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 小見出し
「南帝のこと」
「西軍ども、揉める」
「やつら何気にPKO」
「応仁無双!撫子を愛でる」
「後花園法皇のこと」
「主上と源氏将軍」
「その君臣の永遠」


12 室町幕府の『応仁の乱』― side by side ― 中編


 さて、幕府真っ二つ全盛期
文明元年(1469)〜文明3年(1471)の3年間の後半
文明2年(1470)の途中からスタートです。

 西幕府を運営中の西軍諸侯が、
義政の弟義視を "公方様" と称していたのは、
決して、
独自公方を推戴して東幕府の義政をぶっ潰してやろう(しめしめ」
などと企んでいたからではなく、
あくまで彼らは、次期将軍であるべき義視への、
義政からの "ほのぼの政権移譲" を待ち望んでいたからです。
 しかし、どうにも計画は予定通りに進まず、
ついついその手段が修羅過ぎてしまう日々 & そろそろちょっと行き詰って来た…
うーん、どうしよう。
東幕府に義視の正当性を認めさせるには…ってか、細川勝元ぎゃふんと言わせるには…
あ、あれしかないか? あの禁断の…
し、しかしそれはやはり…



「南帝のこと」

 という訳で、西軍が呼び起こしてしまう南風は、そう、南朝です。
「幕府内で対立が起きた時、一方が南朝勢力と呼応する」というのは、
これまでも何度と無く繰り返されてきた事ですが、
今回の計画は、南朝の後胤・小倉宮の子息を、新主(新たな天皇)として迎え入れようと言うものでした。
 最初の動きは文明元年(1469)10月、
西軍の計略で、南朝勢力上洛計画が進められているという知らせを、尋尊が日記に書き留ています。
 南朝の後胤およびその遺臣は、吉野熊野を中心に紀伊国河内国に密かに勢力を保っていて、
今回の蜂起には、在地では主に和泉国人大和国人が馳せ参じ、
文明2年(1470)3月頃からその活動は活発化して、
7月には、南帝小倉宮息大和国の壷坂寺に御座したのでした。
 (※この一連の事件については…『大日本史料』文明2年3月8日、5月11日、文明3年8月26日)

……。
ぬええーーーっっ!!?
いくら、にっちもさっちもねぇ膠着状態だからって、新主擁立は禁じ手だろよ!
ああもう見てらんない!!
…というドキドキでそわそわの西軍ファンの皆さん!
大丈夫だ、結論を先に言ってしまうと、
この計略は天下に嵐を巻き起こすことなく、いつの間にか吹き止んで、静かな結末を迎る事になります。

 最終的には、約1年後の文明3年(1471)8月、南帝小倉宮息上洛を果たし、ひとまず洛中の寺院に御座、
その後、元の内裏(西軍与同の公家が管理中)に遷御する予定だったようですが、
どうやらそれは果たされなかったらしく、
以後、南朝に関する風聞は途絶えてしまうのです。
 帝の並立なんて、将軍家の分裂どころじゃない天下の一大事のはずなのに、
しかも、上洛まで実現した割りに、さほど世が激震した様子もなく、
その動向を記したのはほぼ、大和国の情勢に詳しい『大乗院寺社雑事記』だけ、
という、やや不可解な一件でした。
 それはつまり、もう既に南朝勢力には、
京都の今上天皇に対抗し得る程の正当性を、世に認めさせる力が残っていなかった、という事でもありますが、
実は、西軍内でも意見が一致していなかったのです。
 (※今上天皇(きんじょうてんのう)…当代の天皇のこと。 今上陛下今上とも言う。)


 そもそも、南朝の勢力範囲は、畠山義就の分国ともろ被りますから、
「え、ちょ、俺の領国シャレんなんねぇwww」と言う事で、この計画には畠山義就が一番反対していました。
当初は、他の西軍諸大名は賛成で、
一人拗ねる畠山義就義視の説得により渋々納得した、とも伝えられていますが、
しかし、南帝小倉宮息上洛する頃には、
西軍ラスボス持是院妙椿(美濃で留守番中)が異を唱え、さらに義視も反対していたのです。
 やっぱり西軍は、なんだかんだ言って良識を捨て切っていないな、とほっとしたくなるところですが、
もしかしたら、当時18歳で「御器用」(=才能・能力がある事)と伝えられた小倉宮息本人も、
武力で迫ってまで新主の座に就きたいとは望んでいなかったんじゃないかなと、何となく思います。 
 実は、南朝方でこの「南帝擁立計画」に積極的だったのは日尊という皇胤(こういん。天皇の子孫)で、
彼は南帝を取り立てると共に、自身は将軍になろうと目論み、方々に密書を送っていていたのです。
 (ってか、それはつまり、東軍どころか西軍とも対立する天下転覆コース…)
という訳で、紀伊大和には「南方残党蜂起注意!」の院宣が出されていて、
その結果、彼は計画半ばの文明2年12月に討ち取られてしまいます。(『大日本史料』文明2年12月6日)
幕府に注進(事変や事件を急ぎ報告する事)したのは畠山政長なので、
恐らく河内国紀伊国、もしくは大和国での出来事だったと思われますが、
それ以降、計画は勢いを失っていったのでしょう。 つまり―――
最も計画に積極的だった日尊亡き後、「御器用」であった小倉宮息は…
 「皇統の分裂を良しとしなかった(=自身の地位や権力よりも天下の安寧を選んだ)」
これが、計画が密やかにフェードアウトして行った最大の理由なのではないかと思います。


 それから、この小倉宮息のその後の消息ですが、
大乱終結の2年後に、「越後から越前に入り、所領を得たらしい」という情報があったのが最後のようです。
 (『大日本史料』文明11年7月19日)
こうして、『応仁の乱』における南朝復活計画は静かに幕を閉じた訳ですが、
今回の南朝活動再開で特筆すべきは、
南朝勢力の活動自体が、"その後の歴史" に登場することがなくなると言う事です。
 鎌倉時代に始まり、天下の難事であり続けた反面、
歴史の転換の原動力ともなった持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の対立が、
『応仁の乱』を境に、本当の意味で終わりを告げる事になったのです。
しかもそれは、これまでの200年の歴史と比べると、穏やかと言ってもいい程の、ひっそりとした結末でした。

 何度も言うようですが、この両統の問題は非常に複雑です。
単純に敗者でもなければ、勝者良い思いだけした訳でもないし、
そもそも、勝者・敗者という見方であってはならないと思います。
 確かに、室町時代以降、
京都において天皇の一系を受け継いで行くことになるのは持明院統(北朝)ですが、
それが意味するのは、我が春に舞う桜ではなく、雪に耐える松が如く天下の重責を背負い続けるという天命です。
 そして、「鎌倉幕府の終焉」から「室町幕府の誕生」へと歴史が動いた時代の背景には、
この両統の問題が根底に流れていた(もっと言えば、討幕の発端でもあった)のであり、
それ故、南北朝という時代は、
大覚寺統(南朝)の立場だけから語るとか、
あるいは「朝廷と武家の対立」という局所的な視点から見るのではなく、「天下」と言う大局から観じて初めて、
持明院統(北朝)の天皇のたどった運命も、大覚寺統(南朝)の天皇の果たした役割も、
正しく評価し得ると思います。
とか、正義過ちなのではなく、ただいずれ、天下の為には一つにならなければならなかったという、
宿命を約束された200年だったのです。

 この両統の問題は、その後も(現在に至るまで)複雑な歴史を綴る事になりましたが、
もう一度、正しい目で見直す事が許される時代が来たと思います。
どちらかを否定したり、一方を絶対視するような "結論ありき" ではなく、
限りなく心を素直にして真実を求める時、何ものがそれを許さないと言うのでしょうか。
歴史も、"真"(まこと)である事を至高とするのが、人の世の道理です。




 まあ、だんだん話が逸れてきたのでこの辺にしたいと思いますが、
いやしかし、大ごとにならんで良かったあよホント。
ったく、この西軍のアホどもめっ!ww  まあ焦る気持ちは分からんでもないが、
南北朝問題は、約80年前の3代目義満の時に、一応形の上では解決した事になっていたとは言え、
それで全てが収まるはずはなく、
分かれた流れを一つにする為に、6代目義教がどんだけ苦労したと思ってるんだよ! もう!

 この時代は、跡継ぎでない皇族の子弟寺院に入るのが慣習ですが、
義教は、南朝の皇胤を自身の猶子(ゆうし。養子)として寺に入れて金銭的な面倒も見て…と、
かなりの誠意を尽くしていたのです。
 (つまり、「南朝排除すべし!」とか言って、追放したり追討したりしたのではなく、
  可能な限り南朝方に配慮した善政だったのであり、
  また、吉野対立姿勢をとっていた南朝勢力だけでなく、京都で穏和に暮らしていた南朝皇胤もいた、
  と言う事です。)
天下の安泰を思えば、これが最善の道だったとは思いますが、
まあでもこの方針は、義教一人の独断だったのでは無いでしょう。
…なぜなら義教は、朝廷関連の事となると、主上の期待に応えるべく、
ひたすら先例を学んで、識者に意見を聞きまくり、自身の信ずる道義に照らし合わせ、
その上さらに諮問を繰り返して、それでも納得いかなければ神前(くじ)を引き…
と、しつこいくらい気を遣う律儀な奴なのですw
 (※参照…【石原比伊呂『足利義教の初政』(『日本歴史』第742号 2008年9月)】
  あと、『満載准后日記』の "後小松上皇の諒闇" とか "葬儀への供奉" とか、
  勅撰和歌集『新続古今和歌集』の撰歌を始めるに当たってとか、もう色々!)

 (ちなみに、『看聞日記』永享6年8月20日には、
  南朝の今後について「南方御一流…断絶さるべし云々」という表現がなされていますが、
  この記述をもって「北朝と幕府による南朝後胤の寺への入室は、残忍な血統断絶政策だ」
  と解釈するのは正しくありません。 (もしくは、ひどい印象操作w)
  もしそれが迫害を意図した政策なら、
  義教が自身の猶子にした上に経済的援助をするというのは、余りに矛盾しているし、
  そもそも、当時は朝家将軍家も世継ぎ以外の子弟は入寺させていたのであり、
  それは "慣習" であって収監ではありません。
  自分達の子弟には俗世の春を謳歌させて、子孫も自由に作らせて…というのだったら、
  非難したくなるのも分かりますが、
  この時代の朝家将軍家と言うものは、天下の為の存在であるが故に、
  人々が当たり前に得られる自由を制限されていたのです。
  しかし彼らは、それを当然の事として受け入れていました。
  その覚悟は、非難どころか、敬意を示すに値すると思います。
  そしてもう一つ、
  義教の執奏・後花園天皇の勅命によって編まれた "最後の" 勅撰和歌集『新続古今和歌集』に、
  南朝の天皇親王の歌が収められているという事実にも、彼らの誠意を垣間見ることが出来ます。
  一つにならなければいけない、でも出来る限り悲しみは最小限に…というのが、
  当時の人々の切実な思いだったのです。)


 そんな訳で、義満時代を経て、義教の時代には緩やかに解決して行くかに見えた南朝問題でしたが、
しかし、『嘉吉の変』で義教が暗殺されてからは、
義教の猶子だった南朝皇胤が寺から相次いで出奔したり、『禁闕の変』という前代未聞の惨劇が起きたりと、
まあ、嘆いて余りある状況になって行ってしまったのです。
 それを考慮すると、『応仁の乱』の南帝擁立は、結果としては逆に終幕をもたらしたので、
終わり良ければ…とも言えますが、
ああでもしかし、また天下分裂再来の危機とか、びびっちゃったじゃないかもう!



「西軍ども、揉める」

 ところで、この強引な計画は、朝廷というよりむしろ西軍を引き裂きかねない問題に発展していたようで、
この6月頃、西軍内での不和が、尋尊の耳に届いています。(『大日本史料』文明2年6月13日)
 まあ、「西幕府」という状態自体、かなり強引な話だったりするのは本人達も分かっていたようで、
山名宗全土岐成頼一色義直、そして大内政弘までもが、
  「東幕府降参か!?」
というスクープが、『大乗院寺社雑事記』にスッパ抜かれています。(ただし、この時は未遂に終わる。)
 大内政弘については、東軍の「大内家分断作戦」のせいでピンチ真っ盛りだった為でしょうが、
なんか細川勝元が(大内の降参だけはダメと)反対したらしいw
勝元おめー、人んち分断させようなんて企んでっと、またブーメラン食らうぞ?
 (…おっと、30年後のシャレにならん実話はそこまでだ。)


 それから、「南帝擁立計画」でピンチ気味だった畠山義就ですが、
義視との間で "ひと悶着" があったようです。 なんでも…

  義視「おめー上意に従えねぇなら、切腹しろってんだゴルァァァーーー!!」
  義就「ああ? 俺を勘当するってんなら、討って差し上げるまでだぜ、公方様!!」
  …尋尊「どっちも、言ってる事メチャメチャやがな…(´・ω・`)」

だそうです。
ええーー!? 義視義就が決裂?? …と、ドキドキしてしまった西軍ファンの皆さん、
大丈夫だ、心配ない。
この後、2人の関係が悪化した話は聞かないどころか、むしろその逆の結果がもたらされたようです。

 翌年文明3年(1471)2月の事ですが、
5日と、さらに28日にも、義視義就の陣所へ「御成」をした事が『大乗院寺社雑事記』に記されています。
尋尊は、「近日、奈良出陣への作戦会議か?」と推測していますが、
しかし、それだったら義就義視の御所(=斯波義廉邸)へ赴くはずで、
公方の「御成」となると、もっと別の理由がありそうですが…
実はこの頃、義就(※)に伏していて、被官の遊佐が東寺平癒の祈祷を願い出ていたほどなのです。
 (※…熱病(高熱を発する病)だったらしい。)
 (以上、『大日本史料』文明3年2月5日)

 公方の "お見舞い御成" と言えば、義教の訪問を受けた満済畠山満慶が感涙だった、と言う話がありましたが、
同月に2度も渡御したとなると…相当心配だったのでしょうw
上の義就の発言も、取り方によっては「義視のもとを去るつもりは無い!」という宣言とも解釈できる訳で、
なんか無駄に熱い義視のことだから、
  「そ、それは、(勘当するなら)お前を殺して俺も死ぬってことか?」(じーーん)
とかなっていたに違いない。
 (義就「…いや、そこまでは言ってませんけど。 もしもし?」)


 まあつまり、「殴り合って絆深めちゃいました」的な、"お約束の主従コント" だった訳です。 たぶんw
って、何そのベタな展開! 君たちホントふざけてるの!?
ま、でも義就は、いつでも「オレがオレ様だっ!!」みたいなジャイアン主義かと思いきや、
結構(いや実はかなり)主従礼節を弁えていて、
そこらの不埒なだけのヒャッハーとは違うのが好きなところです。
…って言っても、『応仁の乱』終結後は、ますます「オレ様道」を突き進む事になるんだけどねっ!


義視と義就


 さてそんな訳で、「降参祭り」で盛り上がっていた西軍でありますが、
『大乗院寺社雑事記』によると、大名だけでなく、被官人も毎日5人10人と没落していく中、
結局、義視畠山義就大内政弘の3人だけは、

  「ここまでくればもう地獄の果てまで運命共同体だぜヒャッホオォォォーーー!!」
                               (※原文は「所詮無一途は…両三人」)
と、腹をくくっていたそうです。
そういう訳だ、この先西軍はどんどん変態を…いや、変容を極めていくが、
この3人は最後までガチだから、安心して応援していいぞ! ってか、応援してあげてww よろしく!



「やつら何気にPKO」

 ところで、『大乗院寺社雑事記』の筆者尋尊は、
基本的に、武家のしでかす事には非常に手厳しい批判コメントを(日記で)繰り広げているのですが、
 (あと、に汚い奴と卑怯な奴にも容赦ないw)
この頃の畠山義就大内政弘についても、

 「京都市中東山西山も、悉く発向して焼き払ったのは全部この2人のせい!!
  ああもう前代未聞の悪行!! (西軍の不和は)当然の天罰だ! この!この!こんにゃろっ!
  ああこれで、公方様(義政)も御運を開かれるか、やったね!
  …でも、
  近来の(義政の)御成敗ダメさ加減からすると…やっぱり先行き超絶不安
  特に、近臣にとんでもねぇ不道の輩がのさばってて、マジ終わってる。 あれじゃダメだろもう。
  思えば今度の大乱は、仏法王法公家も全ての滅亡の始まり、元の姿に戻る事はないだろう。
  (この世の終わりの)時刻到来か、はぁ… (…以下、延々と嘆く)
  ったく、近来の大名国人も自分勝手に押領三昧、公儀を軽んじて私欲に走ってもうメチャクチャ!
  天罰食らえってんだ! もう!もう! (…以下、延々と愚痴る)」
                              (『大乗院寺社雑事記』文明2年6月18日)
ああ、うん。
気持ち分かるよ。 でも、京都の焼亡が全部2人のせいってのは、ちょっと言い過ぎかなw
実際、ヒャッハーな振る舞いは西軍東軍も変わりないですし、
官軍とは言え、東軍絶対的な正義ではないことは尋尊も分かっていますしね。(※これについては後述↓)
 それにこの2人は、東幕府による「西軍=凶賊」のレッテルのおかげで実態以上に極悪視されていますが、
実は、中身は割とまともなんです。


 この頃、畠山義就は京都の祇園社(現在の八坂神社)に禁制(きんぜい)を掲げていますが、
 (※禁制禁止事項を公示した文書。 おいおめーら、祇園社悪さしちゃダメだぞ!というお触れ。)
その概略は、

  禁制 一、(祇園社の)黄金の像を盗んだり、打ち砕いたり、売買するんじゃねーぞ!
     一、  勧進聖に付きまとって、仕事の邪魔するんじゃねーぞ!
     一、(祇園社に)軍勢とか足軽とかとっ込ませて、乱暴狼藉に及ぶんじゃねーぞ!

     いいか、ぜってー守れよ? 違反者ははっ倒すから、OK?     義就

お、おお! 義就超いいやつじゃん!
と感動したいところですが、まあでも、やつは2年前から勝手に、
  「よう! 俺今日から山城守護だからwww 以後よろしくwwww」
                     (『山科家礼記』応仁2年5月13日)
と、山城国山科の地下人に対して宣言していた、めっちゃ「俺がルール」野郎なので、
この禁制も、「山城国の治安は、守護のオレ様が守らねぇとな!」とかいう、
勝手な "ありがた迷惑行為" の可能性がありますが、
ま、なんか張り切ってるし、いっかw
 (※通常、守護将軍が任命するものです。 この時の本当の山城守護は、東軍の山名是豊です。)

 ところで、なぜこの時禁制が出されたのかと言うと、
祇園社御神体は、黄金で出来た牛頭天王(ごずてんのう)の形の「希有の本尊」だったのですが、
事も有ろうに、社人がそれを打ち砕いて売っ払ってしまったのです。
しかしこの犯行はバレバレで、とっ捕まった犯人の社人は淀川に流されたのですが、
それは西軍の成敗だったのです。
 尋尊も「神妙」(=感心、殊勝)と褒めている様に、
カオスな乱中とは言え、東幕府 "ダメダメ成敗の公方" "邪悪な近臣" のせいで機能不全に陥る中、
西幕府自主的PKO活動を行っていたのだ!
…という、西軍のぬくもロックなお話でした。
 (以上、『大日本史料』文明2年6月是月)

 (ちなみに祇園社は、『応仁の乱』が始まる直前文正元年12月(つまり『上御霊社の戦い』の前月)に、
  嗷訴で立て篭もった山門僧徒の失火で悉く焼失してしまっています。
  それで他所へ避難していた御神体が狙われてしまったのです。
   (※上記の禁制の "勧進聖"(かんじんひじり)とは、
    寺社の復興や修造の為、諸国を渡り歩いて寄付を募る僧のこと。)
  祇園社焼失後、有り得ない騒乱が立て続いたので、世人し合ったとか。…『経覚私要鈔』応仁元年6月5日 )



 さらにもう一つ、
京都駅のすぐ南東にある東福寺、現在紅葉で有名な素晴らしい禅院ですが、
この東福寺、実は…
『応仁の乱』の戦火を奇跡的に免れているのです! おお、なんたる幸運!!
 まあ、とは言っても、応仁2年(1468)8月半ばに、
義視上洛直前の一連の「東西両軍ファイト」の一環で、
畠山義就の配下が篭る法性寺を狙って、この辺にも東軍の軍勢が押寄せて合戦となり、
付近の光明峰寺泉涌寺(せんにゅうじ)が焼失し、
東福寺には「西賊」が乱入して寺の宝物を略奪し、剰(あまつさ)え池の魚まで捕まえてったという、
惨たらしいヒャッハー被害には遭遇してしまっているのですが。
 (ってか、てめーらは西のどこ軍の奴等だよ! まあこの卑怯な所業は、正規軍と言うより足軽なのだろうけど、
  池の魚かっさらうとか、せこ過ぎんだろ!)

 さて、伽藍(がらん。寺院の建築物)の破却焼亡は免れたものの、不安に怯える日々が続く中、
3か月後の閏10月半ばに、東福寺大内政弘がやって来ました。 (『大日本史料』応仁2年8月13日)
??
何しにやって来たのかと言うと、これは後になってから分かるのですが、
乱が終結して10年近くが経とうという頃、
東福寺の住持(=住職)の桂悟了庵が、周防国に在国する大内政弘のもとを訪ねます。
遙々京都から下向したその目的は、
周防国の東福寺領の事についてと、もう一つ、『応仁の乱』中恩に謝す事でした。
実は、あのヒャッハー被害以降、この大乱を無傷で乗り越えられたのは、
大内政弘の庇護があったからだったのです。 (『大日本史料』文明18年6月8日)

って、何その超いい話!! 心ぬくもり過ぎちゃうだろ!!
なんたるPKO-uchi(ピーケーオーうち)でしょうか。
相変わらずかっこつけ…じゃなかった、義侠心全開で楽しませてくれますね、大内さんは。
現在の東福寺は、一部後世の火災で焼失してしまった部分もあるようですが、
こんな話を知っていると、ますます京都探検が感慨深くなって来るね!
みんな、東福寺に拝観に行ったら、大内さん感謝しよう! 




 そんな訳で、ちょっと西軍正義漢振りを知ってもらえたと思います。
彼らは決して、世の中を壊そうとして身勝手なテロ行為を繰り広げていたのでは無いのです。
もちろん、だからと言って「西軍が正義」で「東軍が悪」と言うつもりはありませんし、
西軍にしろ東軍にしろやり過ぎ感は否めませんが、
まあ確かな事は、幕府中枢の腐敗はどうしようもないレベルだったって事。
特に、義政近臣による義視への仕打ちは理不尽過ぎて、
西軍の大内政弘畠山義就が徹底抗戦を決め込んだのには、やはり理解を示したくなります。
 もし、義政が約束通り義視に "家督" と "将軍職" を譲って、
邪悪な近臣が中枢を去り、道理に基づく政道が行われる見通しがついたとしたら、
大乱はもっと早く終焉を迎えていたことでしょう。
 (それを主導できるのは、やはり現将軍である義政の上意だけだったのですが、
  しかし義政は、近臣細川勝元の言われるがままとか、両畠山の問題も義就政長に丸投げしようとするとか、
  とにかく自ら考えようとしない公方だったので、事態の改善は望むべくも無かったのです。
  元来は義政を慕っていた大名達は、"正しい" 上意ならいつでも従う準備は出来ていただろうに…
  と思うと、待たされ続けた彼らがちょっと可哀相になってくるw)



「応仁無双!撫子を愛でる」

 さて、必ずしも「東軍=正義」「西軍=絶対悪」では無いというのは、
別に私の願望や妄想ではなく、当時の世人にとっても同じでした。
 7月、興福寺に幕府から奉行人奉書にて、以下の命令が下されます。

 「没落した西軍どもが、山城大和に乱入するって情報がある!
  事実なら寺社滅亡のもと、悪逆極まりないことだ!
  山城にはもう通達済みだ。
  然らば、大和衆徒国民を総動員して奴等の乱入を阻止する事!!
  従わねぇ奴は…分かってるんだろうな?」

まあ、東幕府としては、西軍の悪逆性を喧伝して世論を煽り、西軍を追い詰めていく作戦なのでしょうが、
それが、東幕府一方的な都合でしかない事は、実はみんな分かっていて、
特に、興福寺の傘下の衆徒国民には、東軍の畠山政長方の者も、西軍の畠山義就方の者もいて、
どちらも普通に出入りしていましたから、
西軍与同者が極悪人ではない事はバレバレだったのです。
 この奉書の命令についても、
西軍方の大和国人の越智家栄が、「西方は出入りするななんて…興福寺は東西関係なく中立のはず!」と訴え、
尋尊も「全くだ、この幕命は無益だよ。在地の現状を無視してる」と、納得できなかったようです。
興福寺の意見としては、
 「幕府からの奉書だから、一応みんなに触れ回るけど(そして形の上では了承しなくちゃならんけど)、
  心中では、東西どちら側にも引汲しているのは大和国だけじゃない、どこの分国もみんなそう、
  うちらにとって、東軍西軍も変わりない、一方に肩入れは出来ないよ」
うん、至極もっともです。
在地の所領の関係で、東西関係なく武士たちと付き合いがあるのに(これは、寺社だけでなく公家も同様)、
この東幕府の命令は一方的過ぎます。
しかし、"君臣の道" 「礼節」を尊重すれば、上意に裏付けられた幕命は無下に扱う事は出来ず、
でも常識的に考えてこんなのおかしい!…と、本音では当時の人々も考えていたのです。
 まあ、尋尊は、東西軍の戦闘行為身勝手な "振る舞い" には非常に批判的ですが、
大名達 "本人" に憎悪を抱いていたのではないようです。
 (以上、『大日本史料』文明2年7月2日の『大乗院寺社雑事記』の記述)



 とは言え、東幕府がこんな強引な奉書を下したのももっともで、
山城国での西軍の活動は、それほどノリノリだったのです。
 山城国は、北部に京都市街があって、宇治より南(〜奈良との県境まで)が「南山城」と呼ばれる地域ですが、
この頃、京都以南から南山城を中心に圧勝しまくっていたのは―――大内軍
PKO-uchiと言えども、東軍が拠点とする城や寺院には容赦ない。
東軍の陣所だった勧修寺は、武田軍 対 大内軍の戦場となって焼け落ち、
醍醐寺も足軽の放火によって焼失してしまいます。
 そして、大内政弘自身が八幡まで下向し、山城国中のあちこちを「雲霞の如し」西軍の軍勢が埋め尽くす中、
東軍方山城国人16人が没落し(うち細川被官12人は西軍に投降)、
山城国は、「悉く西方となるだろう」(『大乗院寺社雑事記』)、「悉く大内に帰参」(『経覚私要鈔』)
と言われるほどで、対する東軍
 「かごの中の鳥の如し」(もうどうにもならん)(『大乗院寺社雑事記』)
という状況になってしまいました。


 大内軍…なんたる応仁無双ww ってかチート過ぎんだろ! どんなカラクリだよ!…とか思うでしょうが、
どうやら、武力に任せた非道な殲滅作戦では無かったのがポイントのようです。

 『応仁別記』によると、
   「大内大和をもをも掌の内に握るほどの名将なれば、
    山城の狛野の民草撫子(なでしこ)の如く愛しければ、徳風になびかぬ者もなかりけり」

つまり、大内政弘は、日本はもとより(貿易による)外国との関係をも思いのままにしまうほどの名将であって、
南山城の民草撫子のように愛でたので、その徳の高さにみんなコロっとなびいてしまった、
ということです。
 (※民草(たみくさ)とは、民を "すくすく育つ草" に例えた言葉。
  『古事記』の青人草(あおひとくさ)という言葉も同様で、昔からある、なんかちょっと可愛い言葉です。)
って、何それ!!
武力で恐怖の下に民衆を従えたのではなく、
民草をうっかり撫子と間違えてナデナデ可愛がってしまう大内政弘25歳(満23歳)!!www
こんな大名、居ていいのでしょうか。
 まあ、実際はかなり派手にやらかしてる感もあるので、鵜呑みにするのも何ですが、
『応仁別記』赤松家伝記的な軍記ですから、わざわざ捏造してまで西軍大内政弘を褒める必要もないし、
大筋は合っていると思いますw


 まーでも、そんな快進撃を続ける大内軍には、普通の人ならびびるのが当たり前であって、
この時も、「大内軍が大和国の奈良になだれ込んで来るーー!」という噂に、
興福寺をはじめ奈良中の郷民が、あたふたガクブル右往左往していたのですが、
興福寺から大内軍に対して、
  「すすすすみません、ななな奈良での狼藉行為は、おおおおお断りいたします」(ブブブブブルブル)
と申し出たところ、大将の弘中から、
  「うん、分かった!」
という返事があって、奈良危機を脱したのでした。
なんて物分りのいい猛獣軍なのだww

 (※以上、『大日本史料』文明2年7月19日、23日
  これはもちろん、「興福寺がお金を積んでどうにか見逃してもらった」という訳ではありません。
  せいぜいお礼に酒樽巻数(かんず)を持って行っただけだそうです。
   (※巻数…寺院から願主(依頼主)に対し、「YOUの為にお祈りしたよ!」という祈祷の報告書
    読経した "経典名" や "回数" などが記されたもので、
    公家・武家などから依頼されて祈祷する事もあれば、寺社からの進物として巻数を贈る事もある。)
  …つまり、
  PKmO(ピーケーモー)なんだよ!大内軍は!!(※PKmO=Peace Keeping 猛獣))



「後花園法皇のこと」

 さて、そんな訳でそろそろ文明2年(1470)の主な話題は終わりです。
ちなみに12月、周防国で最初の「西軍大内政弘親衛軍 vs 東軍大内教幸軍」の合戦がありましたが、
西軍側が勝利し、大内教幸は一旦、石見国の吉見信頼のところへ逃れました。(最終決戦は1年後)

 しかし実は、この文明2年は最後の最後に最も悲しい知らせが待っていまして、
12月27日の暁、中風の為、後花園法皇が俄かに崩御なされたのです。
 (※中風(=中気)は、現在は脳卒中の後遺症の事を指しますが、
  古くは風邪による発熱などの諸症状(恐らく、割と重めのもの)の事も含むようです。)

……。
って、えええーーー!?
法皇は御歳52歳、人生50年と言われる時代とは言え、80過ぎまで生きる者もざらにいたのです。
しかも、前日の夜に急に症状が現れて、本当に突然の出来事だったようです。
 日記『親長卿記』の筆者である公家の甘露寺親長(かんろじ ちかなが)は、
11歳の時から30年以上御傍に仕え、
良くかわいがって頂き、そのに対しをもって奉公し、そして今悲しみに途方に暮れる心中を書留ていますが、
うーむ…、これは私も悲しい。
『大乗院寺社雑事記』に、「陣中にあって日頃の御辛労が原因か? ああ嘆かわしい…」とあるように、
世上の事に相当心を痛められていたのは確かでしょう。
ちなみに、『経覚私要鈔』には、
 「崩御の3日前、三種の神器が安置されている寝殿が殊のほか鳴動した」
とあり、
経覚は「法皇の御事を知らせる為だったのだろう」と書留ていますが…
この突然の崩御を思うと、ちょっと信じたくなってしまう話ではあります。



 さて、後花園法皇御葬礼は、年が明けて文明3年(1471)正月3日に執り行われました。
ところで、天皇の葬送儀礼と言うものは、
古代においては、"天皇の" 葬礼として、あらゆる群臣が随従する盛大「国家的儀礼」だったのですが、
平安時代後半辺りからは、譲位した "上皇の" 葬礼として、
近習血縁者のみが参加する、「私的で密やかな儀式」へと変化していました。
 そしてこれが室町時代になると、
天皇将軍の関係が、形式的な主従関係を超えた親密なものになっていったことで、さらに変化が加わります。
いつ頃からかと言うと…これまた3代目義満の時なのですが、
後円融院の葬送に、将軍である義満供奉(ぐぶ)したのです。
  (※供奉…行幸や祭礼などの御供(おとも)をする事。 または、奉仕する事。
  ここでは、崩御された場所から葬儀場である寺院までの道のりを、徒歩で御供する事。)

 しかも当時義満は現任の左大臣でしたから、そのような高位高官の者が、
限られた近習や外戚(※)などによる内的な葬礼に供奉するのは、極めて異例な事でした。
 (※…これらの近習には、上流公家の摂関家などは基本的に含まれません。
  この儀式は、あくまで内々の性格を帯びたものであり、
  葬送の行列に付き従う公家は皆、
  袴の裾を上部で括り藁沓(わらぐつ)を履くという「下級武官の装束」をして、
  上皇の随身として徒歩で御供するのです。(当時、貴人の外出は牛車輿であり、普通、外を歩く事は無い。)
  また、かつては、高貴であればあるほど、
  その人の死による穢れは広範囲に及ぶ(最大で天下に及ぶ)とされていて、
  摂関家のような位の高い者が上皇の葬礼に供奉するとなると、
  それによる(公的な)穢れの問題も考慮しなければならなかった為でもあります。)


 この義満による後円融院の葬送への供奉は、
母方の従兄弟であるという血縁関係も理由の一つに考えられますが、
しかしそれは制度上(儀礼上)"供奉しなければならない" 理由ではないのです。
しかも、質素な "下級武官の装束" で、上皇の御車に "徒歩で" 付き従いお送りする訳ですから、
「天皇(上皇)を凌駕する権力を誇示する為!」などという、政治的な理由では有り得ない事も明白です。
 (逆に、室町殿天皇臣下であることを明確に示す事になる訳です。
  そもそも、上皇の葬礼には今上天皇は参列しませんから、
  義満が自分を天皇、又は天皇以上の立場だと思っていたなら、供奉するはずが無いのです。)


 ではなぜ、義満はこのような先例無き異例の供奉を、自らの意志で実行したのか?
それは―――
後円融院への、義満の「別段の御懇志」(※)という特別な思いを表す為でした。
 (※…『満済准后日記』永享5年10月25日
  これは、義教の時代の話で、40年前の葬礼についての公家の証言です。)
まあ、この供奉における、義満自身の御供(公家や武士)の多さからも分かる通り、
義満は "公家社会での室町殿の優位性" というものは、常に意識していたに違いは無いけれど、
天皇に対してはあくまで臣下という身分を弁えていて、
しかも "源氏の将軍" という意味でも、"祖先" である天皇に対して、
割と純粋に特別な親しみを抱いていたのです。
 義満は確かに、我が春を謳歌した権勢GO!GO!な公方だったので、
そんなに同情する必要もないけど(ひどい言い草、すまんw)、
天皇に対する誤解(皇位簒奪とか、天皇を越えようとしてたとか)だけは、大いに異議ありです。
 まあ、憧憬が過ぎて、近付き過ぎてしまったが故に誤解を受ける事になってしまったのでしょうが、
その誠意は蔑ろにすべきではないし、
憶測的な研究を元に非難をするのは、良くない事だと思います。
 (だいたい、義満はもっと他に、
  今川了俊とか『応永の乱』とか、突っ込む所たくさんあるじゃん! …って、すまんw)

…ってゆうか、そんな事言ったら、義教はどうなるんだよ? って話ですが、
義教の悪評については、真実を知れば知るほど別の意味で涙出て来ますね。
 (これは、いつしか貼られた「サイコパス義教」という意味不明なレッテルにより、
  「義教がやる事は全て悪だ、義教が良い事をするはずが無い!」と強く思い込まれてしまい、
  史実の義教の道理を最重視した言動や、政道への誠意慈悲善政が軒並みスルーされ、
  義教関連の歴史研究が多大な被害を被ってしまった何その悲しい話、という意味で。)


 6代目義教の時代の上皇の葬礼では、後小松法皇の葬礼への供奉が取り沙汰されたのですが、
当初、義教は、
 「(義満の)先例に倣い、かつ、後小松院への懇志のため」
供奉する事を決定していたのですが、
数日前から患っていた風邪で食欲不振体調不良が著しく、病気平癒の祈祷まで行われるほどで、
 「この冬の寒空の下、数時間の徒歩による供奉なんて無理無理絶対だめーー!」
と、医師から何度も止められてしまいます。
そうは言っても、「先例」「懇志」をどうしても軽視できない義教は、
時の関白の二条持基に諮問したところ、
 「先の(義満の)例は、別段の御懇志によるものであって、
  左大臣(の義教)は、(制度上)供奉なければならない訳ではありませんから、
  体調が優れないのであれば不参加はもっともな事ですよ」
との回答を受けます。
うむうむそうか、これで万事解決だね! …とはならなかったw

 形式的な意味での「先例」には、それ程こだわる必要が無いことは分かったが、
義満の先例の実質的な意味である「供奉=上皇への懇志」という問題、言い換えれば、
「不参加=懇志を示せない」と言う問題がどうしても気になってしょうがない律儀な義教は、
さらに満済に「思ってる事、ありのままに意見してくれ!」と相談します。
満済の答えは、
 「関白の仰る通りです。 医師が止めているにも拘らず、無理をして葬送に供奉し、
  お体にもしものことがあったらそれこそ大変です。
  供奉 "御懇志" を示す為のものだと言うのなら、今回は供奉を辞退したとしても、
  その代わりに天下万民の為に御身を全うされ後小松院の遺勅を滞りなく成敗したならば、
  それが十分 "御懇志" を示す事になりましょう。
  そして四十九日の間、出来るだけ御焼香に赴かれる事が肝要かと思います。」
という訳で、
ようやく義教は納得したのでした。
単に、盲目的に先例にこだわっていたのではなく、常に「何が正しいか」を考えて行動していた義教の思考回路と、
上皇への、臣下としての忠節を重んじるその誠意が、良く分かるエピソードだと思います。
…ってか、朝廷関連となると義教は本当に面白いくらいしつこいw そして涙が出るほど健気(けなげ)。
泣き笑いしたい人は、『満済准后日記』を読もう!
ちなみに実は『看聞日記』にも、伏見宮家への誠意あるエピソードがたんまり隠れていたりする。
 (※以上『満済准后日記』永享5年10月21−23日、25日)




 さて、では本題の後花園法皇の葬礼における、義政の行動を見てみたいと思います。
京都市内に限って言えば、「只今は太平の時の如し」(『大乗院寺社雑事記』文明2年10月14日)
ではあったものの、すぐ南の郊外では紛れもなくリアルタイムちゅどーんだった訳で、
そんな非日常での葬礼、しかも洛中では東軍西軍の陣所はごく至近距離に構えられていましたから、
公方義政の供奉には、当然細川勝元が、
 「この乱中に洛中徒歩で随行なんて…ダメダメムリムリ断固阻止!!」
と全力で止めに入りました。
まあ、義政になんかあったら今度こそ細川勝元はゲームオーバーですし、
義政自身の身を案じての発言だったとも思います。
という訳で義政はどうしたかと言うと――― 制止を振り切って "徒歩&藁沓" 供奉を決行したのでしたw
あ、あれ。
いつも判断丸投げ優柔公方義政が、珍しく意志を貫いている!(…実は義政は、こういう事がたまにある。)
まあ、室町時代の天皇将軍の親密な関係を思えば、特に後花園法皇義政年来の君臣ですから、
乱中だろうが何だろうが、葬儀に参列せずにはいられなかったのでしょう。
 (甘露寺親長も、この義政の判断に「尤も然るべき」と賛意を示しています。)
すまん義政、さっきは「なんも考えようとしない公方」とか言っちゃってw
絶えぬ悲しみの涙の舞い散る中(「悲涙難休、此間雪飛」『親長卿記』)、
『応仁別記』によると、義政は仏事の間も立ち続け、真摯に葬儀に臨んでいたそうです。
 (『大日本史料』文明3年正月3日)


 (ところで、この時代は、上皇の御火葬泉涌寺(せんにゅうじ)で行われるのが慣例となっていたのですが、
  東福寺のすぐ東に位置する泉涌寺は、上述のように戦火で焼失してしまっていて、
  後花園法皇の葬礼は、『室町殿』の程近く、北西の方角にある悲田院で行われました。
  道のりにしたら1.5km程ですが、それでも乱中の真冬
  松明(たいまつ)に照らされて厳かに進む行列を想像すれば、
  決して短い行程ではなかった事が分かると思います。
  ちなみに、泉涌寺までは相当な距離がありますから、途中、輿で移動する者もいたそうですが、
  義満の場合は、五条橋までは徒歩で随行したので、6割以上は歩いた事になります。
  それだけの距離を、上皇の御車に付き従って、藁沓で時の将軍が歩き続けたのです。
  その姿から伝わってくるのは、臣下としての精一杯の誠意敬愛であって、
  間違っても、天皇を超えようとした傲慢な覇者の陰謀などではない事が、分かってもらえると思います。)


さて、以上は、
  【久水俊和『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院)2011】
            …の、第二部 第五章「天皇家の葬送儀礼からみる室町殿」
を参照してください。とても示唆に富んだ論文です。
 (義教の供奉の解釈については多少異なりますが、『満済准后日記』や『建内記』『看聞日記』をよくよく読めば、
  義教の誠意が本物である事は、いずれ認められる日が来るだろうと思います。)



「主上と源氏将軍」

 この時代の天皇(正確には上皇)の葬礼は、国家的儀礼ではなく、私的内向的な儀式であったからこそ、
それに "義務" ではなく "自身の意志" で供奉する室町殿の、
天子に対する意識が良く分かると思います。
偽善ではなく、打算でもなく、ただ心から、いち侍として亡き先帝を悼む公方の姿に、
天下を知ろし召す主上と、政権を担う将軍との理想的な関係が、ありのままに映し出されているのです。
 歴史的に見た天皇武家(または中央政府)の関係では、
時に疎遠だったり、牽制的だったりする時代も少なからずあった訳ですが、
その中にあって、室町時代に到達した公武統一という形は、
現代の日本人からしても素直に共感出来る、この国の自然で純粋な形だと、私は思います。


 (まあ、この先、時代が末世の様相を深めていくに従って、
  この公武の理想郷も、"ありし日の幻" みたいな事になっていってしまうのですが…
   (両者は互いに "補い合う関係" でもあったので、
    幕府の衰退はそのまま朝廷の衰退に繋がってしまうのです。むむむ無念…。)
  しかし、一度は確かにたどり着いたこの公武の到達点、時期にしたら15世紀辺り(やや前後含む)ですが、
  これを当時の史料の言葉で表現するならば…

    「世をうけ保つ位」(※1)に備わるこの国の「元首」(※1)たる主上は、
    天下万民の為の徳治を「天子の御代官」(※2)たる武家の将軍に委任し、
    武家の将軍は「股肱」(※1)として正しい政道を実現する事で、その叡慮に応える

  といった感じです。
   (※1…出典『新続古今和歌集』序文  ※2…出典『殿中以下年中行事』)
   (※股肱(ここう)…手足となって働く、君主が最も信頼する臣下。 股肱の臣。)
   (ただし、委任と言っても全権ではなく、あくまで "大部分" と言う事です。
    朝廷のみが持つ権限もあるし、綸旨・院宣の発給も途切れた訳ではありません。
    しかし両者は、「万民の為の徳治」という点で目的同じくしていたので、
    協力・相補関係でいられたのです。)

  つまり、私的に覇道を目指す者は、この国の将軍(または為政者政治家)には相応しくないし、
  朝廷と対立したり、その権威を恐れて抑圧的な行動に出るのも、やはり元来の武家政権とは違うのです。
  …ちなみに、
  「天皇が "直接" 天下の全政務を執る形」を理想とする考えもあるかもしれませんが、
  それはやはり古代以前の社会の形であり、
  中世以降の、社会が複雑化の一途をたどる時代での天皇親政は、
  皇統の存続自体に危機をもたらす "致命的な問題" を内包しています。
  だから「天子の叡慮(=万民の為の徳治)の実現は、代官である武家が担う」のが、歴史から導かれる正解
  …ですが、まあ、この辺は話が逸れるので、続きはまた今度w 

  ―――以上、"室町時代の" 公武の到達点のお話でした。)




 という訳で、「上皇の葬送儀礼」から、室町時代のちょっとぬくもる公武関係を探ってみました。
このようにして見ると、義満の執念の "朝廷儀礼習得" "朝廷公事の勤行" が意味するのは、
よく言われるような天皇への対抗心や、いわゆる義満の「公家化」なのではなく、
正しくは、義満による「公家の凌駕・懐柔」と言うべきであって、
その心に秘めたものは、
どんな公家よりも、近習よりも摂関家をも超えて、
  「天子の最も傍近くに在るべきは、皇胤たる清和源氏なのだぁぁーーーー!!!」
という、武家源氏の意地、もっと言えば、
  「近衛(※)こそが武家源氏のすべて!!」
という、原点への情熱だったと、言えるのではないかと思います。
 既述のように、義満が『室町殿』(=将軍御所)を、公家の館が建ち並ぶ上京に造営したのも、
天皇を超える為に "内裏の北" を意識したものなのではなく、
 (ってか、もしそうだったら、上京に住む公家はみんな超不敬になってしまうw)
その真意は、
  「廷臣ナンバーワンは、俺様なのだぁぁぁーーーっっ!!」
という、公家社会に対する超絶アピールだった訳です。
 (と言っても、義満は公家と対立した訳ではありません。
  相補・融和路線で、すごく上手く(というか老獪に)やっていたと思うw)

 (※近衛(このえ)…天皇の傍近くに仕えて護衛すること。 律令制の "近衛府" の略でもある。
  "右近衛府" の長官である右近衛大将という官職は、
  遡れば、伝説的征夷大将軍坂上田村麻呂が任官した武官の栄誉とも言えるものですが、
   (ちなみに源頼朝も任官しているが、たった10日で辞任しているw)
  足利将軍として右近衛大将となったのは、実は義満が最初であり、
  公家も武家も参列する、公武一体任官の儀式(=右大将拝賀。天皇への御礼の参内)を、
  盛大に執り行ったという事実からも、
  源氏将軍にとっての「近衛」が、魂レベルの譲れぬプライドだったように感じられます。
  ――― ちなみに、公家の近衛家の家名は、屋敷があった京都の "近衛大路" に由来するものであって、
  "近衛府" とは関係ないw )


 もちろん、古来天子への敬意というものは、源氏将軍に限った話ではありませんが、
室町時代の公武関係の特殊性については、
朝家清和源氏足利家の "悠久の血の繋がり" に起因する部分もあるんじゃないかなと、
個人的には思います。
 歴史を振り返れば、天皇権威の利用しか頭に無い覇者もいれば、
その威光に嫉妬して、何とかして貶めようとする為政者政治家)もいた訳で、
この日本といえども、天皇政治的権力者が対立する可能性は常に存在し続けて来たのです。
その中にあって異彩を放つ室町時代の公武について、種々の日記から受ける率直な印象は、
 「主上将軍も、お互いにあまり警戒心が無い
と言う事です。
もちろん、無礼な事が全く無かった訳では決してありませんが、
なんと言うか、"暗黙の信頼" が根底にあったようです。

 (それゆえ、近付き過ぎてすっ転んでしまったのが、尊氏義満な訳ですが。
  後円融天皇3代目義満は、蜜月から悲話に転じてしまった例ですが、
  実は、後醍醐天皇尊氏も、讒言と誤解が重なって、あの様な結末を約束されてしまった悲劇だったのです。
  当時でさえ、尊氏本人にとっては胸の痛む運命だったろうに、
  後世になって大々的に逆臣に血祭り上げられるとは、一体何がどうなっているのさ! とは思う。
  ま、詳細はまたいつか。
  ちなみに、より君臣の立場を峻別して仕えていたのが、直義6代目義教です。 真面目な関係も良いですね。
  それから、「君ら参内し過ぎだよ、ほんと楽しそうだね」ってのが、
  称光天皇後小松院の御代の4代目義持、それと後土御門天皇8代目義政でしょうか。
  ま、義教も結構参内してたけどw
  そして、秘密の約束に満ちているのが後土御門天皇11代目義材…おっと、この続きはまだ先だ。)


 まあ、これは全くの私見ですが、
天皇清和源氏って、すごく相性が良かったんではないか?という気がする。
天皇権威を警戒するでもなく、上辺だけ尊王を装うでもなく、
明確に「近衛」「股肱」を誇りにしてた武家政権の権力者って、他にいないと思うのですが。
 (※股肱とは本来、腿(もも)と肱(ひじ)の事。 つまり、手足って事。)
日本の歴史でなぜか源氏が人気あるのも、
天皇清和源氏の関係は "本物" だったと、
きっとみんな無意識の内にそれを感じている(日本人の記憶に刻み込まれている)からなのではないかと、
密かに思っているのですが ―――
しかし実際は、最もぬくもる君臣エピソード満載の室町幕府が、最もボコボコに叩かれているという現実ww
なぜ?? なんでなのww
本当の事がバレたら、なんか困る事でもあるんでしょうか?
…まあ確かに、天皇と武家の対立を強調したり、その関係を過小評価したい者にとっては、
室町時代の真相は不都合な事てんこ盛りですからね。
 「実は、これが日本の本当の姿なんだ!」って事が知れ渡ったら、
いよいよ完全体に移行して、ボーナスステージ来たこれですよ。 テッテレッテレー
え、と言う事はつまり、
私たちを真の歴史に目覚めさせない為に、闇の勢力陰謀を張り巡らせ…
とか言う廚ニ妄想はさて置き、
まあ、事実は明らかにしていかないとね! 室町には "日本の原点" が隠されているしね! たぶん。

 (※このように、室町時代の公武関係については史実を調べれば調べるほど、
  「従来の "室町賊臣説" とは一体何だったのか…」となってしまい、
  人によっては精神崩壊しかねないコペルニクス的クラッシャーですので、心と頭を柔軟に保つ事が肝要です。)



 いやでも、不甲斐ない幕府のせいで共に衰退してくとか、ダメだろそれ。とか思ったそこの君!
うん、私もそこは異論は無いw
親しいが故に、緊張感が欠けていた公方にはお仕置が必要ですね。 ポコ!ポコ!
それを思うと、江戸時代のように距離を置いて、かつ統制的であった方が、
"安定" と言う意味では良かったのかも知れませんが、
しかし…、やはりそれは本来の武家の姿とは少し違うように思うし(※)、
第一、室町幕府にはそれは出来ないと思うw (したくない、と言う意味で)
 (※…江戸時代の全てを否定するつもりは、さらさらありません。あくまで公武関係の一側面についてです。
  むしろ江戸時代は、再評価再考に値する点を多く持つ意義の大きい時代だと思ってる。)


 例えば、室町時代の朝廷公事については、
初期の頃は遠慮があったものの、やがて社会情勢から必然的に、
公武で意見を出し合って調整することが多くなっていくのですが、
それを、「武家が朝廷に不当な介入をしている!天皇の権限を侵す悪しき行為だ!」みたいに、
"武家悪者史観" で否定的に解釈する意見をみる事があります。
 しかし、当時の日記の記述からは、朝廷側が嫌がっている風な様子はそれほど読み取れないし、
それどころかむしろ、互いに協力して事を運ぶことを良しとしているのです。
 (※例えば、"改元" とか "勅撰和歌集の編纂" とか、その他諸々。)
先例に無いという意味では枠を超えた行為ではあるけど、別に非難に値するものではないと思うけどなぁ。
ってのが、率直な意見。
 特に、「勅撰和歌集」の編纂については、
その序文に込められた当時の人々の心を素直に受け止めれば、
最も美しい公武の形を体現した、評価すべき事業だと言えると思います。
大和歌と言うものが、すべてを慰め和らぐ力を持っているのだとしたら(※参照『古今和歌集』序文)、
「歌集の編纂は朝廷にのみ許される事業、武家が立ち入るべきではない!」という意見は、
大和歌の心とは反するように思います。
 (むしろ室町時代の勅撰集は、天皇>武家という序列を明確に示してさえいるのに。)
そう…つまり、が奏でる答えは一つ、朝廷と武家調和してこそ、それこそが真の日本の姿
室町時代の「勅撰和歌集」とはすなわち―――

   世を受け保つ天子と、股肱たる武家政権との、交響曲なのです!!

…すまん、さすがに言い過ぎたくさい。
ま、「勅撰和歌集」については、歌心もないくせに語りたい事だけは山ほどあるので、続きはまた別の機会に。


 (※ちなみに、ちょっとだけ。
  「勅撰和歌集」とは、天皇または上皇の命によって編纂された和歌集で、
  平安から室町までに編まれた二十一集が存在し(これを、二十一代集と言う)、
  かつての日本の "伝統的な国家事業" でありました。(…なぜ、廃れてしまったのだろう、と思う。)
  このうち、室町時代に成立したのは、
   『風雅和歌集』 『新千載和歌集』 『新拾遺和歌集』 『新後拾遺和歌集』 『新続古今和歌集』
  の五集。 (武家の関わり方については、『風雅和歌集』だけちょっと別。)
  まあ、二十一代集の最初の『古今和歌集』なら、名前だけは誰でも知っているとは思いますが、
  全体的に、気にされ無さ過ぎだと思います。 (もったいねぇwwってレベルじゃない、と思う。)
  しかも、一部の歌集には「序文」が付いているのですが、そこには、
  日本人の言葉に対する感性、さらには世界観(宇宙観)、そして国家観に至るまで、
  "この国の本質" を解き明かすヒントが秘められていているのです。
   (※特にお勧めの「序文」は…『古今和歌集』『風雅和歌集』『新続古今和歌集』)
  …という訳で、歌心が100%無い私が、文化面ではない方向から、
  この「単なる歌集ではない歌集」の真髄に、迫ってみたいと思います。 そのうちw)



「その君臣の永遠」

 さて、何の話をしてたのか分からなくなって来るほど大幅に話が逸れてきたので、そろそろいい加減にします。
室町時代の公武関係については、
上記の文献を参考に、またそこから色んな論文をたどって深く考察してみて下さい。


 まあ、後花園帝について一番語りたいのは、実は義教との事なんですけどね。
還俗したばかりの義教 "絶妙な段取り" で、後花園帝 "劇的な践祚" を遂げたのが御歳10歳の時。
後花園帝は主上として、義教は公方として、互いに予想だにしなかった運命を共に歩き始めた正長元年(1428)。
若き帝と、俗世に不慣れながらも奮闘する公方との間には、いつしか、
永久(とわ)の春(=永遠の君臣)を誓う信頼関係が芽生えます(※)。
しかし、別れの日の訪れは、余りに早く、突然で、
嘉吉元年(1441)、後花園帝御歳23歳、永久(とわ)は終わりを告げました。
短い君臣の歩みでしたが、しかし、6年の歳月をかけて完成した『新続古今和歌集』は、
"最後の" 勅撰和歌集として確かに受け継がれ、幻のようなその春を、今なお詠い続けているのです。

 (※…後花園帝義教の信頼エピソードは、本当に涙なしには語れません。
  でも、話が長くなるから、やっぱり詳細はまた今度。 もったいぶってごめんw
  なんか信じられん!と思う方もいるかもしれませんが、『看聞日記』や『建内記』の記述ですので本当です。
  義教は、主上から忝(かたじけな)い内容のを贈られて泣いちゃう様な公方なのですw)




 では、以前紹介しましたが、室町の公武を象徴する次の記録を、再掲したいと思います。

  (前略)「政道無好悪被裁許者尤可叶天心、珍重珍重」
       (私曲の無い政道こそ、天子の意に添うものだ、喜ばしい。) (『建内記』永享11年6月25日)

 (※義教が、尊卑・親疎によらない公平公正な政道を志していた事、それから、
  嘆きや悲しみの訴えを取り次いでもらえず困っている者がいないか、方々に聞いて回っていた事に対する、
  万里小路時房の感想)


 例えば、主上が自己利益の実現を政道に求め、将軍もまた私欲を追及したのだとしたら、
両者は互いに衝突します。
一方、将軍が主上の意向を伺った上で、その実現に努めたのだとしたら、「天子の意」に添うのは、まあ当然です。
 しかし、上記の言葉が示すのは、
将軍は直接叡慮を意識しているのではなく、あくまで「私曲の無い正しい政道」を志しているという事、
そしてそれが、"必然的" 「天子の意」の実現となっているという事です。
 つまり、将軍は「天子の御代官」として叡慮に応えると言っても、
それは主上の私的な利益の実現を意味するのではないし、主上もまたそれを望んでなどいないのであり、
両者は共に、「正しい政道、天下万民の為の徳治」を、当然に至高のものとしていて、
だからこそ、自ずからその志を共有する事が出来たのです。

君主臣下がその抱く理想において合致し、且つそれは、万民の愁を休むる(万民の憂いを除く)事である」

こんなに理想的な国の形はそうそうないと思いますが、どうでしょうか。
義教は半途に廃することになってしまったけれど、もしかしたら、
求め続けた『彼の岸』は、もうすでにその指先に触れる所まで、近づいていたのかも知れない。




 さて最後に一つ、後花園帝について特筆すべき点、それは「伏見宮家出身である」と言う事です。
伏見宮貞成親王の第一王子である後花園帝 "皇位" を継承し、
第二王子である貞常親王が伏見宮家の "家督" を継いだ訳ですが、
この宮家と現在の皇統は、たどればここに行き着くのです。

 (※この辺のややこしさは、「南北朝の動乱期」(つまり室町時代最初期)に端を発します。
  この頃、光厳天皇の皇子の崇光天皇(兄)後光厳天皇(弟)において皇統が二流に分かれ、
  室町中期の6代目義教の時代では、
  "皇統" を継いでいたのは後光厳天皇(弟)一流(後小松院・称光天皇)であり、
  崇光天皇(兄)一流は "宮家"(伏見宮家)となっていました。
   (※皇統が分かれたのも、弟の後光厳天皇皇統を継ぐ事になったのも、南北朝動乱期のゴタゴタのせい。)
  ちなみに、
    崇光天皇(兄)―(栄仁親王)―(貞成親王)― 後花園天皇
    後光厳天皇(弟)後円融天皇後小松天皇称光天皇
  という関係。
  しかし、称光天皇が世継ぎを残さず崩御された事から、
  崇光天皇(兄)流の彦仁王(のちの後花園天皇)が、
  後光厳天皇(弟)流後小松院猶子として即位する事となるのです。
  …え、何言ってるのかよく分からないだと? すまん、詳しくは検索してw)


 さて、後花園帝後光厳天皇(弟)流として皇位についた後、伏見宮家はどうなったのかと言うと、
特別な宮家(世襲親王家)として存続して行く事になります。
これは、後花園帝の叡慮に依る所が大きいのですが(それからたぶん貞成親王の願いも)、
しかし(やや私見ですが)、その下地の形成には義教の貢献が重要な役割を担っていたのです。


 実は、この皇統の問題はちょっと一筋縄ではいかないものでして、
詳しい経緯は端折りますが、最終的には、
後小松院の「遺勅」(遺言としての勅命)に従い、
後花園帝は、崇光天皇(兄)流ではなく 後光厳天皇(弟)流として皇位を継承する事、つまり、
"実質的な父上" は後小松院であり、
"実父" である伏見宮貞成親王は、天皇の父(つまり上皇)とは見做さない、
という認識で落ち着きます。(これは、実父の貞成親王にとっては非常に残念な事。)
 (※詳しくは、『満済准后日記』『看聞日記』の、永享5年(1433)10月あたり、
  後花園帝が即位した5年後の、後小松院が崩御された時の記録を参照して下さい。
  それから上記の文献の「第二部 第四章 改元と仏事から見る皇統意識」もどうぞ。)

まあ、当時の慣習としては、それが最も妥当で殆どの人にとって当然であり、仕方なくもあったのですが、
 (ぶっちゃけ、"そうしなければいけない" と言っていい問題だった。)
しかしここで義教は、
  「え、でも主上(=後花園帝)にとってはそれはどうなの? ってか、神慮もどうなのよ?」
と言って食い下がり(公家たち仰天w)、
満済の助言により一旦は納得するものの、どうしてもどうしても気になってしょうがない義教は、
関白二条持基と前摂政一条兼良にも意見を求め、先例に照らし、神前まで引いて再確認するのです。
 結局、元の通り後光厳天皇(弟)流で決まるのですが、まあ、義教としては、
後花園帝にとっては、後小松院からの「譲国の御恩」と「猶子の御恩」があるものの、
実父である貞成親王への「孝」も重要だと、そう考えたのでしょう。

 (※ただし、義教後小松院にも真面目に仕えていたので誤解の無い様に。
   (参照は上記の…【石原比伊呂『足利義教の初政』(『日本歴史』第742号 2008年9月)】)
  これは、後小松院と貞成親王のどっち派だとか、贔屓とか好悪とか言った次元の問題ではありません。
  義教をはじめ関係者みんなの真剣さ、そして「先例・神慮最重視の姿勢からも分かる通り、
  "天下の安危" に関わる、極めて重大慎重を期する問題であり、
  将軍だろうが博学な公家だろうが、一個人の恣意でどうにか出来る事象ではなかったのです。
  なので間違っても "利害が絡んだ政局問題" だとか思わないように!w)


 その後、伏見宮家は、
"上記の認識" で行けば本来は、屋敷のある伏見の地(洛外)で、あくまでひっそりと、
一宮家としての存在であり続けるはずだったのですが、
しかし、義教の算段でなんと、洛中「御所」を構える事になるのです。
 (しかも、実質仙洞御所w(※仙洞=上皇)
  ただしこれも、貞成親王上皇と見做せない条件の下で、義教の苦肉の策でどうにかこうにか…
  という感じだった。)
貞成親王一家義教・三条尹子の交流は既述の通りの頻繁なもので、
こうして、京都の中心において "今上天皇の御実家" として益々存在感を増していく事になるのです。


 (※このように、皇統の問題が、かくもデリケートで重大なのは、
  天皇という存在がそれだけ、天下に直結する極めて厳かなものであった事の証でもあります。
  「南北朝の動乱期」以来、一宮家となってしまった崇光天皇(兄)流貞成親王としては、
  思いもよらず実子皇位を継承する事になったのは、紛れも無く嬉しい事ではあったのですが、
  しかし、「天皇の実父ではあるが、自身は即位していない」というのは極めて例外的な事例であり、
  その為、悲しい現実に直面する事にもなってしまうのです。
  というのも、上皇ではないので、
  実父でありながら、「参内して主上に御対面することが出来ない」のです。 先例が無いから。
  唯一許されるのは、主上が行幸(外出)した時に、"その場に居合わせる" という場合だけ。
  でもこの時代、主上の行幸自体がめちゃむちゃレアケース
  永享2年(1430)10月、後花園天皇御禊行幸があり、
  義教の誘いで、貞成親王は見学する事が叶ったのですが、
  その時の感想が、
    「ほんの少しだけど竜顔(=天皇の御顔)を拝見することが出来た。
     ああ忝(かたじけな)い、本当に嬉しい」
  と、実の子でありながら、天皇となった暁には、もう雲の上の存在となってしまうのです。
   (しかもこの時、後花園天皇御歳12歳。 普通に親心を想像してみて下さい。)
  日常的には、使者を介して贈り物をしたり和歌をやり取りする事は可能だったのですが、
  「上皇としての参内」が許されない、とはつまり、
  御歳10歳で即位した実の子のその成長を、ほとんどこの目で見届ける事が出来なかったのです。
  現代の感覚では中々理解しづらいかも知れませんが…
  まあうん…つまりそいうものなんだよ! 驚くでしょ?
  もちろんそれは誰が悪い訳なのではなく、天皇 "天下の為の存在" だったからに他ならない訳で、
  それ程に、「世をうけ保つ位」とは、"万民の為" に自由を犠牲にして天命を背負う存在だったのです。

  そしてそんな中で義教は、上皇でなくとも天皇の御実父には違いないのだからと、
  貞成親王への書状の礼法に別段の配慮をしたり、『室町殿』に招いた際は丁寧に持て成したり、
  公家たち対し、貞成親王の居所に祝賀に赴くよう密かに促したりと、
  出来る限りの心を尽くし、立場の向上を実現すべく、努力を重ねていました。
   (※以前にも述べたように、これは当時の公家社会の常識先例では、
    かなりチャレンジャーな不可能に近い問題だったのですが―――義教は頑張るのですw)
  永享9年秋、義教後花園天皇に『室町殿』への行幸を申し出て、快く勅許を得ます。
  そしてこれは正に、実の父子の唯一と言ってもいい御対面のチャンス、もちろん義教貞成親王を招きます。
  誘いを受けた貞成親王の喜びはきっと、
  日記に残る歓喜の言葉だけでは、到底語り尽くせるのもではなかった事でしょう。
   (※以上、出典は『看聞日記』)

  …という訳で以上、(近現代のそれとはちょっと違う)歴史的な天皇の姿の一端を、
  具体的な史実エピソードを通して紹介してみました。
  「自国の真実」と言うものは、内側からではなかなか気付き難いものですが、
  歴史と言う過去を客観的に眺めていると、見えてくるものもあります。
  これまで、比較的大きく誤解されて来た中世という時代を探ることで、
  近代以降忘れられてしまった、主上武家のあるがままの歴史に、光が射す日が来ることを願っています。)




 さて、いよいよ話が逸れてきました。
ところで、なぜこの話を長々と説明したかと言うと、600年近く前の話でありながら、
現在の皇統に繋がる現実として、実感し易いのではないかと思ったからです。
 そこには、とある公方の涙ぐましい奮闘が隠されていて、
天子としての「宿命」の厳格さと、子としての「孝」の大切さという難しい問題の解決に、
義教の果たした役割は小さくなく、
それは、先例を重視しつつも常識に囚われず、常に道理に照らして「何が正しいか」を考える義教の性格と、
後花園帝への忠義が生んだ結果だったのです。
 そう考えると、後花園帝義教が誓った「永遠」は、約束通り "今なお続いている" のだと、
かすかな面影になりながらも、確かに "過去" "今" をしっかりと結び付けているのだと、
そんな事を感じさせてくれる悲しくも温かい君臣の物語、というお話でしたw
ちなみに2人が交わした「春の歌」については、また今度。
 (ってゆうか、そこが一番重要な気もするが…まあいいか。)



 それにしても、こんなぬくもロングパスエピソードを残した公方だと言うのに、
「恐怖政治だ暴君だ」と罵り続けるこの風潮、一体どうなっているのさ!
義教が殺された時の後花園帝の叡慮を知らぬのか、それとも、それを知ってて "叡慮もろとも" 貶すのか?
…いや、それは無いと思うけど(え、無いよね?)、
しかしなぜ、当時の世評「近来の聖主」(※)と謳われた帝の言葉を、
後世の評価は愚かにも見落としてしまうのか。
 (※…出典『応仁略記』
  『応仁略記』は軍記ですが、読んでみれば分かる通り、その成立の早さや人間関係の的確さ、
  日記で裏付けが取れる畠山関連の逸話の確かさから、京都在住の筆者(恐らく僧侶)が、
  自身で見聞きした事柄を記録した物(つまり、後世の人物が妄想半分に書いた物ではない)と言えるので、
  この世評は信頼に値すると思います。)

 いやまあ、義教が本当に「覇道」を志向した覇者だってんなら、
私も張り切って糾弾しちゃうところですが、実際「王道」ですからね、義教が目指していたものは。
ただちょっと…ぶち切れ傾向が致命的だったってだけでw
 でもそれだって、慎重に考察すると妥当な理由が見えて来るし、
当時の日記が語る義教は、とんでもない厳しさを持つ反面、
意外なくらい(失礼w)他者を思いやり気配りに長け、文化への感受性が非常に高い、
人間味の溢れた人物なんです。
まあ、精神が人並みはずれて鋭敏で、良くも悪くも "激しい人" だったのでしょう。
 (初代尊氏とは、また違ったタイプのハチャメチャ感を感じる。)
それなのに、
とてもじゃないが実証的とは言えない矛盾の多い考察で、
かつてこの国に存在した将軍の、その功績を正当に評価しないどころか、剰(あまつさ)え罵声を浴びせるって、
それは歴史を貶める、恥ずかしい行為だと思うけど。

 自国の歴史って、その国の "プライドそのもの" のはずなのに、
国の為に心を砕き、主上を支え続けた将軍を、事実を歪曲してまで感情的非難する一方で、
私的な野望を実現した覇者をなぜか「国家的英雄」として理想化する―――
…な、なんという自虐的な史観。 ドMと言うのも憚(はばか)られる上級プレイ。 日本かわいそすww
義教叩きはそろそろ心改める時が来たと思う (´・ω・`)

 という訳で、今こそ『論語』のこの名言
   「子曰く、ただ仁者のみ、能く人を好み、能く人を悪(にく)む」
    (優れた人間は、好むべき正しい者を好み、憎むべき邪悪な者を憎む事が出来る。)

正邪を見分ける智慧を磨くことも、歴史を学ぶ大きな意義の一つです。

 (※ただし近年は、冷静な分析による精度の高い論文・書籍が、次々と発表されて来てもいますし、
  埋もれていた過去の優れた論文も、再び日の目を見つつあります。
  がんばれ!超がんばれ!! 応援していますw)

まあ、義教の理念というのは高尚過ぎて、俗人の凡慮が及ばないところがあるのは確かですが、
 (それゆえ、義教を理解できる後花園帝の叡慮も、凡慮の届くところには無いのかも知れませんが)
しかし私は、間違った史観から生まれた歴史が、どうしても好きになれません。
やはりこの国の歴史には正しくあって欲しい
だからこの先もしつこいくらい、この君臣を応援していきますw







 あーさて、結局文明2年(1470)までしか終わりませんでしたw
まあ、タイトルが「中編」になってるので「後編」があるだろう事は気付かれていたとは思いますが。
どうも義教の事となると、ムキになって語り続けてしまう…すまぬ。
 しかし、わざわざページを分けたのはほかでもない、
来年は、遂に我らが英林様「3年の沈黙を破って越前国で再始動!!」の年なのです!
べ、別に、3年のんびりお茶飲んでた訳じゃないんだからねっ! ほ、本当なんだからっっ!!


という訳で、次の文明3年(1471)は、"後土御門天皇義政の時代" の幕開けと共に、始まりです。

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