TOP > 二、室町幕府雑学記 > 10 室町幕府の『応仁の乱』斜め上行ってもうた
小見出し
「愛しのへっぽこ公方様」
「ただし足軽、テメーはダメだ!」
「戦国の成立要件」
「室町の非日常」
「ところで、東のあいつらは」
「フルスロットル!義視争奪戦」
「お帰り!愛しの直球公方様」
「京の別れ、越前の明日」
「旅立ちは、さよならではなく」
「炸裂!義視のムロミカルシュート」
「ムロマチスト義視の、
西幕府はじめました」
「王道幕府よ、もう一度」
明けまして応仁2年(1468)!!
…ですが、めでたくも何ともありません。
こんなとっ散らかった天下じゃ、餅食ってる場合でもないし。
まあでも、餅くらい妥協したところで、
他にもちもちしたものいくらでもあるし、どうって事もありませんが、
この年以降、
しばらくの間正月行事が行われなくなってしまったのは、
残念な事でありました。
元日の重要な朝廷行事である四方拝、そして節会などの諸儀も、
主上と法皇が『室町殿』を行宮(あんぐう。仮の御所)としている現状に、
中止を余儀なくされてしまいます。
(※四方拝(しほうはい)…
元日の早朝に、天皇が天下泰平や万民の安寧を祈る宮中儀式。
現在も引き続き行われている極めて伝統的な儀式です。)
(※ちなみに、主上と法皇が『室町殿』に御座するといっても、
将軍御所とは別の建物を、仮の禁裏・仙洞としているのであって、
義政と同居している訳ではありません。
義政が謁見する時は、やはり「参内」することになります。)
ああもう、天下もいよいよもって天狗でGOな訳ですが、
しかし、幕府の正月行事が悉く潰れたのは、自業自得以外の何物でもありません。
去年の正月2日に、公方があんなことやってしまったんですから。
咎なき家臣に突然の御成中止を突きつけたら、翌年は御成する家臣の家がありませんでしたっ!…とか、
いや、わろてる場合ではありませんが、しかし、義政は大いに反省すべきだと思います。
ちなみに、はた迷惑な催促を繰り返していた公家の館への御成も、
大乱開始以後はぱったり止んだそうです。(『大乗院日記目録』)
公家も、その多くは戦火を避けて地方に疎開していたし、焼失してしまった館も数知れませんからね。
ってなんか、反省すべきは公方(と、その佞臣)なのに、それ以上の被害を周囲が被っているって…
ああ、納得いかない。
さて、大名たちのニューイヤーはどうなっているかというと、
「元日の夜半、細川勝元が西軍の陣営に発向し、雨の如く矢と石を浴びせる」(『碧山日録』)
って、おい、どんな嫌がらせだよ! 正月くらいのんびりさせんかボケ!
新年早々縁起でもないすさみっぷりですが、
まあ無理もありません。
東軍は、元の禁裏・仙洞から下京はおろか、
上京の『室町殿』を中心とする本陣の周囲も、すっかり西軍に包囲されてしまって(『経覚私要鈔』)、
イライラがMAXだったのです。
企めど企めど、なぜか食らうはブーメラン。
そして、そんな追い詰められた御所に、半ば閉じ込められた状態の公方も、
すさみスパイラルに真っ逆さまでありました。
2月23日、宇治に疎開していた近衛政家が参内の為に上洛し、『室町殿』を訪問します。
法皇と御対面し、主上には(拝賀がまだのため昇殿せず)内々の御挨拶を済ませ、
さて公方にも…と思ったのに、対面はなりませんでした。
その理由が―――「二日酔い」…って、何それ!!
「公方とは対面無し、昨日の大酒による余酔の為。 連日猿楽あり。
御所の内情、言語道断、浅ましくって話にならん」 (『後法興院記』)
近衛政家から話を聞いた父の近衛房嗣も、
「昼夜大酒、猿楽興行。 主上と法皇は御覧になってないそうで良かったけど、どうなってんだよ!おい!
乱世の最中だってのに有り得ねぇよ! あ、でもこれ、秘密ね、秘密」 (『後知足院記』)
さすがに、これは擁護の仕様がありませんね。
まあ、思うようにならない現実に、我を忘れるしかなかったのかも知れないけど、
あまりに精神弱すぎるだろ!
どうやら、歴代将軍の傾向として、幼少期から将軍として育てられた者と、
幼少期に苦労してたり、半生を出家僧として生きて来た者とでは、人格的な落差が大きいようです。
ただし! これは、本人の性格だけに責任を帰すべきではないとも思います。
なぜなら、清和源氏の嫡流となると、
その血筋自体が余りに特別過ぎて、人々を無条件に従えてしまうのです。
当時の一次史料、特に書状に表われる大名たちの言動からは、
単に将軍を、「従わざるを得ない権威」として見ているのでもなく、
利益に与(あずか)ろうと媚びへつらっているのでもない、"なんかもっと素直な要素" が検出されます。
今の人から見れば、「おーい、誰かこのアホ公方に2〜3発突っ込み入れてやれよ!」とか思うところでも、
彼らはそんな事したくないし、公方様には公方様であって欲しいのです。
(※これはもちろん、単なる金銭的上流階級の "特権性" とは違います。
金によって庶民とは違う地位と生活を確立している場合、金によってしか人々を従えられません。
武力の場合もまた然り。 武力のみで天下を掌握しても、大抵一代限りで終わります。
その当代の覇者がいなくなったら、次代以降に従う動機を世の人々が持ち得ないのは、まあ当然です。)
現代の感覚だと、「旧い権威に縛られて! くだらない!」と思うでしょうか?
でも、もう少し深く、彼らの気持ちになって探究すれば、
その理屈じゃない敬意は、人々の精神の拠り所ともなっていて、
むしろ人の世の根本をなす、自然な要素であることに気付くと思います。
(この "血筋の高さ" とは、別に生物学的に優れている事を意味する訳ではありません。
人々がそこに敬意を感じるのは、血統というものが「その民族全体の歴史」を背負っているから、言い換えれば、
人々に信頼や敬意、もっと言えば "安心感" を抱かせているものの正体は、
脈々と受け継がれてきた「土地と民族の歴史」なのであり、
それを太古の昔から守り受け継いできた証が、血統なのだと言えるでしょう。)
しかし一方で、その貴種性が強力であるが故の弊害もある訳で、
血筋が尊いといっても、普通に人間であることに変わりはありませんから、
全てを肯定されながら育ってしまうと、否定されたり諫められたりする事に非常に弱くなるし、
厳しさを覚える機会が無ければ、
他者に対して尊大になるか、逆に何でも許してしまうかの、どちらかとなるでしょう。
義政の場合、疑うことを知らず、
邪悪な側近の讒言を真に受けて去年の正月2日のような事をしてしまったり、
拝金と私曲に走る寵臣さえ、"厳しさ無き" 優しさで、好き勝手に振舞わせてしまうのです。
『建武式目』の精神が廃れてゆく幕府には、マジで洒落にならんほどイライラしますが、
ただ、なんというか、義政は「善意の暗君」みたいな所があって、
幼少期から賢臣にさえ恵まれていたら「善意の名君」にもなり得たのかと思うと、どうも責め切れないのです。
(※善意…(ここでの意味は)ある一定の事情を知らないこと(法律用語)。
って、"善意の名君" はひどい言い草ですがw 「知らずしらずに名君」みたいな感じ。)
源氏の将軍ってのは、こんだけ無条件に愛されるんだから、人格も伴ってたら最強の公方になれるのに!
と思うと、なんか悔しい苦笑いが込み上げて来るw
あれだな、将軍候補の子弟は一回寺で修行が必要だな、うん。
まあ、義教の域まで達してしまうと、あれはもう人間のフェーズじゃないので別の意味で問題ですが。
(※『応仁記』には、義政の政道の過ちを諫めた部下が、勘気に触れて追放された、という話があるのですが、
義政曰く「言ってる事は全く間違っていないが、その役目ではないのに諫言をする事は間違っている」
って、おい! どんな斜めった価値観身に付けちゃってんだよ!
まあ、どの程度実話かは分かりませんが、本当だとすると、もうどうしよーもねぇなww
その点…
「家(家柄・血筋)によって身を立てようと思っていはいけない。
文道を嗜み、徳を身につけることで身を立てるように」 (今川了俊の手記『難太平記』)
と常々語っていたという足利直義は、本当に素晴らしいと思います。
血統が良いからこそ、それに驕らず慎みを忘れず、内面の修養を怠らない。 貴種の鑑(かがみ)です。)
まあ、そんな訳なので、『応仁の乱』というのも、一層ややこしくなって来るのです。
みんな公方の言う事聞いて無いようでいて、実はすごく気にしているし、
軍事力ではとっくに圧倒してるのに、このへなちょこ公方様をはっ倒そうとは考えないし、
これだけ思想的にも実力でも自由に振舞う大名たちですから、
当然、言論・思想統制による全体主義や、宗教による洗脳とは違うし、
何よりこの "公方の謎" こそ、『応仁の乱』および室町時代をミステリーにしてる最大の原因…
ってな訳で、みなさんもどうぞ気にしてみて下さい。
まあ、個人的には、「究竟なヒャッハー武士達をなぜか従えるへっぽこ公方」という構図は、
かなりツボなんですがwww
(※この "公方への敬慕の念" は、歴史学においては余り考察対象にされていないようで、
歴史の概説書を読んでいるだけでは、その存在はまず信じられません。
一般的な "大名にとっての将軍観" というと、
「大名は将軍と対立関係にある」
「大名は将軍を倒し、自身が権力の座に就く事を望んでいる」
「将軍に従っているのは、その権威に利用価値があるからに過ぎない」
…といった、反公方的な解釈が当たり前のように "前提" とされていますが、
一次史料(書状や日記)を直接目にすれば、すぐに「あれ、なんか違う…」と気付くと思われます。
そもそもこの "前提" の出所は…と言えば、
反権威主義的な現代的価値観が色濃く反映された憶測が半分、
そして、下克上の弱肉強食社会を是とし、戦国の覇者に正当性を見出そうとする風潮が半分、のようです。
もちろん、様々な解釈が生まれるのは当然だし、
色んな妄想をした方が歴史は楽しいとは思いますが、
一度解脱(げだつ)して、公方に対する "当時の彼らの真意" を探ってみる事は、
宇宙の一端を垣間見るような未知のワクワク感に溢れているのでお勧めです。
…いや別に、電波な事を言っているのではなくてw、
宇宙の構成要素に、「目には見えない存在(※)」が不可欠なように、
人間社会にも、不可視で立証が困難だけど「秩序の根源となっている深層心理が存在する」
ってだけの話です。
(※…みんな大好き、ダークマターとダークエネルギーww)
まああれだ、手っ取り早く知りたければ、
京都の禅院へ行って、夢窓国師の庭で妄想でもしてみればいいさ!
義教の青蓮院門跡もお勧め! まあ、密教は宇宙の秘密そのものだしね。)
ちなみに、この貴種の崇敬という傾向は、足利家以外にも見られるもので、
例えば、足利家に次ぐ家格の斯波家の場合、
家名の「斯波」と表記せず、官途の唐名である「武衛」と記されることが、他の管領家と比べても特に多く、
邸宅の在所(勘解由小路室町)から「勘解由小路殿」と称されることすらあるのですが、
これは、高貴な者ほど本名を避けたり、家名を明記しない傾向を反映しています。
例えば、『碧山日録』(東福寺の僧侶、雲泉太極の日記)の、
東西軍の大名の名が列挙されている部分では、
「山名宗全、畠山義就、玉堂義廉、一色義直…」
となってたりw
(※玉堂(ぎょくどう)とは「玉で飾った美しい殿堂」あるいは「他人の家の尊敬語」を意味し、
もともと室町初期の "斯波の祖" である足利高経が、
一時期、東山の清水坂の邸宅に住んでいた時に、諸人から「玉堂」(たまのどう、ぎょくどう)と呼ばれていて、
足利高経の子義将も、父の旧称に倣い "別号" として用いていたという、呼ばれ方です。
このように "邸宅に由来する別称" で呼ばれる傾向は(朝家や公家の他では)、
足利家の「三条殿、三条坊門殿、室町殿、北山殿、東山殿…」と、
斯波家の「七条殿、玉堂、勘解由小路殿」に見られる特徴で、
世人から両家が特別視されていた事が分かります。
―――2015.11.22 さらに 12.23 加筆修正 )
(※ちなみに、『碧山日録』は別に西軍方を擁護した日記ではありません。
ってか、貴族・僧侶による日記は、基本的に東軍を官軍、西軍を敵方と見做しています。
ただし、"表向き" はそうでも、"本心" では中立的な日記も多いし、西軍好きな『経覚私要鈔』なんてのもあるw)
それから、渋川家に関しても、
九州探題渋川家は、地元に今に伝わる貴種伝説を残しているそうです。
既出の論文ですが、
【黒嶋敏『九州探題考』(『史学雑誌』第116編 第3号 2007年3月)】…の「おわりに」の視点は、
室町ミステリーツアーを楽しくする大事な視点だと思います。
ところで鎌倉時代に遡りますが、
「斯波、渋川、足利」の先祖は、足利泰氏の子息の三兄弟で、
長男 家氏(斯波の祖)
次男 義顕(渋川の祖)
三男 頼氏(足利の家督を継ぐ…尊氏直義の曽祖父)
という関係です。
長男と次男の母は同じで名越流北条家、三男の母は北条得宗家の出身。
3人とも母の身分は高いのに、なぜ三男が足利家の家督を継ぐことになったのかというと、それは…
「執権北条一族の権力闘争の影響」という大人の事情ですw
ま、そんな訳で、足利家の家督を継いでもおかしくなかった長男を祖とする斯波家は、
「武衛は国家の宗臣なり」(『碧山日録』)
「武衛日本二番の御人」(『余目氏旧記』)
などと言われ、足利家に並ぶほどの家格と目されていました。
斯波家の "弟分" である渋川家の義廉が、斯波の養子に入ったのも、これで納得がいく訳です。
ちなみに、渋川家(義廉の実家)と斯波大野家(斯波の庶流、義敏の実家)では、
どちらが家格が上かというと、まあ、単純な比較は出来ませんが、
官途から言えば、
渋川家…右兵衛佐(唐名:武衛) > 斯波大野家…修理大夫(唐名:匠作)
となります。
実は渋川家も「武衛」だったりする。 (←ここ、実は秘密のポイント)
さて、そんな頼りない公方のおかげで、いよいよこんがらがって来た戦況、
この軍事的劣勢を打開する為、東軍の細川勝元はどんな手段に出るのか…
それは…それは、武士として絶対に許されない禁断の方法―――
武 士 協 定 の 破 棄 。
ええーーっ!? それやっちゃうのぉーー? と何度でも文句言いたいとこですが、やってしまうのです。
真っ当な方法で勝てぬ敵を打破する最も効果的な策 ――― 弓矢の掟を持たぬ者による「ルール無き戦い」
…すなわち、「足軽」(あしがる)の実戦投入です。
現在、「足軽」というと、
戦国期の「統率のとれた歩兵集団」という意味が一般的ですが、
本来は、単に「足回りの軽い軽装の雑兵」という意味で、平安や鎌倉時代の記録にも残っていて、
大規模に組織化された部隊でもなければ、もちろん悪い意味でもないのですが、
実は、この「足軽」が "特別な意味で" 注目を集め始めるのが、『応仁の乱』なのです。
どういう意味かと言うと…めっちゃムチャムチャ悪い意味です。
武士の精神の片鱗も持たない、というか、それを全否定することがむしろ唯一の存在意義となっているような、
卑劣極まりない奇襲戦を繰り広げる連中です。
『応仁乱消息』という、乱の概要を簡潔に記した辞典的な書があるのですが、
そこでは足軽について、
「人をたぶらかし、心を思いやらず、俄かに敵に襲いかかって合戦を仕掛け、戦略も無く城を攻め、
先を急いで勝敗をつけようとし、走る事を好み、逃げる事を恥とも思わない、前代未聞の連中」
と記されています。 人の弱みに付け込む戦い方…ああもう! 腹立たしいww
また、『樵談治要』という、大乱終結後まもない時期、一条兼良が9代目足利義尚に与えた政道の指南書では、
「足軽は今後一切禁止すべき。 奴等は超過したる悪党!
洛中洛外の寺社仏閣も公家の滅亡も全部奴等の所業!
敵がいる所では無力なのに、いない所では途端に調子こいて打ち破り、
放火して財宝を物色する様は、まさに昼強盗! マジで前代未聞!
でもこれも、武芸が廃れたせいで起こった事だ!
本来は名ある侍が戦うべきところを、奴等に代わらせたりなんかするから!
奴等の射た矢で命を落としたたいそうな侍もいるらしいけど、それもう末代までの恥だよ!
奴等は主人がいるはずだから、そいつとっ捕まえて糾明すべき!
もう、罰則付きの禁止令を敷いて取り締まらなきゃダメ! 外国に知られようものなら恥辱だよ恥辱っ!!」
…と、とことん非難されることになる存在を、細川勝元は戦に投入するのです。
道義を持って戦うのこそ武士なのに、敵に勝る為なら外道を奨励するって、そりゃねえだろ!
確かに、武士ってのは基本がヒャッハーであって、
これまでも大名の部下で悪さする奴はいくらでもいましたが、
それとは一線を画するこの「足軽」の登場は、この後の乱世の時代を一層暗黒にして行く事になります。
特に細川家の場合は、その家臣の悪行が非常に目立つようになっていくし、
下層の雑兵だけでなく、被官レベルの者達までも、武士の道を外れた行為を行うようになってしまうのですが、
当時の日記を見ていると、その余りに酷い所業にみんな悲嘆に暮れてて、こっちまで悲しくなって来るorz
(まあ、これは主に勝元の次の代以降のことですが。
しかも『応仁の乱』終結後の京都での話。なんてこった。)
さて、では具体的に何が起こったのかと言うと、
3月15日、俄かに登場した骨皮道賢という者が、300人ほどの手下を集めて伏見稲荷社をアジトとし、
西軍の糧道(兵粮の輸送路)を断つ作戦に出ます。
名前からして分かり易すぎる悪者ですが、もとは獄吏(監獄の役人)の下の目付(監察者)で、
盗賊の挙動を良く知る者だそうです。(『碧山日録』)
奴等は、東寺にも陣取って西軍の通路を遮断し、
また、西軍の軍勢と兵粮が集まっている場所を聞きつけた東軍の細川方が、
奴等を使って、兵粮もろとも下京の五条周辺を焼払い、さらに七条の民家にも火を放って西軍を脅かします。
「下京、事のほか物騒、山名方難儀に及ぶか」(『後法興院記』)
と、この日以降、下京は連日のように焼き払われていったのでした。
ああもう! 全く持って腹立たしい訳ですが、
でも、西軍諸侯はさらに数万倍ぶち切れていたことでしょう。
なんたって、目の前で俺のめしが焼き払われて…じゃなかった、仮にも彼らは、武芸を身に付けた礼節ある武士、
道義無き外道どもが武力を行使する様を、見逃せるはずはありません。
もののふの道を穢す者よ、真の武士の本気ってもんを見せてくれるわ!!!
3月21日、伏見稲荷社に馳せ向かうは、畠山義就、山名宗全、斯波義廉、大内政弘の軍より各一手、
甲をまとった武士が一条から稲荷社まで間断無く埋め尽くす様は、「凡そ見事なり」(『経覚私要鈔』)
奴等が伏見稲荷社をアジトとしたのは、他でもないその社司が与同して招き入れたから。
という訳で、先ず社司に天誅!と意気込む西軍の殺気を目ざとく感知したのか、悪党の頭・骨皮道賢、
どんな行動に出たかって…
「輿に乗って、逃げ出そうとした」(『経覚私要鈔』)
ああもうww すんげーむかつく外道全開の卑怯さwww 腹立つわーーwww
しかもこれ、『応仁別記』では、「輿に乗って、女の真似して後ろの山に落ちけるを…」
つまり、女装して逃走したらしい。 絶句ストリームポカーーン( ゚д゚)゚д゚)゚д゚)
もうなんなの? 何でそんなに外道なの? 外道とスポンサー契約でも結んでるの??
しかし、義就方の武士に見つかって引き出され(『経覚私要鈔』)、敢え無く討ち取られたとさ!
「集悪党致種々悪行之間、西方諸大名出軍勢治罰了」
(悪党を集めて悪行三昧の末、西軍諸大名が軍勢を出して天誅お見舞いしておわんぬ。)
(※了(おわ)んぬ … 〜てしまった。〜た。)
ちなみに、『東寺私用集』では朝倉方の武士が討ち取ったとなっていますが、
まあこの際誰でもいいよ! こんな奴のさばらせてたまるかよ!!
でも、始まってからたった一週間で打ち切りとは…切ねえなぁw …なので一応、なむ。
それからこの戦闘で、社司の宿所に放たれた火が延焼して、伏見稲荷社は広範囲に渡り焼亡してしまいます。
まあ、社司も加担した悪行の報いとはいえ、さすがにこれは残念なことですが、
こんな奴等を起用して、西軍に徹底報復をさせた東軍の責任は大きいと思います。 めしの怨みは恐ろしいのだ!
という訳で、
「卑怯でなければ意味が無い! 徹底的に外道主義☆不道徳の申し子 ――― 足軽!!」
の誕生秘話でした。
この一件は落着しましたが、しかし、
この「足軽」または「疾足」とも称される連中の活動は、この後も続いていきます。
当初は、そのほとんどは東軍に属する足軽であり、
『碧山日録』などに僅かに西軍の疾足の記録もありますが、
どうも、東軍の足軽(疾足)とは "質が違う" ような印象を受ける… というのも、
両軍とも、下層の方の雑兵の狼藉(ろうぜき)は本当に酷かったと思いますが、
東軍の疾足ネタには、"特有の異常性" が見られるのです。
『碧山日録』11月3日の記録には、東軍の足軽が、奇妙極まりない様相で宇治社に詣でたことが記されていますが、
「長矛と強弓を持ち、飛び跳ねて歌い踊り、金の冑をつける者もいれば、たけのこの皮で作った笠を被ったり、
赤い毛をつけたり、単衣を着て肌を露出しても寒さを恐れず、とにかく軽快に走りまくってる…」
しかもその数300人。 ホラーかよww
これまでも、「悪党」という、幕府や寺社などの組織に属さず、狼藉を繰り返す武装集団は存在していましたが、
「前代未聞」と表現される「足軽」は、それを遥かに超える卑劣で異様な種族だったことが窺えます。
(※中世における「悪党」とは、単に "悪者の集まり" という意味だけでなく、
体制に属さない武力集団のことを指す。)
ちなみに翌日、帰り道で西軍の武士に見つかり、20人ほど討ち取られたそうです。 なむ。
ああしかし、細川は犯してはいけない掟に触れてしまったよ。
まあ、遅かれ早かれ、武芸が地に堕ちる日は来たのかも知れないけど、
でも、足利一門の大名がそれやっちゃいかんだろ。
もちろん時代の乱れを思えば、細川だけが道を外れたと非難するのは当然間違っているし、
細川勝元自身は、評価出来る部分のが多いと思うのですが、
しかし、これを境として、遠くから微かな戦国の気配が近づき始めたのは事実でしょう。
「非制兵之法、惟細民奸猾凌上之漸也」
(侍のルールある戦い方とはまるで違う、これは…奸猾な下層の者が、上を凌ぐ兆しだ。)
(『碧山日録』応仁2年11月3日)
東福寺の僧 雲泉太極は、この足軽の登場に、
"武士の精神が失われたルール無き戦いの世" の訪れを、予感していたのです。
一般には、"戦国期の開始点" として、
『応仁の乱』や『明応の政変』などの歴史的事件をその契機と捉えますが、
しかし本来それは、目に見える形で明確に線引きするのは難しいものだと思います。
戦国期とは一言で言えば、「王道」が「覇道」に負けた時代(※)、
ならばそれは「武士の道義」の問題として捉えるべきなのではないかと、個人的には思っています。
(※…天下を包括的に見た場合の話。 個別に見れば、王道を目指し続けた大名も多くいます。)
(「王道」「覇道」の概念については、
「2-9 室町幕府の『応仁の乱』加速しはじめました「愛読書は、『六韜』『三略』」」を参照。)
つまり、戦国期の萌芽は、弓矢の道(=武士の道)が廃れ出したことで始まり、
しかし、武家の精神を捨てまいとする者達が抗うことで、なんとか一進一退の攻防を繰り返し、
それでもやがて、道義を軽んずる者が優勢を占め、非道の風潮が列島を覆い、
ルール無き武力が天下を動かし始めて、
本来の武士の道を律儀に守ろうとすれば滅びるしかない世の中になってしまった時が、
本格的な "戦国期の始まり" と言えるのではないか、と思うのです。
(※これまで、戦国期は「大名たちが覇権をかけて対立した群雄割拠の時代」と解釈されて来ましたが、
「戦国期の室町幕府の実態」が明るみになりつつある現在では、
それではもう説明が付かなくなって来ました。
何より、全ての大名が覇権を目指していた、なんて事は決してなく、
「万民の為の天下を私物化すること」すなわち「覇道による天下統一」には、
異を唱え抵抗する者達も少なくなかったのです。
戦国期の室町幕府の統制力が(すっかりw)衰えていた事は確かですが、
それは "戦国" の十分条件ではありません。
「武士の道義の衰退」という要素が必須なのです。
…例えば、
大内家や、朝倉家、東国なら後北条家(もちろん他にも)などのように、
自国での事実上の統治権を掌握しつつ、同時に、天下の公益を見据えて幕府の秩序を尊重し、
そして、武士として将軍への忠を忘れなかった大名―――
もしこのような「自国と天下の利益を同じ方向に向けられる」タイプの大名家が揃っていたならば、
世の中は戦国ではなく、各分国が栄える「連邦制に近い封建制の国家」を確立していたでしょう。
この「武士の道徳感」をベースに考察すれば、
十分な実力を備えながらなお、幕府への礼節を保っていた諸国の領主達の、
「国主としての大名と、幕臣としての大名」という二面性も、
そして、"武士達の名に対する誇り" によって存立して来た室町幕府の、その「変遷・衰退過程」も、
一連の文脈の中で解明され得ると思うのですが、
まあ、曖昧過ぎて学術的ではないですねw 学問(もんもんと問い続ける)ではあるけど。)
『応仁の乱』終結の年に生まれ、戦国が本格化する16世紀半ばまで生きた朝倉家の武将、
朝倉宗滴(そうてき)こと教景(のりかげ)の有名な言葉、
「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つが本にて候」 (『朝倉宗滴話記』)
(武者は、犬と言われようと、畜生と言われようと、勝つことを本意とせよ。)
この言葉は、「勝つためには手段を選ばない」「道義より利を取れ」という、
近世以降の「武士道の精神」とは相容れない、戦国期特有の武士のあり方として、しばしば引用されますが、
はっきり言って、それは誤読です。
この言葉をもって、「中世までは、近世の "高潔な武士道精神" は存在しなかった」などとさえ言われますが、
その認識が誤りである事は『応仁私記』の記述からも明らかですし、
上の「ただし足軽、テメーはダメだ!」で紹介した『応仁乱消息』や『樵談治要』の足軽に関する記述は、
裏を返せば、
「中世の武芸を身に付けた武士は、人を思い遣る心を持ち、道義ある立派な戦い方をする者達で、
外国に知られても恥ずかしくない(or 外国にも誇れる)存在だった」
と言う事実を示しているのです。
それでは、なぜそんな誤解が生じたかと言うと―――
そもそも、『朝倉宗滴話記』からこの一条のみを取り出して的確な解釈を施そうとした事に、
無理があったのです。
(※『朝倉宗滴話記』は、朝倉教景の家臣の萩原宗俊が、主人教景の生前の言葉、交わした雑談を忘れまいと、
せっせと書き残した覚書(おぼえがき)。 『宗滴夜話』などとも呼ばれる。)
この言葉を放ったのがどんな人物かを知れば、自ずと真意も見えてくると思いますが、
朝倉教景とは…『朝倉宗滴話記』によれば、
「嘘を嫌い、不誠実であることを嫌い、礼儀と義理を守り、
恥を知り、浅ましく下品であることを拒否し、私欲を持たず、常に家臣を思いやり、
戦においては揺るぎない精神を持つ大将であり、
国を思い、忠誠を持って主君(歴代朝倉家当主)に仕え続けた武者奉行」
であって、
また、『鷹養記』によれば、
「右に出る者のいない武将で、仁愛にあふれ、忠信にあつく、文句のつけようが無い!」
と、褒めちぎられる人物ですw
(※『鷹養記』は、朝倉教景を良く知る連歌師の宗長(そうちょう)が、建仁寺の僧に執筆を依頼した書。
当時の連歌師は、諸国の大名に招かれて全国を行脚していた武将通&ハイパー情報通でもあるので、
この評価は信頼できます。(※建仁寺の僧、月舟寿桂と朝倉家も直接交流があります。)
『鷹養記』自体の内容は、鷹が大好きな教景が、鷹を愛し過ぎたあまり、
自分んちの庭で人工繁殖に成功しちゃったよ! もうこれ神業だよ! しかもその鷹、超優秀www
…ってゆう、嘘のような本当の話。 証拠→『宗長手記』)
まあ、とにかくかなりハイグレードな人物なのですが、
単に優しい "良い人タイプ" なのではなくて、
非常に強い信念を持ち、結構負けず嫌いでちょっと天邪鬼(あまのじゃく)でもある、
豪快で頼もしい武将であります。(実際、戦もめっちゃ強いですw)
そんな、曲がったことが大嫌いだろう朝倉教景(宗滴)が、なぜこのような言葉を残したのか?
それは―――武士の道を美しいまでに守っていては、負けて滅びるしかない時代になっていたからです。
どんなに高潔な理想を抱いていても、負けたらすべてを否定される時代です。
その美しい理想もろとも、国は焼き払われ、民は略奪と人身売買の犠牲として蹂躙されるのだとしたら、
だったら…
武者は何としても勝たねばならない。
悪に抗う為にも、理想の灯を絶やさぬ為にも、
たとえどんな謗(そし)りを受けようと、絶対に勝って生き残らねばならない!
理想を追い、清廉な政道を目指すのは主君の役目、その理想の実現を支える武者は、
汚れを被ってでも戦には勝たねばならないし、それは、国の為であり主君の為であるのです。
つまりこの言葉は、それを発した人物とその時代を考えれば、
「利を得ることが第一、武者に道義はいらない」と言っているのではなく、
むしろその言葉の "裏" に、高い理想と、それを守り抜く為なら汚名をも受ける覚悟がある、
という真意を、隠し持っているのです。
(※もし、武士の道義に悖(もと)る事をなんとも思ってなかったとしたら、
「犬畜生と言われようと…」なんて自己卑下をするのは矛盾していますからね。
ただし、『朝倉宗滴話記』からは、時代を反映した現実主義的な部分も垣間見られますから、
「気高く生きて、ど派手にコケる」というムロマチスト(=室町のロマンチスト、私の最も好きなタイプww)
とは、やはり少し違うようです。
それと、朝倉教景は、あくまで朝倉家の惣領に仕える "武者奉行" である、ってこともポイントで、
主君の名を守る為なら、「自身は名を穢しても実を取るべきだ」と考えていたのだと思います。
まあでも、あの朝倉孝景(英林)の嫡出の末子ですから、重鎮以上の重鎮だったらしいけどw
ちなみに、そんな忠誠心に溢れた朝倉教景が、最も忠義を抱いていた主君(朝倉家の惣領)は、
孝景の孫に当たる…
って、そんな話誰も聞いてないですね、すみませんw)
あーさて、だんだん朝倉マニアックなことになってきたので、この辺でやめときます。
つまり何が言いたかったのかと言うと、
"武士の道" ってのはやっぱり近世以前から存在していたのであり、その変遷を的確に捉えることで、
戦国期を含めた「室町時代後半の社会構造」を説明出来るのではないか、という事です。
まあ、私的な領土争いの戦が横行し、負けたら最後敗者は徹底的に蹂躙されるという時代(室町末期)は、
考えていると凹んで来ますが、
その時代だって、室町中期以前の武家の精神は死んでいたのではなく、
いつでも蘇り得る状態で "秘められていた" のだと思います。
先に引用した『応仁私記』の言葉は、
斯波義廉の家臣(西軍)と、幕府軍に属する武士(東軍)の "一騎討ち" の場面のものなのですが、
もう少し続きがあって…
「勝つも負けるももののふの、道失はぬぞ本望なり、
かまえて思うほど戦いて、正(まさ)無きをあるべからず、めはれの戦いなり、人々後の証拠たるべし」
(勝っても負けても、武士の道を穢さぬことが本望だ。
覚悟を決めて思う存分戦おう。 卑怯なことがあってはいけない、名誉ある戦いにしよう。
皆のもの、後の世に語り継いでくれ!! )
見事なまでに清々しいww これが室町中期の武士の言葉です。 (口語訳は一部自信ない、すまんw)
これほどの魂ですから、そう簡単に消えるはずはありません。
延々と受け継がれ、その気になればいつだって蘇るのです。 たぶん、今も。
そんな訳で、『応仁の乱』以降の時代の変化を追っていく上で、
「なんか気になっちゃう公方」と「廃れつつも抗う武士の道義」という視点を、忘れないでみて下さい。
そうすれば、この一見無秩序な時代にも、隠れた理(ことわり)が見えてきます。
それから、この『応仁私記』の言葉は、室町武士の気概を余すことなく語っている名台詞ですが、
あえて一言で言えば、
「敗者にも敬意を」
これこそが、武士の根本精神だと言えます。
(※これはもちろん、単なる "弱者への憐れみ" とは違います。
彼らは、敗者を "弱者として下に見る" という事をしなかったのです。
なぜなら、かつてのこの国の武士は、すべてを賭して真っ直ぐに戦うことで、
たとえ敗者となろうとも、敬意を抱(いだ)かれる存在であろうとしたのですから。
それが、「負けても武士の道を失わない」という事の意味です。
…『応仁私記』ではそんな敗者を「よき敵、侮りがたき者」と讃えています。)
この『応仁私記』の台詞は、「敗者への敬意」が尊重されていた時代のテーゼ、
そして朝倉教景(宗滴)の言葉は、「敗者への敬意」が失われていた時代のアンチテーゼだとすれば、
両者は矛盾しない、同じ大和の武士の言葉だと言えると思います。
みなさんもどうかこの心を忘れずに、歴史の謎に挑んで下さい。
「勝者=正義」という視点では決して見えてこない真実が、あざやかに蘇ることでしょう。
まあ、綺麗過ぎる理想論かもしれないけど、
武力は "すべてを破壊する危険性" を秘めているからこそ、それを行使することは、
"最高に気高い精神" を身に付けた者にしか許されてはいけない、とつくづく思う。
さて、その後の洛中の様子ですが、
しばらくは東西両軍、時々思い出したかのように戦っては、イマイチぱっとしない非日常系を過ごしていました。
(※非日常系…日常系(=何気ない日常を描いた漫画やアニメのジャンル)よりは、
ちょっと戦とかあってカオスなだけで、まあだいたい日常系、という室町ジャンル。
家とか街とか、日常的なものあんま残って無いけど、まあ、これくらいは他愛も無い日常系の範疇。)
西軍も、軍事的には圧勝してんのに判定待ち、みたいな状態で出方に困っていたのでしょうが、
4月に入って、山名宗全が井楼(せいろう。物見櫓)を嬉々として立て始めたら、
二層目まで完成したところで、隣の細川勝元邸の櫓(やぐら)から石つぶてが飛びまくって来た、
というお祝いにもめげず、七丈(約21m)程のなんかやたら高いのを完成させて「どうよ?」とかしてたり、
(ってゆーか、宗全と勝元は実はお隣さんww)
畠山義就の陣に、なぜか大内政弘がこれまた凄いのを建ててみたりしてたら、
「え、じゃあうちも」と、東軍も対抗して高楼を建て始めたりして(『山科家礼記』『碧山日録』)、
なんか君たち競うところ間違ってるよ、と言いたくなることをしたり、
決着の付かない洛中の戦闘を断続的に催しては、オチのない日々を送っていたのですが、
6月8日の夜に、東軍の足軽300人余りが押寄せて、
山名宗全自慢の櫓を焼き払ったのには、さすがにぶち切れたらしく、
6月21日には、西軍による報復の大責め(しかも3日間)があって、東軍の陣は2000本の矢をお見舞いされました。
ってか、足軽の悪行には、ホント容赦ないのねww
それから、5月2日には、また東軍による斯波義廉邸への攻撃があり、
ああもう本当にしつこいな!! と文句言ってやりたいとこですが、
まあちょっと外郭が焼けただけで、やっぱりまたまた無事でした。
ただ…、5月下旬にあまり嬉しくない知らせが届きます。
「越前国で斯波義敏が兵を挙げ、国中から朝倉方を追い出したらしい」(『経覚私要鈔』応仁2年5月22日)
な、なんと!!? ってか、義敏てめぇーーww おめーも本当にしつこいな!!
しかし、今回ばかりは笑っていられないかも…。 なぜなら、
武衛邸撃砕に悉く失敗した東軍の「斯波義廉追い落とし計画」が、この頃、次なるフェーズに突入していたのです。
運命の行方が、こんなにも大きく旋回していたなんて、
義廉も、その被官たちも、誰一人知らぬまま、
やがて来る悲しい明日を、密かに約束されていたのです。
さてさて、なんかかったるいほのぼの感に包まれてきてしまったので、
そろそろパンチの効いた展開が欲しいところですね。 …いやむしろキックかな。
ではみんなも一緒に、去年の8月から伊勢国でだべってるあの人へ、元気な声で呼びかけてみよう! せーの、
よしみーー!! そろそろ出番だよ!
え? 実際のところは誰が呼び戻そうとしたかって? もちろん、みんなですよみんな。
実は、足利義視は、東軍(の義政)からも、西軍諸侯からも、オファーかかりまくりだったのです。
(※義視が伊勢国に下った経緯は、
「2-9 室町幕府の『応仁の乱』加速しはじめました「義視、加速する」」を参照。)
西軍は、「公方がいない」という唯一にして最大の弱みを十分に痛感していたし、
義視を味方につけることが出来たら、本心では西軍贔屓の義政を、東軍から奪還する布石にもなりますから(※)、
義視推戴の動きは早くからあったようで、
2月上旬には、「西軍が義視の御所として斯波義廉邸を用意し、その上洛に備えている」という話が、
奈良の経覚の所に届いています。 (『経覚私要鈔』応仁2年2月12日)
(※…注意! この時点では、義政と義視の対立は表面化してないし、2人は本来良好な関係です。
そして西軍は、常に「公方(義政)奪還は近い!」と信じているポジティブ極まりない連中なので、
ここでは、「義政の意に反しない形での義視推戴を企画した」と考えるのが自然です。)
一方義政も、既に去年からしきりに、義視に上洛を促していて、3月には上洛確実とも噂されていたのですが、
なぜか延期に延期を重ねていました。
これはまあ、なかなか準備が整わなかったという現実的な問題もあったようで、
もともと義視は義政に忠実ですから、早々に上洛して忠節を尽くしたいと願いつつも叶わぬ日々に、
当初はもどかしさを覚えていたくらいであり(『都落記』)、
そして義政も、なかなか帰ってこない義視の為に、
山城国・近江国・伊勢国の3か国の寺社本所領を「半済として義視の料所にする」という、
思いやりを見せていて(『後法興院記』応仁2年5月11日、20日、および『応仁略記』)、
一見、ここに西軍のオファー(=ちょっかいw)が入り込む隙間は無いようにも思えるのですが、
しかし、どうやら義視は、
東軍西軍双方からの使者が行き交う伊勢国での閑居な日々の中で、
『室町殿』内部の真実…すなわち義政側近の悪行の数々を知ってしまったようなのです。
つまり―――
三度の飯より正義が好きな義視の事だから…も、もしかして、もんもんと考え込んでいて上洛が遅れたの…では?
ま、まさか、そんなにたっぷり助走をつけて、ど派手にコケちゃ…うの?
しかも思い出して下さい、義政は、
『文正の政変』の時のように、近臣の讒言を真に受けてぬっ殺そうとするほど、義視に対しては短絡的になる、
という「ミステリーの域に達したつんでれ性向」の持ち主なのです。
そう――― 実はこの後、
義視の放った豪速球が、義政による盛大な『応仁の乱』ちゃぶ台返しを招いてしまうという、
とんでもない展開が!
…って、ガーン&ちーんw ああ一体、天下どうなっちゃうのさ。
(※ここでちょっと、「義視オファー」についての補足です。
義視上洛に向けて、西軍はどんな構想を練っていたのか? この点にもう少し踏み込んでみますと、
普通に考えたら、
「東軍の義政に対抗させる為に、西軍独自の公方を立てようとした」、もっと言えば、
「打倒東軍義政!を掲げて、大名側から将軍家の分裂を謀った」という、
一見するともっともらしい解釈に落ちてしまいそうですが、おっと気を付けよう、
それはかなり "下克上史観" の入った論拠無き考察です。
上で述べたように、当初西軍は「義政の意に反しない形での義視推戴を企画した」のであって、
"反義政" ではなく、あくまで"反細川勝元" の為の戦略なのです。
その証拠に…実は彼らは、
「 "義政の合意のもと" での、義政から義視への将軍権力の継承」
を想定していました。
微妙な違いと思われるかも知れませんが、ここは重要です。
つまり、西軍は終始「(東軍の)義政の意向」を重視していたし、
伊勢国にいる義視にオファーを送りまくっていたのは、
細川勝元を出し抜いて、義政&義視の "2人" を奪還する為であって、
義視 "だけ" を推戴するとか、幕府もう一つ作って義政に対抗!だとか、
そんな気さらさら無かったのです。
この時の西軍の真意については、大内政弘が家臣の麻生弘家に宛てた書状がヒントになるのですが、
(※『大日本史料』文明2年6月18日の、文明3年3月12日付け『麻生文書』)
それによるとどうやら…
義視が「新公方」となって政務を執り、義政は引退して「大御所」となる予定で、
それは "義政の意に沿うもの" であるはずだったようなのです。
…まあ結局それは上手く行かないばかりか、さらに3回転半くらいこんがらがった展開になってしまうのですがw
しかし、本来将軍家への「礼儀」と「忠義」に抜きん出た大内家が、
『応仁の乱』において、西軍として張り切り続けていたことに違和感を覚える方もいたと思われますが、
この辺の事情を知れば、納得されるかと。
つまり、「将軍(=義政)の御敵」になっているつもりは "まるで無い" のです。
ま、上記の書状については、次ページでまた触れる予定です。)
(※こちらです↓
「2-11 室町幕府の『応仁の乱』ー side by side ー 前編「知られざる、西幕府誕生秘話!」」)
という訳で、上半期は割と非日常系を満喫していた両陣営ですが、
下半期は遅ればせながらターボかけて来ます。
まあ、後半から急にやる気出して来るやつはよくいるけど、これはやはり、
義視の上洛が本格化して来たことと連動していたのでしょう。
8月、義政は、義視と知音の僧侶聖護院道興(近衛政家の兄)に、伊勢国まで義視を御迎えに向かわせ、
9月11日にようやく入京となるのですが、この頃から、戦闘その他の動きが活発化して来るのです。
東軍からしたら、もし西軍に義視を取らようものなら今度こそ絶体絶命ですし、
西軍からしたら、義視推戴に成功した暁には、「やべぇ俺らのターン来たこれ」状態ですから、
両軍、気合ゲージ満タンです。 ほのぼのしてる場合じゃねぇ!!
実は、この頃西軍は「義視オファー」と合わせて、もう一つの動きを進めていました。
それは…、京都でゴタゴタがあった時、必ずと言っていい程からんでくる、そう、
関東のヒャッハーたち!!
彼らと手を組んで…というか、どうやら古河公方の足利成氏 & 関東豪族層の方がノリノリだったらしいのですが、
西軍諸侯も「そんなら一緒にウェーブ乗っちゃう?」という流れになり、
遠隔パーティを組む運びとなったのです。
(※すっかり関東問題を忘れ去っていた君の為に、ここでちょっとおさらい!
実は、関東では享徳3年(1454)に始まった『享徳の乱』がまだ現在進行中だったのです。
(※これについては、「2-6 室町幕府の後半戦へと続く道「それは東国の渚から」」を参照。)
と言っても、もうマンネリ通り越して、この頃には「関東の非日常」も、
「ほのぼのカオス系」という新ジャンルを確立していたと思われますが、
とにかく基本の対立構造は変わらず、
「古河公方足利成氏 & 関東豪族層」 vs 「堀越公方足利政知 & 関東管領上杉派」
であり、京都の幕府つまり義政は、上杉方を擁護し、足利成氏への強硬姿勢を続けていました。)
この関東問題のややこしいところは、
京都の幕府は、上杉方を強力に援護して「古河公方足利成氏討伐政策」を一貫して続けているのですが、
古河公方足利成氏としては、関東管領の上杉とは敵対しているけど、
「別に京都の幕府への謀反の意思は無い」ということです。
(※『永享の乱』、つまり足利持氏(成氏の父)の時は、確実に京都への謀反でしたが。)
だから、『享徳の乱』初期の頃には、
京都の幕府へ恭順の意を示したりもしているのですが、
京都側が討伐姿勢を崩さず(…まあ、上杉憲忠を謀殺しちゃってますから、当然といえば当然ですが)、
堀越公方まで誕生させちゃった上、
今度は堀越公方と上杉(扇谷)が上手くいかない…という状態に、
関係者一同「ってか、どうすんのさこの始末…」と、
長期戦と化したカオス系特有の中だるみ感に覆われていたのでした。
古河公方 & 関東豪族層としては、
「上杉とは決着付けたいけど、京都と敵対したくはない」というのが本音だったと思われますが、
そこへ「なんか京都が大変なことになってるらしいぜ!」という情報が届き、
京都の幕府(つまり東軍側)の "強硬姿勢" に困っていた足利成氏はピコーンと来てしまうのです。
「あれ、これもしかして西軍とタッグ組んだら、"京都と和睦して上杉を攻撃"(※)とかいう、
夢のようなドリームが可能になるんじゃね? やべぇ、俺天才www」
という訳で早速、西軍とコンタクトを取る足利成氏でありました。
(※…ここで言う「京都」とは、西軍が義視を「新公方」として迎える事に成功した暁の幕府のこと。
この時点での西軍は、まもなく「新公方」義視を推戴し、「大御所」義政を奪還し、
「正統」幕府の運営を開始出来ると思ってワクワクしていたw
そして、足利成氏にとっては、
現時点での「上杉への攻撃」は「京都への謀反」とイコールですから、やはり憚りがあり、
どうしても京都との和睦を済ませたいと、考えていたのです。)
さてここで、足利成氏と西軍諸侯を仲介(もしくは、提案自体を)したのは誰か?という事ですが、
これは、美濃守護代の持是院妙椿と思って間違いないでしょう。
なぜなら、美濃の斎藤家は、足利持氏亡き後〜鎌倉府復活までの期間、
足利成氏を含むその遺児たちの面倒を見ていたので、両者の関係は浅からぬものがあったのです。
そして妙椿は、西軍諸侯や堀越公方足利政知からも頼りにされていた程のラスボス、ってか裏ボスですから、
単に、西軍の内輪的な利益の為ではなく、もっと天下の為の大局的な問題意識で行動していたようで、
京都の幕府(東軍側)以外のみんなが「どうすんのさこれ」状態の関東問題を、
京都と関東の "和解" に導くべく動いていたのです。 (※参照…『大乗院寺社雑事記』文明5年10月11日)
(※ちなみに、古河公方討伐の任務を受けて関東に下向した足利政知(堀越公方)も、
京都の幕府の "強硬姿勢" には疑問を感じ始めていたようで、やがて、
"討伐" より "和睦" による無為を思い立つようになります。(『大乗院寺社雑事記』文明4年5月26日)
足利政知は、某捏造系軍記の記述により、なんか「欲のある悪い人物」と思われていますが、
決してそんな事はありません。 きちんと一次史料によってこのイメージは払拭されるべきです。
還俗公方好きの私の確信に間違いは無い! …ってすみません、傲慢なこと言いましたww)
以上まとめると、関東と西軍の連携は、
「京都がゴタって分裂した時は、一方が関東と組んでもう一方を牽制する」
という、いつものパターンの延長線上なのは想像に難くありませんが、
今回は、その目的は「打倒!京公方義政」ではなくて、
「足利成氏討伐の "撤回" & "和睦" による都鄙問題の解決」が、裏ボス妙椿の真の目的だったと考えられます。
(※都鄙(とひ)…都と地方。ここでは京都&関東のこと。)
まあ、妙椿と足利成氏と西軍諸侯のそれぞれの思惑には微妙な違いもあったでしょうが、
基本的にみんな「京都の幕府(東軍側)の強硬姿勢、おかしくね?」と思っていただけであって、
別に、義政への謀反を企図して「西と東で隔たれど、魂に渦巻くカオスは一つだぜ、へっへっへっ…」と、
邪悪な企み笑いを浮かべていた訳では無いのです。
(※さて、この辺の事については実は諸説あり、
「関東と西軍の連携を示す書状」の解釈で意見が分かれているようですが、
【家永遵嗣『応仁二年の「都鄙御合躰」について』(『日本史研究』581 2011年1月)】
取り合えずこの論文を読めば、最近の動向が分かると思います。
私の拙い意見は、上にだらだら述べた通りですが、
さらに加えると、関東問題は "解決すべき問題の一つ" ではあったけれど、
それが、"京都の『応仁の乱』の動向を左右するような位置付け" だった訳ではないと思います。
西軍が義視を推戴しようとしたのは、
あくまで "東軍細川の打倒" かつ "義政奪還の布石" の為であって、
「足利成氏の為に義視を推戴して、"成氏討伐派" の義政を倒そうとした」という考察は事実に反するし、
また、関東問題の解決が、
「斯波宗家の家督問題の鍵を握る」というのも論拠に謎が残ります。
「義政は、"関東対策" として再度斯波義敏を家督に据え直そうとしていたのか?」と言えば、
東軍として復帰してきた斯波義敏が、上意によって関東問題の為に動いた形跡は無いし、
「西軍が関東問題を解決出来れば、斯波義廉の家督の地位は安泰か?」と言えば、
義政の家督改替の方針は、はっきり言って忠義も不忠も関係ないですし、
それに、室町幕府の大名家の家督というのは、そういう具体的実績を考慮して決められるものではなく、
家格や血筋、家臣の支持のが大事な要素だったので、
当時の常識から考えて、斯波義廉も西軍の誰も、
「関東問題解決が、義廉の地位安泰に資する」とは考えていなかったと思います。
西軍の考える関東問題とはつまり、
京都の幕府による成氏討伐の "撤回" であって、
「足利成氏(…というか関東豪族層)と上杉の対立問題」(=足利持氏の仇討ち vs 上杉憲忠の仇討ち)は、
あくまで関東の者達自身が当事者間で解決すべき問題なのです。
(※京都への直接の謀反だった『永享の乱』での関東への軍事介入は、妥当な対応だったと言えますが、
その時でさえ、諸大名は、義教の討伐姿勢に反対するほど、関東には "無為" を望む傾向が強いのです。)
だから、関東問題の解決が西軍の死活問題だった訳でもないし、
まして、成氏 vs 上杉の戦況が、京都の方針を決定付けていた訳でもなく、
意向が一致したことによる穏やかな同盟以上のものではないと思います。 まあ、つまり彼らは、
「西と東で隔たれど、魂がライドするウェーブは一つだぜ!!」
くらいの乗りだったのではないかと。
でも、君たちの乗ってるの、どっちかってーと、電波だよ、電波。)
さて、そんな訳で、足利義視の去就には、
西軍、東軍、京都に関東、みんながワクテカ待機で大注目していたのです。
さあ、今度こそ西軍大逆転来るか!?
それでは! 水面下で進行してた「義視争奪戦」、そろそろ海上にて2ndラウンド、んーーーっっファイ!!
先制攻撃は7月10日、細川勝元の謀略ストレート! ―――「新管領は、私です。」
★※くぇqwy@t!!?
説明しよう! みんな忘れていたと思うけど、実は未だに管領は斯波義廉のままだったのだ!
義政の考えている事は全く以て意味不明だが、
この時期に「義廉の管領罷免 & 勝元の新管領就任」がなったのは、
まあ普通に考えれば、焦った細川勝元が、義政に強く迫ったのだと思われる。
しかし、西軍もポジティブさでは負けないので、これ以降も義廉を「管領」と呼び続けますw(『大乗院日記目録』)
(…とは言え)
うう、やっぱちょっと痛ぇ…
何を言っている! こんな事くらいで凹んでどうする! 立てよ西軍!!
7月21日、東軍の要請を受けた山科の地下人、西軍の糧道を断つ。
(※山科(やましな)…京都市東南部、京都駅の一つ東)
うう、俺のめしが…
8月1日、相国寺焼け跡の畠山義就の陣を、東軍数百人の兵が攻める。 3日間の戦闘、決着付かず。
むむ、義就を攻めて来るとは、東軍もマジだな。
なんかここ数年は、夏の終わりに本気出して来るよね君ら。
晩夏の夏祭りの切なさが、何かを彼らに訴えるのか…
8月 4日、青蓮院ほか、東山の諸門跡戦火に包まれる。
8月 7日、西軍、清水寺に陣し、清閑寺(清水寺の少し南)から山科方面へ反撃。
8月13日、14日、16日、東軍による藤森・深草・竹田・東福寺周辺(京都駅の南方)への総攻撃。
8月25日、東軍、嵯峨に攻め入って、西軍の民家を焼き払い、西軍に60〜70人の戦死者。
8月26日、東軍、妙法院、泉涌寺(東福寺の少し東)を焼く。
8月24日、西軍、上御霊社を焼く。
8月27日、東軍、西軍が西岡を攻めるとの噂に先回り防御。 (※西岡…京都市南部、桂川の西岸地域)
9月 4日、東軍、仁和寺を焼く。 仁和寺に布陣していた西軍、慌てふためく。
9月 6日、東軍、藤森神廟を焼く。
なんか…、西軍のやられっぱなし感がw
しかも、8月7日の俺のめしの件での反撃は、猛勢で攻め寄った割に、
「 山科の地下人へ
おいおめーら糧道あけろっつってんだろこら! 何度も言わすなぼけ! 孝景より」
と、お手紙(=奉書)で何度も文句言うだけ言って、3日後には退散してしまいます。(『山科家礼記』)
どうやら、なんか一日中物運んでたようですが…。 よっぽど腹が減ってたのか??
(「終日此辺運物」『後法興院記』応仁2年8月8日)
なんかアリみたいでかわいいw …って、おい! 何だそれ!
ハートフルに金魚すくって綿あめでもふもふしてんのが、おめーらの夏祭りか!? そうじゃないだろ!
立てよ西軍!!
9月7日、西軍大発、嵯峨の東軍に8月25日の倍返し。 一方で、船岡山の西軍攻め落とされる。
むむ、イーブンか。
ところで、彼らも後先考えずハチャメチャに暴れていたのではなく、
戦闘の時は、戦火を避けるため仏像などを避難させる事もあったようで、
この時は、朝倉勢が法輪寺(京都嵐山)の虚空蔵像を、慧峰三聖寺に移動させています。
(『碧山日録』『大乗院寺社雑事記』…『大日本史料』応仁2年9月7日)
って、何それ、まさかのいい話??
まあ、足軽による略奪や、移動先で行方知れずになってしまったものも多かったようですが、
朝倉孝景は、実はめっちゃ神仏を大切にする人なので、保護だった…と思うw
(※特に清水寺との関係は、自信を持って「室町美談」認定致します! 詳細は別ページで。)
この法輪寺の本尊虚空蔵菩薩は「嵯峨の虚空蔵さん」として今も親しまれているそうですから、
無事に帰ることが出来たようですね。 よかったよかった。
やっぱり本当の武士は、仏像を大切にする! 盗んだりなんかしない!
…と褒めて終わりにしたいとこですが、だったらそもそもヒャッハーするなって話でもあって、
実は、この嵯峨での戦闘では、天龍寺とその子院、臨川寺などが灰燼に帰してしまうのです。
って、おーい、天龍寺はめっちゃ大事な寺だろが! 臨川寺も夢窓疎石ゆかりの寺だろが!
まあ、天龍寺はこれまでも何度も火災には遭っていて、
特に文安4年(1447)7月5日は「悉く炎上」「以後の建立、有名無実」と言うほどの相当の被害だったのですが、
(…しかもこれ、義教の七回忌の直後、間わずかに10日間)
この応仁2年(1468)の焼失以降は、その後、漸次再建されていったものの、
遂に盛時の規模に及ぶことはありませんでした。
天龍寺造営の歴史的意味を思うと、"室町幕府後半戦の波瀾" を予告するような出来事だったと思います。
(※天龍寺について、
一般的には、「後醍醐天皇の菩提を弔う為に、夢窓国師を開山として足利尊氏が建立した寺院」
と、さらっとしれっと説明されているだけですが、
実は、この禅院の誕生には、遥かに深い "人々の願い" と "時代の祈り" が込められていたのです。
それらは、落慶供養の際の夢窓国師の説法などにありのままに語られていますが、
まあ、詳細は別の機会に譲ります。 ってか、また完全に止まらなくなるのでww
もちろん基本的には「後醍醐天皇の鎮魂」を目的としたものですが、単に祟りへの恐れに留まるものではなく、
まして、「敵対していたはずの相手を慰霊するなんて偽善や建前だ」なんて捉え方は、
これまでの(近代以降の)間違った歴史を信じてしまっている悲しい証拠です。
「幕府創生期の真相」と「天龍寺の真実」を知れば、
古来の日本人が、どんな精神・感覚の持ち主だったのかを思い出す事が出来るでしょう。
波瀾の時代を誠意を持って生き抜いた人々の思いこそ、本物だと思います。)
さて、ちょっとやっちまった感が拭い去れませんが、ただ、この直後の展開を知ってしまうと、
この天龍寺炎上は、人知では抗えない、"天に描かれた定め" のようにも思えてなりません。
彼らはたぶん、夢を描いたつもりでいながら、描かれた夢の中にいたのです。
9月11日、足利義視、入京する。
みなが固唾を呑んで見守る中、義視が帰京を果たし、
激しかった両軍の戦闘も、しばらくはほぼ休戦状態となります。
(※ちなみに、この時点での義視は "東軍" として京都に迎え入れられています。(『応仁別記』)
その行粧(行列の出で立ち、装い)は厳かで、壮観だったとか。)
あんだけ勝手なバトル繰り広げてたくせに、公方が動き出した途端、ぱったり静かになっちゃうところが、
室町ヒャッハー達の面白すぎるところですが、
さてその義視、一年振りの兄弟の再会を喜び合… ん、なんだか少し様子がおかしいようですが?
あれ、もしかしてなんか怒ってる??
―――数日後、義視から義政へお手紙が届く、それは…
なんと「諫書」でしたwww (『碧山日録』応仁2年9月22日)
恐らく内容は、
「おい、あの根性曲がり腐った奸臣ども、いい加減どうにかしやがれ! 今すぐ排除だ、分かったかこら!!」
くらいのものだったかとw
義視の歴史的飛び蹴りキターーー!?? いやいや! こんななでなでパンチじゃ済まないぜ!!
だってこの諫書は、
義政の取り巻きの「邪徒両三輩」(腐り切った野郎3人)(『碧山日録』同上)によって、
排斥されてしまうのですから。
ああムカつく! ホントムカつくww もうこいつら足軽より百兆倍ムカつく!!www
てめーらの汚さにはうんざりだ!
もう頼れるのは義視しかいない、天の正義の使者となり、邪悪に鉄槌を下してくれ!!
9月22日、ぶち切れた義視、直接『室町殿』に殴り込み、義政に「大訴」する。(『後法興院記』応仁2年9月27日)
義視、覚醒キターーーー!!www
この頃の義政周辺の佞臣(ねいしん。媚びへつらい邪心を抱く臣)は、
ホントに天誅3〜4発お見舞いすべき輩だったと思われますが、
しかし、公方相手に正面切って諫言なんてのは、命かけなきゃならん事ですから、
義政にこんな事が出来るのは、義視くらいだったのです。
ああ、とうとう義視のムロミカルドロップキックが炸裂したか! よくやってくれた!
…と言いたいとこですが、
実はこれでも、ぬこぬこパンチのにゃんにゃんダメージしか与えられませんでした。
なぜなら、余りに直球過ぎた為、義政のただでさえ斜めったつんでれ性向を、
極端につんつん側につんのめらせてしまったのです。
「室町殿御内損大略御大事可出来歟、依之今出川殿御出家事、頻自細川方申勧云々」
(『大乗院寺社雑事記』応仁2年10月1日)
つまり、義政がめっちゃ機嫌損ねて、マジカル一大事。
焦った細川勝元が義視に、
「しゅしゅしゅ、出家なさった方がいいですよ、出家!」(ガガガガクブル)
と進言する事態に。 …な、なんてこった。
ちなみに、この佞臣の一人は日野勝光(御台日野富子の兄)です。(『後法興院記』『大乗院寺社雑事記』)
義政は、義視の諫言を無視して日野勝光を囲い続け、御所事情はまさに「物騒」
…って、あれなんか事態がとんでもない方向に悪化しているような??
まあ、義視の(恐らく父譲りの)直球厳密属性は、いつかなんかやらかすとは思っていましたが、
うーん…そう来たかw ああ、天下どうなっちゃうのさ。
さてそんな訳で、大名たちは「京都両陣は一向合戦を止む」と言うのに、『室町殿』内だけは「色々物騒」、
という意味不明な展開になって参りました。
まあ、洛外や西岡、鳥羽などの周辺地域では、時々ちゅどーんとしてたのですが、
基本的にみんな、"俺らのボス達" のぶっ飛んだ動向にすっかりおののいて、体育座り待機をしていたようです。
「公方も大名たちも、みんな上下(かみしも)着てるって。 え、何それ、一天泰平??」
(『大乗院寺社雑事記』応仁2年11月9日)
(※上下(かみしも)…直垂(ひたたれ)、素襖(すおう)などの武士の平時の装束。
つまり、みんな鎧脱いで日常系に戻ってたってこと。)
と言っても、そんな、まさかのほのぼの展開に騙されてはいけません。
ぬくってる大名たちとは対照的に、『室町殿』には天下の全世紀末が結集しつつあったのですから。
義視が、義政に諫言ストレートをお見舞いした約2か月後の閏10月16日、
義政はとうとう、御所に伊勢貞親を出仕させてしまうのです。
(※説明しよう! 伊勢貞親は『応仁の乱』本戦開始直後に、逼塞先の伊勢国から上洛していたのだが、
義視を憚って、『室町殿』には出入りしていなかったのだ! んなこと忘れてたよね!)
って、えええーーーーっっ!! すんげー嫌がらせカウンターパンチwww
義政は、「悉くみな」かつての様に伊勢貞親に政務を任せ、御所は「以ての外物騒」という状況に、
「今出川殿(=義視)が既に自害したらしい!」という噂まで飛び交います。(『後法興院記』応仁2年閏10月25日)
「今出川殿と公方様、めっちゃ仲悪くなっちゃって、みんなガクブルしてるってさ。
ってか、何なの? 意味不明なの? まさに天魔の所行!!」 (『大乗院寺社雑事記』応仁2年11月9日)
ああホント、イミフですよ。この公方はイミフですよ。
何この「振り出しに戻りました」感。 『文正の政変』とは何だったのか?
……。
あれ? これってもしかして、『文正の政変』リターンマッチなの??
それってまさかの、斯波義廉超絶ピンチ…
そう、実は、細川勝元による「武衛邸襲撃作戦」なんて、所詮は潔い武士の真っ向勝負でしかなかったのです。
伊勢貞親の謀略の前では、細川勝元さえも " 策士(見習い)" となってしまう、
そんな、闇から紡ぎあげたような漆黒の謀略が、既にスタートしていたのです。
閏10月14日、朝倉孝景、弟3人と手勢を引き連れて、越前国へ下向する。 (『大乗院寺社雑事記』)
え…。
伊勢貞親が御所への出仕を開始する2日前のこと、
「越前国が大略斯波義敏に討ち取られた」という知らせに、急ぎ、朝倉孝景が駆けつける事となったのです。
そしてこれは、単なる越前奪還の為の下向ではありませんでした。
その裏に幾重(いくえ)にも思惑を秘めて、
主君義廉と、その部下朝倉孝景を引き裂く、最後の別れとなったのです。
幕府に出仕を始める以前から、伊勢貞親はある策略を実行に移していました。
それは…、西軍からの朝倉孝景の引き抜き。
参御方致忠節者、可有御褒美之由被仰出候、恐々謹言
九月卅日 貞親
朝倉弾正左衛門尉殿
(公方に参り忠節を致すならば、褒美を下されるとの仰せがあった。 謹んで申し上げる。)
9月30日、伊勢貞親の使者から内密にこの書状を受け取った朝倉孝景は、本当に上意なのかと目を疑ったそうです。
しかし、これは紛れもなく義政の上意。 なぜなら、
連々被仰出候朝倉弾正左衛門尉事、此時馳参御方致別忠候之様、早々計略肝要候也
九月卅日 御判
伊勢とのへ
(しきりに言ってる朝倉孝景の事、すぐにもこちらに参って別段の忠節を致すよう、早く計略を廻らすように。)
という、義政から伊勢貞親に宛てた御内書の写しが、残されているからです。
(※以上の二通は、『朝倉家記』と『澤巽阿彌覚書』に収められている書状の写しですが、
『朝倉家記』は朝倉家に伝わる記録、『澤巽阿彌覚書』は伊勢家に伝わる記録ですから、
両者の一致は、この書状が本物である事の裏付けと言えます。 ※ただし日付には若干のズレあり)
この二通目の御内書より、この計略は義政の本望だったことが分かりますが、
しかし、発案自体は伊勢貞親によるものだったのではないかと、私は考えています。
すなわち、これは、
これまでの、「義廉に、家臣孝景の首の献上を強制」したり「武衛邸への総攻撃」という作戦から一転、
西軍最強とも言える朝倉孝景を味方に取り込む事で、
"東軍の軍事力増強"、"西軍の弱体化"、そして "斯波義廉の失脚"、そのすべてを同時に可能とさせる、
伊勢貞親の美しいまでに冷酷な策略、
君臣に打ち込まれた容赦ない楔(くさび)は、冬の闇から切り取った、凍てつく氷の牙だったのです。
義政と伊勢貞親から内密の誘いを受けたひと月半後、朝倉孝景は越前へと旅立ちます。
そして三年ののち、東軍となったことを明らかにし、その後再び京都に戻る事はありませんでした。
西軍一の猛将として脇目も振らずに戦い続け、もしも西軍に終わりの日が来るのなら、
その最後の一人となるだろうと誰もが思った朝倉孝景の、余りにも突然過ぎる、「京との別れ」でした。
日記に残る当時の人々の驚きや戸惑いは当然で、
そしてそれは現在に至るまで受け継がれ、
「斯波義敏から国を取り返すというのは口実で、主君義廉を、そして西軍を欺く為の "裏切りの下向" だった」
そう思われ続けて来ました。 しかし ―――
ここで、断言します。 そうではない、と。
そんな単純な話でも、目先の利益に友を捨てた話でも、野心に舞い上がって主君の背を撃った話でもなく、
もっと真相は深く、もっと信頼は厚く、そして誓った忠誠に偽りはなかったのです。
もちろん、いきなりそんなこと言われても信じられるものではないと思います。
私も、一般的な説しか知らなかった頃は、
「朝倉孝景は西軍から東軍へ寝返った」という表面の理解に留まって、
その先の「なぜ」を問うまで踏み込んでいなかったのですが、
そんな時、朝倉孝景が子孫に残した『家訓』をじっくり読む機会に出会い、
そして、純粋に疑問を抱いたのです。
「この人が、そんな安易な裏切りをするだろうか?」
十七条から成るその『家訓』が語る孝景という人物は、確実に「真相は別の所にある」と予感させたのです。
そんな不確かな「確信」、でも確実な「予感」を信じて、一次史料に真相を探しに行ったら…
出て来る出て来るww
「裏切り」や「寝返り」ではまるで説明がつかない、矛盾する史実のピースがわんさか出て来て、
一からパズルの組み直しとなりました。
そして出来上がったのは…これまでのものよりずっと美しい "真実の画" に仕上がったと、自信を持っています。
通説とはだいぶ異なるけれど、でも逆説を唱えているつもりはありません。
(通説の否定を目的とした "逆説の為の逆説" が、私は好きではありません。)
ただ素直に、一次史料の事実を矛盾しないよう組み合わせてたどり着いた、単なる素朴な真実だと思っています。
(これは…本当に意外に思われるかと思いますが、
史料を詳察すると、「孝景裏切り説」を導く事の方が、実は不可能なのです。)
ただ…、これまでの「裏切りで一国を手に入れた男の成り上がりストーリー」よりは、
輝かしくも悲しい物語ではありますが。
あーさて、気を抜くとすぐ朝倉マニアックな方向にとっ込んでしまうので、そろそろ我に返ります。
まあ、とにかく、義政と伊勢貞親の方針転換によって、朝倉孝景の運命は大きく旋回することになったのです。
あくまで被官クラスのいち武将でしかない孝景が、とんでもない褒美付きで公方から帰参を所望されるって…
どんだけ孝景の実力は世間に知れ渡っていたんだよww
(※実際、『長禄合戦』の孝景一人勝ちについては、遠く関東まで知れ渡っていた。→『上杉定正状』)
しかし、この策略の発案が、伊勢貞親ではなく本当に義政だったとしたら…
義政を見る目が180度変わってしまう…
え、みなさんはどう思いますか? 私は、「貞親を凌駕する策士義政」とか、なんか絶対に嫌なんですがwww
いやあぁぁーーっ!! そんな、へっぽこじゃない公方様なんて嫌だぁぁーーーっっ!!
まあしかし、この後も一貫して義政は朝倉擁護を続けますから、
朝倉からの公方への忠誠も比類ないとは言え、義政自身が孝景を認めたのは確かでしょう。
秩序を無視した利己的な下克上ではなく、
ただ一途に誠意と実力を蓄え、認められる事で運命を切り開いて行く朝倉孝景 ―――
とかもう、かっこよすぐる訳ですが、
しかし、東軍は当時、他にも(孝景ほどの褒賞を伴うものではないが)勧誘政策を推し進めていて、
"公方の名のもと" に忠節を促された西軍被官や地方の国人の中には、
(東西軍の間で)厳しい立場に立たされる者も少なくなく、
さらにそれは、各地に無益な戦乱の火種を蒔く事にもなって、
運命に翻弄されて果てて行った者達だけでなく、運命を掴んだ者達もまた、
その栄光はあくまで、払った犠牲の残酷な代償だったという事実(※)は、
これから朝倉孝景がたどることになる道にも、そのまま当てはまるのです。
(※…これはもちろん、孝景が手にした栄光を否定しているのではなく、
勝者には、敗者の分も含めた「すべての罪を背負う覚悟」が求められると言う意味です。
「勝てば官軍」とばかりに、自身の全行為を正当化するような者には勝者になる資格はないし、
まして己が犯した罪への糾弾を恐れて、敗者に罪をなすりつけ徹底的に貶めようとする臆病者に、
「英傑」や「正義」の称号を与えてしまったら、それは亡国の始まりです。
積める罪業の重みに耐え、それを償って余りある善政を施せる者だけが、
「英雄」と呼べる真の勝者なのです。
私は、朝倉孝景は全く罪を犯さなかったとは思わないし、
それは、幕府の創始者である足利尊氏や直義、東国の伊勢新九郎盛時(北条早雲)にも言える事ですが、
しかし彼らは、罪業を背負う強さを持ち、
そこから目を逸らさずに正しい政道を目指して行こうとする覚悟を備えていました。
特に、尊氏と直義については、それが時代に課されたやむを得ない戦いだったとしても、
その罪のすべてを、自身の業として受け止め贖(あがな)おうとする真摯な覚悟を持っていたことが、
夢窓国師の言葉に残されているのです。
何より、天下を手にしたにも関わらず、
敗者となった前政権を「不当に貶めるプロパガンダを展開していない」という事実は、
彼らが私欲に満ちた覇者ではなかった事の、紛れも無い証です。)
それから、これが西軍への裏切りではない事は、これから徐々に納得してもらえると思いますが、
これまでの経緯を知るだけでも、
『応仁の乱』以前からの畠山義就との同盟、最後の一人になってでも貫こうとする山名宗全への忠義、
そして、『経覚私要鈔』や『大乗院寺社雑事記』に見える、斯波義廉の第一の重臣としての仕事振り、
などなど、そう簡単に切れる繋がりで無い事は容易に想像がつくし、
何より、本人の立場に立ってみれば、この関係を断ち切るなんてどれ程の未練が残る事か。
それに、彼らは大名であるのに対して、朝倉孝景はあくまで被官クラス、
当時の武家社会の身分秩序を考えれば、被官クラスが独断的な行動を取って大名と対等に渡り合おうなんて、
目先しか見えてない愚か者でない限り、まず考えない事です。
(※孝景は『長禄合戦』でも実証済みのように、めちゃめちゃ戦に強いですが、
それは単に力が強いのではなく、日頃から部下との信頼関係を大事にしていたからです。
(※参照…『大乗院寺社雑事記』文明4年10月13日、『朝倉宗滴話記』第23条など)
その孝景が、西軍諸侯を安易に裏切って、自ら信義を破り捨てるなんて、どう考えても無理がある推理。
信頼って、失うのは簡単だけど、築くのはもの凄く大変なものです。
『六韜』『三略』に精通していた孝景が、んな短絡的なことするとは思えません。)
つまり、伊勢貞親から内状を受け取った孝景は、当然の事ながら、
主君斯波義廉や西軍大将の山名宗全に、この事を告げたと考えられます。
そして、西軍諸大名の内々の了解を得て、越前国に下向したのです。
(※いきなり何を言ってるのか訳分からんかも知れませんがw、
孝景はこの下向に際して、
嫡男の朝倉氏景(うじかげ。この時20歳)に200程の手勢をつけて、西軍として京都に残していますから、
西軍の主要大名が、朝倉の行動の真意を知っていたのは想像に難くありませんが、
下向後も孝景は、西軍と連絡を取り合っていた形跡があるのです。
(※参照…『大乗院寺社雑事記』『朝倉家記』)
もしこの下向が、西軍を完全に欺いたものだったとしたら、
嫡男の朝倉氏景が、3年間も無事に西軍として在京出来るはずはないし、
(その間、当然京都では様々な噂が飛び交っていた。 ※参照…日記や伊勢貞親の書状)
はっきり言って西軍から討手が下されるか、何かしら妨害を受けたはずです。
(実際、畠山義就の縁者や大内政弘の家臣で、離反により誅された者がいます。)
しかし、そんな形跡が無いどころか、西軍は朝倉孝景の行動を後押ししていた気配さえあるのです。
朝倉からの義政への忠誠に嘘は無いけど、それでも、心だけはずっと西軍だったのです。)
「斯波義敏(東軍側)が国を討ち取った」という情報は、
孝景(この時点ではまだ西軍)が下向後すぐには何等の動きも見せなかった事から、
風説に過ぎなかった様ですが、
しかし恐らく、みんなそれを知った上で、
その建前のもとに「西軍斯波義廉の命令として、朝倉孝景を下向させた」という形を取ったのだと思われます。
この情報を流したのが、東西のどちらの陣営かは分かりませんが(どっちでも仮説は立てられます)、
それを最大限に利用して、
東軍へは「この情報に乗じて西軍として越前に下向したのち、西軍方の勢力を国から追う」という算段で、
義政や伊勢貞親から下向の了解を得た一方で、
西軍に対しては「必ず、初志を遂げる」と約束して、京都を後にしたのだと思われます。
…え、だからお前は何を言ってるんだ状態ですみませんww
しかし、孝景は下向後3年もの間、明らかな戦闘行動を取らず、水面下で東軍と交渉を続けます。
それは、エサに釣られて飛びついた場当たり的な寝返りではない事の証左であると共に、
胸に秘めた確かな "大志" があった事を示しています。(※参照…『朝倉家記』収録の一連の書状)
んなこと言ったって、
「裏切りではなく東軍に降り、公方に忠誠を尽くしながら、目に見えぬ信義だけで西軍側との契りを保つ」
なんて荒技が可能なのかよ!
とか思うでしょうが、実は、これを可能にしたのは朝倉だけではないのです。
(※大内さんとこの仲間の話なのですが、この話は、またいずれ。)
そんな荒技を可能にした唯一にして最大の要素は「信頼」。
この日まで地道に築き上げてきた「信頼」は、東軍と西軍の枠を超える事すら可能にしたのです。
『応仁の乱』ってのは、「東軍西軍の絶対的な憎み合い」「義を無視した利の追求」
といったエグイものだと思っていると、真実を知った時ぶったまげるぞ!
さて問題は、
そんなに強い同盟で結ばれた西軍との関係を、
「なぜ表向きには断ち切らねばならなかったのか?」という事です。
もちろん、公方の直々のヘッドハンティングを無下に断れないのもあったでしょうし、
幕府創生以来、足利将軍家に仕え続けて来た朝倉家として、これ程の面目の至りは無い訳ですが、
『応仁の乱』本戦開始時の、上辺だけの"宗全退治の御旗" になど、毛程も怯まかった孝景のスタンスを思うと、
どんな褒美を提示されようと、自身が納得いかなければ公方の誘いをも断りかねないような気もしますが―――
ポイントとなる視点は…
なぜ、西軍として越前に下向するという形を取ったのか?
なぜ、世間から裏切り者の汚名を受けてまで、東軍にならねばならなかったのか?
そもそも、義政が朝倉孝景に期待した "働き" とは何か?
なぜ、西軍諸侯はそれを了承したのか?
…といったとこでしょうか。
そこから浮かび上がる仮説とは、すなわち ―――
この誘いを朝倉孝景が受けたという事は、義政が期待した "働き" が、元より孝景の望む所であったのであり、
それは、こういう形でなければ実現出来ないものだったのであり、
それはいずれ孝景が為すべき事だと、西軍の大名たちも感じていたからこそ、背中を押したのであり、
だからこそ、義政への忠誠に嘘は無く、西軍との信義に変わりはなく、
しかし、こんな形だったが故に、その約束を遂げるまでには、
最も残酷な別れと決裂をたどらねばならなくなったのです。
――― 恐らくそれは、『長禄合戦』の頃から、みなが予感し始めていた事。
しかしその日は、"誰も予測しなかった形" で、"突然に" 訪れた。 それだけなのです。
結論を言ってしまうと、その志は、見事なまでに達成されます。
いやむしろ、想像以上の未来を、越前に掴む事になります。
しかしここで注意して欲しいのは、
その上手く行った「結果」から逆算しても、真相には至らないという事です。
「孝景は東軍となって越前を手に入れた」という結果から「したたかな裏切りだった」としてしまうのは簡単ですが、
しかし、京都を立った時点では、孝景は "未来の結果" を知らないのです。
孝景が目指したものは、一か八かの賭けにも等しい、蒼い写真の中の越前です。
ただでさえ慎重に慎重を要するのに、「裏切りによって上手く事が運ぶ」だなんて、果たして考えたでしょうか?
現在から過去を俯瞰している私達は、つい、(彼らにとっては)遠い未来の結果から、
過去におけるその行動を理由付けてしまいますが、
しかし、彼らは "未来の結果" を知らずに "そこ" に生きていて、
その時点その時点で最善の方法を選んで、一歩一歩前に進んでいたに過ぎないのです。
つまり、その過去の時点では、彼らの未来はまだ一つには決まっていなかった、
いくつもの未来が、等しい可能性を秘めて、その視線の先に平行線を描いていたのです。
先に、「室町幕府の創生期」を例にとって述べましたが、
(※こちらです→「2-7 室町幕府の後半戦はじめました「歴史迷宮攻略法」」)
歴史を考察する際は、この「時間の流れる方向」に十分に気を配ってみて下さい。
それからもう一つ、正しい考察の為には、
やはり人物像というものを的確に捉える必要があります。
("間違った人物像" を基に解釈された歴史ほど、始末に負えないものはないw 俗に言う「過大評価」。)
これは史料的制約もあってなかなか難しい事ですが、
上手く実像に迫れたなら、
彼らの行動原理にはそれぞれ個性があり、しかも一人の人間としてかなり一貫していることが分かるでしょう。
皆が皆、「したたかに合理的に自己利益の最大化を目指していた」という前提では、
歴史に真実を読む事は出来ません。
まあ普通に考えても、皆が一律にそんな機械的な思考だったら恐いよねw
「室町幕府創生期」で言うなら、真実を描き出すには "足利直義" という人物を知る事が不可欠であり、
その為には、直義にも時代そのものにも、多大な影響を与えた "夢窓国師" の人物像を知る必要があるのです。
(さらに、"花園法皇" の哲学に迫ればこの時代は完璧! って、尊氏さんどっかいっちゃってますがw
(まあ、足利尊氏は別の意味ですごいので、ここでは保留して…)
この3人…いや御2人+1侍は、時代を超えて「日本の規範」となるべき賢聖(けんじょう)です。
必ず再見される日が来るはずです。
共通するのは、仁政徳治の「王道」の追求者であったと言うこと。
そこに本当の目指すべき未来があります。)
朝倉孝景の人物については、別の機会に思う存分語りたいと思いますが、
簡潔に言えば、朝倉教景(宗滴)にムロマチスト分を加えた感じでしょうか。
まあ、ど派手な事した割に結局コケなかったけどw
『朝倉宗滴話記』に曰く、「英林様の身の上には、奇特神変の事が多かった」
(孝景の一生は、マジカルでミステリーな "神様による不思議" の連続だった。)
なるほど、そういう事かw
と言っても、それは単なる偶然ではなく、
それまでの人生で絶え間なく修養を続け、理非善悪を正しく分ける事を信条とし、神仏を大切にしてきた者へ、
天が与えた答えなのだと思います。
この後、越前で三年の沈黙ののち立ち上がった孝景は、すべてを賭けた十年を走り抜く事になります。
上手く行く保証などどこにもない、闇に閉ざされた予想も出来ない未来、
それでも、真夜中の未来図にまだ見ぬ日頭を描いて、ただそれだけを信じて、そしてそれを実現してしまうのです。
抱いたものは、仮初(かりそめ)の野心などではなく、乱世に一つ、『彼の岸』を咲かせた100年の約束。
京都を旅立つ時、孝景が見据えていた「越前の明日」とは?
天に描かれた夢の中、抗える部分は少なかったのかも知れない、
それでも一途に最善を目指して駆け抜けた、真面目で揺るぎない一人の武士の物語が、ここから始まります。
さて以上が、「朝倉孝景の東軍帰参」についての概略、具体性に欠けるので納得しづらかったと思いますが、
この先少しずつ史料を提示して行きたいと思いますので、どうぞよろしく。
ってか、我に返るとか言っときながら、全然返ってなくてすみませんw
そろそろ『室町殿』の話に戻ります。
よしみーー! 出番だよー!
朝倉孝景が越前に下向し、伊勢貞親が幕府に出仕を始めた1か月後、つまり義視が上洛してから3か月後に、
御所事情は最終局面を迎えます。
『応仁の乱』、ここへ来てまさかの2ndフェーズです。 こっからが本番かよ!
11月10日、義視の元へ内々に祗候していた有馬元家が、義政の命令により赤松政則の手の者に誅される。
な、なんという物騒。
有馬元家は赤松家の一族であり、義視のもとに出入りしていた事に加え、
赤松家の惣領の座を求めた為に、赤松政則(現赤松家惣領)に誅されたそうですが、
単なる赤松家中の問題でもなさそうですよ、これ。
11月13日、烏丸益光が、義視&細川勝元と同心して日野勝光の弾劾を図ったとして、御所を追放される。
烏丸益光は、烏丸資任の子息です。
有馬元家、烏丸資任と言えば…『室町殿』の新造以前まで、義政の側近として勢力を保っていた「三魔」の2人。
もう1人の今参局は、日野重子(義政母)+日野富子(義政御台)との勢力争いに破れて自害を迫られ、
1460年頃を境に、側近集団は日野兄妹と伊勢貞親に入れ替わっていた訳ですが、
その対立構造が今なお燻っていた(もしくは再燃した)ようです。
烏丸益光の追放は、日野勝光と御台日野富子の一方的な訴えによるものであり、結局、真偽の糾明もないままに、
義政に命じられた武田方によって、御所の門前にて捕えられそうになったところを、
細川勝元が数百人の兵を出して迎え取り、間一髪危機を逃れたのでした。
…つまり、
この御台兄妹は、上意を利用して敵対者の排除を始めたのです。
しかし、烏丸資任と言えば義政の乳父で、二十歳過ぎまで烏丸邸を御所としていた訳で、
この烏丸益光の件で、父の烏丸資任も急遽上洛したそうですが、
幼少期の育ての親に対して、これでいいのかよ…とは思う。
もっともこの背景には、義政の意向より、御台兄妹の私曲が強く反映されていたのでしょうが。
『大乗院寺社雑事記』によると…
日野勝光は、義政の傍に居座り、自身の取り巻きを大勢抱えて、雅意に任せて(思うがままに)振舞っていて、
さらには、伊勢貞親だけでなく以前追放されたその他の近習も悉く赦免され、
『室町殿』内は元の如く(大乱以前、いや『文正の政変』以前)という状態に、
義視と細川勝元は、すっかり立場を失ってしまったそうです。
義視、勝元 「 ( ゚д゚)゚д゚)゚д゚) 絶句ストリームポカーーーーーン 」
しかし、のん気にぽかんとしてる場合じゃありません。
なんと、義視までも誅伐されるとの話があり、実はこの13日の暁、義視は比叡山延暦寺へと脱出していたのです。
しかも雑人の格好して徒歩で。(泣くw)
近衛政家は、兄の聖護院道興からの話を日記に書き記していますが(『後法興院記』応仁2年11月21日)、
義政の機嫌は相当に悪かったらしく、義視と知音の聖護院道興はほとほと困っていたとのこと。
(※「迷惑」は、「困り苦しみ、途方に暮れる」こと。「人から嫌な事されてムカつく」ことではありません。)
とは言え、ここで疑問なのは、
なぜそこまで義政は、義視に対して "極端に" 機嫌を損ねていたのか?…という事ですが、
実はこれ、御所内に蔓延する「義視への讒言・誹謗中傷」が原因でした。
しかも、その出所はなんと――― 日野富子と日野勝光。
…絶句。
しかし、それを真に受けて、義政は義視を誅伐しようとしたのです。
…絶句。
本当に腐り切っている。
巷に流れる噂の酷さは、「筆舌に尽くし難いものがあった」と、当時の日記は語ります。
凄惨な「讒言・誹謗中傷」で兄弟の仲を決定的に引き裂き、さらに、相容れない近臣を徹底的に排除し、
義視の「大訴」も、烏丸益光や細川勝元の訴えも、自身に不都合な事を言われれば上意を利用して「消す」。
…うーん、そりゃないわ。
ってゆーか、なんなんすかね。この意味不明感。
天狗なの? やっぱ天狗なの?? もうこの兄妹に呪われてるとしか思えんw
「両陣は一向に合戦を停止してるってのに…、御所内部だけ物騒」(『大乗院寺社雑事記』応仁2年11月22日)
ああ、やっぱなんか『室町殿』に巣食ってるよ。
こりゃ人知じゃ抗えないか…はぁ、もうどうしたら…
ん。
ところで、11月13日の暁に延暦寺に難を逃れた義視は、今頃どうしているんだろう?
もう『室町殿』に戻る事も、戻る気も無いだろうけど、
「諫書」も「大訴」も届かないんじゃ、残された手段なんて他に無いよね…
あれ。
延暦寺と言ったら、まあ父義教の時代は大変な事もあったけど、
なんだかんだ言って "対カオス最終兵器義教" が、一時期天台座主を務めていた鎮護国家の総本山。
――― つまり、霊力最強!!
もしや。
義視、再覚醒…来る? こ、今度こそ、期待しちゃっていいの?
ぬおぉぉぉーーーーーーっっっ!!! (リビジョン中)
待たせたな! 義視の歴史的飛び蹴りは、比叡山山頂より愛を込めて!!
新生足利義視 Ver.1.468 。 父義教の霊剣エクスカリバー、「正義の剣」をかざして今ここに!
―――義視は、召喚魔法を唱えた!!
出でよ! ナイツオブラウンド…じゃなかった、
西 陣 の 猛 獣 達 !!!
ゴゴゴゴゴ…
11月23日暁、夜明けとともに出現した円卓の騎士(=西の猛獣ども)、"俺らのボス" を迎え入れる。
うおぉぉーーー!! 念願の俺らのボス! 西軍大喜び! (「西陣大喜得将云」『碧山日録』応仁2年11月25日)
翌24日、早速義視の元へ次々と祝賀に訪れる西軍の大名たち。 体育座りしてる場合じゃねぇ!
そして、義視は斯波義廉邸を御所とし、西軍の公方となって本気の活動を開始します。
つまりどう言う事かというと、ここにもう一つの室町幕府、
『伝説の西幕府』が誕生してしまったのです!!
…って、ズコーーー!!
おい、何やらかしとんじゃい!
新生『応仁の乱』!! って、いらんことすんな!!www
分裂『室町幕府』!! 裂けてる場合かっ!!www
ああ、どうなっちゃったのさ、この天下。
「ってか、今までも十分裂け裂けだったじゃん」と思われるかも知れませんが、
厳密には、これまでは「西軍 対 細川勝元とその与党」であり、
足利将軍を頂点とする幕府はあくまで一つ、その下での話だったのです。
(10月10日、細川勝元は興福寺に書状を送り、西軍に通じる興福寺関係者を糾明するよう命じていますが、
それに対抗して閏10月28日、西軍諸侯はこれまた "連署の書状" で興福寺に、
「未だに天下が静謐になんないのは、何もかも勝元の「濫悪」のせいだから!
あんな奴の言う事聞いちゃだめなんだからね! 裏切ったらぷんすかだぞ☆ 所領没収しちゃうから!
でも仲間でいてくれるよね? そしたら嬉しいな! ――― 西軍のみんなより」
と、相変わらず「打倒勝元!」の正義の味方路線で張り切っています。)
西軍の当初の計画としては、義政は本心では "西軍贔屓" かつ "隠居希望" な訳だから、
西軍が主体となって、義視を新公方として取り奉れば(そして、義政の隠居実現となれば)、
一気に立場は優位になり、
西軍優勢の状況下で、
「細川勝元の降参 → 東西分裂の解消」
「関東の足利成氏討伐の撤回 & 和睦」
を遂行出来て天下は静謐! 俺らピースフル!(キラッ☆
という認識だったと思われますが、
そこへ、義政と義視の超分裂という "斜め上った新要素" が発生してしまい、
「あ、あれ、もしかしてこれすんげーやばい事になってね??」
という展開となってしまった…だけの話なのです。
つまり、本来彼らは、
義政公認の"正統幕府" 次期将軍として義視を自陣に迎えるつもりだったのであり、
義政の意に反して "西軍公方" 義視を立てることになったのは、
(その結果、幕府が2つに、将軍が2人になってしまったのは)
成り行きによる想定外だったのです。
(この後の西軍も同様で、基本的に彼らの目標は「勝元の暴走を止める事」であって、
「公方の決裂」を大名の側から "積極的に" 推し進めていたと言う事実は無く、
それどころか、彼らはこの先「2人の和睦」を求め続ける事になるのです。
( ↑ 意外かも知れませんが、ここポイント)
だから、『応仁の乱』2ndフェーズー東西幕府の並立編ーは、
実は "両者の完全な敵対" なのではなく、
ただ、義政と義視の個人的な不和が解消されるまでは、西軍の主要大名は義視に従い続ける、
という意味以上のものでは無いのであって、
だからこそ、"東軍と西軍の枠を超えた動き" が見られるようにもなるのです。
(つまり西軍の諸大名は、義視を公方と敬いつつも、東の義政を否定してはいない。)
上の「愛しのへっぽこ公方様」で述べた、
「室町の大名にとっての公方という存在」を考えても分かるように、
基本的に大部分の大名は公方を慕っていて「その不幸を望んでいない」という点は、
『応仁の乱』だけでなく『明応の政変』でも重要な視点になりますので、大いに気にしてみて下さい。)
まあでも、これまで西軍諸侯は "円卓の騎士" ってか、"連署の武士" だったので、
公方がいない寂しさを噛み締めてきた彼らは、義視を戴いてすっかり元気りんりん!
そして関東の足利成氏も、晴れて上杉方にドリーミングなアタックを開始する訳ですが、
しかし、「Stop! 勝元」をスローガンに分裂解消、天下静謐を目指していた戦いが、
いつの間にか義政と義視の対決になってるって…なんたる天狗展開。
ちなみに『応仁略記』(東西幕府の分裂までを叙述した軍記)では… やっぱ天狗のせいになってるww
『応仁略記』によると、寛正6年の流星が凶を示した為、
愛宕山の太郎坊(有名な大天狗)が、比叡山と比良山の大天狗を召喚して、
「天下の重仁三人の心に入れ替わらん」とした結果、
「王城の内に東西二の構を別つて、開闢より以来沙汰を聞かざる二人の将軍、帝都に並びて…」しまったと。
この "心を乗っ取られてしまった三人" は、
西幕府の公方となった義視と、義視を伊勢国に迎えに行った聖護院道興と、
辞退しようとする道興に義視説得を催促した細川勝元、と言う事になってますが、
これは、この3人が悪いと言うのではなく、あくまで不可抗力の天狗の仕業という意味です。
ってか、天狗の仕業とかwwわろわせるなよwww とはまあ、私も思いますけどw、
ただ、本当にこの時代は天狗ネタは避けて通れないので、
ちょっとみなさんも「愛宕山」とか「大天狗」とかでググっといてみて下さい。
『太平記』でも、『観応の擾乱』は天狗って事になっていますが、
この「天狗による人知では抗えない厄災」という恐怖を、人々が抱いていたのは紛れもない事実であって、
それが『明応の政変』でもちょっと関わって来ますので、わろてばっかもいられないのです。
それから軍記つながりで、『応仁別記』(赤松家伝記に近い)では、
この「義視西軍へGO」の理由は、
「(義政と義視の間が修復不可能に悪化した頃…)
"何者か" が、「細川勝元が、義政に叛意を抱き、義視を取り立てようとしている」と讒言した為、
義政が西軍側に鞍替えしようとし出したので、焦った勝元がめっちゃ考えまくって、
「そうだ! 今出川殿を西軍側にやっちまえば、公方様はにっちもさっちも行かなくなる!」(ピコーン)
ってことで、義視を比叡山にやっちまったところ、案の定西軍が食い付いて来た」
となっていますが、
…うーんw でも、義視の西軍化は、勝元にとってデメリットの方が大きい様な…?
これは、義視のGOが勝元の想定外(=出家を促しただけのつもりが、まさかの西軍化)で、
その失態を隠すためのお茶目な捏造のようにも思えますが。
(『応仁別記』は『応仁記』と違い、公方批判を一切していなくて、細川勝元をやたら高評価しています。
これは、この軍記の成立が、
赤松が細川に頭が上がらなくなってしまった『明応の政変』以降である事を予感させます。
(※正確な成立年代は不明ですが、16世紀以降かなぁと言われています。)
実際、相国寺の『蓮池合戦』では、細川成之の家臣の東条だけが活躍した事になってる。 ま、政長は…(泣)
と言っても、某捏造系軍記と違って悪意のこもった改変ではなく、
畠山政長が「本当は人々から賞賛されるような武将であった」という真実を記す事に、
後ろめたさがあったのだと思います。)
まあしかし、
義視と細川勝元と烏丸益光はみな、御台とその兄の悪行には呆れ果てていたのは確かでしょうから、
この讒言自体は実話で、細川勝元の失脚を企んだ御台兄妹勢力の流したものだったのかも。
(…と考えると凹むけどw 幕府と公方の不幸の根源は身内にあった…って、もう何それ。)
…ついでにちょっと余談。
『応仁別記』には、
11月29日、武田が預かっていた義視の若君を、密かに西軍に送り届けた。
とありますが、これは文正元年(1466)7月30日に生まれたまだ3歳(満2歳)の義視の嫡男です。
そしてこの若君、後に11代目足利将軍(一般には10代目とされる)となり、
父義視以上にとんでもない運命に巻き込まれることになるのです。
それは史上最も奇想天外で、どうしようもなく悔しくて、ひたすら悲しくて、
でも "信じる歌" があって、諦めない心があって、
迷う事なく挫ける事なく貫く事しか知らない者達と、主上と公家と連歌師までもが一つになって、
最後の最後に正義を勝ち取る、日本無双の希望のストーリー、すなわち ―――
『明応の政変』とその後の物語
その主人公となるのが、この若君なのです。
『明応の政変』はまだ薄いベールに包まれた状態で、しかも見方によって全く違う表情を見せる謎多き事件ですが、
ベールを払った時それは、きっと日本史上最も人を勇気付ける物語として永く語り継がれると、
私は勝手に信じています。
しかしこの未来の将軍、ちょっと変わり者な所もあるようで、
考えてみれば、幼少期の一番大切な時期を、
変な猛獣達が仲良く暮らすムロミーワールド(しかもウエスタン)で過ごしていたんだから、無理も無いか…
未来へ向かって、なんてこった!!
さて、現時点でのなんてこったに話を戻しますと、
MP使ってやや強引にオープンしたやっつけ感漂う西幕府ですが、
一応それなりの体裁は整っていまして、
「公方」足利義視、「管領」斯波義廉、「政所頭人」伊勢貞藤、という基本体制のもと、
数は少ないが奉行人や奉公衆、祗候する公家衆もいたのです。
(来ました! 昨年、覚醒宣言をしておいた伊勢貞藤(さだふじ)ですww
ちなみに、東幕府には政所頭人の伊勢貞親、それからその嫡男の伊勢貞宗も東です。
伊勢貞藤が西幕府に身を投じた理由は、一見すると兄の伊勢貞親への反目のようにも思えますが、
恐らくそうではなくて、あくまでも義視に仕える事が第一の目的だったかと。
と言うのも、室町時代の歴史を追っていると気付くのは、
この伊勢家というのは、どうも、
足利将軍家の傍に仕えていないと気が済まない特別な "家" のようなのです。
もちろんそれは「寄生する」だとか「利権を貪る」とかいう悪い意味ではなくて、
なんかもっと宿命的な、月と地球、影と光のような関係です。
(それ故、将軍の為なら一見謀反のようにも見える行動を取る事すらあるのです。)
まあ確かに、伊勢貞親は豪腕過ぎたところがあったけど、
基本的に伊勢家の人間は、「公方への忠誠と敬愛」が突出していて、
非常に「礼節」を重んじ、幕府の「官僚」として政務の中心を担うとともに、
『武家故実』を確立した優秀な頭脳の一族なので、
安易な家中の主導権争いをしない高尚なところがあって、そして、みな妙な美学を持っているのです。
だから伊勢貞藤も、この後伊勢家当主となる甥の伊勢貞宗との関係は良好なのです。
(つまり、伊勢家当主の座を狙って、嫡流に対抗する為に義視側についたのではなく、
将軍が分かれれば、どちらにも伊勢が馳せ向かう、というだけの話。
これは『応仁の乱』以降も共通の法則です。)
それから、伊勢家は桓武平氏のうちの伊勢平氏(※)の末裔であり、
源氏が主流の室町幕府にあっては、異質の存在と言えます。(それ故、重要とも言える。)
(※…伊勢平氏の一族と言えば、武家では平家(平正盛の系統)と鎌倉幕府の執権北条一族が有名。)
ってな訳で、伊勢家の高い政道運営能力が、
"北条泰時時代の政治" を彷彿とさせるのも納得なのです。
(※北条泰時は、「道理」を第一とする政道を目指すべく、
後に武家政権の基本法典となる伝説の『御成敗式目』を制定し、
後世にその治世を称賛され規範とされた人物。
足利直義が主導した室町幕府の『建武式目』にも、北条義時・泰時父子の時代が、
理想として掲げられています。
北条得宗家というと、末期の "利権の独占" "独裁" ってイメージが強いけど、
本来、政道への姿勢は素晴らしいものがあったのだ!
…政敵への粛清がちょっと(いやだいぶ)無慈悲なだけでw)
まあ、伊勢貞藤はマイナーではありますが、
小田原の後北条家好きなら一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?
と言うのも、小田原北条家の初代、北条早雲こと伊勢新九郎盛時は、
かつて "伊勢貞藤の息子" とか、"伊勢貞藤本人" とか言われていたことがあるから。
ま、正しくは甥ですが。
(伊勢盛時(早雲)の父は伊勢家庶流の伊勢盛定、母が伊勢宗家の貞親・貞藤の姉妹に当たる人。)
小田原北条家は、戦国大名の中では群を抜いた善政を実現し、
不思議なほどに家督争いを起こさず、
その統治能力の高さと、為政者としてのプライド、道徳意識の高さも、北条を名乗る資格があった事も、
その出自が伊勢家だと知れば、なるほど納得、誰もがフムフムなのです。
そしてこの伊勢新九郎(早雲)の出自、
実は『明応の政変』にめっちゃ関わってくる超絶ポイントです!
テストに出るから! みんなしっかり蛍光ペンでチェックしとくんだぞ!
…あーさて、伊勢家も語りだすと止まらないほどに好きなので、この辺にしますが、
伊勢貞藤はひと際ぶっ飛んだ美学を持っているので、なんか妙に好きなのですw
すみません、どうでもいいですねそんなこと。)
さて、そんな "義視と愉快な仲間達" の割とマジな西幕府に対して、義政がとった行動は…
12月5日、朝廷は、義視および西軍に与同した廷臣(公家)の官位を剥奪する。
さらに、義視の "治罰の院宣" が下される。
な、なんという徹底的な制裁…しかも瞬殺ともいえる迅速さ。
これまでの西軍への "治罰の院宣" が、妙に時間差があったり、なんか遠回しだったりしたのは、
それが、あくまで細川勝元が要請し、義政は執奏していたに過ぎなかったからだと思われますが、
今回のそれは、義政本人の意思で朝廷に要請したものであることは明白です。
"義視治罰の院宣" については、興福寺に下された書状の写しが『大乗院寺社雑事記』に残されていますが、
内容は、「義視が凶徒(西軍)に同意したので、治罰を加えるべき」と、より直接的な表現になっていて、
尋尊は、「希代の事だ、何事の子細か?」と、驚きを隠せなかったようです。
また、官位を削られた公家衆は、正親町三条公躬、葉室教忠、阿野季遠、阿野公熈…などの9人ですが、
この三条公躬は、三条実雅(この時既に故人)の嫡男です。
三条実雅は、6代目義教の正室三条尹子の兄で、かつ義視の育ての親ですから、
その息子が義視に味方するのも納得ですし、
阿野家や葉室家も、この後長く義視との関係を保つ事になりますが、
彼らは個人的な利害だけで勝手な行動していたのかと言うと、必ずしもそうではありません。
武家社会と同じように、公家社会にも秩序や主従関係があるし、
それに公家の本分は朝廷に仕える廷臣であって、"武家にも" 祗候している、という立場なのです。
今回西軍に与した公家の多くは、正親町三条公躬との関係が深いとの事ですが、
その正親町三条家の主家は近衛家。
そして当時の近衛家当主近衛房嗣の嫡男近衛政家は、義視と知音である兄の聖護院道興と共に、
この頃三室戸寺でしばしば会合しているのです。
つまり、三条公躬の行動には近衛家の了承があっただろうし、
近衛家は東軍=官軍、西軍=朝敵という名目を超えた、大局的な視野から世上の動向を捉えていたと思われます。
(※この辺の事は、以下参照。
【水野智之『室町時代の公武関係の研究』(吉川弘文館)2011】
…の、第二章 室町時代における公家勢力の政治的動向
近衛家の動向は、一見、敵方(西軍)に内通しているとか、したたかに両陣営に通じている、
とかいった誤解を受けそうですが、そうではありません。
社会常識としては、幕府の意向を受け入れつつも、是非の判断は道理に基づいて行っていたであろう事は、
『後法興院記』から読み取ることが出来ます。 かなり常識的な人だと思います。)
まあつまり、
一応正統な幕府は東幕府だけど、割と冷静に武家の動向を見ていた公家は少なくなかった、と言う事と、
武家社会の問題(=義政義視、山名細川の対立)と公家社会の問題はまた別であって、
西軍に与同したからといって、公家同士の関係が断たれる訳ではない、と言う事です。
(実際、大乱終結後の西軍与同者の赦免には、他の公家達が尽力しています。
まあ、蓄財に勤しみ尊大で義視をも罵る御台とその兄には、
烏丸益光や三条公躬でなくとも、同じ公家として眉をひそめていた者は多かったと思われる。)
ややこしいところですが、武家にしろ公家にしろ、
彼らは官軍と賊軍の区別で完全な敵対をしていた訳ではなく、
東西軍の枠を超えて武家と交流する公家も普通にいたのです。(※代表的なとこでは、一条兼良など。)
(※ちょっと豆知識。
実は、「武家」という言葉は、単に「武士の家系」「武士一般の総称」という広義の意味だけでなく、
政権としての「幕府」、または「将軍」そのものを指す場合(狭義)があります。
もともと「武家」は「公家」に対する言葉なので、当時の公家の日記には頻出しますが、
その場合は、「将軍」、次点で「幕府」という狭義の意味で使われていることが殆どです。
このサイトで「武家」と言う時は…実は狭義の場合も広義の場合もある。 すまん、文脈で判断してくれw)
でもみなさん、確かに西幕府の誕生は『応仁の乱』をよりややこしくしたとは言え、
これ、義視や西軍が悪い訳ではないと思いませんか?
義視は凄惨な讒言によって命まで狙われて、結果西軍に走り、
まともな話し合いに応じようとしない義政に対して、西幕府の成立という方法で訴えるしか無かった訳で、
そもそも、元をたどれば義視が還俗したのは義政の所望であって(しかも義視は初め辞退した『長禄寛正記』)、
義政は義視を後継者にすると約束したと言うのに、その義視の話より佞臣の讒言を信じて、瞬殺朝敵認定って…
ってか、西軍に走らせたのはお前だろ!と言いたい。
(義視は、単に私欲から「将軍の座」という上辺の権威に執着して西幕府誕生を謀ったのではありません。
だいたい、もし力ずくで将軍職を奪い取ろうとしていたなら、
伊勢国から上洛して、直ぐに(オファー受けまくってた)西軍の陣に入っていたはずだし、
そもそも、大人しくしていれば(まあ佞臣の邪魔は入るかも知れんが)、
義政から順当に将軍職を受け継いでいた可能性は高いのです。
何より本来、義政と義視は、兄弟として極めて仲が良かったのです。
にも拘わらず、義政を怒らせかねない諫書を突きつけ、一方で3か月間も対話を試みたのは、
偏(ひとえ)に、(義政の為にも)幕府に蔓延る不正を正すことを、
第一の信念としていたからに他なりません。
大乱終結後、義視は京都を離れ、美濃国の持是院妙椿の所へ下向する事になるのですが、
別段、反乱や嫌がらせを企てることなく、『大乗院寺社雑事記』によると周辺諸国の統治に尽力していたとか。
また、義視の嫡男が将軍職に就く頃の話ですが、義視は世間を憚り再度出家してまでも政務に励むのです。
その頃の御成敗を、尋尊が「毎事善政」と評価しているように、
義視は、ちんけな私欲より、天下の政道に対する使命感や正義感のがずっと強い公方です。
まあ、間違った事が大嫌いのようで、正義を強引に通そうとして、よくすっ転ぶ人ではあるけどw
ってか、ひと先ず義政から正当に家督を継承してから幕府改革に取り組めば良かったんじゃ…
と思ったそこの君!
はっはっはっ! 正義を前にした義視に、そんな冷静な判断を期待しても無駄だっ!
目の前に「正義(自身の立場が悪化するおまけ付き)」と「保身(おすすめ)」を並べられたら、
一目散に「正義(身の破滅のおまけ付き)」に食い付くのが義視という男なのだ!!
いや〜入れ食いだねー 義視を釣るのはクマーより遥かに簡単だぞ! どうだ、参ったか!
還俗公方好きの私の確信に間違いなどあろうはずは無い!!
…すみません、また調子に乗りますたww )
そんな訳でみなさんも、
西軍東軍、朝敵のレッテルに囚われず、本質からこの大乱を考察してみて下さい。
上記で、「公家社会から見た『応仁の乱』」という微妙な問題に触れたもの、
「 "当時の人々は" この乱をどう捉えていたか」と言う事に思いを馳せてもらいたかったからであり、
そこにこそ、真実があるはずなのです。
『応仁の乱』は確かに変わった戦いです。
これまでの将軍の分裂による騒動…例えば、4代目義持と義嗣や、6代目義教と義昭(ぎしょう)、
それから、京都の幕府と関東の鎌倉府の対立…などの場合と決定的に違うのは、
"2つの幕府" が "京都という地" に、この先9年間「並立」するということです。
まあ、オリジナル幕府(東幕府)に比べて西幕府の方はやはり正当性が弱いのですが、
それでも、対立しつつ目と鼻の先に「並立」していたって…
どんな意味不明な紳士協定を結んでたんだよ! この!変態めっ! …とか突っ込みたくもなりますよ、ホント。
うん、まあそこが好きなんだけどねw でも、
「相手の物理的な駆逐を試みてはいないのだろうか??」
…というのが素直な疑問だと思います。
ポイントはやはり、
基本的に大名たちは「公方の不幸を望んでいない」と言う事でしょうか。
(これは武士だけに限らず、公家や僧侶にも言えることで、
まあ、貴族の中には、武家に対する生来的な悪感情を抱いていた者もいたとは思うし、
非常識な事には当然批判もするけど、
基本的にみんな、公方が酷い目に遭うと凄く悲しそうな感想を記しているし、
朝廷と武家の関係が "良好" である事を歓迎している、というのが室町の公武の実情なのです。 ほの町w)
まあでも、何より最大の "厄介の源" は、
この2人の公方の「他は全然似てないのに頑固なとこだけそっくり」
なとこでしょう。
義政は、「とうとう義視が伊勢国から帰ってくるーー!」と楽しみにしてたら、
いきなり諫書を突きつけられて、瞬間的に斜めったつんでれ性向をこじらせてしまい、
優柔不断というキャラ設定を無視した即席ちゃぶ台返しを披露した結果、引くに引けなくなってしまった。
義視は、適当に迎合しとけば、自身の立場を悪くする事も無かったのに、
天性のムロマチスト故に、「この正義、貫かでおくべきか!!」と、
後先考えずに腐った『室町殿』に真っ向勝負を挑んでしまった。
…いや、ふざけている積もりはなくて、割と真剣な考察なんですが、
一次史料を真面目に検討した結果、最も理論的な仮説がこれだったってのもなんですが、
たぶん、突き詰めればみんなもここに収束すると思う、たぶんw
(実は義視は前年、伊勢国への心許ない下向の途中、近江国の田上という所で、
道を塞ぐ地下人から追剥(おいはぎ)を受け、
「公與刀剣贖命」つまり、命の代わりに刀を差し出して死を免れた、という、
絶命寸前、超絶涙目のかわいそす体験をしているのですが、
一転、体裁を整えた翌年の上洛では、25〜26の騎馬(一説に500騎)と2000の歩兵を従えて田上に立寄り、
「その悪行、裁かでおくべきか!!」と言わんばかりに報復の呪文「なぎ払え!!」を唱えたのでした。
(『碧山日録』応仁2年9月8日)
みんな、義視の前では悪い事しちゃだめだぞ☆
…ってか、正義もいいけど、もうちょっとマイルドに行けよw)
もちろん、大名間のいざこざ、すなわち、
山名と細川、義就と政長、播磨国をめぐる山名と赤松…などの問題もあるにはあったのですが、
"ほんわカオス系" も板に付いてきた数年後の段階では、大名問題はなんか二の次になっていたようで、
大内さん他西軍諸大名 「両公方様の和解が成るまでは、このまま何年だって耐え忍ぶ覚悟だぜ!」
と、持ち前の義侠心が、公方ターボでますますパワーアップしていたのでした。
…えっとつまり、どういう事かと言うと、
応仁元年(1467)5月末、乱当初の西軍の「打倒!細川勝元」&「公方義政奪還!」という目的に、
応仁2年(1468)11月末を境にして「両公方様の仲直り」&「義視の将軍正式就任」(←もちろん、義政の承認で)
という目的が加わり、
義政に反抗する気は無いが、可哀相な義視に賛同する西軍大名たちは、
ますます変な元気を沸かせていってしまう、という訳です。
はい、ズコー
(※上記は『大乗院寺社雑事記』文明6年閏5月15日の記述で、
原文は→「大内以下西方諸大名は、今出川殿与無御和与者、不可参旨申切了、
此上者何年に及共、可有勘忍分云々、可然時宜可出来云々」
ちなみに実はこれ、宗全&勝元が他界した後、しかも、義視の次期将軍の道が断たれた後の話です。
…って、どうなっちゃうんだよこれからww
―――うん、実は上記の「目的」は、
文明5年(1473)12月19日〜文明6年(1474)4月頃を画期に、さらにトランスフォームし、
「もう他には何もいらない! 2人(義政と義視)の和睦がなるまでは、義視の為に戦い抜くのみ!!」
という一点に集約する事になるのです。)
いや〜それにしても、
今日まで歴史学者を真剣に悩ませ続けて来た謎―――「『応仁の乱』がだらっだらに長引いた理由」が、
とっても優しくて我慢強い西軍大名達による、義視への健気(けなげ)な忠義だったとは。
普段喧嘩っぱやいくせに、変なところで堪(こら)え性を発揮する西軍大名でありました。
…って、なんて厄介な召喚獣を従えてくれちゃったんだよww
義教のエクスカリバー、霊力半端ねぇ… こ、この剣の正体は一体…??
(※すみません、召喚魔法とかエクスなんちゃらとかナイツオブらんちゃらとかは、
流石に史実ではないので信じないようにお願いします。
って、んなもん真に受けるやついないかw (元ネタはFF7です)
確かなのは、「義視が一旦比叡山に逃れて、そこから西軍の陣に入った」って事だけですが、
まあでも、なんか義視は父の魔力受け継いでそうだし、常人じゃ扱えない霊剣使えたんじゃね?
とか、余計な妄想してみた。)
まあでも、
義視は『室町殿』で散々酷い目に遭って来たからね、誅殺未遂とか、誹謗中傷とか、約束反故とか…(泣くww)
西軍に落ち着いたのも何かの縁だと思います。
彼ら根はいい奴ばっかだから、どんな事があっても義視を見放さないよ。 良かったね、義視!
という訳で、『応仁の乱』が斜め上に行ってもうた応仁2年(1468)でした!
まあ、11年の内のまだ2年しか経ってないけど、
ぶっちゃけ、ここまでくれば後は割とどうでもいい…ではなくて、なんとなくイメージは掴めたと思います。
と言っても、やはり通常の人間から見たら、「どうしてこうなった」感は拭い去れまい。
では試しに、「天の差配」という目で説いてみましょう。
遂にその日が来た。
四半世紀の時を経て行過ぎた腐敗が臨界を超えた『室町殿』、
その積年の煩悩が焼き払われる日。
宣告の天狗流星は紅蓮の翼をまとい、
畠山義就の復活、伊勢貞親の独走、『文正の政変』…次々に舞い降りてはやがて、
山名宗全と細川勝元、その決裂に火を放つ。
それは、応仁という名の劫火。
京の街ごと容赦なく、人々の業を焼き尽くす。
しかしそれでも滅せぬ浅ましき煩悩が、義視をして降魔の聖剣をその手に取らせ、
幕府が一刀に両断されたその瞬間、彼らの明日は迷宮に堕ちていった。
――― その日を境に、
世界は、滅びるでも改まるでもなく、描かれた夢の中に迷い続けるのであった。
(※劫火(こうか)…仏教において、世界の成立から破滅に至る四大期(四劫=成劫・住劫・壊劫・空劫)の内、
壊滅期である壊劫(えこう)で、世界を焼き尽くすという火。)
…うーんw ファンタジーなのに筋が通ってしまう不思議orz
でも、大半の人たちはこの乱を望んでなかった訳だし、天下静謐を積極的に目指していた大名も少なくないし、
それなのに乱が泥沼の一途をたどったのはやはり、
何か「天が許さぬもの」があったのだろうか? …とか、つい考えてしまいます。
義政は、正直、世を導く指導者としては力不足だったと思いますが、
一つ賞賛(?)できるのは、「将軍に向いていない事を自覚していた」ということ。
もし、もっと早く義政から義視への権限移譲が完了していたら…
"大乱ではない方法" で、世の中は立ち直っていたかも知れない。
義政は義視の還俗を懇願して、しかもその後の隠居と『東山殿』の造営を熱望していたのに、
そして、大名たちも皆義視との関係は良かったのに、一体何がそれを遮ったのか?
それが、『室町殿』に巣食い、人を惑わす魑魅魍魎の正体だと言うのでしょうか。
確かに、細川勝元や伊勢貞親は、非難に値する専横さを露呈したけれど、
それでも最低限の礼節は失っていなかったように思う。
山名宗全もやる事豪快過ぎるし礼には欠けるけど、諸大名を率いる人望は本物だった。
一方で、肝心の公方はと言うと…政治へのセンスの無さと早々に消滅した情熱には、もう文句と言うより、
「なぜ、義政だったのか??」という疑問しか沸いてこないww
しかも実質的には歴代最長公方ですよ。
最も望まぬ者を、最も長く引き留め続けたものは何だったのさ、もう! …或いはそれもまた、天命なのだろうか?
しかしさらに輪をかけて疑問なのは、御台とその兄。
正直…、一人の人間が積める罪業の限度を超えている気がしてならないorz
単なる拝金主義や驕りに止まらぬその業は、残念ながら、
『応仁の乱』の先の『明応の政変』まで、絶たれる事なく続いてしまうのです。
政道に背を向ける義政の成敗権の行く先が義視ではなく、なぜに私曲に満ちたこの兄妹だったのか??
ああもう神様!! と泣きつきたくもなりますが、
まあ、前向きに考えるなら、正義が戦い続けるために、天は悪を消し去らないのかも知れない…。
いずれにしても『応仁の乱』というのは、
基本的に、敵の完膚なき「殲滅」ではなく、あくまで「降参」を目指した、言わば秩序あるカオスであって、
彼らはそれぞれの主張や妙な正義感がぶつかり合って、どうしようもなく関係がこじれてしまったけれど、
もし切っ掛けを掴んで和睦が実現したならば、その日から敵が友になるような間柄であったのです。
この "島国日本特有" の弓矢の精神、理解しづらいかも知れないけれど、
宇宙広しと言えど他ではそうお目に掛かれない、最も "武士らしい" ところだと思います。
戦国以前の、まだ武士の道義が輝いていた時代の戦いとは、
単に "武力で勝ること" が全ての価値基準だったのでは無く、
単なる "覇者" が、正義と目されていたのでも無く、
すなわちそこには、
「勝った者が正しいのでは無い、正しい者が勝つべきなのだ!!」
という "プライド" が存在していたのです。
2つの幕府が存立してしまった『応仁の乱』2ndフェーズとはつまり、
覇道に堕ちた one side ではなく、譲れぬプライドの side by side だった、
彼らはそこで、行き詰ってしまった幕府創生期以来の王道を、
もう一度、別の形で夢に見ようと模索していたのです。
(※ただし以上は、かなり西軍目線の考察です。 すみません、西軍の気持ちばっか代弁してww)
(※side by side …並んで、並存して、一緒に、(さらには…)密接に関係して、共存共栄して。)
まあでも、真夜中の黎明はまだ遥かに遠い雲の向こうで、
結局あと9年も、綿あめでモフり続ける事になるんだけどねっ!
さて、次回「11 室町幕府の『応仁の乱』ー side by side ー 前編」は、
「長ぇ祭りだなおい、もう面倒くさいから要点掻い摘んで、他ざっくり端折らせてくれよ」
の提供でお送りいたします。
たぶんw