最初の征夷大将軍とも言われていますが、正確には2番目だそうです。)
  その昔―――
  音羽山(現在清水寺のある地)で、賢心という僧侶が行叡居士(実は観音様の化身)と出会い、
  その草庵に千手観音像を祀るよう言い渡されます。(←これが清水寺の始まり)
  その2年後、鹿狩りの為に音羽山を訪れた坂上田村麻呂は、そこで出会った賢心によって深く観音様に帰依し、
  自邸を寄進してその地に本堂を建てることを決意するのです。
  その後、東国での戦いにおいて、観音様の加護で勝利を収めた坂上田村麻呂は、さらに本堂を改築し、
  以来、現在に至るまで、(幾度かの災難も乗り越えて)繁栄し続ける事となるのです。
  …つまり清水寺とは、
  あの伝説の征夷大将軍の寄進によって草庵から寺院となり、
  その上武運における御利益は計り知れない、と言う、
  武士にとっては、正に「心の寺」とも言うべき "原点" のお寺なのです。
   (↑ここ、『明応の政変』のその後の話のさらにその後の世界で、重要ポイント!)
  現在は、建物自体の優美さや、縁結び・修学旅行というイメージの清水寺ですが、
  実は、かなり武士中の武士みたいなところがあったという、侍好きな君たちへ、ちょっと得した豆知識。
  朝倉孝景の莫大な寄進も、
  いにしえの征夷大将軍への敬意と、武運長久の祈りを込めてのものだったのです。
  …まあ、孝景は日頃から清水寺観音を崇拝し誦経を欠かさなかったという、
  筋金入りのきよみずマニアでもありますが。
  あとそれから、伊勢八幡宮も大好きで…おっと話が逸れてきた、いい加減にしておこう。)


 という訳で、今も京都観光では大人気の清水寺ですが、
ずっとずっと昔から、人々に愛され続けて来たお寺だった、というお話でした。



「一条政房のこと」

 さて、冷えたんだか温まったんだか分からないところで、お次は…ちょっと悲しいお話です。
10月16日から18日にかけて、摂津国の兵庫を舞台に、
東軍の山名是豊・赤松軍と、西軍の大内軍との間で大合戦がありました。
 (※山名是豊は西軍の山名宗全の息子の一人ですが、父の宗全と決裂し、大乱勃発当初から一貫して東軍です。
  ちなみに、大内軍・赤松軍と言っても、惣領の大内政弘赤松政則自身は在地には赴いていません。)

 16日は、乱入してきた山名是豊赤松軍に対し、一旦大内軍が勝利を収めるも、
翌17日には、「大内勢以てのほか困りまくる」という瞬殺大逆転を食らい、
そして18日には、大軍の山名是豊勢の攻勢に為す術も無く「大内勢、奈良に没落」という、
完敗エンドを迎えてしまったのでした。
 い、いつも頼もしい大内軍が…なんてこった!
しかも、関所や寺院、民家は悉く焼亡し、兵庫の元の住民も全滅という有様で、大内勢も行方知れず、
さらに摂津国の池田城を守っていた大内勢は、東軍進撃との知らせに前夜のうちに退散し、これまた行方知れず、
兵庫の惨憺たる完敗を聞いた京都の西軍は「以てのほか困りまくりまくる」という、
どっからどう見てもやばすぎる負け方をしたのでした。
 (この辺の事は…『大日本史料』文明元年10月16日、ほとんど『大乗院寺社雑事記』尋尊による記録)

…と、ここで、
尋尊には大いなる懸念があった。
なぜなら、摂津国兵庫福原庄は、尋尊の出身の一条家の所領であり、
甥にあたる一条政房一条兼良嫡孫、この時24歳)が、京都の戦乱を避けて福厳寺に疎開していたからです。
建物全焼住人全滅…い、嫌な予感過ぎる。
 不安に駆られる尋尊のもとに、最初に風聞が届いたのは11月2日、
そしてその風聞が真実だと分かったのは11月11日、すなわち ―――
10月17日、福厳寺に乱入してきた山名是豊勢赤松勢によって、一条政房(まさふさ)は殺されてしまったのです。
しかもこれは、西軍の公方義視と間違えての殺害でした。
 摂関家の者が凶徒に殺害されるなんて…世も終わりだと嘆き悲しむ尋尊無念さは余りあるもので、
乱世といえど、こんな事態はあってはならない本当に前代未聞のものであり、
しかも一条家を継ぐはずの嫡子でしたから、祖父の一条兼良の落胆も相当なものでした。
 (11月2日〜11日までの間、方々に人を遣わせては一刻も早く実否を確かめようとする尋尊の痛ましさは、
  もう、こっちまでつらくなって来るほど。 どれだけ嘘であって欲しいと願った事か…)

 真っ向勝負で命尽きる瞬間に挑んだ武士なら、その死も報われると言うものですが、
こういう一方的な死の悲しさというのは、どうしようもなく気分を重くします。
ああ、どうしてこうなった。
 (6月22日の時点では、兵庫の一条政房から尋尊への便りで、
  「平穏無事であること、朝夕の食事などは大内方の者が手配していること」が伝えられているのですが、
  …ってゆうか、本来摂津国は東軍の細川の分国であり、
  山名是豊赤松軍の軍事行動は、細川勝元の命令である事は疑いない訳ですが、
  大内軍のもとでは平穏で、東軍には住人まで殲滅させられるって…一体、何がどうなってんの??)


 ってかそもそも、摂津国に義視がいるわけ無いじゃん!と百万回文句言ってやりたいとこですが、
しかし、東軍は本気で義視の命を狙っていたのだろうか…
それとも、配下の足軽の暴走だったのだろうか? 前者だとしたら…絶句。
ってゆうか、大内軍を倒す為なら、平穏に暮らす住民まで道連れにする、細川勝元の容赦無さに絶句。
 しかもついでに言うと、
この事件に乗じて、代々一条家の所領である福原庄を、
日野勝光(御台の兄)が自分のものにしようとしたらしい。
…もっと絶句。
平然と人の不幸に付け込む…この何ものをも憚らない悪行、一体、人の為せる業(わざ)なのか?
摂関家 >> 名家 の家格を考えても、現当主一条兼良の学識の「極めて高い社会的価値」を考えても、
これは本当に信じられませんね。 ってゆうか信じたくない。
室町幕府が大好きな私も、こんな邪悪が居座るのなら、もういいよ滅んじゃえよ!!…とすら思いたくなりますが、
しかし、諦めてはいけない、そこで終わってしまう。
まだきっと、信じていられるものは残っている…はず。




 さて、大内軍惨敗エピソードで終わるのもなんので、ちょっと借りを返してもらいましょう。
 (ってか、私が西軍フェチなだけで、東軍ファンもいますよね、すみませんww)
12月19日、摂津国神崎城で、西軍大内政弘家臣の仁保弘有が大勝利します。
大軍で攻め寄る東軍山名是豊勢に対し、一身神崎城に立て篭もり城を死守、
さらに自らも太刀を取って部下共々数多の敵を討ち取るとう高名比類無い活躍に、
主君の大内政弘のみならず、畠山義就からも即座に賞賛の感状が届きました。
 そして数日後には、改めて大内政弘から一腰の太刀が贈られます。
これは去年、大内政弘義就から贈られたもので、
先祖代々畠山家秘蔵の、先代畠山持国の実名が入った大層な代物でした。(『大日本史料』文明元年12月19日)
 仁保弘有の活躍はもちろんのこと、
家臣の働きに最大の誠意で応える大内政弘良主君振りも、いつもながら清々しいですが、
この義就大内さんの仲良さ、というか友情はこの後もずっと続きますので、
乱世で凹んだ君の心に、ほっと一息ほのぼのハーフタイムをお楽しみ下さいw お茶どうぞー
…って、猛獣ほっこりしろとか言われても困りますね、すみません。
どうも室町は、油断するとむさ苦しさ全開になってしまうので、私なりに余計な気を遣ってみているのですが、
妙椿とか…可愛いの名前だけだし。



「奈良法師の名誉!成身院光宣」

 さて、そろそろ年の瀬も迫って来ましたが、最後に一つだけ。
文明元年(1469)11月20日、東軍畠山政長方の智略の武将、成身院光宣が80歳の大往生を遂げました。
 (※成身院光宣については…「2-8 室町幕府の『応仁の乱』はじめました「天に告ぐ!上御霊社の戦い」
  の後半で解説しています。)
尋尊は、「今度の一天大乱は、成身院光宣の計略のせいだ! もう!もう!ぷんすか!!」と言いつつも、
大正直者で、精一杯神事法会に勤しみ、
興福寺の所領が違乱されれば、得意の計略で解決に奔走した成身院光宣の死を、心から悼んでいます。

 尋尊の人物評価は、好き嫌いだとか、全否定、全肯定という偏ったものではなく、
良い所は良いと賞賛し、悪い所は悪いと非難する、実に道理に適った正しい見方をしています。
見習うべきだと思います。
 まあ中には、根本から捻じ曲がっていてあらゆる言動悪夢みたいなのもいるとは思いますが、
室町の武士は、教養道義を身に付け、誇りを持って生きている者が少なくないので、
『大乗院寺社雑事記』で批判されていても、それはその「一部の行為」について言っているのであって、
その記述だけで「こいつは悪だ!」と早計に決め付けないように気を付けましょう。
 (尋尊が良く知る畠山や、特に朝倉に関しては、非難評価感謝もしていて、
  良く知るが上の素直な意見だと思います。)


 成身院光宣はこの4か月前、
応仁元年(1467)正月5日以来、2年半振りに京都から奈良に帰っていたのですが、
尋尊は、無事に帰って来た事を非常に喜び、
「もう!大乱起こしおって!」と言いながらも(もちろん成身院光宣だけのせいではありませんがw)、
六十余州にその智謀が知れ渡っていた成身院光宣
  「奈良法師の名誉だ!
と褒め称えているのが、なんかすごく面白いww
 (※六十余州とは、当時の全国66か国壱岐・対馬を合わせた「日本全国」のこと。)
 (成身院光宣の帰郷では、
  醍醐までは細川・赤松勢が、そこから奈良までは大和衆500人が送迎したのですが、
  それについて尋尊は「路次無難無為無事なり、珍重珍重!」…って、嬉しそうだな、おいw)

 まあ、私としても、畠山政長を助け続けた成身院光宣はかなり好きな部類なのですが、
ただ、このドラクエ僧侶有能だったばっかりに、
政長が没落することなく、義就との side by side を可能にしてしまった、とも言えますが…うーんw
まあでも、義就は面白過ぎるし、政長は良い奴過ぎるし、どっちか選ぶとか無理だよね。
この、知れば知るほど中世日本トップレベルの両名将の並立は、
「二人とも名を残すべき」という天の差配だったと言う事で、勝手に良しと納得したいと思います。

という訳で、南都の謀略ファイター成身院光宣、お疲れ様でした!!



 以上、分裂元年、もとい、文明元年(1469)の一年でした。
京都市内の戦闘は静まったとは言え、やはり東西幕府の並立は、
手段を選ばぬ東軍と、本気モードの西軍の間に鋭い風を巻き起こし、天下を無残に切り刻んでゆきます。
 その風が斬りつけるのは、京都の街だけでなく、九州の平和だけでなく、
人の心そのものまでも深く傷つけ、正しい明日を見えなくさせてしまう。

 細川勝元義政の、治国平天下を正面から否定するような戦略、そして ―――
曲がりなりにも天下静謐を目指していたはずの西軍も遂に、禁忌に手を伸ばしてしまうのです。
既にこの年の秋頃から微かに吹き始めていたそれは ――― 禁断の南風
ってゆーか、おい!! それはいけないって言ったでしょ! また天下が涙に染まっちゃうでしょ!!
ああ神様、どうか大ごとにはなにませんように!!






「ただいま京都はオフシーズン」

 さて、年が明けて文明2年(1470)正月です。
相変わらず餅でもちもち出来ない正月です。 日記でもんもんとするしかありません。

『大乗院寺社雑事記』正月1日、
  「(前略)…ってな訳で、摂関家もその他の公家もみんな疎開
   この3年の大乱のせいで、京都は市中東山西山も悉く広野
   開闢以来、こんな事あった例(ためし)ないよもう!」
             (※開闢(かいびゃく)…世界の始まり。天地開闢)

 なんか、だだっぴろい感じになってしまっていたようですが、
ただ、東西幕府の本陣は京都に在った訳ですから、多くの軍勢が待機していただろうし、
西軍が布陣している元の内裏(土御門東洞院の内裏)から下京にかけては、
残っている建物も少なくなかったと思われ(時々火事が起きたりもしている)、
たまに糧道が断たれるとすぐ大騒ぎする事から、物流は途絶えていなかったようだし、
異様ではあるけど閑散としていた訳でもなさそうですが、
まあ、公家武家の屋敷が密集する中心部は様変わりしていたことでしょう。


 さて、西軍に取り囲まれ気味の東軍の本陣はどうかと言うと、
『室町殿』には主上上皇が御座していた訳ですから、少ないながらも祗候する公家はいたのですが、
その多くは洛外へと疎開を余儀なくされていました。
 例えば、摂関家だけでも…
近衛房嗣・政家父子は南山城の宇治へ(この年の11月には興福寺へ移住)、
二条持通・政嗣父子は下賀茂の奥へ、
九条政基御所にいるけど、兄弟の九条政忠大和国の古市に、
そして、鷹司房平・政平父子と、一条兼良・冬良父子は興福寺に避難中、
という有様。(『大乗院寺社雑事記』同上)
…ああ、花の都どうなっちまってんのさ。
まあでも、ある意味奈良京都に代わって賑わいでいたとも言えるw
他に京都近郊では、比叡山の西の麓の近江国の坂本も、避難組のほのぼのスポットとなっていたようです。


 ちなみに、奈良の興福寺にいる一条兼良のもとへ、
美濃の持是院妙椿から、なんか色々御礼とかで2500疋(=25貫)が届き、
さらに毎月の食事代として500疋(=5貫)を進上する事を申し入れて来たらしい。
 (※(ひき)、(かん)または貫文(かんもん)はの単位。100疋=1貫。) 

 妙椿、超いいやつwww
一条兼良妙椿は数年前からの知音で、近頃は殊更奉公をしてるのこと。(『大乗院寺社雑事記』文明2年2月6日)
やばい、また妙椿の奴、ほっこりさせて来よったww
室町のぬくもロック2…と言いたいとこですが、しかし、
当時は、武家から経済援助を受けると言うのは余り宜しくない…というかむしろ非難の対象にすらされていて、
公家社会では、身分秩序を穢す悪しき行為、"恥辱" だと思われていたのです。
 まあ私も、「古い伝統慣習を破壊して未来を築く!」といった稚拙な発想は大いに嫌いですので、
そいうものには「それ結局進歩じゃなくて後進するだけだよアホかよ」とも言いたくなりますが、
しかし、一条兼良のようなあらゆる学問伝統を知り尽くした上で、臨機応変に時代に即した生き方をする、
というのは、これこそ理想の進化未来への進み方だと思うのです。

 つまり、「守るべきものを守り、守るべきものを守る為なら変えるべきものは変える」というのが、
正しい伝統の受け継ぎ方なのであり、
それ故、当時の公家達にはもっと早く柔軟な考えに目覚めて欲しかったと思うのですが…まあ難しい注文か。
でも、地方の大名の所へ下向して陰口叩かれる一条兼良かわいそすw
 文化を愛し、礼節を身に付けた大名たちは、文化や学問を教授してくれる公家に対し、
身分秩序を守り敬意を持って丁寧にもてなしていたのに、
なかなか、従来の偏見を乗り越えてその誠意が認められるまでには、時間がかかったようです。
ま、大名たちもヒャッハー押領を繰り返していたせいもあるけどw

 (※ただし、武家への偏見と言っても、足利家三管領家ともなるとまた別です。
  足利家については「主上、上皇、室町殿」と並び称される、朝家に次ぐ地位で、
  「尊無二」(尊くかけがえの無い存在)(『建内記』永享2年3月 ※義教の時代)とまで言われているし、
  斯波畠山細川は、摂関家とも交流が盛んです。)


 ところでこの時、一条兼良の嫡男の一条教房(のりふさ。尋尊一条冬良の兄)はどこに居たかと言うと…
遙々、一条家の所領がある土佐国に渡っていたのだ! (※現在の高知県四万十市中村
しかも彼は、領主として在地の国人達に受け入れられてそのまま土着し、
代々この地に小京都を造り上げて行くことになるのです。
 つまりこれがあの、公家(しかも摂関家)でありながら武家っぽく大名化する土佐一条家の祖
嫡男の一条政房の悲しい事件を乗り越えて、今も中村の街に残る都の面影は彼の業績。 がんばれ一条教房!!



「西国の動揺」

 さて、勢いに乗って来たところで、お次は…西国洒落にならんお話です。
以前から活発だった西国撹乱作戦ですが、
ここへ来て大内家の分断凋落作戦へとエスカレートすることになりました。
ああムカつく!!ww
ホント、大内さんを分かってない義政にムカつく!!
まあこれは、義政というより細川勝元の策略なのは明白ではありますが。
 (細川勝元に強要されれば、
  「だって勝元恐いんだもん…」と言わんばかりに、近習をも追放した "振り" をする、
  という前科を犯していますからね、義政は。)
まあ、実際、大内さんは最後まで西軍で張り切っていたにもかかわらず、
大乱終結時は公方から破格の好待遇を受けていますし、その後も何かと優遇されることにはなるとは言え、
もう、大内さん滅ぼそうとするとか、舐めてんのかよおめーは!!
 (…おまえ、そんな事言ったら義満はどうなんだよ、とか言われそうですがw
  まあ、義満時代は私の管轄外なので深くは考察していないのですが、
  あれはやっぱり大内義弘はそんなに悪くないと思う。 ただ気高く生きてど派手にコケてしまったのだw)

 まあとにかく、大内家はこの先の乱世において、無くてはならない存在になりますので、
みんな大内さんの有難さを今からひしひしと噛み締めておくこと! 大内さんは信じて間違いないから!
特に40年後、乱れゆく世にあって十余年 "幻の楽園" 京都にもたらしてくれるんだから、もう!



 さて前置きが長くなったところで、どんなムカつく作戦が実行されたかと言うと、
現当主大内政弘の叔父に当たる大内教幸(入道名:道頓)を東軍に誘って宗家と敵対させ、
一族の内訌を誘発したのです。
 (※内訌(ないこう)…内紛、内輪もめ。)
謀略が明るみに出るのは文明2年(1470)2月頃から。
大内教幸の子(らしい)嘉々丸を大内政弘の養子にして領国を安堵し、家督を乗っ取らせるという計略で、
この頃より、義政細川勝元大内教幸から、
大内家の家臣西国の諸将に対して、東軍への合力寝返りを促す書状が出されまくり、
彼らは否応なしに二分され、互いに戦う事を余儀なくされていくのです。
 (※書状の一例は…
   大友親繁(豊後国、筑後国守護)、益田兼堯(石見国の有力国人)への、義政の御内書ほか
    (『大日本史料』文明2年2月4日)
   相良為続(肥後国の国人)への、大内教幸の書状(同3月是月)
   周布和兼(益田家の庶流)への、義政の御内書(同6月29日)  …といった具合。)

 しかし、誘いを受けたすべての者が東軍に応じた訳ではなく、みなそれぞれの立場で、
将軍への忠義大内家との義理、互いに所領を争う者との対立関係、同族内での家督問題…など、
そういった諸問題を抱えた上で、一世一代の決断を下したのでした。


 例えば、肥後国(現在の熊本県)の相良為続は、
今回の大内家内訌誘発計画以前から既に、しきりに東軍からの誘いを受けていましたが、
最終的に、これまでと変わりなく大内政弘方として戦う事を表明したので、
その忠節を称え官途を推挙することを伝える義視の御内書大内政弘の副状を受け取っています。
 (『大日本史料』文明2年5月22日の『相良文書』)

 (※副状(そえじょう)とは、将軍の御内書に添えられた書状。
  その御内書が発給された "経緯" "内容の詳細" を追って通知したもので、
  副状の発給者(この場合、大内政弘)が、当該案件の「担当者」であり、
  「将軍」(=義視)と「受信者」(=相良為続)との間で、
  重要な役割を果たしていたという事を示すものでもある。)

 肥後国については、既に守護の菊池重朝大内政弘方として旗色を明らかにしている訳ですが、
これは熊本グッジョブ! グッジョブ熊本!!ww うおぉぉーーー!!
…すみません、また西軍贔屓してしまいますた。


 しかし一方で、大内家の重臣杉家の庶流で、上洛して活躍していた杉七郎が、
東軍に降ろうとしたため陣中で討たれたり(『大乗院寺社雑事記』文明2年6月28日)、
さらに、同族の大内武治と、先に摂津国で大奮闘した家臣の仁保弘有までもが、
大内宗家から東軍に寝返ってしまうのです。
 (※『大日本史料』文明2年5月19日の久芳永清への大内政弘書状
  ただし、ここにある「弾正少弼」とは大内武治の事で、西軍の山名政豊(宗全孫)ではありませんので注意です。
  …にしても、裏切り者を「悪逆の族」と称してめっちゃ怒りつつ、
  それに同意しなかった久芳永清(安芸国人)には、
   「誠無二心中、感悦無極候、別而必可加扶持者也」
     (二心無きその心に感極まりまくった!! もう特別扶持し続けるからな!絶対だから!)
   「(戦場での活躍に)高名忠節之次第、感悦更難尽状」
     (すげぇGJ! もう手紙じゃ書き尽くせねぇーーっ!!マジ感謝!!)
  と、素直すぎる主君大内政弘、面白いなぁーw)


 ああそれにしても、仁保弘有…なぜ背いたのだ。
実は、仁保については、在国していた庶流の仁保盛安大内教幸の誘いに応じて東軍となり、
その子息の仁保十郎は大内軍として在京していたのですが、
4月26日には東軍に寝返り、6月12日にはなんと西国に帰ってしまうのです。
がーん、政弘ショックww
ただ、仁保弘有については、事前に、まだ幼い嫡子の長王丸(後の仁保護郷)に所領を譲り渡しているので、
相当な覚悟を決めての寝返りだったと思われます。 (『大日本史料』文明2年3月23日)


 大内政弘は、家臣の面倒見のいい良主君だとは思うのですが、
やはり、上意(この場合、義政の)というのは、相当に威力があったようで、
この頃、西軍の手の者は日々夜々東軍に投降していき、
大内政弘の進退について、西軍内は騒然となるものの、為す術無く途方に暮れるばかりだったようです。

  尋尊「もう最近めちゃめちゃだな…道理も何もあったもんじゃない」
            (『大乗院寺社雑事記』文明2年4月18日、30日)
 (※尋尊はこのように、「弓矢の道」に反する裏切り行為には、西軍東軍に関係なく非常に批判的です。)



 まあ、西軍目線で見ると、大内教幸の宗家への謀反には、
「ああもう! なんで細川の策略なんかに乗っちゃうんだよ!」と、もどかしくってイライラしていまいますが、
ただ、大内教幸としては、必ずしも "宗家の家督への野心" から東軍に応じたのではなく、
将軍への忠誠と、さらには大内家の存続を思っての行動だったのではないかな、とも思います。
もし深い事情を知らずに、東軍側から一方的に、
 「大内家の当主凶徒の西軍に属し、将軍(義政)の "御敵" として京都で暴虐の限りを尽くしている」
と聞かされたとしたら、
 「このままでは宗家滅亡しかねない、大内家一流の為に自分が立ち上がらねば!」
…と思ってしまうのではないかな?
しかも、「現当主大内政弘凶徒だが、嘉々丸に家督を継がせて大内家の存続は保証するよ」なんて言われたら、
大内家の一人として、むしろ将軍の温情への多大なを感じてしまうと思う。

 まあ、残された書状から何となくそう感じるってだけであって、
実際の大内教幸の真意を知るすべはありませんが、
もし本当に、純粋な "公方と一族への忠誠心" から蜂起したのだとしたら…マジで涙目過ぎる。
部下の真心を翻弄する義政にも、それを自己利益の為に利用する細川勝元にも、
腹立たしいってレベルじゃありません。
たとえ大内教幸敗北したとしても、彼らにとっては「作戦が失敗した」で済む事ですからね。
 細川勝元は、伊予国の一件でもそうだったけど、
自身の利益の為に、上意を使って武士達を駒の様に扱うことがあるのが卑怯だと思います。
天下国家の利益より、私利を優先させてしまうようでは、
国政を担う管領として、自覚に欠けると言わざるを得ません。
 (…おまえ、そんな事言ったら、勝元の次の代はどうなんだよ、
  私利まっしぐらで、保身の為に各地で戦乱誘発しまくり、血も涙もねぇぞ? とか言われそうですがw
  まあでも、一応最後の最後には正義が勝って、"幻の楽園時代" 大内さんがもたらしてくれますし、
  だいたいその時期の細川当主には、国政公益に対する興味意志はそもそも無かった訳ですし。
  というか、その代と比べると、やっぱり勝元は何だかんだ言っても、
  (突っ込みどころは多いが)それなりに将軍を支えて幕政に貢献していた賢臣だと思う。
  少なくとも『応仁の乱』以前までは確実に。)


まあいずれにしても、部下達必死さに比べて、信念のない義政には呆れ果てますが。
 (ただし義政の場合、腹黒さや邪悪さは無かったと思われます。
  単に、並外れて軍事センスに欠けた "世紀の戦音痴(いくさおんち)" ってだけで。…いや、だけって事もないかw
  でも、平和は「待っていれば向こうからやって来るもの」だと思ってたっぽい所には、
  壮大な突っ込みを入れてやりたくなります。)



「知られざる、西幕府誕生秘話!」

 ところで、前回の「2-10 室町幕府の『応仁の乱』斜め上行ってもうた「室町の非日常」」の最後、
「義視オファー」の解説で紹介した「大内政弘から家臣の麻生弘家への書状」ですが、
あれはこの辺に関わってくるのです。 
 (※『大日本史料』文明2年6月18日
  ただし、書状自体は文明3年3月12日付けのもので、西幕府誕生後、2年と数ヶ月した頃の話。)

 書状の概要は ―――
大内家の家臣である筑前国麻生弘家・弘国父子に対し、"庶流" の麻生家延謀反を起こした、というもので、
庶家麻生家延は、今回の大内家内訌作戦に乗じて宗家の家督を奪おうと企み、
親類被官と相語らって東軍に応じ、麻生宗家と主君大内政弘に対して明らかな反旗を翻し、
さらに文明2年6月18日には、宗家麻生弘家被官を誅殺したので、大内政弘はむちゃむちゃ怒って、
京都の問題が片付いたら、真っ先に麻生家延は処罰するから! 絶対許さないから! 安心していいからね!!」
と、宗家麻生弘家約束した。
――― というもの。

うおぉぉーー! 麻生弘家グッジョブ!! がんばれ麻生弘家
…と、また西軍贔屓してる場合ではなくて、
この書状は、前半に「西幕府誕生の真相」が語られていて興味深いのです。
すなわち ―――

  今度の(応仁元年(1467)の大内政弘の)上洛は、(西国の)みんなも知っているように、
  公方様(=義視、広義には義政含む)の御役に立つ為だったのだが、
  なんか事態が想定外の方向にぶっ飛んで、気付けば「なんてこったな展開」となっていた。
  このこと(=西幕府および西軍公方誕生)について、
  「大御所様」(=義政)に対して、無礼を致すつもりはないことを何度も申し上げたところ、
  ようやく思いが通じて御内書を頂戴することが出来た。(ああ、ほっとした。)
  それなのに、麻生家延と来たら、事実を捻じ曲げて、
  「大内政弘麻生弘家と企んで、(義政の)御敵となった」 などと言っているそうじゃないか!
  ああもう何それ! 腹立つーー!
  結局、今回の騒動を利用して麻生家の家督を横取りしたいだけじゃん! もう! ぷんすか!!

…という訳ですが、
先ず注目は、西軍にとって、現在の状況=西幕府誕生は、
望んだものではない「なんてこったな展開」だったということ。
 (※原文は→「弓矢之習、天下之様不慮之体成行候、不及是非候」)
普通に考えると、
 「西軍は、義政を倒す為に義視を推戴し "将軍家分裂" を謀った。 西幕府誕生大成功だった」
と勘違いしてしまいますが、
西軍の真意はそので、
 「ええーー!? これじゃ大御所様(=義政)に対して謀反企ててるみたいじゃん!
  そんなんじゃないからね! 本当にそんなつもりないんだからっ!」
…という事だったのです。
つまり、"正統幕府" の次期将軍として義視を迎える計画だったのであり、
義政に敵対する形となってしまった "西幕府" は、不測の事態以外の何ものでもなく、
義政にも義視にも "等しく" 忠義を持っていて、
どうにかしたい相手はあくまで、東軍の細川勝元だけだったのです。


 それから、次に気になるのが「大御所様」という表現。 (※大御所…隠居した将軍の呼称)
義政が「引退 &(義視への)家督継承」について、
どこまで意志を公言していたか(or 西軍側に告げていたか)は定かではありませんが、
大内政弘義政の意向をまるで無視して、勝手に「大御所様」と表現するとは考えづらいのと、
西軍は当初、義視を自陣に迎える事は、義政の意に反しない事だと思っていた訳ですから、
伊勢国滞在中の義視にオファーを送っていた段階では、
「義政引退」(&義視新将軍就任)は、既定路線だったと考えて差し支えは無いと思われます。
 (この辺の動きは、西軍と連携していた古河公方足利成氏の書状からも読み取れます。)


 (ただし、義政の意向がどうあれ、
  足利義尚(義政嫡男。文明2年でまだ6歳)を将軍にしたいと、密かに邪心を抱いていた者はいたと思います。
  義政自身は、少なくとも義視と決裂するまでは、
  「早く義視に家督譲って隠居したい!」…と考えていたのでしょうが、
  伊勢国から帰京した義視への、激し過ぎる御台兄妹の誹謗中傷の嵐を考えると、
   「(義政の意向を以前から不満に思っていた)御台は、
    実子(=義尚)を将軍にしたくて、今出川様(=義視)を排除しようとしているのでは?」
  というが巷で流れたとしても、なんら不思議ではなく、
  それが、『応仁記』の "あの記述" に繋がったのではないかと思われます。
  もちろん、西軍足利義尚を将軍に据えようと動いた形跡は全く以て確認出来ませんし、
  事実はむしろ、西軍は、次期将軍は義視であると考えていた訳ですが。
   (※『応仁記』については…「2-8 室町幕府の『応仁の乱』はじめました「応仁記の謎を解く」」)
  ―――まあ、以上を踏まえて憶測をすれば、
  義政の御台その兄は、大乱以前から「義尚を将軍にしたい」と密かに目論んでいたのだか、
  当時の幕府中枢(義政+管領畠山政長+有力者細川勝元)では、その陰謀を差し挟む余地が全く無かったので、
  大名の最大勢力である山名宗全を味方に引き入れて協力を仰ごうとしたのだが、
  その計画を打ち明ける前に大乱が勃発してしまったので、一旦、計画を棚上げし、
  密かに山名方と内通しつつ、次のチャンスを窺っていたら、
  大乱2年目に義政と義視の不和が起こったので、それに便乗して、
  讒言攻撃で2人の仲を決定的に引き裂き「義視排除」に成功。
   (※ただし "便乗" といっても、2人の不和の原因は「御台の兄の不義不正」だから、自作自演に近いが…)
  そして…これはもう少し後、文明5年(1473)の話になるのですが、
  (ゴリ押しか棚ボタかは知らんが)「義尚将軍コース」は現実のものとなるのです。
  つまり―――
  『応仁記』の「大乱の原因御台」というのは、
  「山名宗全義尚を頼んだ」という部分が誤りなだけで、それ以外はあながち間違ってもいないと言えます。
  ま、正確には "御台+その兄" だし、その讒言を信じて義視を疑った義政の責任は非常に大きい訳ですが。
  しかしそれにしても、腹立つ展開だなおいwww )



 最後に、一番気になるのは、「義政大内政弘御内書を下していた」ということ。
原文は、「御懇被成下、御内書頂戴仕候」となっていますが、
これはつまり…
大内政弘義政に対して敵意がないってこと、知ってたんじゃん! しかも懇意になってんじゃん!
だったらなんで、細川勝元の言うがままに "大内家ぶっ潰し計画" に加担してんだよ!
おめーの真意はどっちなんだ!
マジで分からん、ってかまるで信念が無い、そして余りに無責任
 もちろん、私がなんか読み違いしている可能性もありますが、
ただ、この後の大内政弘の言動とも辻褄が合うので、大きく外れてはいないと思う…って事で、
ああもう、意味不明!
まあ無理にでも解釈するなら、「大内政弘の気持ちは受け取ったけど、義視は許せないから西軍は潰す」
ってとこでしょうか。
 (※もちろん、
  大内政弘が「自分の都合に良い様に話をでっち上げている」と考えられなくもありませんが、
  しかし、部下への書状や『拾塵和歌集』、日記に記される言動から察するに、
  この人は、かなり素直思いやり義侠心に溢れた人です。 これだけは間違いない!
  保身の為になどつくことがあろうか! そんな下等な方法で大国が治められるはずはなかろう!
  大内さんマニアの私の確信に異論など認めな…っっ!! すみません、また調子に乗ってきましたww)




 ところで、大内政弘麻生弘家(宗家)に対して、
京都の問題が解決したら…実際の表現では「この弓矢(=いくさ)、本意を達し」たら、
麻生家延(庶家)を処分する、と約束した訳ですが、
「弓矢の本意」=「西軍の最終目的」(←ただし、この時点での)とは何だったのかと言うと、
(既に軽く述べましたが)『大乗院寺社雑事記』の記述などから考察して、
   「義政義視の和解」&「義政から義視への "穏当な" 将軍職の継承」&「東軍の降参」
だったと言うことが出来ます。

 (それゆえ西軍大名達は、義政への叛意はないのに、義視公方と称して推戴し続けた訳です。
  ちなみに、『応仁の乱』は後世の人間からは「目的の無い無意味な大乱」だと評されることが多いですが、
  当時を生きていた彼らは確かにその胸に、「弓矢の本意」という目的を抱いていたのです。
  これは結構意外な事実だと思うのですが、どうでしょうか?)

 (※西軍の「本意」について、これまでの関連箇所は…
  「2-8 室町幕府の『応仁の乱』はじめました「紐解けばそこに、武士の道」」の後半と、
  「2-10 室町幕府の『応仁の乱』斜め上行ってもうた「ムロマチスト義視の、西幕府はじめました」」の最後。)


 しかし結論を言ってしまうと…それは余り上手く行かず、夢物語となってしまいます。
義視義政より遥かに政道への熱意があって、諸大名を統べる将軍としての器量も備えているし、
元来義政を信頼していて、西軍に身を投じたのも「『室町殿』内の不正を正したい」という一途な思いからだし、
何より、義政の方から、義視 "約束した事" なんだし、
それが一番筋が通っていて、最も平和的な結論だったと思うのですが……なんで上手く行かなかったんだろ。
 私が、西軍をつい応援してしまうのは、
2人の将軍の和解を願う彼らの考えに賛同するからなのであり、
道義的に見れば、少なくとも幕府が分裂した応仁2年末以降は、西軍に理があると信じるからなのです。


 (しかしこの時代は、"君臣の道" を尊重するあまり、
  「道理」より「上位者の意志」が優ってしまうところがあったのもまた事実。
  義政が、「義視と西軍は凶徒だ」と言えば、それが正しい事だとされるのです。
  …うーんw
  秩序の為には「礼節」の範囲内での上下関係はあって然るべきだけど、
  それは決して、「道理」を犯すものであってはならないし、
  社会の健全化の為には、上に立つ者は "下からの諫言" を受け入れる義務があると思います。
  おい! 『応仁記』で部下の諫言を一蹴した義政! 聞いてるか?w
  まああれも、"君臣の道" という意味では一理なくも無い訳ですが。(認めたくないけどw)
  ちなみに、私なりに歴代将軍を分類すると、
  上意が "道理を上回る" ことがあったのは、義満義政 (したたかさは、義満>>>義政)
  一方、"道理に基づく上意であるべき" としたのが、直義義教義視
  …だと思う。
   (※義教が誤解されているのは、『建内記』や『満載准后日記』の記述が無視され過ぎてるせいです。)
  ってゆーか、将軍個人の人生としては…
  後者の3人のが断然上手く行ってねぇーwww  なんで? 何でなの??
  やっぱ、ムロマチスト世渡り下手は筋金入りだな。)



「信義は東西を越える 益田貞兼」

 さて、ちょっと話が逸れましたが、この「大内家内訌誘発騒動」において最も注目すべきは、
実は、石見国益田兼堯・貞兼父子だったりするのです。
…すまん、こっからが本題だ。
益田家石見国(島根県西部…出雲国の西隣り)の有力国人ですが、
大内さんの本拠地周防国・長門国(山口県)に隣接することから両者の関係は深く、
これまでも度々、大内方の主力軍として活躍していました。
 (本来、石見国守護山名家なのですが、大内家当主は在国していたのもあって、
  近隣の石見国安芸国に対して実質的な影響力持ち、その国人達と良好な関係を築いていました。)

という訳で益田家は、『応仁の乱』でも西軍大内政弘の期待の主戦力!…だったのですが、
実は、美濃守護代の斎藤家と同様に将軍の直臣でもあったので、
当然、義政細川勝元から幕命を受ける立場でもあり、妙椿問題と同じような悩みを抱えていたのです。
 (…まあ妙椿は、東軍とか西軍とか、んなこと問題にもしてなかったようですが。
  妙椿妙椿であって妙椿以外の何妙椿でもない!!! )


 つまり、益田兼堯・貞兼父子は、大乱当初から
"大内家との誼(よしみ)" から心情的には西軍なんだけど、"将軍への忠義" からは本来東軍…という、
微妙な状態だったのですが、
戦乱が長引くにつれて、その立場もどんどんこんがらがって行くことになります。
 さてここで、勘の良い方は気付かれたかと思いますが、
この益田家こそ、朝倉家と同じような "東軍西軍の枠を超えた離れ技" をやってのけることになるのです。
 だたしそれを、彼ら個人の「利を追求せんとする野心」だとか、
「戦乱を生き抜く為のしたたかな処世術」だとかいう次元で捉えてしまっては、真相を見誤ります。
これは抜け駆けによる "個人プレー" ではなく、
西軍同士の信義が鍵となる、絶妙な "連係プレー" なのです。



 そんな訳で、『応仁の乱』における益田家の動向は、
一見しただけでは「え、何これどうなってんの?マジこれどっち??」という、不可解さに満ちていて、
朝倉家同様、結論が出ていない(もしくは諸説溢れてる)のが現状ですので、
ここでは、参考資料と、私の独断的愚説に沿った解説の紹介に留めさせて頂きます。 すまん、適当でww

 【井上寛司・岡崎三郎
  『史料集・益田兼堯とその時代ー益田家文書の語る中世の益田(二)ー』(益田市教育委員会)1996】

 【久留島典子『応仁文明の乱と益田氏』(『東京大学史料編纂所研究紀要』第17号 2007年3月)】

 上の書籍は、代々益田家に伝わる古文書の原文と詳しい解説、さらに現存文書の写真付きで、
大内政弘の花押はもちろん、義視の自筆御内書とかあって、西軍マニアにはたまらんのですが、
市販されていないので、でかい図書館にGOするしかありません。
 (※島根県益田市のHPによると、どうやら市立図書館で販売しているらしい。)
下の論文はネットで公開されているもので、
益田家文書に関する上記の史料集以降の新説や、書状の発給年の訂正などがあり、
まあこの2つを比較検討すれば、かなり妄想が捗るかと。
…というのも、当時の益田父子の動向は、その大部分が「残された書状からの推理」なので、
が多くてかつ面白いのです。
まだまだ新説の余地はあると思うので、興味のある方は是非、独自に挑んでみて下さい。
 (※益田家文書の原文については、
  【『大日本古文書 家わけ第22 益田家文書』(東京大学史料編纂所)】が、1〜4巻まで刊行済みで、
  一部はHPのデータベースでも閲覧できます。)



 さてでは、本題と言っときながら適当に解説いたしますと、
『応仁の乱』本戦開始後の応仁元年(1467)8月に、西国から猛勢率いて上洛した大内軍ですが、
この時、父の益田兼堯(かねたか)は石見国に在国して留守を預かり、
嫡男の益田貞兼(さだかね)が、益田勢の大将として大内政弘と共に上洛したようです。
 (在京が確かに確認出来るのは文明元年(1469)10月ですが、まあたぶん初めからいたと思う。)
しかしその後、義政義視の決裂によって、
東幕府からの、西幕府勢力に対する執拗かつ徹底的な制裁が開始され、
西国はその第一の標的とされてしまいます。
 文明元年(1469)12月には、東軍に属した三隅豊信(三隅は益田の庶流)が、
益田家の石見国の所領を奪ったと言う事で、
敵方(=東軍)に同心した上に宗家の所領を侵すとは!」と、大内政弘が怒って、
三隅家の所領を、在京する益田貞兼に宛て行うよう申立て、その後義視の安堵状が発給されています。
 しかし一方で、文明2年(1470)2月4日には、
石見国に在国する父益田兼堯に対して、東軍の義政が御内書を下し、
大内教幸(道頓)と協力して、大内政弘方の西軍の「凶賊」を退治するよう命じています。



 さてここで、「嫡男は西軍なのに、父は東軍なのかよ!」…と思ってしまいそうですが、それは早とちりです。
まあ、この辺が諸説あるところなのですが、朝倉家の件と比較検討した結果、大内さんマニアの私が断言します。

   益田兼堯・貞兼父子は、終始心は西軍だった!!

…いや何言ってんの、少なくとも文明4年(1472)11月以降は確実に東軍だろ。
とか言われるのは重々承知の上ですがw
まあ、そう仮定すると色んな謎がすっきり解決するのです。
真相を直接記した証拠が無い以上、あらゆる仮説の中で最も理論的に妥当な一つを、一応の正解とすべきでしょう。

 義政が父益田兼堯に参戦を命じた、という事実から、
「(それ以前に)益田兼堯東軍としての旗色を明確にしていた」という結論を導くのは、実は早計で、
ここから得られるのは、あくまで「直臣として命令を受けた」という事実に留まります。
なぜなら…、義政は、明らかに西軍の者に対しても、公方と言う立場から平然と命令を下すからですw
 (※例…『大日本史料』文明3年6月11日。
  西軍の斯波家被官に対し、東軍となった朝倉を援護しろって御内書。)
つまり、東軍からの幕命を以って、その相手が "実質的にも" 東軍だとは言い切れないのであり、
また逆に、西軍与同しているからと言って、それは必ずしも義政への背信を意味する訳ではないのです。



 それにしても、西軍勢力に寝返りを促す御内書を連発して、戦乱を煽りに煽る、
東軍(ってか勝元)のやり方は容赦無いな…とか思う。
まあ、勝つ為なら、冷酷理不尽も戦略の内だ、とも言えますが、
しかし、勝利を得た暁にどうするか?
その後の世界における、正しい政道への "構想" "熱意" があるのなら、
多少狡猾な手段を用いるのも、大いにありだと思いますが、
はっきり言って、義政にはそれが感じられないし、西軍のがよっぽど天下の事を考えていると思う。
 単に、戦に "勝つこと" が目的であってはいけない、勝利はあくまで手段でしかなく、
"私" の勝利天下に捧げ、その先に "公" の理想を追える者こそが、天が認める真の勝者なのだと思います。

 (※例えば「室町幕府創生期」においても、
  もし足利軍が、何の真っ当な目的も無しに、ただ目先の利の為だけに蜂起したと言うのなら、
  どんなに非難されても仕方ありませんが、
  彼らには、戦いの先に仁政徳治「王道」の実現という、漠然とした、しかし確かな希望がありました。
  それは、『建武式目』にも、『夢中問答集』夢窓国師が残した語録にも、そして何より、
  足利直義の構想や実際の行動に、明確に示されているのです。
  しかし逆に、「覇道」による野望の実現(※)を目指していたと言える証拠はどこにもない、
  勝利を得た時彼らは、新政権側との "敵対" の継続ではなく「和睦」を望んだのです。
  その胸に抱く目的が、 "敵の殲滅" や "武家による天下の私物化" などではなく、
  公利の為の「正しい政道」だったからこそ、
  私は室町幕府の誕生は間違っていなかったと思うし、
  この時、彼らが立ち上がらねばならなかった社会的背景、幕府誕生の真の意味、そして、
  花園法皇夢窓国師足利直義が抱いた「天下への理想」を、
  一人でも多くの人に知ってもらいたいと考えています。)

 (※…無論、婆娑羅という言葉が生まれたこの時代は、「覇道」に野心を抱いていた大名も多かったのは事実で、
  それがやがて、「王道」を目指す直義の存在に反意を抱き、『観応の擾乱』へと繋がってしまうのですが、
  しかし、室町幕府そのものは、
  足利直義 "理想のすべて" を詰め込んで生まれたと言っても過言ではない、
  夜半に日頭を、乱世に夜明けを夢見た、天道に適う政権だったのです。)



 そんな訳ですので、単なる軍事的勝利が目的ではなかった西軍としては、
義政の上意に裏付けられた東軍の強力な戦略に対抗するには、
東軍西軍と言う上辺の枠組みに囚われず、
胸中に固く抱く「信念」に基づいて、行動を取る必要に迫られていくのです。
 掲げるのは、「東軍の旗」でも、「西軍の旗」でもない、
それは、邪(よこしま)な者には見えないけれど、志を曲げない者の心にだけ棚引(たなび)く、
「信念」という
遠い西国の空の下、在京する屋形の留守(※)を守るべく、
たった一つの見えない旗印で繋がる彼らの、危うい "大内政弘親衛作戦" が始まるのです。

 (※屋形(やかた)…貴人の邸宅のこと。または、そこの主人。 そこから、貴人や大名の敬称となり、
  室町時代では、一定以上の家格の大名の呼称となった。
  ここでは、大内政弘のこと。 屋形様御屋形様とも言う。 "親方" ではないので注意w)



「それでも僕らの旗は一つ 陶弘護」

 東軍による「大内教幸擁立作戦」がマジでやばそうだという状況を受けて、
文明2年(1470)5月、大内政弘は、上洛していた益田貞兼に国への下向を依頼します。
周防国山口で留守番中の大内家家臣達と協力し、東軍勢力から西国を守り抜くという重大任務を託したのです。
 (※ちょっと注意。
  石見国人である益田家大内家当主との関係は、主従関係にある大内家家臣とは異なり、同盟関係となります。
  大内政弘から益田貞兼への書状で対応がとても丁寧な事からも、両者の関係が窺えます。)

 さて、この大内お留守番隊(※)の筆頭こそ、大内家の重鎮陶弘護(すえ ひろもり)!!
 (※…正しくは「大内殿御留守衆」。 ってか、"御留守" ってw なんかかわいい。)
重鎮、とか言っちゃったけど、どんなおっさんだよwとか思ってはいけない。
陶弘護はこの時まだ16歳(満14歳)!!
しかし彼は奮闘する! 御留守な御屋形様親衛隊長として、
裏切り者に周防国を渡してなるものかぁーー!!と言わんばかりの熱き闘志で、見事に主君の留守を守り抜くのです!
…って、あ、結論先に言っちゃったw
もちろん、まだ若年の陶弘護には、当然陶家の宿老達の支えがあった訳だし、
大内家御留守衆は他にも、内藤弘矩杉重隆など多くの重臣が名を連ねていましたが、
当時の状況を今に伝える書状の数々からは、陶弘護自身が決死の思いで積極的に任務に当たり、
中心的役割を立派に果たしていたことが読み取れるのです。

 (※なぜ、重鎮筆頭の陶家の当主が16歳なのかと言うと、
  実は、陶弘護の父の陶弘房は、大内政弘と共に上洛して参戦していたのですが、
  2年前の応仁2年(1468)に、陣中で他界してしまっていたのです。
  14歳で家督を継ぎ、初仕事が「主君大内政弘の存続を懸けた西国の大擾乱」ってw
  なんてこったなデビュー戦ww がんばれ陶弘護!!
  ちなみに、大内家陶家は同じ氏族で、共に(本姓)は「多々良(たたら)」です。
  ま、大内政弘はどの家臣にも、また周辺国の国衆たちにも分け隔てなく誠実に接する屋形ですが、
  そんな訳で、陶弘護は特に信頼する家臣の一人であったのです。)


 まあ、「結局、大内政弘側が勝った」という結果を知っていると、
なんか楽勝だったかのように錯覚してしまいますが、決してそんなことはありません。
第一、最高司令官であるはずの主君が "今ここにいない" 上に、相手は上意を掲げた官軍
さらに、最も頼りとする同盟者の益田家は、幕府大内家との間で非常に難しい立場にいる。
そんな、絶体絶命と言うに相応しい現状では、ほんの少しの「疑い」「ためらい」が命取りになりかねない。
そこで陶弘護 "誓いの書状" をしたためて、益田貞兼に固く約束するのです。

  「絶対絶対絶対裏切らないから!! どんなことがあっても信じ続けるから!!
   たとえ世界が君の敵に回ろうと、僕だけは最後の一人の味方だからね!
   苦しい時も楽しい時も、僕らはすべてを共にする!
   日本国中のあらゆる神々に誓って、殊に八幡大菩薩に、氷上の妙見大菩薩に、
   決して偽りの無いことを、ここに誓うから!!!」          (※複数の書状より意訳)

…なんという、めっちゃ直球信念w しかもこの類のが一通じゃなく、何通も残ってるw
こんな適当な意訳じゃなくて、本当は全部紹介したいとこですが、
まあ、とにかく熱すぎて面白いのです。
 (中には、「これ、読んだら火中にポイしてね!」という自筆の書状もあるのですが、
  それを540年後の私達が目にしていると言う事は…益田貞兼が大事に取っといてしまったからに他ならないww)

――― 窮地に立たされた僕らは、それでも同じ旗を振る。
心にはためく白旗は、どんな武器にも優る、世界で一番強い「信念の旗」なのだ!!

 (実は、陶弘護益田兼堯の娘を娶っているので、
  益田貞兼とは義兄弟だからこんなに熱い信頼を寄せていた、とも言えますが、
  ただ、陶弘護の年齢や家督を継いだタイミングを考えると、
  婚約したのはこの作戦の最中かも知れないけど、
  少なくとも、祝儀を挙げたのは作戦成功後なのではないかな、と思う。)



 しかし、裏を返せばこれは、それだけ石見国の益田軍の力を頼りとしていたと共に、
益田貞兼の立場が、非常に危機的状況でもあったことを意味します。
 それは、益田家自身の直臣問題(≒妙椿問題)に加えて、
この「大内家内訌誘発作戦」を東軍が開始した文明2年(1470)2月、
大内家御留守衆が、
  「一旦大内教幸(道頓)に一味同心した振りをして、この突然の窮地をやり過ごす」
という、際どい戦略を取らねばならなかった事にも表われています。 (『大日本史料』文明2年2月9日)
 『大乗院寺社雑事記』5月22日の伝えるところによると、
陶弘護以下の御留守衆が、石見国人の吉見信頼に宛てて、
「俺らも、大内教幸同心してまーす!」という内容の2月9日付けの "連署の書状" を送り、
それが世間流布していた、
…という事ですが、
この石見国人の吉見信頼は、この後、明確に東軍大内教幸方として活動する上、
益田家とは、石見国の長野庄をめぐって利害が対立する関係にありました。
 この書状自体は、「世間に流れる風書」だったそうなので、
或いは西軍撹乱を企んだ東軍の "偽書" だった可能性も捨てきれないけれど、
恐らくは、吉見信頼をはじめ、次々に大内教幸側を表明してゆく周辺国諸将の前に、
四面楚歌となった大内家御留守衆の、咄嗟の機転だったんじゃないかと思います。

 (上述のように、益田家庶流の三隅豊信が、大内教幸擁立 "以前" から東軍としての立場を明確にしている事からも、
  恐らくは石見国人東軍に与同するものが圧倒的であり、
  その中で、益田貞兼大内軍として在京中の明らかな西軍、かつ石見国の益田軍は大半が上洛中で手薄
  という状況は、いつ東軍側の石見国人から攻められるかも知れぬ窮地だった訳ですから、
  数少ない仲間の益田家(この時在国していたのは父の益田兼堯)の為に、
  「東軍勢力の開戦を引き延ばす時間稼ぎ」として "やむを得ずとった作戦" かと、個人的には思いますが、
  まあ、色々妄想可能な部分なので、みなさんもどうぞもんもんとしてみて下さいw)



 この後、すなわち益田軍が京都から帰国する文明2年(1470)5月から、
大内教幸勢を相手に勝利を収める文明3年(1471)12月まで、
一貫して益田貞兼御留守衆と共に西軍側として戦い続けるのですが、
しかし、益田家内部でさえも、
陶弘護益田を裏切って吉見と組むのではないか?」という噂が飛び交うほど、
人々は疑心暗鬼に陥っていたそうです。
 何が本当で何が嘘か、味方でさえも信じられなくなってしまうような状況の中で、
益田家家中では、「大内家と手を切って東軍に降るべきでは…」という議論も頻繁になされたと思われます。

 というのも、益田家にとってのこの戦いの目的の一つに、
益田吉見との間で係争中の「石見国長野庄の安堵」があったのですが、
西軍として尽力する益田貞兼の忠節に報いる為、どうにかその安堵を実現しようと、
大内家家中の者達が必死に奔走していた事を示す数々の書状が残されているのです。
 しかし、それは思うように進まず、大内家との関係に疑問を持ち始める益田家家臣達が出てきたり、
益田兼堯・貞兼父子の間ですら不穏な風聞が流れる中で、
上記の如く陶弘護の決死の誓いが、幾度となく交わされるのです。

 (この長野庄の益田家への安堵の為に奔走した大内家中の人物の一人に、大内政弘の母がいます。
  というか、政弘母はどうやら、「大内政弘親衛作戦」に従事する御留守衆 "求心力" でもあったようなのです。
   (※詳しくは、上で紹介したネット公開の論文を参照。)
  当主の母が家中で強い影響力を持ち得る事は、『文正記』における斯波義廉の母の例を紹介しましたが、
  政弘母も、義廉母と同様、立派に家中をまとめた賞賛すべき武家の妻だったようです。
  ってか、実は2人とも山名家出身だったりする。 さすが山名、娘も武士の心を弁えているw)


 しかし残念ながら、この石見国長野庄に関しては、
結局、西軍の大内政弘の力では益田家への安堵の実現は叶わず、
大内教幸問題が解決した約1年後に、
 「益田兼堯・貞兼父子が東軍に鞍替えすることで、義政からの安堵を受ける」
という結末を迎えます。
それは、これまでの経緯を考えると余りに意外な終わり方で、
その結果からの解釈として、
 「長野庄が益田家の第一の目的だったのであり、大内家に協力したのは所領の為の政治的理由に過ぎない。
  益田父子はしたたかな戦略を駆使する事で、東西軍の対立を利用して見事に漁夫の利を得たのだ」
という考察も可能ですが、
しかし私はそうは思いません。
 そもそも、東軍による大内教幸擁立作戦は、西軍にとっては唐突で予想外な事態だったのであり、
そんな中で、「吉見信頼の反対勢力(=西軍)に回れば、係争中の長野庄を奪取できる!」
なんて計略を立てる余裕は、本当にあったのだろうか?
もし西軍側が負けたら、失うものが多過ぎて、長野庄どころの話じゃなくなるのでは?
 もちろん長野庄大きな目標の一つであったのは事実だと思いますが、
益田父子は、
長野庄を得る為に、東軍と西軍の間を狡猾に行き来した」のではなく、
「大内家との信義を貫いた為に、長野庄の安堵と言う宿願の成就が、"結果として" ついて来た」
というのが真相に近いと思います。


 実は、最終的に益田父子東軍に鞍替えしたのも、
何を隠そう、西軍である大内家御留守衆との「合意の上」での事だったのです。
それは、益田貞兼陶弘護との個人間だけでなく、益田家家臣陶家家臣との間にも交わされた確かな誓いでした。
 もちろん、家臣も含めた誓約だったと言う事は、
家臣団内部にまで、意見の違い不信感が広まっていたという証拠でもある訳ですが、
そんな不安の中でも、を確かに一つに保って家臣をまとめ、
陶弘護との約束を信じ抜いた益田貞兼は、実に見事な主君だと思います。
 もし途中で、猜疑心から、または長野庄安堵を急ぐ欲望から、大内家を裏切っていたとしたら、
恐らく騒乱が収まった後の西国において、非常に厳しい立場に立たされていた事でしょう。
 しかし、益田家はこの後、石見国において他の国人達を凌いで確固たる地位を築き、
長野庄以外の所領すら、多くを手に入れる事になります。
これは、信義を無視して利益だけを追うようなその場しのぎの政治戦略では、実現不可能な成果です。
一時の利益に惑わされず、「信義第一、所領は二番」を貫いた益田貞兼の、戦略勝ちと言えるでしょう。

 (実際、大内家との関係を切って東軍大内教幸側についた国人達は、かなり割を食っています。
  まあ、「…ん? 西軍として戦ってた益田家東幕府から所領安堵されて、
  初めから東軍だった方が所領失うっておかしくね?」という突っ込みはしたくなるところですが、
  これは、それだけ益田家の実力が認められていたと言う事と、
   「東幕府から見たら西幕府は敵だけど、各諸将はあくまで室町幕府の一員である」
  という、『応仁の乱』特有の厄介な「side by side 事情」に因るものです。)



 さて、益田父子が大内家との秘密の合意の下、東軍に鞍替えしたのは文明4年(1472)10月頃のことですが、
このように、
  「所領の安堵について東軍となる必要があるけれど、
   表向きが東軍だろうが西軍だろうが、俺らは信義で繋がっているからね!」
を可能にしたのは、実はこれに先立って、
文明3年(1471)5月、越前国の朝倉家が先陣を切っていました。
恐らくそれが上手くいったので、
「え、じゃあ、益田っちもこの手で行けるんじゃね?」と京都の西軍内で話し合いがあったのではないかと、
私は勝手に妄想していますw

 (※もちろんこれは、義政に対する背信ではありません。
  既に述べたように、東西関係なく殆どの武士は義政忠義を抱いていたのであり、
  その意味では、東軍になるのはむしろ願ったりだったのです。
  つまり、「本当は西軍なのに "東軍を騙して" 帰参した」のではなく、
  いずれ幕府は一つに戻ると信じていた彼らは、
  あくまでその "本来の一つの幕府" に帰順したつもりなのであって、
  それ故、西軍諸侯との関係を保ちつつ、同時に東軍諸侯との良好な関係も築いていくのです。
  単に西軍から東軍に転じた者達と、益田家朝倉家との違いは、
  関係を断った上での転向か、信義を貫いた結果の東軍化か、という所にあります。
  …ただし、そうは言ってもやはり、東西幕府の分裂が完全に解消するまでは、
  東軍となった益田家朝倉家は、苦労する事も多かったでしょう。)


 それぞれの仲間の利益立場を考慮して、時に東軍西軍の枠組みを超える事すら辞さず、
そして、道理に基づいて次期将軍は義視であるべきと考え、
しかし、力ずくでの将軍職奪取ではなく、義政の意に沿った "順当な家督継承" を願って東軍と対峙し続けた、
それが、西軍のやり方だったのです。



 ところで、デビュー早々良い奴振りを発揮してくれた陶弘護ですが、
部下が部下なら主君も主君で、
上洛していた益田貞兼が援軍として西国に下向したのを受けて、5月27日付けで大内政弘は書状を送り、
長らくの在京の苦労を労うと共に、
もし親子兄弟の間で如何なる困難に出会おうとも、決して見放しはしないと固く約束しています。
 (同時に、在国していた父益田兼堯にも、これまでの感謝とこれからの協力を願う書状を出しています。)
まあ、それだけ益田貞兼が孤立無援に陥りかねない風聞が流れていた訳なのですが、
そんな中、さらに8月10日には、
西軍公方義視から "自筆の御内書" "太刀一腰・鎧一領" が下されました。
これに先立つ7月7日に、
益田貞兼の忠節を賞し戦功を励ます "通常の御内書" (代筆でやや簡素)が既に出されていたのですが、
これじゃ不十分だろ!と義視が直々に申し出て、自筆&太刀と鎧というスペシャルな対応となったのでした。
 (※本来、御内書をはじめ、貴人の書状は右筆(ゆうひつ。文書を書く職)による代筆で、
  基本的に本人は署名花押を記すだけです。)
ってか、みんな良い奴過ぎるww
大内政弘も副状で「良かったなあ、良かったなあ!」と感激していますが、
御留守衆もまた、戦功を挙げ続ける益田貞兼の比類無い忠節に対して、
  「長野庄のこと精一杯協力するからね!
   もし御屋形様がなんか言って来ても、俺らが証人になるから大丈夫だよ!
   もう泣きついてでも話通すから!!   内藤弘矩、安富行房、陶弘護より」
といった具合。
これなんかは、「大内家中では、大内政弘は部下の話に耳を貸す "話せば分かる主君" という認識だったんだな」
とも思えて、さらにぬくもってきますが、
まあ、みんなこんなに素直なのは、
文明2年(1470)の時点で、義視32歳、大内政弘25歳、陶弘護16歳、内藤弘矩25歳(…数え年)と、
とにかく若いってのもあると思います。
 (※益田貞兼は生年不明ですが、妹が陶弘護なので、まあ大内政弘と同年代くらいでしょうか。)
それなのに、みんなしっかりした信念持ってたんだなあ、としみじみ感心してしまいます、はい。
ま、一番ロックな妙椿は、おっさんなんだけどね!



 以上、益田家の動向についての考察は、ほぼすべて書状を論拠としています。(出典明記してなくてすまんw)
適当に…とか言っときながらこのだらだら感。
どうしても「大内さんと西国の愉快な仲間たちシリーズ」は好きなので仕方ないw


 ちなみに、上述の陶弘護の "誓いの書状" では、日本国中の神様たちが登場してますが、
妙見大菩薩(みょうけんだいぼさつ)は、北辰妙見菩薩ともいい、
北辰(ほくしん)、すなわち北極星(または北斗七星)を神格化した仏様です。
現在も山口県の氷上(ひかみ)に、妙見社が残っているそうですが、
大内家は代々、妙見大菩薩を厚く信仰していました。
 「妙見信仰」は一応仏教に基づくものですが、なんか微妙に「え、なのなの?」みたいなところがあるのは、
まああれだ、かつては大らかな神仏習合でOK!が、この国のやり方だったのだw
とにかく、北極星の神様なんだよ、南無南無! でいいと思います。

 それから、また八幡様がご登場です。
武士と言ったら八幡様! 俺らのラスボス八幡様!!…な訳ですが、
八幡大菩薩は歴(れっき)とした神様です。
…え、ってか菩薩って何だよ? とか思うでしょうが、
菩薩(ぼさつ)とは、仏教において「悟りを求めて修行する人」のことです。
…ってか、だからなんで神様大菩薩なんだよww とか思うでしょうが、
実は八幡様は、代表的な「神仏習合を象徴する神様」だったのです。

 まあつまりあれだ、俺らのラスボスは何でもありなんだよ! 細けぇこと気にすんなよ!
とにかく正直にしてりゃ、「お、こいつ素直だな」とか言って宿って下さるんだよ! ありがてぇ!!
 ま、神様と言う事を強調して、"八幡大明神" と称されることもありますが(ってか現代は殆どそうですが)、
八幡様は、"八幡大菩薩" として親しまれてきた歴史が余りに長いので、
歴史考察サイトを自称するこのサイトでは、その歴史を尊重したいと思います。
というか、当時の史料を読んでいると自然とそうしたくなるw
信念を貫こうとする時、武士の心に力を与えていたのはいつだって "八幡大菩薩" だったのです。


 そんな訳で、室町時代はあっちでもこっちでも頼りにされまくりの大人気な八幡様ですが、
まあ、室町武士どもはヒャッハーな奴等ばっかりで、世話が焼けてしょうがなかった事でしょう。
 ちなみに、八幡大菩薩は元をたどれば、第15代応神天皇です。
そして、"応神天皇陵" は、"仁徳天皇稜" に次いで全国第2位の規模を誇る前方後円墳であり、
河内国誉田(こんだ。現在の大阪府羽曳野市誉田)に鎮座ましまします。
か、河内といえば…畠山義就。 …ゴクリ。
な、なんかやらかしそうな予感。
そういえば、もともと義就石清水八幡宮の社僧となるはずだったんだよね。 え、って事は…
もしや… "あれ" は八幡様公認だったのかっ!??
うん、まあこの続きは『応仁の乱』が終わった後でね。







 さて、このページで文明元年(1469)から文明3年(1471)までの3年間を一気に終わらせる予定でしたが、
やっぱり無理でしたw
文明2年(1470)の残り半分+文明3年(1471)はページを分ける事にして、
最後に豆知識をひけらかして終わりたいと思います。



「諱(いみな)のこと」

 以前説明した名前の構成について、今回は「諱」(いみな)に注目してみます。
 (※前回の話は→「2-6 室町幕府の後半戦へと続く道「揃った役者」」…の "豆知識その2" )

 とは、元服後に名乗る "実名" で、「軽々しく口に出しちゃだめだよ!」という意味深なものですが、
その構造にはちょっとルールがあります。
 まず、漢字二文字から成り立っている事、
そして一方は大抵、一族で先祖代々決まった一字を用いていて、これを「通字」と言います。
 例えば…
  足利家の「義」:足利教、足利政、足利視、足利
  伊勢家の「貞」:伊勢親、伊勢宗、伊勢
  朝倉家の「景」:朝倉孝、朝倉氏、朝倉貞
と言った具合で、
諱の "上の一字" の場合もあれば、"下の一字" の場合もありますが、
家によっては「通字」がはっきり定まってなかったり、途中でころころ変わったりもする、割と適当なものです。

 さて、もう一つ重要なのは、主君から授かる「偏諱」(へんき。諱の一字)です。
これは、「主君の偏諱臣下が賜る」という慣習で、「一字拝領」とも言います。
基本的には、主君 "下の偏諱" を、臣下が自分の諱の "上の一字" とするのが通常ですが、
主君 "上の偏諱" を授けるというスペシャルなこともあります。
 例えば…
  畠山政長の偏諱「長」を受けたのは:遊佐直、遊佐滋、神保
  大内政弘の偏諱「弘」を受けたのは:陶護、内藤矩、仁保
などなど。
しかし何と言っても、この「偏諱」の授受が最も顕著なのは「足利将軍大名」の例です。

 義満の「満」、義持の「持」、義教の「教」、義勝の「勝」、義政の「政」(義成の時は「成」)…など

上の2人(畠山政長、大内政弘)の「政」も、義政の偏諱。
同時代の大名の諱が妙に似通っていたのは、この為だったのです。
 義持の時なんて、畠山国、畠山富、細川之、山名豊、京極清、大内世…
とかもう、どんだけもちもちなんだよ! もち過ぎんだろ! とんだもち攻めだよ! ムニムニ!
まあでも、大内持世(もちよ)は、ちょっとかわいいw 遺言はめっちゃかっこいいのに。
 (※ちなみに、畠山義就の「義」は、義政の上の偏諱「義」です。 スペシャルw)
それから、武家だけでなく、公家が将軍の「偏諱」を受ける事もあります。
 (※例:二条基、一条房、近衛家…などなど)
あと、少し特殊なのは、
3代目義満以降、鎌倉公方京都の公方の「偏諱」を受ける先例が出来たようで、
   義満 … 足利兼、 義持 … 足利氏、 義成 … 足利
そして、鎌倉公方となるはずだった堀越公方足利政知の「政」も、義政の偏諱です。

 偏諱の授受は、臣下が元服して初めてを名乗る時に行われる場合が殆どですが、
成人後でも、新たな主従関係を結んだ時や、
または、特別功績を挙げた時に恩賞として拝領する場合などもあります。
 つまり、途中で改名することになる訳ですが、
"諱の改名" はこの他にも、なんか気合を入れ直したい時や、縁起願掛け的なもの、
それから、諱に呪詛をかけられてしまった時w…などの理由で為される事があります。
それだけ「諱」とは、単なる名前以上の、魂が込められた存在なのです。

 (※例えば…朝倉孝景の元服後の最初の「諱」は、実は教景(のりかげ)だったのですが、
    →斯波家の家督が斯波義敏になった時(享徳元年(1452))
     「敏」の偏諱を受けて朝倉敏景(としかげ)と名乗る
    →しかし『長禄合戦』を経て「子々孫々お断りだぁぁーー!」とぶち切れ、朝倉教景に戻る
    →しかし寛正5年(1464)、興福寺の学侶から「諱」に呪詛を食らう(おそらく越前の荘園関連の揉め事で)
    →仕方ないので「教」から「攵」を取って、朝倉孝景と名乗ることにする
  という諱遍歴を重ねていたのです。
  朝倉孝景の名乗りとしては、「朝倉敏景」も一般によく知られていますが、
  そういう事情がありますので、本人の前では決して「敏景」とは呼びかけないように注意しましょう。
  激おこプンプン飛び下馬されてしまいます。
  ところで、「教景」の諱に呪詛をかけられたのに「景」はそのままでいいの?…とご心配でしょうが、
  フッフッフッ、大丈夫だ問題ない!
  なぜなら、興福寺の学侶はうっかり、「教景」ではなく「教影」に呪詛をかけてしまったのだ!
    (『大乗院寺社雑事記』寛正5年6月24日)
  …って、なんというドジっ子www
  いや〜おかげで大事な「通字」が無傷で済んだよ、ありがてぇありがてぇ!
  そういう訳ですので、「孝景」の "読み" はもしかして、
  「たかかげ」ではなく「のりかげ」の可能性も無きにしも非ずですが(孝は "のり" とも読む)、
  ただ、室町創生期頃の先祖に「高景」(たかかげ)と名乗っていた者がいて、
  朝倉家は、先祖の諱にあやかる事がとても多いので、「たかかげ」でよいと思います。
  それにしても、なんだか随分「教景」にこだわりがあるようですね。 息子にも名乗らせているし。
  その理由は… あ、またマニアックな話になってきた、すまんw)



 ちなみに、「元服」(げんぷく)とは、かつての「男子が成人したことを示す儀式」で、
「加冠」「初冠」とも言い、
だいたい11歳〜16歳くらいの貴族武家の子弟が、理髪してを着け、成人の服装に改め、
そして幼名に改めます。
 武家の場合は冠の代わりに烏帽子(えぼし)を用いるのですが、
烏帽子を被せる(=加冠する)者を「烏帽子親」と言い、"主君" "一族の惣領" に当たる者が務めます。
つまり、"加冠役" とは、
元服する当人に対して、烏帽子と共に偏諱を授けて主従関係(または儀礼的親子関係)を結ぶ、
最も重要な役なのです。

 それから、「理髪」(りはつ)とは、成人の髪型に整える事であり、
元服においては、"理髪役" も当人と縁の深い者が務める重役です。
 室町中後期頃までは、成人した武士の基本的な髪型は、
頭上で髪を一つに高く結ぶ「髻」(もとどり)であって、
「月代」(さかやき)を剃るのは、戦でを被る時だけの "一時的な風通し対策" だったのですが、
常時戦闘状態の戦国期になると、月代がデフォとなり、
そして、戦がなくなった江戸時代では、なぜかその戦国の風習だけが残り、
元服した成人男子は、常時月代が基本となるのです。 謎な髪型の謎が解けたね!
 ま、"月代を剃る" と言う事は、まさに戦に挑まんとする武者の "勇敢の証" とも言える訳ですから、
泰平の江戸時代になっても(もしくは、泰平だからこそ)、戦国の武士の心だけは受け継がれた、
という意味だと思います。
 と言っても、戦国期ともなると戦が大規模化して、
大将である大名は、実際は基本 "陣中での指令" に徹していた訳で、
それに比べると、たまに大将自らとっ込んでいた『応仁の乱』って一体…
ってか、源氏の大将が先頭に立って、戦いながら日本列島大移動していた「室町幕府創生期」ってもっと一体…
おめーらどんだけヒャッハーなんだよ。
少しはビビったりちびったりしろよ、とか言いたくもなりますが、
まあでも、古来日本の武士が、恐れ躊躇いもせずに、ただ真っ直ぐに戦えたのは、
彼らの勇気の源が、誰より一番勇ましく、卑怯を好まぬ正義の味方 "八幡大菩薩" だったからに他ならない!!



「武士と神仏」

 もっとも、八幡様は元来天下万民から慕われていたのであり、
特段武士達との関係が深いのは、
「弓矢の守護神」「武家源氏の氏神」でもあったからですが、
 (ちなみに、よく国家の危機に神託を下してピンチを救う、鎮護国家ヒーロー的な神様でもあるw)
しかし、この国は八百万の神を根本とする国ですから、
他の神様も当然、当時の史料に頻出しますし、
特に、伊勢神宮に詣でる「参宮」は、一大イベントでした。
 まあ、現代的な感覚だと、
おいおい神様とか信じてんのかよプゲラwwとかいう唯物な意見もあるかも知れませんが、
しかしそもそも日本の神様ってのは、
元をたどりにたどって太古まで遡れば、その始まりは先祖
つまり、かつてこの国に存在した日本人(※)ですから、非現実どころかもろ現実ですし、
  (※…ただし、それが現代人と同じ "人間" だったのか、それとも、
   現代においては "神" とされる様な存在だったのかは…知りませんw
   量子論的に考えても…分かりませんっ)
それに恐らく神様の本質ってのは、いるとかいないとか、信じるとか信じないとかいう問題ではないのです。
 神仏を大事にする武士達は総じて、戦に強く、心が正しく、そして智慧を持っていました。
すなわち彼らは、神仏を敬う事で、身の行いを正し精神を鍛えていたのであり、
大内家御留守衆の例に見たように、
神に誓い祈る時彼らは、"偽りのない心" と、"折れる事のない信念" を手に入れていたのです。


 (神仏への敬意は、迷信の妄信とは違います。
  毎日誦経しちゃう朝倉孝景はその『家訓』で、
    「戦では吉凶の占いとか信じるなよ! 吉日だとか言って大風の日に船出すとかアホだから!
     ちゃんと虚構現実を区別しろ!」
  と言っているし(平時における占いは兎も角、"合戦での占いの妄信" はダメってこと)、
  その分国統治の心構えは極めて理性的です。
  知的な制度で東国を治めた小田原北条家の祖、伊勢新九郎盛時(北条早雲)も、
  その『二十一箇条』の第一に、
    「神仏を敬うことー!」
  と掲げています。
  この他にも、神仏への敬虔な心を持ちながら、理性的な統治を志していた者は、
  足利直義足利義教、九州を平定した今川了俊(※)…と、もれなく「王道」志向であり、
  そして、夢見がちなほどの理想を抱きながら、現実を直視し立ち向かう勇敢さを合わせ持っています。
   (逆に「神様なんていねぇwww」ってタイプのがむしろ、理性より本能と感情が勝ってたりする…。)
   (※…今川了俊が弟に宛てた23箇条+α の訓戒『今川了俊制詞』は、
    教養を求める全ての人の必読文、お勧めです。)

  つまり、中世日本の武士の信心とは、非現実的な盲信なのではなく、
  智慧理性を高め、ともすると傲慢になりがちな人間の本能を制御し、
  矮小な覇者に成り下がらない為の手段でもあったのです。
  「彼らが神仏に対して姿勢を正す時、神仏は彼らの道を正してくれる」、それが神仏武士の関係です。)



 ま、そもそも、日本の神様がなんか宗教とは違うのは、
経典も無ければ戒律も無い上に、日本中そこかしこに溢れているからな訳ですがw
 天も地も、山も森も、草木も水も、すべてに神が宿るとされていて、
まあ、はたから見たら「え、何それふざけてるの!?」とか思われかねない神様状態ですが、
森羅万象あらゆるものに「感謝」「畏敬」を抱くという感覚は、
信じる為の宗教ではなく、自然発生した精神文化と言った方がしっくり来ます。
 祖先への敬意と自然への畏怖の "融合" を原点とする日本の伝統的信仰は、
日々をより良く生きる為、先人が長い時間をかけて育んできた知恵なのです。

 そしてまた、この国では長らく、もどちらも等しく敬われて来ました。
初詣には神社にも寺院にも行くし、七福神とか、あれも神仏ごっちゃですが、
これは、少し前まで「神仏習合の精神」が脈々と受け継がれていたという歴史の名残です。
その歴史の長さは、それが日本人の心に最も馴染む神仏の在り方だったことを示しています。
 例えば、伊勢の神宮は、神仏習合の時代においても、古来の純粋な神道の形を保っていましたが、
それでも、仏教僧侶に対して排他的だった訳ではありませんでした。(※参照…『夢中問答集』)
 いや〜神様は御心が広い!!w
信心を強要するような押し付けがましさが無く、唯一求められる事と言えば「清浄であること」
神社の境内や、家の中や街の中だけでなく、
も、も、いつでも清らかである事。 特に、決して心を汚さない事
これが日本の神様観、つまり「神道」です。
単純明快、極限まで無駄を省いた実にシンプルな道でありながら、
たったそれだけで、すべてを語り、すべてを正し、あらゆるものを生み出すさまは、
静寂な森の奥深く、永遠に湧き続ける清らかな泉のようであります。
 (ってか、日本人の無類の風呂好きは、この辺から来ているに違いないw)


 という訳で、普段あまりに身近に在り過ぎて意識していなかった神様たちを、
この機会にちょっと再考してみると面白いと思います。
神社に祭られている神様も地域によって様々、それこそ八百万ですが、
実は、八幡様(※祭神としては応神天皇または誉田別命)を祭った八幡神社八幡宮)は、
全国で稲荷神社に並んで多いのです。
八幡宮の総本社は「宇佐神宮」(大分県宇佐市)であり、
次いで「石清水八幡宮」(京都)や「鶴岡八幡宮」(鎌倉)が有名どころで、中世の史料にも頻出しますが、
近所の小さな神社が八幡神社だった!という発見も多いことでしょう。
まあつまり、それだけ長い歴史を刻んで来た、と言う事です。

 (…ところで、そんな長い歴史を "共に" 綴って来たが、なぜ最近になって別れることになったのか?
  という疑問を持った方がいましたら―――すまん、各自検索してくれw
  小心者なのでデリケートな話題は極力避けます。 「チキン、危うきに近寄れず」です。
  まあ個人的には、
  少しでいいから "かつての自然な感覚" を取り戻せたらいいなぁ…とは密かに思ってます。)


 さて、なんか諱の話から斜めってしまいましたが、
実は、中世の歴史の中にはこのように、「日本の本質を知るヒント」がめっちゃたくさん埋もれているのです。
室町時代というのは、文化的にも精神的にも、

  「それ以前の神代から平安鎌倉時代までの "総決算" であると同時に、
   それ以降、現在に至るまでの "日本の原点" である」

と個人的には思っています。
 は相容れないものではないし、
禅宗の影響を受けた文化が日常生活にまで浸透し、時代を超えて愛されるのは、
極めてシンプルで、伝えるに心で以てする「禅」には、
何か、「神道」と "共通するもの" があったからなのではないかと感じます。
 そして、それらが室町の人々の精神を形作っていたのであれば、
それを理解する事は、武士の心『応仁の乱』の本質を正しく解き明かす事にも繋がるのです。
 "過去" の史料の中に探してもいいし、
"今" に伝わる文化慣習の中に見出す事も出来ます。
出来れば "両方" 探索して、「過去の彼ら」「現在」が繋がっている事を実感してみて下さい。


…いや、奴等ほどぶっ壊れてもないし猛獣でもねぇよ、現代人は。
と思ったそこの君!
だから、彼らも言うほどヒャッハーじゃなかったんだってば!
結構知的紳士なんだってば!
ただちょっと…ノリが良過ぎるだけなんだ、うん。
それでその、なんか修羅っぽいことになってしまっただけで、
本当はぬくもロックほのぼの世界なのだ、ムロミーワールドは!!
たぶん。


という訳で、室町「真っぷたつ全盛期」は、
次回、「12 室町幕府の『応仁の乱』ー side by side ー 中編」に続きます、よろしく。

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